第8話 それぞれの行き先 挿絵有り
パンを置くと、白い鼻先が出てきた。
アレクは息を止めた。
一歩。
もう一歩。
小さな前脚が、パンの端へ掛かった。
「今だ!」
両手を伸ばした。
ネズミが引っ込んだ。
パンだけが、なくなった。
「……持っていきやがった」
『お主、捕まえる時にいちいち叫ぶ必要があるんか?』
頭の横で、銀の球が浮いている。
アレクは地面へ額をつけた。
*
結局、レイラが木箱を横倒しにして、その奥へパンを置いた。
ネズミが入り込む。
入り口を板で塞ぐ。
捕まった。
「最初から、こうすればよかったのよ」
箱を覗くアレクへ、レイラが言った。
「俺だって、普段は逃げるネズミなんか捕まえねえよ」
『普段はワシが逃げんようにしとるからな』
銀の球が、箱の中へ淡い光を落とした。
板を外しても、今度は逃げなかった。
白いネズミが後脚で立ち、前脚で顔を撫でる。
『やれやれ。ひどい目に遭うた』
「そりゃ、こっちの台詞だ」
アレクはネズミを拾い上げた。
銀の球はずだ袋へ戻っていく。
レイラは、その両方を見ていた。
「……あとで説明してね」
「うん。あとでな」
説明することが、また増えた。
*
「ここは引き払う」
ヨハンが言った。
食堂の主人は、壊れた門を見ていた。
閂は折れ、片方の門柱が傾いている。畑との境にあった柵も、何か所も倒れていた。
「直すにも、日が要るな」
主人が呟いた。
「その間に、次が来たら持たん」
ヨハンは短く答えた。
主人はしばらく黙っていた。
やがて腰から鍵の束を外し、その中の一本を指で撫でた。
「……分かった。みんなを港へ連れていこう」
モルデカイが頷いた。
「商会の倉庫へ話を通す。寝る場所は何とかするから、持ち出すものを選んでくれ」
主人が食堂へ戻っていった。
すぐに、中で人を呼ぶ声がした。
アレクは、作業場へ目を向けた。
レイラが工具を布へ並べている。
棚に戻すのではなく、一つずつ包んでいた。
「ここ、ヨハンさんたちの家だったのか」
「部屋は宿の二階を借りていた。作業場もな」
ヨハンが答えた。
「街道を通る車を直して、飯を食ってたんだ。動かなくなった車を宿まで引っ張ってくれば、主人にも客が増える」
「なるほどな」
アレクは、油の染みた床を見た。
壁に掛けられた工具。
削れた作業台の角。
柱に打った釘へ、大小の革帯が吊るしてある。
十年の間、二人はここで働いていた。
「全部、持ってける?」
「持っていける分だけだ」
ヨハンは大きな工具箱を閉じた。
「人を乗せる場所が先だからな」
*
出発まで、少し時間がかかるという。
避難に使う宿の車には、すでに人が乗っていた。
その重みで、荷台が低く沈んでいる。
ヨハンは出発前に、車輪と車軸を確かめ直すと言った。
レイラが工具を渡し、商会の男たちは下ろした荷物を積み直していた。
黒服たちは銃を持ち、街道と畑を見張っている。
アレクは井戸端で水を飲んだ。
足には、まだ力が入りにくい。
余分な魔力を使うなとマーカスに言われ、桶から柄杓で汲んでいた。
門の脇へ集められた灰色の死骸が見えた。
長い脚。
厚い肩。
毛のない皮膚。
アレクは、首を傾げた。
「……こいつ、食えるのかな」
胸ポケットで、ネズミが顔を上げた。
『さっきまで食われかけとったのに、もう食う側のつもりか』
「いや、気になっただけだろ。肉は結構ありそうだし」
『食うことより先に、何を食う生き物か調べてみい』
「人だろ」
『なぜ人なんじゃ?』
アレクは柄杓を下ろした。
『この辺りには、畑も家畜もある。それでも、こやつらは人の集まる場所へ来た』
灰色の頭に、目はない。
なのに、群れは真っすぐ門へ押し寄せてきた。
「……匂いか?」
『何を嗅ぎつけたのか、腹を開いて確かめてみい』
*
「刃物?」
車の下から出てきたヨハンが、眉を上げた。
「あの魔物、一匹だけ調べたい。腹を切れるやつ、借りられないかな」
「お前、獣を捌いたことはあるのか」
「ある。鳥とか、兎とか」
ヨハンは工具箱から、革鞘に入った短い刃物を出した。
「食堂の包丁を持ち出すなよ」
「……何で分かった?」
「お前が食堂の方を見たからだ」
レイラが車の下から笑った。
アレクは刃物を受け取り、門の脇へ戻った。
腹の傷が少ない一匹を選ぶ。
近くで見ても、不自然な体だった。
前脚の付け根が大きく盛り上がっている。
指の間には、皮のような膜があった。
『首の横へ刃を入れるでないぞ。まず腹からじゃ』
アレクは頷いた。
獣の腹を開くのは、初めてではない。
ただ、いつもなら傷つけずに取り除くものも、今回は確かめなければならなかった。
皮を切る。
その下には、硬い筋肉が重なっていた。
「……厚いな」
少し離れたところで、ヨハンが手を拭いていた。
「肩を撃っても止まらんことがある。脚を折るか、胴へ何発か入れる方がいい」
アレクは、切り口を広げた。
胃らしいものがあった。
その隣に、見覚えのない袋がある。
暗い紫色。
筋肉よりも滑らかで、細い筋が何本も繋がっていた。
『魔力を見てみい』
アレクは刃を置いた。
目元へ指を添える。
小さな陣が開き、視界の色が変わった。
周囲の魔力が、薄い靄のように見える。
死骸の中では、紫色の袋にだけ、濃い光が残っていた。
「……ここへ溜まってる」
『うむ。肉を消化する場所とは、別にあるな』
アレクは袋へ顔を近づけかけ、止まった。
生きていた時と似た、濁った気配がする。
「こいつら、魔力を食ってんのか」
ヨハンがこちらを見た。
「分かるのか?」
「ここに、溜めてる。胃とは別だ」
ヨハンが屈んだ。
「馬は無傷で、御者だけやられたことがあった。腹が減ってるなら、でかい方へ行きそうなもんだと思ったが……」
「家畜小屋を通り過ぎたこともあるわ」
レイラも、工具を置いて近づいてきた。
「裏の鶏には目もくれないで、食堂へ来たの」
アレクは二人を見た。
それから、開いた腹へ目を戻した。
『獣にも魔力はある。じゃが、人は魔術に使う分を体に蓄えておける。量の差が大きいんじゃ』
マーカスの声が、脳裏へ響く。
「魔術を使わない奴でも?」
『溜められる量と、使いこなせるかは別じゃ。人一人を襲えば、こやつらには十分な量が手に入る』
「俺たちの方が、腹いっぱいになるってことか」
レイラの顔が曇った。
アレクは、紫色の袋を見た。
「……さっきの黒い奴にも、これがあるのか?」
『あれは魔族じゃ。吹き散らした指が、すぐに繋がったじゃろう。体を形作っとったのは、肉ではなく魔力じゃ』
アレクは、死骸の前脚へ目を向けた。
こちらには骨があり、肉がある。
折れた脚は、折れたままだった。
黒いものが、自分の腕を掴んだ感触が蘇る。
よく溜め込んでいる。
その中身を、寄越せ。
『あの魔族も、お主から魔力を引こうとしたな』
「……ああ」
『こやつらに集めさせて、それを吸い上げとるのかもしれん』
アレクは胸ポケットへ目を落とした。
『この一匹だけでは、そこまでは分からん。じゃが、群れと一緒に来た理由としては筋が通る』
アレクは刃物を拾った。
切るためではなく、片づけるために。
食えるかどうかは、もう気にならなかった。
*
調べた器官は、小さな瓶へ入れた。
ヨハンが紙へ簡単な見取り図を描き、アレクは魔力が集まっていた場所へ印をつけた。
モルデカイは説明を聞くと、その紙を二つ折りにした。
「これは港へ持っていってくれ。警備の連中にも、診療所にも見せた方がいい」
瓶と紙を、ヨハンへ渡す。
それからアレクを見た。
「お前の見たものも、帰ったら詳しく聞く」
「俺、説明は上手くねえぞ」
「上手く話さんでいい。見たとおりに話せ」
アレクは頷いた。
レイラが、洗い桶を持ってきた。
「手、洗って。袖も汚れてる」
「分かってる」
そう答えてから、アレクは素直に腕を差し出した。
*
荷物は、二つに分けられた。
港へ戻る宿の車には、人と、当面の食料。
先へ進む商会の二台には、薬と部品、それに積めるだけの荷。
モルデカイは、残していく木箱へ印をつけていた。
「商売、続けるのか」
アレクが聞いた。
「届け先がおるからな」
モルデカイは筆を止めた。
「今日は次の集落までだ。そこで休む。ただし、道の様子次第では引き返す。お前が何でも倒せるとは思っとらん」
「……さっきのは、一人じゃ無理だった」
胸ポケットで、白いネズミが静かにしている。
モルデカイはそのポケットを一度見たが、尋ねなかった。
「なら、そのつもりで進む」
帳面を閉じる。
「お前はどうする。港へ戻るなら、ヨハン先輩の車へ乗れ」
アレクは街道を見た。
黒いものは、消えた。
だが、あれと同じものが、兄へ取りついていた。
帰ってきて、初めて分かったことがある。
まだ、分からないことの方が多い。
「先へ行く」
モルデカイは頷いた。
「なら、まず休め。護衛がふらついとっては困る」
「私も行く」
後ろから、レイラが言った。
*
ヨハンが振り返った。
レイラは工具を包んだ布を抱えていた。
足元には、小さな鞄が置いてある。
「港へ戻る車に積め」
「これは、私が持っていく分」
「レイラ」
ヨハンの声が低くなった。
「さっき、何が来たか見ただろう」
「見たわ」
「アレクがいなきゃ、誰も助からなかった」
「だから、ついていくの」
ヨハンの眉が寄った。
レイラは布包みを作業台へ置いた。
「魔力があっても、車軸は直らないでしょ。車が止まったら、道の真ん中で立ち往生する」
「商会にも運転手はいる」
「整備士は?」
モルデカイが、二人を交互に見た。
「簡単な修理はできる。だが、ヨハン先輩ほどではない」
「私、お父さんほど何でもできるとは言ってない」
レイラは父を見た。
「でも、任されてきた仕事はできる。今日だって、私が締めたところを、お父さんは締め直さなかった」
ヨハンは答えなかった。
アレクが口を開きかけた。
レイラが先に、こちらへ顔を向ける。
「アレクも、勝手に駄目って言わないでね」
「……まだ何も言ってねえよ」
「顔が言ってる」
アレクは口を閉じた。
ヨハンが、長く息を吐いた。
「仕事の話だけか」
レイラの指が、布包みの端を握った。
「……違う」
声が、少し小さくなった。
「また、知らないうちにいなくなってほしくない」
アレクは、何も言えなかった。
「でも、それだけで乗せてもらうつもりもない。ちゃんと働く」
レイラは父へ向き直った。
「だから、行かせて」
*
ヨハンは作業台へ歩いた。
引き出しを開ける。
中から、短い柄の工具を取り出した。
握るところの木が、黒く艶を帯びている。
レイラがいつも使っていたものだった。
「これを忘れてる」
差し出した。
レイラは、すぐには受け取らなかった。
「……いいの?」
「お前の道具だろ」
ヨハンは工具を、布包みの上へ置いた。
「行くなら、途中で仕事を投げるな。分からんことを、分かったふりで済ますな」
「うん」
「直せんものは、直せんと言え。動かせるだけの車と、人を乗せて走れる車は違う」
「分かってる」
ヨハンは娘の顔を見た。
「分かってるなら、任せる」
レイラが頷いた。
工具を包む手が、少しだけ震えていた。
ヨハンはモルデカイへ向いた。
「使ってやってくれ。働いた分は、きちんと払えよ」
「もちろんです、先輩」
モルデカイは真面目な顔で答えた。
「私も、ただ働きのつらさはよう知っとります」
「人聞きの悪いことを言うな」
「お二人に仕込まれましたからな」
ヨハンが鼻を鳴らした。
レイラは、ようやく笑った。
*
港へ戻る宿の車が、裏の道へ回った。
食堂の主人が最後に扉を閉めた。
鍵を掛け、腰の袋へしまう。
戻ってくるつもりなのだろう。
アレクは、そう思った。
荷台では、ハンスが毛布にくるまっている。
隣に座った宿の女が、その肩へもう一枚掛けた。
ヨハンは運転席へ乗る前に、アレクの前へ来た。
「レイラを頼む」
「私にも頼んでよ」
すぐ横から、レイラが言った。
「アレク、目を離すと変なもの食べそうだから」
「まだ食ってねえだろ」
「食べようとはしたでしょ」
ヨハンはアレクを見た。
レイラを見た。
口元が、少し緩んだ。
「じゃあ、お互い頼んだぞ」
アレクは頷いた。
「ああ」
レイラも頷いた。
「うん」
ヨハンの大きな手が、二人の肩へ一度ずつ載った。
「ちゃんと帰ってこい」
今度は、二人とも返事をした。
*
車が、畑の間へ走っていった。
レイラは見えなくなるまで、手を振っていた。
やがて腕を下ろし、自分の鞄を持ち上げる。
「それ、貸せ」
アレクが手を伸ばした。
「自分で持てるわよ」
「知ってる。俺が持ちたいんだよ」
レイラは、少しだけこちらを見た。
鞄を渡した。
思ったより重かった。
「……何入ってんだ、これ」
「工具」
『頼もしいのう』
胸ポケットから、白い鼻先が覗いた。
アレクは、鞄を持ち直した。
商会の車では、マリアが窓から手を振っている。
「レイラお姉ちゃん、こっち! 隣、空いてるよ!」
「今行く!」
レイラが駆けていった。
アレクもその後を追った。
乗り込む前に、一度だけ休憩所を振り返る。
誰もいなくなった作業場。
閉じた食堂。
壊れた門の向こうに、街道が続いていた。
後部座席では、マリアがレイラへ菓子の籠を見せている。
アレクは鞄を足元へ置いた。
「俺の席は?」
モルデカイが、自分の隣を叩いた。
「ここだ」
旅の仲間が増えても、アレクの席は変わらなかった。
評価つけてくださった方々、ありがとうございました!




