第10話 戻ってくる仕事 挿絵有り
朝の食堂には、小麦粉の袋が一つ置かれていた。
昨日運び込んだものだ。
袋の口はもう開いていて、台所から焼けたパンの匂いが流れてくる。
アレクは空になった皿を見た。
もう一つ頼もうとしたところで、向かいのモルデカイが帳面を閉じる。
「食い終わったなら、一度立ってみろ。昨日みたいに膝が揺れるようなら、今日は休ませる」
「まだ終わってねえよ。もう一つ頼もうと思ってたんだけど」
「追加を頼む前に済ませろ。立つたびに誰かが支えねばならんようでは、仕事は任せられんからな」
椅子から立つ。
昨日のように、膝が勝手に折れることはなかった。
モルデカイは足元を見てから、顔へ目を戻した。
「ふらつかんな。頭が重いとか、気分が悪いとかはないか?」
「ねえよ。だから、もう平気だって。ちゃんと寝たし、今も腹が減ってる」
『手を出してみい』
胸ポケットから、白い鼻先が出た。
アレクは卓の下で指を開いた。
指先に、小さな光の円をともす。
輪郭を保つ。
魔力を絞る。
光が薄くなっても、線は乱れなかった。
『そこで止めい』
陣を解いた。
「どうだよ」
『細かい加減は戻っとるな。じゃが、それで昨日と同じだけ魔力を出せると思うなよ。寝起きに歩けたからといって、山まで走れるわけではなかろう』
アレクはポケットを軽く叩き、椅子へ戻った。
「少しなら働けるぞ。ずっと座ってる方が、どうにも落ち着かねえんだ」
「なら、まず話を聞いてもらおうか。力を貸してもらうにしても、何のために使うか分かっとらんと困る」
モルデカイが隣の卓へ顎を向けた。
昨夜、荷を受け取った男が座っている。
その前には、折り畳んだ地図と、何枚もの伝票が並んでいた。
*
「倉庫の残りは、こちらです」
男が帳面を差し出した。
モルデカイは頁をめくった。
太い指が途中で止まる。
「油が少ないな」
「車を動かす分を、先に取り分けました。灯りの方は、各家で節約してもらってます」
「薬はどうだ。診療所へ渡した分と、倉庫に残した分は分けて数えとるか?」
「はい。薬は昨日の荷で、しばらく持ちます。ただ、小麦粉は次が来なければ……」
男は言いかけて、口を閉じた。
モルデカイは続きを急かさなかった。
帳面へ目を落とし、別の数字を確かめる。
「港へ送った注文の控えはあるか」
「はい」
「なら、届いてない荷から照合する。代わりを送らせて、あとから二重に来ても困る」
男が伝票を揃えた。
アレクは二人の手元を見ていた。
荷物を下ろした時より、モルデカイの顔が険しい。
「……荷を下ろして終わりかと思ってたけど、まだ、届けるもんがあるのか」
「あるとも。昨日の荷で何日持つかを数えて、その間に次を届ける。店を開いとるうちは、その繰り返しだ」
「いや、それは分かるけどさ。なんで、あんたがそこまでやってんだ?」
アレクは椅子へ背を預けた。
「あんたくらい偉いなら、荷物運ぶのはほかの奴に任せるんじゃないのか」
男が、ちらりとモルデカイを見た。
モルデカイは鼻を鳴らした。
「運ぶだけなら、な」
帳面を卓へ置く。
「ここから、支店を引き払うかもしれん」
アレクは背を起こした。
「商売、やめるのか?」
「それを決めに来たんだ。道が使えん、人が足りん、次の荷が届くか分からん。港から来る報告だけでは、金を出せば続けられるのか、人を引き上げねばならんのか、判断がつかん」
男は黙っていた。
「支店を一つ畳めば、従業員の働く先も、取引先の売る先もなくなる。だが、続けろと言うだけで荷が届くわけでもない。どちらに決めるにせよ、事情を見てからだ」
「じゃあ、昨日の荷は? やめるかもしれねえのに、わざわざ運んできたのか」
「引き払うと決めたところで、今日の飯を食わんで済むか? 移る先を探す間も、人は食うし、病気にもなる」
モルデカイは男へ帳面を返した。
「支店を畳んでも、ここに住んどる人間まで消えるわけではないからな」
台所で、鍋の蓋が鳴った。
パンの載った籠を抱えた主人が、二人の話を邪魔しないよう、そっと卓へ置いていく。
アレクは、その籠を見た。
*
「昔から、ここで商売してたのか」
「この集落だけではない。ロス地方には、いくつも取引先があった」
聞き慣れた名に、アレクの指が止まった。
「……ロス地方」
「ああ。お前の父親に紹介してもらってな。最初は、支店の倉庫も小さかった」
「親父、商売のことにも口を出してたのか? 家じゃ役所の話ばっかりしてたのに」
「出したとも。農具を売るなら、修理する部品まで届けろとな。一度売って終わりにするなと、商人の私に説教を始めた」
「……言いそうだな」
「言うだけではない。必要な部品の表まで寄越した。ヨハンと二人で、こっちが聞いてもおらんところまで書いてな」
アレクの口元が、少し緩んだ。
「それも、やりそうだ」
「おかげで、長く商売ができた」
モルデカイは帳面の端を揃えた。
「あの時の紹介で、付き合いの長い客もできた。引き払うなら、私が来て理由を話す。それくらいはせねばならん」
モルデカイは窓の外へ目を向けた。
「農具の部品を運んで、帰りに穀物を積む。薬や布も売れた。行きも帰りも荷がある、いい土地だった」
「……その支店は、今どうなってるんだ?」
「その倉庫は、黒い壁の中だ」
アレクは口を閉じた。
「残った者で、港に店を移した。内陸の取引先とも、細々と続けてきたんだ。ここも、その一つだ」
男が頷いた。
「港から荷が来るうちは、畑を続けられます。余った作物を売る先もありますから」
「それが途切れると、出ていく者が増える」
モルデカイが言った。
「客が減れば、運ぶ荷も減る。荷が減れば、車を出せん。そうなる前に、手を打ちたい」
アレクは、窓の向こうの畑を見た。
朝の光の中を、鍬を担いだ人が歩いている。
昨日は、荷物を待つ人たちだった。
今日は、その荷物を使って働いている。
「……そりゃ、あんたが来るわけだ。荷物を運ぶのとは、別の仕事なんだな」
「分かったなら、運ぶ方も丁寧に頼むぞ。袋一つ破けば、それを当てにして待っとる客に迷惑が掛かる」
「そこは気をつけてるって。……でも、もっとでかい商売の話で来てるんだと思ってたよ。店を畳むかどうかまで、あんたが考えるんだな」
「でかい商売も、小さい取引が続いてこそだ。もっとも、情だけで続ければ、ほかの店まで潰しかねんがな」
モルデカイはパンを一つ取り、割った。
「続けるなら、儲かるようにせねばならん。従業員に賃金を払えて、次の荷を仕入れられるようにする。その方法を考えとるんだ」
*
廊下から、軽い足音がした。
「パパ、ここにいた」
マリアが、赤い髪を揺らして入ってきた。
レイラもその後ろにいる。朝の車の点検を済ませたらしく、手を拭く布を畳んでいた。
「おはよう」
「おう」
アレクが返すと、マリアは父の隣へ座った。
モルデカイが、割ったパンの片方を娘の皿へ置く。
「よく眠れたか」
「うん。パパ、もうお仕事?」
「ああ。もう少しかかるから、ここで朝ご飯にしような。パンはまだ温かいぞ」
マリアは頷き、パンへ手を伸ばした。
アレクは地図を避けて、籠をそちらへ寄せた。
「マリアも、店を見に来たのか?」
「パパが、連れてきてくれるって」
「港の支店と、馴染みの取引先を何か所か回る予定だった。宿の者にも会わせてやろうと思ってな」
モルデカイが答えた。
「船も宿も、いつも使うところだ。道の被害は聞いとったが、護衛を付けて昼間に移動すれば足りると思っていた」
娘がパンをちぎるのを見て、声を少し落とす。
「連れてきたのは、私の見込み違いだ」
アレクはモルデカイを見た。
言い訳は続かなかった。
男は娘の皿へ目を戻し、水の入った杯を手元へ寄せてやった。
「……じゃあ、帰りは先に道を確かめようぜ。車に乗せたまま、また群れにぶつかるのは嫌だろ」
アレクが言うと、モルデカイは頷いた。
「私もそうしたい。お前を頼りにするにしても、昨日のような戦いを毎度させるわけにはいかんからな」
*
地図が開かれた。
港から伸びる街道。
昨日通った休憩所。
今いる集落。
モルデカイの指が、その先へ動いた。
「昨日通った街道は、群れが出たうえに休憩所もなくなった。途中で車に故障でもあれば、助けを頼む先がない。こちらから迂回して、港へ戻れんかと考えとる」
男が、地図の端を押さえた。
「ただ、今朝までに通った者はいません。最後に車が来たのは、三日前です」
「魔物は?」
「以前は、もっと壁の近くで見かける程度でした。この辺りまで来るようになったのは、最近です」
レイラが卓へ近づいた。
「この曲がり角の先、木の橋があったよね。最後に車が通った時、傷んでるところはなかった?」
「ええ。通れたと聞いています。ただ、板の状態までは……」
「それなら、橋は見ておいた方がよさそうね。その先の坂は? あそこ、雨が降ると土が流れてくるの」
「雨のあとに、少し崩れました。荷車一台なら通れますが、離合は難しいです」
レイラは指で道を辿った。
アレクには、線の途中に何があるのか分からなかった。
レイラが橋や坂を確かめるたび、地図に描かれた道が、少しずつ具体的なものになる。
「要するに、車で見てきて、荷物を載せて通れそうか確かめりゃいいんだろ。だったら、俺も行くぞ」
アレクが言った。
モルデカイが顔を上げた。
「行くのは構わんが、魔物が出たらどうするつもりだ? 昨日みたいに、片端から相手をする気ではなかろうな」
「少しなら追い払える。群れだったり、あの黒い奴がいたりしたら戻るよ。俺だって、昨日のが楽だったわけじゃねえからな」
『追い払うのが先なのが、お主らしいのう。相手に気づかれず戻れたら、魔力を使わずに仕事が済むぞ』
胸ポケットから、すぐに念話が来た。
「分かってるよ」
モルデカイが眉を寄せる。
「誰に言った」
「爺さんだよ。見つからずに帰れば、戦わなくて済むだろって」
「私も先生に賛成だ。魔物を追い払うたびに疲れていては、道の続きを見られんだろう」
アレクは地図へ目を戻した。
道の先に、鉛筆で塗り潰された場所がある。
途中で切れた線路が、その黒い縁へ伸びていた。
「……この辺りまで行ったら、黒い壁も見えるのか?」
男の顔が、少し強張った。
「丘へ上がれば」
レイラが答えた。
「この分かれ道から、少し入ったところ。昔の見張り台があるの。晴れてれば、向こうが見渡せる」
アレクは、その場所へ指を置いた。
「そこまで行きたい」
*
モルデカイは、しばらく何も言わなかった。
「見たいのは分かる。お前の家があった場所だからな。ここまで戻って来て、気にならん方がおかしかろう」
アレクは顔を上げた。
モルデカイは地図から目を離さなかった。
「だが、今日は道を見る仕事だ。壁を調べに入る仕事ではない」
「入らねえよ。今すぐ何とかできるなんて、思ってねえって」
答えてから、アレクはもう一度、黒く塗られた場所を見た。
「……ただ、どんなふうになってるのか、自分で見たいんだ。今まで、人に聞いた話ばっかりだったから」
レイラも、地図を見ていた。
腰の道具袋へ添えた手が、動かなかった。
モルデカイは二人を見比べ、地図へ視線を落とした。
「レイラさん、丘まで行って戻るなら、どれくらいかかる?」
「朝のうちに出れば、道が塞がっていない限り、昼までには戻れると思う。橋や坂を見る時間を取っても、それくらいね」
レイラが答えた。
「見張り台へは、最後だけ歩く。車は道を外れたところに置ける」
モルデカイは鉛筆を取った。
分かれ道と見張り台に印を付ける。
「ここまでだ。その先へ下りるな」
次に、アレクへ目を向けた。
「昼には引き返せ。道が悪い、魔物が多い、そうなったら丘まで行かずに戻れ。何も見つからんかったからといって、仕事を増やすなよ」
「分かった」
「その返事だけでは、聞いたのか聞き流したのか分からんな。先生が説教したくなるのも、少し分かるわ」
「聞いてるよ。丘まで、それより先へは行かない。昼には引き返す。これでいいだろ」
「そうだ。見たいものを見つけた時も、今の話を覚えとけ」
地図の上へ、太い指が置かれた。
「どこまで車が通れるか。魔物を見たなら、どこに何匹いたか。見てきたことを、帰って話せ。それがお前の仕事だ」
アレクは、印の付いた場所を見た。
「……どうしても邪魔な奴がいたら、倒していいんだよな?」
「逃げるために必要ならな。だが、倒した数で賃金は増えんぞ。道を見てきた話を聞きたいんであって、武勇伝を買うつもりはない」
レイラが、少しだけ笑った。
「倒してもお給料は増えない、か。それなら、寄り道せずに帰ってくるわね」
「お前まで、俺が暴れに行くみたいに言うなよ」
モルデカイは鉛筆を置いた。
「お前の父親には、学生の頃から無茶な頼みをされた。息子にまで振り回されてたまるか」
「俺、まだ何もしてねえだろ」
「なら、そのまま帰って来い」
アレクは言い返しかけ、やめた。
「……分かったよ」
モルデカイは頷き、レイラへ顔を向けた。
「レイラさん、車を頼めるか。通れんと思ったら止めてくれ。アレクが急かしても、無理に進む必要はない」
「ええ。私が運転する。丘までなら道も分かるし、車の具合も今朝見ておいたから。橋や崩れているところでは、一度下りて確かめるわ」
「じゃあ、俺とお前で行くか」
アレクの言葉に、マリアが顔を上げた。
「……二人で?」
「ああ。荷物も少ないしな」
アレクは地図を覗いたまま答えた。
マリアの指が、卓の縁を撫でた。
「マリアは、パパと留守番だ」
モルデカイが娘へ顔を向ける。
「お昼は宿で食べような。昨日の煮込み、うまかったろう」
「……うん」
レイラは地図を畳み、アレクへ渡した。
「これ、持ってて。車を借りるって、運転手さんに話してくる」
「おう」
二人が立ち上がる。
マリアも椅子から下りた。
「お兄ちゃん」
アレクが振り返った。
「気をつけてね」
「おう。戻ったら、飯だな」
マリアは小さく頷いた。
父のそばへ戻ると、大きな手が赤い髪を撫でた。
「心配せんでも、あいつは丈夫だ」
マリアは何も言わず、扉の方を見ていた。
*
宿の前で、レイラが車へ水の袋を積んでいた。
工具袋。
予備の部品。
包帯を入れた小箱。
アレクは、その横へ食堂で包んでもらったパンを置いた。
「昼には戻るつもりなのに、それ、ずいぶん多くない? 私たちの分も入ってるの?」
「当たり前だろ、俺だけ食うわけにいかねえし。道が悪かったら、戻るのが遅れるかもしれないじゃん。爺さんの分も、ちょっとだけな」
「それなら持っていこう。戻る途中でお腹が空いたって言われても、買うところはないもの」
『修練へ行く時にも、それくらい先を考えてほしいもんじゃ。弁当の用意だけは、言われずともできるのにのう』
「腹が減ったら困るのは、爺さんもだろ」
ネズミは答えず、ポケットへ引っ込んだ。
レイラが運転席へ乗る。
アレクも隣へ腰を下ろした。
肩の袋を足元へ置き、その中の球に硬いものが当たらないよう、工具の箱を少しずらす。
「先生も、乗った?」
「ああ。二人と一匹だな」
『一匹とは何じゃ、一匹とは』
アレクが笑う。
レイラは鍵を回した。
車体の奥で、低い振動が始まった。
*
門を出る前に、レイラが車を止めた。
「地図、出して」
アレクは膝の上で紙を開いた。
モルデカイが付けた印が、朝の光の中に見える。
「最初の分かれ道は右よ。その先に橋があるから、見えてきたら教えて。手前で一度止まるね」
「右で、橋の前で止まる。よし。……俺、地図見ながら道を教えるの、初めてだな」
「私も、あなたに頼むのは初めてよ。橋の先は道が細くなるから、そっちも前を見てきてほしい。どこまで車輪を寄せられるか、分かると助かる」
「おう」
車が動き出した。
門番が片手を上げる。
アレクも手を上げて返した。
集落の柵が後ろへ遠ざかる。
畑の間を抜けると、道の両側に木が増えた。
アレクは膝の上の地図へ目を落とした。
途中で切れた線路。
その先にある、黒く塗られた場所。
子供の頃、母と乗った列車は、そこへ向かって走っていた。
紙の端が、風にめくれた。
アレクは掌で押さえた。
「……ちゃんと、戻るよ」
「何?」
レイラが前を見たまま聞いた。
「いや。あいつに言われた仕事の話。戻って、見たことを話すまでだよな」
「そうよ。だから、地図もしっかり持っててね。帰る方の道まで、飛ばされちゃ困るから」
「ああ」
アレクは地図を持ち直した。
今度は、帰る道も確かめながら。




