過去編 第3話 魔法使いの第一歩 挿絵有り
祖父からもらった魔法書は、思っていたより地味だった。
火の玉も、雷も、空を飛ぶ方法も載っていない。
最初の十ページは、座り方と呼吸の仕方だった。
「……これ、魔法の本だよね?」
机に頬杖をつき、アレクは表紙を確かめた。
『魔力の流れと呼吸』
間違いなく、そう書いてある。
窓の外では、小鳥が枝から枝へ飛び移っていた。
あれくらい飛べたら、庭へ出るのも楽しいだろう。
けれど祖父との約束は、勝手に魔法を使わないこと。
まずは、この本に書かれたことを覚えることだった。
アレクは渋々背筋を伸ばした。
ゆっくり息を吸う。
胸の奥にある熱を感じる。
吐く息に合わせ、その熱を腕へ、指先へと巡らせる。
首都にいた頃は、これだけで気分が悪くなった。
体の内側を何かが押し広げるような、嫌な感覚があった。
今は違う。
指先まで届いた温かさが、すんなりと戻ってくる。
「……おお」
もう一度。
今度は、足の先まで。
できた。
面白くなって何度も繰り返しているうちに、アレクは本に書かれた回数を、とっくに超えていた。
*
「やりすぎじゃ」
翌朝、祖父にそう言われた。
「まだ何も言ってないよ?」
「顔を見れば分かる。昨日、寝る前までやっとったろう」
「……ちょっとだけ」
「どれくらい?」
「夕飯のあとから」
祖父は、寝台の上で眉を上げた。
「それを、ちょっととは言わん」
叱られると思い、アレクは首をすくめた。
だが、祖父は手を伸ばして頭を撫でただけだった。
「できるようになったのが、嬉しかったんじゃな」
「うん」
素直に答えると、祖父は笑った。
「なら、なおさら急ぐな。魔力の制御は、これから毎日やることになる。今日だけ張り切って、明日寝込んではつまらんぞ」
それは、確かに嫌だった。
「今日は庭で遊んでこい。ヨハンの娘も来とる」
「娘?」
「お主と同じくらいの年じゃ。名前はレイラだったかの」
*
レイラは、自動車の陰から顔を出した。
父親の仕事を手伝っていたらしい。
「それ、お父さんの道具だから触っちゃ駄目」
アレクが作業台の工具へ手を伸ばした途端、そう言われた。
振り向くと、少女がこちらを見ていた。
袖をまくり、片手に布を持っている。頬には、指で擦ったような黒い汚れがあった。
「触るだけでも?」
「なくすから」
「なくさないよ」
「お父さんも、そう言ってなくすもの」
「なくしてない。置いた場所を忘れるだけだ」
車の下から、ヨハンの声がした。
レイラは聞こえなかったように、布で工具を拭いた。
「あなたが、アレク?」
「うん。そっちはレイラ?」
「そう。具合、悪いの?」
あまりにまっすぐ聞かれ、アレクは少し驚いた。
「今は、悪くない」
「じゃあ、遊べる?」
「遊べる!」
答えてから、アレクは母に言われたことを思い出した。
「……走りすぎなければ」
「じゃあ、歩けばいいね」
それは、とても簡単な答えだった。
レイラは布を作業台へ置き、父親に声をかけた。
「お父さん、庭に行ってくる」
「池には近づくなよ」
「分かってる」
アレクも続こうとすると、背後から呼び止められた。
「アレク」
ヨハンが、油の付いた手で額の汗を拭った。
「疲れたら、先に言え。あいつ、遊び始めると帰ってこないからな」
「聞こえてる!」
庭の方から返事が飛んできた。
*
それから数日で、アレクの一日は忙しくなった。
朝は、祖父に呼吸と魔力の流し方を見てもらう。
昼は、レイラと庭を歩く。
雨が降れば、屋敷の中で遊ぶ。
そして夕方には、書庫へ行った。
祖父の本に出てきた言葉を調べるためだったが、棚に並ぶ背表紙を見ているだけでも面白かった。
中でも気になったのが、魔法陣の図を集めた古い本だった。
兄に教わった陣と、似ているものがある。
けれど、線が違う。
円の数も、文字の並びも違っていた。
アレクは床に座り込み、本を開いて指で線を追った。
その時だった。
棚の奥で、何かが光った。
「……?」
本を閉じる。
光は消えない。
細い隙間から、青白い明かりが漏れている。
アレクは立ち上がり、棚の横へ回った。
壁との間に、子供なら通れそうな隙間があった。
横向きになって入り込む。
埃が鼻に入って、くしゃみが出た。
その奥に、小さな扉があった。
取っ手はない。
代わりに、表面へ丸い模様が刻まれている。
見覚えのある線だった。
アレクは、指先へ魔力を集めた。
祖父との約束を思い出し、少し迷った。
けれど、魔法を使うわけではない。
ただ、触ってみるだけだ。
そう自分に言い聞かせ、模様へ指を置いた。
線が光った。
扉の向こうで、かちりと音がした。
*
小さな部屋だった。
机と椅子。
壁際の棚。
読めない字で埋め尽くされた紙が、あちこちに積まれている。
部屋の中央には、握り拳ほどの銀色の玉が浮いていた。
アレクは息を止めた。
玉の表面に、細かな光が走っている。
覗き込もうと顔を近づけた瞬間、頭の中で声がした。
『近い近い。鼻息がかかっとるぞ』
「うわっ!」
飛び退いた拍子に、背中が扉へぶつかった。
『ほう。声が届いたか』
老人の声だった。
だが、部屋には誰もいない。
「だ、誰?」
『まずは、お主から名乗るもんじゃろう』
「アレク。アレクサンドル・ロス」
答えると、声が途切れた。
銀色の玉が、ゆっくりと近づいてくる。
『……ロスか』
「うん」
『そうか。お主が』
何のことか分からず、アレクは首を傾げた。
しばらくして、老人の声が明るくなった。
『ワシはマーカスじゃ。さて、アレク。魔法は好きか?』
怖かったことも、驚いたことも、その一言で頭から飛んだ。
「好き!」
『上手くなりたいか?』
「なりたい!」
『ならば、少し付き合え』
銀色の玉が、目の前で光った。
*
瞬きをすると、赤い荒れ地に立っていた。
どこまでも続く、見知らぬ場所だった。
屋敷も、書庫も、さっきの部屋もない。
「え?」
振り向く。
扉もない。
「ええっ!?」
『騒がしい子じゃのう』
声の方を見ると、老人が立っていた。
白い髪に、立派な髭。
長い上着を着て、背筋を伸ばしている。
「マーカス?」
『そうじゃ。ここなら、物を壊す心配もない』
「どこなの?」
『お主の体は、さっきの部屋におる。ここへ来とるのは意識だけじゃよ』
アレクは自分の手を見た。
握ってみる。
ちゃんと動く。
分かったような、分からないような気分だった。
『まずは、簡単な魔法からじゃ。見ておれ』
マーカスが、人差し指を立てた。
指先が中空をなぞる。
細い光が残り、円になる。
そこへ線が加わった。
文字が並び、模様が整っていく。
『灯れ』
短い言葉に合わせて魔力が流れ込み、完成した陣の中央へ小さな灯りがともった。
「おお……!」
『身振りで陣を描き、呪文に合わせて魔力を流す。まずは、これを覚えるんじゃ』
「お祖父様も、そんなふうに使ってた」
『熟練すれば、動きも言葉も短くできる。じゃが、必要な手順がなくなるわけではないぞ』
マーカスは灯りを消した。
『やってみい』
アレクは指を立て、見よう見まねで円を描いた。
丸くならなかった。
『歪んどる』
「分かってるよ」
描き直す。
今度は丸くなったが、中へ線を加えている間に、最初の方が薄くなった。
「あっ、待って!」
『陣は待ってくれんぞ』
慌てて魔力を足す。
線が太くなり、隣の線へくっついた。
光が弾けた。
「うわっ!」
マーカスは、髭を撫でながら笑っていた。
*
何度も失敗して、ようやく灯りがともった。
小さく、頼りない光だった。
それでも、アレクは両手を握り締めた。
「できた!」
『うむ。では、次じゃ』
「もう次?」
『その灯りを、五つ作ってみい』
アレクは、目の前の光を見た。
もう一度、円を描く。
線を足す。
文字を並べる。
一つ増えた頃には、最初の灯りが消えかけていた。
「これ、全部一個ずつやるの?」
『そうじゃ』
「大変じゃん」
『大変じゃよ。だから、工夫するんじゃ』
マーカスが、人差し指を立てた。
指先に、小さな陣が浮かんだ。
何もなかったところへ、線と文字がひとりでに並んでいく。
「……兄上の魔法だ」
『陣魔法を知っとるのか?』
「兄上に教わった。指をこうすると、陣が出るんだよ」
アレクは指を動かした。
小さな光が浮かび、見慣れた模様を描く。
マーカスの目が、細くなった。
『ほう……』
「この陣、兄上が組んだんだ。すごいでしょ?」
マーカスはすぐには答えなかった。
アレクの陣を眺め、やがてゆっくり頷いた。
『よくできとる』
兄を褒められたのが嬉しくて、アレクは胸を張った。
『じゃが、使う前に、何をしとる魔法なのか知っておかんとな』
老人は、自分の指先を示した。
『こいつの仕事は、灯りをともすことではない。灯りをともすための陣を、描くことじゃ』
「陣を描く、魔法?」
『そうじゃ。お主が指で一つずつ描いとったものを、代わりに描かせる』
アレクは、自分の指と、浮かんだ陣を見比べた。
「これが、指の代わり?」
『そう考えてよい。どれ、ゆっくり見てみるか』
*
二人の間に、横長の白い板が現れた。
アレクが目を丸くしている間に、その前へ小さな腰掛けまで出てくる。
『座ってよいぞ』
腰掛けを一度つついてから、アレクは腰を下ろした。
ちゃんと座れた。
白い板へ、黒い線が走る。
マーカスの指先に浮かんでいた陣と、同じ模様だった。
『まず、これを隣へ写す』
いつの間にか手にしていた細い棒で、マーカスが図を指した。
元の陣は、その場に残っている。
すぐ隣へ、同じ大きさ、同じ模様の陣がもう一つ現れた。
『こちらを動かす』
写された方が、元の円の縁に接したまま動き始めた。
上へ回り、左へ抜け、下を通る。
その跡に、光の線が残った。
輪郭だけではなかった。
円の中にあった文字や模様も、新しい線の間へ書き込まれていく。
一周すると、元の陣を中心に、大きな魔法陣ができていた。
「でっかくなった……」
『直径は三倍じゃ。今できた陣を、丸ごと隣へ写して、もう一度回すと?』
「九倍!」
マーカスが頷いた。
板の上で、大きくなった陣がもう一つ生まれた。
それが一周すると、さらに大きな陣ができあがる。
アレクは身を乗り出した。
「じゃあ、これをずっと繰り返せば――」
『それもできる。じゃが、離れた場所にも描かせてみよう』
棒の先が、板の四隅を指した。
中央の陣から離れた場所へ、小さな陣が四つ現れる。
どれも、最初に描いたものと同じ大きさだった。
それぞれの隣に、同じ陣が生まれた。
四か所で、一斉に回る。
できあがった陣をまた写し、もう一周。
小さな陣が育つのを目で追っていると、今度はその間を、光の線が走った。
中央と四隅。
離れていた五つの陣が結ばれ、その外側へ大きな輪郭が現れる。
線の間に文字が並んだ。
最後の一画が繋がると、板いっぱいの模様が、一つの魔法陣になった。
「……全部、繋がった」
『写す場所も、描く順番も、どう繋ぐかも、あらかじめ陣へ組み込んでおく。そうすれば、最初の一つを動かすだけで、続きが始まる』
アレクは、板の端へ目を向けた。
「これも、丸ごと写せる?」
『写せるとも。さらに大きく描くことも、離れた場所へ繋ぐこともできる。使いたい魔術に合わせて、手順を組むんじゃ』
棒の先が、最初の小さな円へ戻った。
『大きな魔術ほど、描くものも増える。それを、お主が一つずつ指で描くとしたら?』
アレクは板を見直した。
最初の円。
その中の文字。
隣へ写した陣に、さらに大きな陣。
四隅にも、同じものがある。
「……描いてる間に、夕飯になっちゃう」
『それまで線を保てれば、上出来じゃな』
*
マーカスは棒を下ろした。
『では、もう一度。今度は板の外を見ておれ』
アレクは、ぱっと顔を上げた。
『灯れ』
指先に、小さな陣がともる。
その隣へ、同じ陣が生まれた。
一周。
光の線と文字を残し、三倍の陣ができあがる。
完成した陣が、隣へ写る。
もう一周。
アレクが息を吸う間に、円は掌ほどまで広がっていた。
その四方に、小さな光がともった。
離れた場所で、同じ動きが重なる。
四つの陣が育った瞬間、光の線が走った。
繋がる。
目の前に、アレクの背丈ほどもある魔法陣が開いた。
中央と四方。
五つの灯りが、一度にともった。
「おお……!」
さっき板で見た動きだった。
けれど、追いかける暇もないほど速かった。
「今の、ひと言だけ?」
『「灯れ」は、始める合図じゃ。何を描くかは、もう陣に組み込んである。続きの陣ができるたびに、唱え直す必要はない』
マーカスは、小さな灯りを一つ指した。
『じゃが、陣を動かす魔力も、灯りを保つ魔力も要る。それまで勝手に湧いてくるわけではないぞ』
アレクは頷いた。
それから、白い板と、目の前の陣を交互に見た。
「もっと大きくも、できる?」
『できる』
「屋敷くらい?」
『魔力が足りて、ちゃんと扱えるならの』
アレクは目を輝かせた。
「俺、魔力ならいっぱいあるよ!」
『そうじゃな』
マーカスが、にやりと笑った。
『では、さっきの小さな灯りを、同じ大きさで五つじゃ』
「大きくしていいんじゃないの?」
『まずは、同じ大きさじゃ』
*
その日の夕飯で、アレクは珍しく静かだった。
匙を持ったまま、何度も瞬きをしている。
「庭で遊びすぎたの?」
ブランカが聞いた。
「……勉強してた」
「あら。偉いじゃない」
向かいの祖父が、目を細めた。
「魔法書は、面白かったか?」
アレクは頷いた。
小さな灯りを五つ。
たったそれだけなのに、最後まで揃わなかった。
大きくするのは、簡単だった。
明るくするのも、できた。
けれど、五つを同じにするのは難しかった。
「明日は、できると思う」
祖父は少し首を傾げたが、やがて笑った。
「そうか。では、今日はよく寝ることじゃ」
アレクは大きく頷き、匙を口へ運んだ。
明日は、今日より上手くできる。
できたら、レイラにも見せよう。
兄が来たら、きっと驚く。
そんなことを考えているうちに、瞼が落ちてきた。
「サンドラ。匙を置いてから寝なさい」
母の声に、アレクは慌てて背筋を伸ばした。




