第9話 先生の居場所 挿絵有り
車が揺れるたび、レイラの膝で工具袋が鳴った。
窓の外では、低い石垣が続いている。
その向こうの畑に人影はなく、風で麦の穂だけが揺れていた。
レイラはしばらく外を見ていたが、やがて向かいのアレクへ目を戻した。
「そろそろ、聞いてもいい?」
「何を?」
レイラの目が、胸ポケットへ下がった。
白いネズミが、縁へ前脚を掛けている。
顔を洗うように鼻先を撫で、今度は耳の後ろを掻いた。
「その子のこと」
「ああ」
「銀の球のことも。あなた、さっきまで球と喧嘩してたでしょ」
「喧嘩じゃねえよ」
『いつも一方的に怒鳴りよるだけじゃ』
「うるせえ」
レイラが眉を上げた。
アレクは咳払いをした。
「……今のも、お前じゃなくて」
「それは、もう分かった」
*
アレクは肩の袋へ手を入れた。
布に包んだ銀の球を取り出し、膝の上で覆いを開く。
拳ほどの球は、今は光っていなかった。
レイラが身を乗り出した。
「これが、飛んでたもの?」
「ああ。こっちが本体」
「本体?」
胸ポケットから、白い頭が上がった。
「俺の魔術の先生。マーカス爺さんっていうんだ」
レイラは銀の球を見た。
それからネズミを見た。
「……どっちが?」
「球。爺さんの意識は、この中に宿ってる。普段はネズミの体を借りて動いてるんだ」
レイラは、もう一度ネズミを見た。
白いネズミは、小さな前脚を胸の前で組んだ。
「そんなこと、できるの?」
「できてるだろ」
「そうだけど」
返す言葉に困ったらしい。
レイラはしばらく黙ってから、別のことを聞いた。
「じゃあ、声も聞こえるのね?」
「俺にはな。念話っていうんだ。頭の中に直接、声が届く」
アレクは胸ポケットを指で示した。
「口を開かなくても説教できるから、便利らしい」
『お主が聞き流すからじゃ』
「ほら、今も」
レイラの口元が緩んだ。
「ちゃんと先生なんだ」
「十年も世話になってるからな」
そう言うと、胸ポケットのネズミが少しだけ背筋を伸ばした。
*
「戦っていた時は?」
レイラが銀の球へ目を戻した。
「あなたの周りを飛んで、小さい陣を作ってたでしょ」
「あれも爺さん。球の方へ戻って、手伝ってくれたんだ」
アレクは、膝の上へ指で円を描いた。
「陣をどこに置くか、どう繋ぐか。流す魔力が多すぎたり、足りなかったりしないように合わせるのも、普段は全部俺がやってる」
「うん」
「さっきは、それを爺さんがやってくれた。俺は魔力を出して、何をするか決めればよかった」
レイラは少し考えた。
「運転してる横で、誰かが道を教えてくれるようなもの?」
「それに、車輪の向きも、機械の調子も、全部見てくれる感じ」
「それは助かるわね」
「すげえ助かった。でも、使った魔力は俺のだからな。おかげで足がふらふらだ」
『無駄に流した分もあるぞ』
「そこは今、言わなくていいんだよ」
アレクは球を布で包み直した。
レイラは、その手元を見ていた。
「じゃあ、私が捕まえたネズミは?」
「普通のネズミ」
「先生じゃなくて?」
「爺さんが戻る前に目を覚ましたから、怖くなって逃げたんだろ」
レイラが目を瞬いた。
「……私、先生を箱で捕まえたんだと思ってた」
「先生は横で文句言ってただけ」
『捕まえ方を教えとったんじゃ!』
アレクが笑った。
ネズミはポケットの中へ引っ込み、白い尻尾だけが残った。
*
「私も、先生のお話聞きたい」
隣で聞いていたマリアが言った。
「今、何て言ったの?」
「自分は文句じゃなくて、指導してたんだって」
「そうなんだ」
マリアはポケットへ顔を近づけた。
「マーカス先生、ありがとう。お兄ちゃんを助けてくれて」
白い鼻先が、ゆっくり出てきた。
『……うむ。礼儀のよい子じゃのう』
「礼儀がいいってさ」
マリアは嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃんも、ちゃんとお礼言った?」
「言ったよ」
『聞いとらんな』
「……あとで言うつもりだったんだよ」
「今、言えばいいじゃない」
レイラにまで言われた。
アレクは胸ポケットを見下ろした。
「……助かったよ。ありがとな」
白いネズミが、ひげを動かした。
『うむ』
それだけだった。
アレクは少し待ったが、説教は続かなかった。
向かいで帳面を開いていたモルデカイが、鼻を鳴らした。
「お前にも、頭の上がらん相手がおったんだな」
「……あんたにも、世話になってるよ」
モルデカイは、帳面からちらりと目を上げた。
「なら、明日も頼むぞ」
「礼を言った途端に仕事かよ」
太い指が、帳面の次の頁をめくった。
*
次の集落へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
入口には丸太の柵があり、門の両脇に銃を持った男が立っていた。
商会の印を見せると、一人が中へ走っていく。
車は、門の前で止まった。
「今日は、ここで泊まる」
モルデカイが帳面を閉じた。
「まず荷を下ろす。アレク、お前は座っとれ」
「荷物くらい持てるぞ」
「持てるかどうかじゃない。休めと言っとるんだ」
アレクは口を閉じた。
マリアがこちらを見上げた。
「じゃあ、一緒に待ってよう」
「マリアも、車のそばを離れるんじゃないぞ」
「はーい」
モルデカイが下りると、門の向こうから数人がやってきた。
先頭の男は荷物車を見て、目に見えて肩の力を抜いた。
「来てもらえて助かった。もう一日遅けりゃ、小麦粉の袋が空になるところだった」
「ほかの荷は届いとらんのか」
「二日前に来るはずだった車が、まだだ。道で何かあったんじゃないかと……」
モルデカイの顔から、笑みが消えた。
「街道の休憩所も引き払った。主人たちは港へ戻っとる」
男が息を呑む。
「そんなにか」
「見張りは増やしとけ。夜に外へ人を出すな。詳しい話は、中でする」
モルデカイは商会の男へ手を振った。
「小麦粉の袋から下ろせ。薬は診療所の者に渡せ。数はその場で合わせろよ」
荷台の覆いが外される。
集まってきた人たちの目が、袋と木箱を追った。
アレクは窓越しに、それを見ていた。
「……届くの、待ってたんだな」
「パパのお荷物だもん」
マリアが、少し得意そうに言った。
*
最後の木箱を下ろしたところで、荷物車の運転手がレイラを呼んだ。
「少し見てもらえるか。さっきから、後ろで音がする」
レイラは工具袋を肩へ掛けた。
アレクも車を下りた。
「座ってろって言われたでしょ」
「足、伸ばすだけ」
レイラは疑わしそうに見たが、追い返しはしなかった。
荷物車の脇へ屈み、車輪の奥を覗く。
「どんな音?」
「段差を越えると、かん、と一つ。車輪が回る間は鳴らない」
「……分かった」
レイラは車体の下へ布を敷き、工具を手の届くところへ並べた。
仰向けになって潜り込んだところで、片手を出す。
「ここ、照らして」
アレクは指先へ小さな陣をともした。
柔らかな光が、車輪の裏を照らす。
「これくらい?」
「うん。そのまま」
金具が鳴った。
しばらくして、レイラが這い出てきた。
頬に土が付いている。
「荷台を留める金具が緩んでる。留め具も一つ割れてるわ。予備はある?」
運転手が、座席の下から木箱を出した。
レイラは中を確かめ、ひとつ取り上げた。
「これなら使える」
「車、浮かせようか」
アレクが言った。
レイラの手が止まった。
「何で?」
「下に入りやすいだろ」
「揺れたら困る。このままで届くから、そっちの工具取って」
アレクは差し出しかけた手を下ろした。
指された工具を拾い、レイラへ渡す。
『ようやく魔術以外の使い道ができたのう』
「黙ってろ」
「私に言ってないのは分かるけど、急に言うのやめて。びっくりするから」
「……悪い」
*
金具を締め直し、レイラは運転手に車を少し動かしてもらった。
車輪が、浅い轍を越える。
今度は音がしなかった。
「もう一回」
戻して、また越える。
レイラは車が止まってから車体へ手を当て、頷いた。
「大丈夫。でも明日の朝、出る前にもう一度見る。ほかも緩んでるかもしれないから」
「助かった」
運転手が木箱を片づけた。
アレクは散らばった工具を集め、レイラへ目を向けた。
「ちゃんと仕事してるんだな」
「今さら?」
「昔は、俺と土掘ってたのに」
「あなたが埋めたものを探してあげてたのよ」
「……そうだったか?」
「覚えてないの? 芽が出ると思って、お菓子を埋めたでしょ」
アレクは黙った。
胸ポケットで、マーカスが震えた。
『なるほど。食い意地は昔からか』
「その話、もういいだろ」
レイラは工具を拭きながら笑った。
その笑い方には、覚えがあった。
*
宿の食堂は、まだ夕食の支度中だった。
台所からは、刻んだ野菜を炒める匂いがする。
奥で鍋の蓋が鳴った。
アレクがそちらを見ていると、レイラが言った。
「お腹、空いた?」
「空いた」
「さっき、パン食べたのに」
「あれで足りるか」
卓のそばへ腰を下ろす。
レイラは工具袋を床へ置き、汚れの残った指を見た。
「手、洗ってくる」
「俺も」
二人で裏の井戸へ回った。
アレクが水を汲み、レイラが先に手を洗う。
爪の脇の油を、布で丁寧に擦っていた。
「ねえ」
「ん?」
「向こうでは、ずっと先生と暮らしてたの?」
「ああ」
アレクは桶を受け取り、手へ水を流した。
「最初は、残ってた金で食ってた。そのうち薪を売ったり、荷物運んだり。魔術が使えるようになってからは、少し楽になったな」
「ご飯も、自分で?」
「爺さん、味見はするけど作らねえから」
レイラの目が、白いネズミへ向いた。
「……その手じゃ、無理そうね」
『教えてやっとったぞ』
「口は出すんだよ。火が強いとか、切り方がでかいとか」
「魔術と同じなのね」
「そう。鍋まで修行になった」
レイラが笑った。
アレクも笑い、指の間へ水を通した。
「最初は、焦がしてばっかりだったけどな。自分で作ると、食いたいものを食えるだろ。何が入ってるか分かれば、次に買うものも分かるし」
「それで料理が好きになったんだ」
「食うのが先だけどな」
桶を置く。
井戸の向こうから、夕方の風が吹いてきた。
レイラは濡れた手を拭きながら、少し声を落とした。
「……知らないこと、いっぱいあるね」
アレクは顔を向けた。
「十年だからな」
「うん」
レイラが布を畳んだ。
「少しずつ、聞いてもいい?」
「ああ」
アレクは頷いた。
「お前の話も、聞かせろよ」
*
食堂へ戻ると、マリアが卓に着いていた。
アレクを見つけ、顔を上げる。
「お兄ちゃん、お夕飯もうすぐだって」
「そりゃよかった。腹減った」
マリアが笑い、隣の椅子へ手を掛けた。
「アレク。ちょっと来い」
帳面を抱えたモルデカイが、廊下から顔を出した。
「明日の道のことで、確認しておく。すぐ済む」
「分かった」
アレクが廊下へ向かう。
マリアは椅子を少し引いてから、自分の膝へ手を戻した。
レイラが向かいへ座ると、小さく笑った。
*
「明日は、お前の具合を見てから決める」
モルデカイが言った。
「もう平気だって」
「さっきまで、足がふらふらだと言っとったろうが」
アレクは答えなかった。
「この集落に、何日か泊まってもいい。荷は届けた。急ぐ理由が減ったんだ」
「商売は?」
「泊まっとる間にもできる」
モルデカイは帳面を脇へ挟んだ。
「それに、荷物車をレイラさんに見てもらう。あの道を帰るなら、なおさらだ」
「金具、直してたぞ。俺も手伝った」
「何をした」
「明かり出して、工具渡した」
「そうか。壊さん仕事で何よりだ」
「あんた、俺を何だと思ってんだ」
言い合いながら食堂へ入る。
マリアが顔を上げた。
アレクがこちらを見た。
その前を、モルデカイが通った。
「待たせたな、マリア」
引いてあった椅子へ、太い体が収まった。
椅子が軋んだ。
*
「パパ、そこ……」
「ん?」
モルデカイが娘へ顔を向けた。
アレクは卓を回り、レイラの隣へ座った。
マリアは膝の上で指を握った。
「……なんでもない」
「腹が減ったか。もう来るぞ」
台所から、湯気の立つ皿が運ばれてきた。
肉と野菜の煮込み。
焼きたてのパン。
小さな皿には、赤い果物の煮たものが添えられている。
モルデカイはパンをひとつ取った。
娘が持ちやすい大きさに割り、皿へ載せる。
「熱いから、ゆっくり食べるんだぞ」
「分かってる」
向かいでは、アレクが煮込みの香りを確かめていた。
「これ、何の葉だろ」
レイラが皿を覗く。
「裏の庭で育ててるって。あとで聞いてみたら?」
「そうする」
マリアは二人を見た。
それから隣の父を見た。
モルデカイが、にこりとした。
「どうした。パン、もう一つ食べるか?」
「……まだ食べてないよ」
「そうか」
父は、自分の皿へ手を伸ばした。
マリアはパンを小さくちぎった。
「マリア」
アレクに呼ばれ、顔を上げた。
「それ、うまい?」
果物の小皿を指している。
マリアは、まだ食べていなかったそれを一口すくった。
甘かった。
「うん。お兄ちゃんも食べて」
小皿を持ち上げ、差し出そうとする。
横から、大きな手が伸びた。
「パパが渡してやろう」
モルデカイが皿を受け取り、アレクの前へ置いた。
「ほれ」
「ありがとな、マリア」
アレクが笑った。
マリアの口元が緩む。
けれど、返事をする前にモルデカイが嬉しそうに言った。
「優しい子だろう、うちのマリアは」
娘の赤い髪を、大きな手がそっと撫でる。
マリアは父を見上げ、それから向かいのアレクを見た。
「……パパ、パン食べないの?」
「おお、そうだったな」
父が自分の皿へ向き直ると、マリアもパンをひと口かじった。
その頬が、ほんの少しだけ膨らんでいた。




