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過去編 第5話 兄の手 挿絵有り

 翌朝、アレクはいつもより早く目を覚ました。


 服を着替え、顔を洗う。

 机の上を片付けて、椅子を二つ並べた。


 曲がった枝も、寝台の下へ隠した。

 今日は、ちゃんと勉強するのだ。


 扉が叩かれた時には、もう待ちくたびれていた。


「兄上!」


 ザイールは、開いた扉の向こうで笑った。


「早いな」

「ずっと待ってんだ」


 兄の手には、薄い帳面があった。


 アレクは椅子を引いた。

 兄は座らず、部屋へ入りながら窓を見た。


「ここなら、邪魔も入らなさそうだ」

「庭じゃなくていいの?」

「ああ。すぐすむからな」


 兄が扉を閉めた。


 かちり、鍵のかかる音がした。


     *


「目を閉じて」


 アレクは言われたとおりにした。


 兄の掌が、額へ触れる。


「いつものように、魔力を巡らせてみろ」

「灯りは?」

「今日は作らなくていい。体の中だけで」


 息を吸う。


 胸の奥にある温かさを、腕へ送る。

 指先まで届いた流れを戻し、今度は足へ。


 ここへ来てから、何度も練習したことだった。


「そう。そのまま」


 兄の声が、すぐ近くでした。


 額に触れた掌が、少し冷たい。


 温かさが、胸へ戻ってくる。


 大きく息を吸い込んだとき、なにかが混じった。


「……?」


 流れが乱れる。

 アレクは整えようとした。


冷たい水を、一滴落とされたようだった。


「兄上、変だよ」

「力を抜け」


 額を押さえる手が食い込み痛い


「すぐに済む」


 胸の奥で、何かが蠢いた。


 アレクは目を開けた。


 兄の顔が黒いモヤに包まれ見えない


「……兄上?」


 足が動かなかった。


 立ち上がろうとしたのに、膝が伸びない。

 兄の手を退けようとした腕も止まった。


 自分の指が、意思に反して動く


「やだ」


 胸の奥へ、冷たいものが広がった。


 息が浅くなる。


「なんだこれ、体が動かない」

「くひひ」


甲高い笑い声


 昨日と同じ声だった。


「もう少しだ」


 兄の顔をした何かは笑っていた。


 その襟元から、黒い靄が滲み出ていた。

 肩へ広がり、細く伸びた先が腕を伝っている。


 額に触れた手の周りで、黒い筋がゆっくり蠢いた。


 アレクは首を振ろうとした。


 それも、できなかった。


     *


 兄の顔が、急に歪んだ。


 額に触れていた手が震える。


「……っ」


 喉の奥から、潰れた声が漏れた。


 肩にまとわりついていた靄が、激しく波打った。

 兄の頬まで這い上がり、片目を覆う。


 もう片方の手が、アレクの肩を掴んだ。

 椅子から引き起こされ、足が床を擦った。


「兄上……?」


 兄の唇が動いた。


「アレク」


 その呼び方に、アレクは顔を上げた。


 兄の口元には、まだ笑みが残っていた。

 けれど、その目は大きく見開かれている。


「目を、閉じろ」


 さっきより低い声だった。

 息が切れている。


「でも――」

「閉じろ!」


 初めて聞く兄の怒鳴り声だった。


 アレクは目を閉じた。


 兄の手が、胸へ当てられる。


 光が、瞼の裏へ差し込んだ。


 体の中で何かが引っ掛かった。

 そのまま、引きずられていく。


 胸が痛い。


 足の先から喉元まで、冷たいものが逆流した。


「――離れろ!」


 兄の声と、別の声が重なった。


 何を言っているのか、分からなかった。


 耳で聞いたのではない。

 頭の中いっぱいに、知らない音が響いていた。


 胸の奥から、何かが抜けた。


 アレクは床へ倒れ込みながらも兄を見る


 兄が、黒いものを掴んでいた。


 煙に見える何かだ


 兄の両手の間で、それは膨らみ、縮み、何本もの細いものを伸ばした。


 指のようにも、脚のようにも見えた。


 兄の腕へ絡みつく。

 袖が裂け、白い肌に黒い筋が食い込んだ。


 兄は歯を食いしばった。


「閉じて、砕け」


 血の滲んだ唇から、短い言葉が漏れた。

 その両手の間へ、小さな陣が浮かぶ。


 一つ。

 二つ。


 小さな陣が走り、次の陣を描く。

 完成した円の内側へ、さらに紋様が書き込まれていく。


 黒いものが、狭い光の中へ押し込められた。


 兄の手から、血が落ちた。


「兄上!」


「来るな!」


 光が閉じた。


 黒いものが、潰れた。


     *


 窓の外が、真っ白になった。


 アレクは目を覆った。


 一瞬遅れて、屋敷が揺れた。


 棚の本が落ちる。

 窓硝子が鳴る。

 廊下から、誰かの悲鳴が聞こえた。


 兄が窓を見た。


窓の向こう、見晴らしの良い丘の向こうに黒い裂け目がみえる


「……そんな」


 顔から、血の気が引いていた。


 兄にも、分からないことが起きている。


 それが、何より怖かった。


 扉が叩かれた。


「ザイール!サンドラ! 外が大変よ!ここを開けて!」


 母の声だった。


 アレクは立ち上がろうとした。

 脚が震え、膝が床へ落ちる。


「お母さま――」


 兄が振り返った。


 その背中で、黒い靄が膨らんだ。


「まだ、意識があったとは油断したわ!!」


 下卑た笑い声をあげながら黒い煙幕が上着の隙間から噴き出し、肩へ、首へと巻きついていく。

 兄が片手で払った。

 指の間をすり抜けた靄が、今度はその手首へ絡みついた。


「ぐっ……!」


 ザイールが仰け反った。


 黒いものを潰した手が、ザイールの喉を掴む。

 反対の腕が、アレクへ伸びた。


 ザイールは、その腕を押さえた。


 片方の手で、もう片方の手首を握り締める。


「逃げ……」


 ザイールの唇が震えた。


 肩から伸びた黒い筋が、頬を引いた。

 兄の顔に、無理に笑みが作られた。


 その目から、涙が一筋落ちた。


 兄の背後で、細い黒い線が走った。


 中空に、裂け目ができた。


それは窓の向こうに見えたのと同じ性質にみえる


 向こう側は、暗かった。


 その暗闇の奥で、何かが動いている


     *


 母が扉を蹴破った。

 兄を見て、足を止める。


「ザイール……?」


「入るな!」


 兄が腕を振った。


「遮れ!」


 袖口の小陣が、扉の前へ飛ぶ。

 そこに描き上げられた紋様が、光の壁を立ち上げた。


 ブランカが掌を当てる。

 向こうから、セバスが駆けてきた。


 廊下の奥で、祖父の声がした。


「ブランカ、下がれ!」


 部屋の壁が震えた。


 窓の外から、鳥の群れが飛び立った。

 その向こうで、黒いものが空へ広がっていく。


 兄が膝をついた。


 片腕は胸へ抱え込んでいる。

 黒い靄が巻きついた指は、何かを掴もうとするように開閉していた。


 もう片方の手が、アレクへ向く。


「そこに、いろ」


 兄は短く息を吸った。


「輪を閉じ、道を開け」


 指先に、光の陣がともった。


     *


 初めは、いつもの円だった。


 細かな紋様を持つ、掌ほどの魔法陣。

 それが兄の前に、縦向きに浮いていた。


 陣が、光の線を引きながら、アレクの前を通る。


 円は進む道に合わせて少しずつ向きを変え、通った場所へ同じ紋様を残していった。

 一枚の陣の後ろに、次の陣。

 その後ろへ、また次の陣。


 アレクは目を見開いた。


 紙を並べたように、薄い円がずらりと続いている。


 それが部屋を巡り、大きな輪になろうとしていた。


 円の列が寝台の向こうから戻ってきた。

 兄の前で、最初の陣と重なる。


 繋がった。円環を描いた


 中央に穴を残した、太い光の輪。


 菓子に似ていた。

 母と首都で食べた、真ん中に穴のある揚げ菓子。


 いくつもの円。

 細かな文字。

 円から円へ渡る、数え切れない光の筋。


 それらが頭の上にも、足元にも続いている。


 アレクは、その大きな輪の真ん中にいた。


 兄が指を曲げた。


 輪を作る陣が、一斉に動き始めた。


 一つの陣から光が流れ、隣の陣を満たしていく。

 最後まで巡った光が、最初の陣へ戻った。


 そこで、さらに明るくなった。


 もう一周。


 輪の内側へ、新しい文字が書き込まれる。


 もう一周。


 別の線が繋がった。


 兄は、新しい言葉を唱えなかった。

 指が止まっても、陣は動き続けていた。


     *


 兄の肩から、黒い筋が伸びた。


 光の輪へ触れる。


 その部分だけ、陣が歪んだ。


 兄が黒い筋を掴み、自分の方へ引き戻した。


「――邪魔を、するな!」

挿絵(By みてみん)

 靄が腕へ巻きついた。

 肩を引かれ、兄の体が床へ倒れる。


 それでも、光の輪は止まらなかった。


 床板が低く唸った。


 机の上の石が跳ねる。

 椅子が倒れた。


 輪の中を巡る光が、速くなる。

 線が重なり、個々の円が見分けられなくなっていく。


 アレクは耳を塞いだ。


 光の壁の向こうで、母が何か叫んでいる。


 聞こえなかった。


 兄が、こちらへ這ってきた。


 上着は肩から裂けていた。

 首と腕には、黒い靄が何重にも巻きついている。

 床についた手が、兄の体を支える。

 もう片方の手は、その手を床から引き剥がそうとしていた。


 アレクは反射的に後ずさった。


 兄の手が止まった。


 アレクの顔を見て、兄は唇を噛んだ。


「……ごめんな」


 声が、震えていた。


 伸ばした手を、兄は引っ込めた。


「お前だけは生き延びてくれ」


「兄上?」


 兄は答えなかった。


 アレクは首を振った。


「一緒に行こうよ」


 兄の肩から、黒いものが垂れた。

 頬を覆い、口元へ流れ込んでいく。


 兄はそれを引き剥がした。


「アレク。俺を見るな」


 光の輪が、眩しく輝いた。


「目を閉じていろ」


「やだ」


 アレクは、今度は閉じなかった。


 兄の顔を見ていた。


「兄上!」


 光の壁の向こうで、母の口が動いた。


 サンドラ。


 そう呼ばれたのが分かった。


 アレクは手を伸ばした。


 届かなかった。


 光の輪が、一度だけ大きく脈打った。


 窓の外が消えた。


 廊下が消えた。


 兄の顔が、白い光の中へ沈んだ。


     *


 鳥が鳴いていた。


 アレクは、目を開けた。


 床に頬が触れている。

 口の中に、埃が入っていた。


 咳をした。


「……兄上?」


 返事はなかった。


 起き上がろうとして、腕が滑った。


 床板に土が乗っている。


 顔を上げた。


 壁がなく窓のあったところから、森が見えた。


 庭の森ではない。

 見たことのない、大きな葉の木々が立っている。


 暖かい風が吹き込んできた。


 アレクは床に座ったまま、周りを見た。


 机があった。

 寝台もあった。


 倒れた椅子。

 落ちた本。

 壁際に置いていた着替えの箱。


 部屋はあった。


 その外が、なかった。


「……お母さま?」


 扉は、斜めに傾いていた。


 アレクは這って近づき、押した。


 開かなかった。

 肩を当て、もう一度押す。


 蝶番が外れ、扉ごと向こうへ倒れた。


 廊下があるはずの場所に、草が生えていた。


 アレクは立ち止まった。


「セバス?」


 森へ声をかけた。


「お祖父様?」


 少し大きな声で呼んだ。


 鳥が、枝を離れた。


 それだけだった。


     *


 部屋の裏側には、煉瓦の壁が残っていた。


 途中から引き千切られ、崩れた石の間に、紙が散らばっている。


 アレクは、その紙を見た。


 細かな字。

 見覚えのある、魔法陣。


 足を止めた。


 壁の裂け目の奥で、銀色のものが光った。


「……マーカス?」


 返事がなかった。


 アレクは煉瓦を退けた。

 両手で持ち上げ、横へ置く。


 小さな部屋の一部が、そこにあった。


 机は潰れていた。

 棚も倒れている。


 その下に、銀色の玉があった。


 アレクは腕を差し入れた。

 指先で触れる。


 冷たかった。


「マーカス」


 もう一度呼んだ。


 玉の表面に、淡い光が走った。


『……アレクか』


 アレクは、その場に座り込んだ。


 老人の声だった。


 知っている声だった。


『怪我はないか?』


 アレクは頷いた。


 それから、首を振った。


 どこが痛いのか、よく分からなかった。


「兄上が」


 声が出た。


「兄上が、変になって」


 銀色の玉を、両手で握った。


「でも、助けてくれて」


 言葉が続かなかった。


 マーカスは、何も言わなかった。


 アレクが息を吸う音だけが、崩れた部屋に響いた。


「帰らなきゃ」


 立とうとした。


 脚に力が入らなかった。


「お母さまが、待ってる」


 玉が、掌の中で少し浮いた。


『アレク。まずは座れ』


「でも――」


『帰るためにも、今は体を休めるんじゃ』


 アレクは玉を見た。


『ワシも一緒に考える。じゃから、一つずつ話してくれ』


 風が、散らばった紙をめくった。


 アレクは、銀色の玉を胸へ抱いた。


 ようやく、涙が出た。


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