第7話 銀の軌道 挿絵有り
食堂の主人が、空いた皿を取りに来た。
「まだ食べるかい」
アレクは腹へ手を当てた。
少し考えて、頷く。
「あと一つ」
「お前、その体のどこに入れとる」
モルデカイが呆れた声を出した。
隣ではマリアが、父の皿に残った人参を指している。
「パパも、まだ食べ終わってないよ」
「分かっとる。今、食べるところだ」
ヨハンが笑い、レイラもつられて口元を緩めた。
その時、外で何かが鳴った。
乾いた音だった。
一つ。
少し間を置いて、二つ。
ヨハンの笑みが消えた。
「……銃か」
表の扉が開いた。
「門を閉めろ!」
駆け込んできた男が叫んだ。
帽子がない。頬から、血が顎へ伝っている。
「街道から来る! 何十匹も――」
窓の外を、灰色の影が横切った。
*
アレクは椅子を蹴って立ち上がった。
「外、見てくる」
モルデカイへ言った。
返事を待つ間に、男の目が窓へ向く。
「頼む。ここの住人を避難させる、それまで持たせろ」
アレクは頷き、扉へ走った。
門の外に、灰色の背中が並んでいた。
街道で倒したものと同じだった。
長すぎる前脚。
目のない頭。
首の横で開閉する、赤い口。
それが、道幅いっぱいに押し寄せてくる。
後ろにもいる。
柵の向こうの畑にも。
門番が閂を落とした。
直後、木の板が内側へ膨らむ。
「下がれ!」
アレクが腕を伸ばした。
「阻め」
指先の陣が滑り、外周を巡る。
次の円が開き、その左右に二つの陣がともった。
光の線が門を横切った。
木を砕いて飛び込んだ灰色の体が、そこで止まった。
後ろから来た一匹が、その背へぶつかる。
さらに、もう一匹。
門柱が軋んだ。
『門まで一緒に支えるでない。外へ押し返せ』
「分かってる!」
アレクは掌を突き出した。
「退け!」
小さな陣が起動し連鎖して大きくなる
空気が鳴った。
重なっていた灰色の体が、門の外へ吹き飛ぶ。
街道の土を削り、後続を巻き込んで転がった。
空いた道へ、アレクは踏み出した。
*
作業場では、ヨハンが車の覆いを引き剥がしていた。
「レイラ、荷台を空けろ。人を乗せる!」
「分かった!」
モルデカイが商会の男たちを呼び集めた。
「荷は下ろせ! 怪我人と子供が先だ。裏の道は使えるか!」
「畑を抜ければ、港へ戻れます!」
「なら、そっちへ向けとけ!」
マリアの肩へ、大きな手が置かれた。
「マリア。レイラさんのそばにおるんだぞ」
「パパは?」
「すぐに行く。お前の席も、パパの席も用意してもらうからな」
娘の顔を見てから、モルデカイはもう一度、男たちへ声を張った。
銃を持った黒服が、作業場の端へ走る。
柵を越えかけた一匹を撃ち落とした。
その銃声を背中で聞きながら、アレクは街道に陣を広げていた。
「浮け」
灰色の脚が、土から離れる。
まとめて持ち上げ、道の脇へたたきつける。
だが、全部は捕まらない。
畑を回ってきたものが、横から飛び込む。
アレクは体を捻った。
前脚を避け、開いた口の下へ拳を差し入れる。
「爆ぜろ!」
拳の先で陣が弾けた。
灰色の頭が跳ね上がり、その体が後ろへ飛んだ。
アレクは息を吐いた。
まだ来る。
『左の柵じゃ』
顔を向ける。
倒す。
右へ戻る。
門の前に、陣を残す。
薄くなった魔力を足す。
額から汗が流れた。
「……面倒くせえな」
その声へ、笑い声が重なった。
*
群れの奥に、何かが立っていた。
人のように、二本の脚がある。
頭も、肩も、腕もあった。
けれど、輪郭が定まらない。
黒い靄が肩から流れ、指先が細くほどけている。
風が吹いても、その靄は同じ方向へは流れなかった。
そいつが歩くと、灰色の群れが左右へ分かれた。
アレクの喉が、詰まった。
兄の襟元。
額へ触れた、冷たい掌。
胸の奥で、昔の痛みが蘇った。
『アレク、前を見い!』
黒い腕が、持ち上がった。
何も描かなかった。
声もなかった。
それなのに、街道の砂利が一斉に浮いた。
アレクは陣を開いた。
石が、見えない壁へ突き刺さる。
破片が横へ散った。
止めた。
そう思った瞬間、足元の土が盛り上がった。
「っ!」
体が宙へ投げ出された。
背中が地面へ当たる寸前に、陣を挟む。
それでも息が止まった。
肩を擦り、口の中へ土が入った。
黒いものは、こちらを見ていた。
「よく溜め込んでいる」
口らしい裂け目が、開いた。
「その中身を、寄越せ」
*
アレクは膝を起こした。
指を弾く。
小さな陣が、黒いものの足元へ走った。
「縛れ」
光の線が立ち上がる。
足を囲み、腕へ伸びた。
黒い体が、歪んだ。
縛ったはずの腕が細く裂け、線の隙間を抜けてくる。
アレクは拘束の範囲を狭めた。
今度は頭上で、空気が沈んだ。
膝が折れる。
肩へ、目に見えない重さが載った。
『拘束を捨てい!』
陣を解く。
防御へ魔力を回した。
門の前で、残していた光が薄くなった。
灰色の一匹が、そこへ突っ込む。
銃声。
黒服の男が後ずさった。
アレクは体をひねり、門へ手を伸ばし叫ぶ。
「阻め!」
その手首を、黒いものが掴んだ。
冷たかった。
腕を巡っていた魔力が、指先から引かれる。
「離せ!」
拳を振るった。
陣を叩きつけ、黒い指を吹き散らす。
腕は離れた。
だが、黒い指はすぐに繋がった。
アレクは後ろへ跳んだ。
『あやつの形を、人の体と思うな』
「じゃあ、何なんだよ!」
『今は説明しとる暇がない。ワシが手を貸す』
胸ポケットが、急に軽くなった。
*
白いネズミが、横倒しになっていた。
「爺さん!?」
アレクは指を差し入れた。
小さな腹は動いている。
目は閉じたままだった。
『そちらは寝かせておけ』
肩のずだ袋が膨らんだ。
口紐の間から、銀色の球が浮き上がる。
拳ほどの大きさ。
表面を走る紋様が、淡い光を放っていた。
球はアレクの肩を越え、背中へ回った。
『足元、来るぞ』
アレクは踏み込んだ。
さっきまで立っていた場所から、土の槍が突き上がる。
銀の球が、アレクの腰の脇を通った。
その後を追うように、小さな陣が一つ開いた。
陣が横へ滑ち連鎖
外周を巡って、さらに次の円を描く。
銀の球が、アレクの廻りを飛び回る
その後を追うように、小さな陣が一つまた一つと開く。
アレクの前にも。
左にも。
門柱の上にも。
離れた光が、細い線で繋がった。
『入口を開けい。繋ぎはこちらで合わせる』
アレクは息を吸った。
いつもなら、次の陣を描く位置を決める。
向きを揃える。
前の陣から渡す魔力を加減する。
今は、そこへ意識を割かなくてよかった。
銀の球が通るたび、必要な場所に紋様が揃う。
アレクが流した魔力は、枝分かれした線を迷わず走った。
「阻め!」
降ってきた砂利が、頭上で弾かれた。
同時に、門へ飛び込んだ灰色の体が外へ押し返される。
アレクは顔を上げた。
「……できるなら、もっと早くやれよ!」
『まずは自分でできるようになれと、いつも言うとるじゃろ』
「今、説教すんな!」
*
黒い腕が伸びた。
アレクは右へ踏み込む。
銀の球が左へ回った。
腕の先に、陣が開く。
冷たい指はアレクへ届く前に、横へ逸れた。
地面が盛り上がる。
『踏め』
アレクは、逃げなかった。
「沈め!」
足元の陣が広がった。
せり上がりかけた土が押し潰され、街道に浅い窪みができる。
黒いものが、初めて後退した。
「捕まえるぞ」
『狭くするだけでは抜ける。隙間を見い』
アレクは掌を開いた。
「縛れ」
黒い体の前後に、陣が立った。
左右にも、小さな円。
それぞれの間へ渡された光が、格子を作る。
黒い肩がほどけた。
細い筋になって、抜けようとする。
銀の球がアレクの前を横切った。
格子の隙間に、新たな陣がともる。
黒い筋が触れたところから、さらに細かな光が走った。
逃げ道が、塞がった。
「滅びろおおお!」
アレクの絶叫と共に黒いものが声にならない何かを叫んだ。
街道の石が浮き、柵の杭が抜けた。
引き千切られた木片が、四方から飛んでくる。
アレクは歯を食いしばった。
門へ一筋。
作業場へ一筋。
自分の前へ、残りを回す。
防御に当たった杭が砕けた。
木片が頬を切る。
腕が震えた。
陣を組む手間が減っても、魔力を出すのは自分だった。
繋がった陣の一つ一つが、胸の奥から力を引いていく。
『熟練の魔術師同士なら防御は当たり前じゃこんな力押しに負けるでないぞ』
「たりまえだぁぁ!」
*
作業場で、ヨハンがハンスを荷台へ引き上げた。
レイラが支え、寝かせる。
「全員乗った!」
その声を聞いて、アレクは一歩、前へ出た。
門の防御は残す。
作業場に回していた魔力を、引き戻す。
黒いものの周りで、光が強くなった。
『中の流れを断つ。お主は押さえ込め』
銀の球が、肩の高さへ上がった。
その下で生まれた陣が、アレクの掌の前へ滑る。
一周。
ひと回り大きな円。
次の陣が、その外周を巡った。
掌ほどの光が、胸幅を越える。
さらに広がり、アレクの背丈を越えた。
外側に浮かんだ小さな円が、次々に繋がった。
細かな紋様が、一斉に埋まる。
アレクは、黒いものを見た。
兄の姿ではなかった。
あの部屋でもない。
背中には、逃がさなければならない人がいる。
掌を、前へ押した。
「潰れろ」
格子が狭まった。
黒い体が折り畳まれる。
細く逃げようとした部分も、光の内側へ押し戻された。
その中へ、幾筋もの細い光が走った。
黒いものが、ばらばらになった。
繋がりかけるたび、別の光が横切る。
アレクは掌を下ろさなかった。
叫びが途切れた。
光の隙間から漏れた黒い欠片が、薄くほどけた。
今度は、戻らなかった。
*
膝が、土へついた。
アレクは肩で息をしていた。
指を開こうとしても、すぐには動かなかった。
銀の球が、ゆっくり頭の上を通る。
『ようやったな』
アレクは頷いた。
「……解け」
大きな陣が消えた。
残していた防御も、一つずつほどけていく。
街道には、灰色の体が転がっていた。
動けるものは、畑の向こうへ逃げていく。
黒服が銃を構え直した。
ヨハンも車から下り、柵の向こうを確かめている。
「アレク!」
レイラが駆けてきた。
アレクは手を上げた。
「平気。ちょっと、疲れた」
「頬が切れてるわ」
「あとで治す」
レイラの視線が、浮いている銀の球へ移った。
「……今度は、何から聞けばいいの」
アレクは、まだ整わない息の間から笑った。
「俺も、それ、思ってた」
*
モルデカイが、マリアを連れて門へ来た。
マリアは父の手を握ったまま、アレクを見上げた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ。マリアも無事でよかった」
ヨハンが、アレクの肩へ手を置いた。
「立てるか」
「もう少し、座ってたい」
「そうか。なら、座っておけ」
その言葉に甘え、アレクは息を吐いた。
銀の球が、顔の前へ下りてきた。
『やれやれ。久しぶりに忙しかったわい』
「俺の魔力、遠慮なく使いやがって」
『出し方に無駄が多い。が、今の感覚を覚えとけ』
アレクは胸ポケットへ手を添えた。
「分かったから。爺さんも戻れよ」
指先に、柔らかな毛が触れた。
動いた。
白い鼻先が、ポケットから覗く。
ひげが震えた。
「お、起きたか」
小さな黒い目が、アレクを見た。
次に、周囲を囲む人間たちを見た。
ネズミは、跳んだ。
*
「あ」
白い体が袖を走った。
膝へ飛び下り、そのまま地面へ。
「爺さん?」
振り返らなかった。
アレクは、顔の前に浮いている銀の球を見た。
『まだワシではない! 捕まえい!』
「先に戻れよ!」
『戻る前に逃げたんじゃろうが!』
アレクは立ち上がった。
膝が笑った。
ヨハンの腕へ掴まり、どうにか転ばずに済む。
「おい、座っとけと言っただろう」
「ネズミ! そこの白いの、捕まえて!」
レイラが屈んだ。
伸ばした手の下を、小さな体が抜ける。
モルデカイが足を退けた。
その隙間へ、ネズミは飛び込んだ。
「こら、そっち行くな!」
マリアが指を差した。
「お兄ちゃん、あっち!」
作業場の下。
板と土の間にある、細い隙間。
白い尻尾が、そこへ消えた。
アレクは地面へ這いつくばった。
銀の球が、その頭の横へ浮かぶ。
『ああ、そこは油が流れて――』
「今さら毛並みの心配してんじゃねえ!」
隙間の奥で、小さな目が光った。
手を差し入れる。
奥へ逃げた。
アレクは、伸ばした腕をそのままにして呟いた。
「……浮かせるか」
「やめろ」
ヨハンの手が、肩へ載った。
「俺の作業場まで持ち上げる気か」
アレクは口を閉じた。
上から、モルデカイの声が降ってきた。
「弁償する金は、もうないぞ」
誰も、手を伸ばせなくなった。
ほんの少し前まで街道を埋めていた光の陣は、一つもない。
代わりにヨハンが、食堂へ向かって声を張った。
「パンを一切れくれ! 小さいのでいい!」
アレクの腹が鳴った。
『お主の分ではないぞ』
「分かってるよ!」
作業場の下では、白いネズミが、まだ誰の言うことも聞かなかった。




