過去編2 祖父の魔法書 挿絵有り
セバスが、館の扉を開いた。
「お帰りなさいませ、ブランカお嬢様」
「ようこそおいでくださいました、アレクサンドル様」
声が揃った。
玄関ホールには、六人の男女が並んでいた。白いエプロンを着けた女たちに、料理人らしい服の男。その全員が、母とアレクへ頭を下げている。
アレクは入口で立ち止まった。
母は慣れた様子で、笑顔を返した。
「ただいま。みんな、元気そうね。それから、お嬢様はもうやめてちょうだい。私もみんなも、同じ平民なんだから」
使用人たちは顔を見合わせ、微笑んだ。
誰も、呼び方を変えるとは言わなかった。
「お父さまは書斎?」
「寝室にいらっしゃいます」
セバスが答えた。
「このところ、少しお疲れが出ておりまして。今日は風も冷とうございますから、お休みいただいております」
「まあ。昔なら、意地でも書斎で待っていたでしょうに」
母は手袋を外し、傍らの女へ渡した。
「アレク。みんなにご挨拶をして、お祖父さまのところへ行きましょう」
アレクは、ようやく母から目を離した。
六人分の視線が、自分を待っている。
「……アレクサンドルです。よろしくお願いします」
小さく頭を下げると、年配の女が柔らかく笑った。
「お部屋をご用意しております。お疲れになりましたら、いつでもお申し付けくださいね」
「あ、ありがとう、ございます」
挨拶をしている間に、母はもう歩き始めていた。
アレクは慌てて後を追い、それから、もう一度ホールを振り返った。
高い天井まで吹き抜けになっている。
左右の階段は二階へ上がり、中央の踊り場でつながっていた。
その壁に、大きな絵が掛かっていた。
銀髪に銀の髭を蓄えた男が、片手を前へ突き出している。
体の周りには、六つの銀色の珠。
背後に人々を庇い、暗い空の下で何かに立ち向かっている姿だった。
「お母さま。あの絵は?」
「マクシミリアン様よ。列車でもお話ししたでしょう」
母が振り返った。
「グレゴリオ王と一緒に、この国をつくった魔術師。私たちのご先祖様ね」
アレクは、絵の男を見上げた。
こちらを見ているわけではないのに、少し背筋が伸びた。
「あの玉も、魔法?」
「そうね。何に使ったのかは、お祖父さまに聞いてみるといいわ」
母が先へ進んだ。
アレクは絵から目を離し、隣へ駆け寄った。
「ねえ、お母さま」
「今度は何?」
「うちって、こんなに人がいる家だったの?」
母は、少し不思議そうな顔をした。
「こちらの館には、昔から皆さんに勤めていただいているのよ」
「でも、首都のおうちには誰もいないじゃないか。お父さまも、自分で靴を磨いてるし」
「お父さまは、ああいうことがお好きなの。それに、首都の家は役職に伴ってお借りしている官舎よ。こちらの館とは違います」
アレクは、目の前の廊下を見た。
首都の家なら、もう端まで着いているくらい歩いている。
「じゃあ、首都のおうちは、うちのものじゃないの?」
「ええ。お父さまがお仕事を辞めたら、お返しするのよ」
「庭も?」
「庭も」
アレクは、しばらく考えた。
「……お父さま、あんなに草むしりしてるのに」
母が笑った。
前を歩くセバスの肩も、わずかに揺れた。
*
廊下の奥で、セバスが扉を叩いた。
「大旦那様。ブランカお嬢様と、アレクサンドル様がいらっしゃいました」
「入れ」
低い声がした。
寝室は、思っていたより明るかった。
大きな窓から日が入り、床へ四角い光を落としている。
棚には、小さな彫刻や陶器の花器。窓際の寝台には毛布が掛けられ、傍らの椅子に読みかけの本が伏せてあった。
寝台の上で、老人が体を起こしていた。
髪は白く、顔には深い皺がある。
けれど、こちらを見る目は、しっかりとしていた。
「お父さま、お久しぶりです」
母が近づき、老人の手を取った。
「アレクの療養をお許しいただいて、ありがとうございます」
「許すも何も、お前の実家だろう。ようやく孫を連れてきたか」
老人が、アレクへ目を向けた。
アレクは背筋を伸ばした。
出発前、父と何度も練習した言葉を思い出す。
「初めまして、お祖父さま。ルドルフの次男、アレクサンドルです。これから、お世話になります」
頭を下げた。
母が満足そうに頷いたのが、目の端に見えた。
「アレクか。よく来たな。儂がアズールだ」
顔を上げると、祖父は笑っていた。
「そんなところに立っていないで、こっちへ来なさい」
アレクは寝台へ近づいた。
途中で、部屋の奥に開いている扉が目に入った。
向こうにも机と本棚がある。
「そっちは書斎だ。寝室に閉じ込められても、仕事くらいは出来る」
「閉じ込めているのではございません」
セバスが言った。
「昨晩も、夜更けまで帳面をお読みになっておられましたので」
「お父さまったら」
母が呆れたように笑った。
祖父は咳払いをした。
「それより、アレクの具合はどうだ。旅はつらくなかったか?」
「列車では、ほとんど寝ていました。でも、この辺りへ入ってから急に元気になって。駅では、止まる前に飛び下りたんですのよ」
アレクは口を開きかけ、閉じた。
ここでも叱られるかもしれない。
祖父は、アレクの顔を覗き込んだ。
「それだけ、体が楽になったか」
「……うん」
アレクは頷いた。
「息が苦しくないんだ。歩いても、脚が重くならない」
祖父の笑みが、少し静かなものに変わった。
「そうか。では、ちょっと診てみよう」
*
祖父は、二本の指で自分の目元に触れた。
「魔力視」
短く唱えた声に合わせ、瞳に淡い紫の光が灯る。
続いて、もう片方の手が動いた。
指先が円を描き、その内側へ細い線を加えていく。
掌の前に小さな紋様が生まれた。祖父が低く言葉を添えると、そちらにも光が宿った。
声は短かったが、指先は最後の線を引き終えるまで止まらなかった。
祖父自身が、一つひとつの紋様を描いている。
アレクは、目と掌を交互に見た。
「二つ、使ってるの?」
「ああ。こちらでマナの流れを見て、こちらで体の具合を確かめる」
父が魔法を使うところは、何度も見たことがある。
それでも、ひとつの術を保ちながら、別の術を使う姿を見るのは初めてだった。
「難しくない?」
「慣れれば出来る。最初は、指がつったがな」
アレクが笑うと、祖父はその頭へ掌をかざした。
紫の光が、髪から肩へ、ゆっくりと下りていく。
部屋が静かになった。
母は寝台の傍らで、両手を握っていた。
「……やはりな」
祖父の声に、母が顔を上げた。
「分かりますか?」
「儂も、子どもの頃に似た苦労をした」
掌の光が消えた。
祖父はアレクの手を取り、細い指を自分の手で包んだ。
「お前の体は、たくさんのマナをつくる。だが、まだ、その流れをうまく整えられないんだ」
「多いと、駄目なの?」
「使いこなせれば、大きな力になる。だが、行き場がなくなれば、体の中で暴れる。周りのマナが薄いところでは、なおさらだ」
アレクは、自分の胸へ手を当てた。
「……ここが、ずっと変だったんだ」
首都では、いつも胸の奥が落ち着かなかった。
痛いともうまく言えず、気持ちが悪いとも少し違った。
大人に聞かれるたび、どこがおかしいのか、言葉を探していた。
「うん。分かるよ」
祖父が言った。
「苦しくても、熱があるとは限らん。元気そうに見える日に、急に歩けなくなることもある」
アレクは顔を上げた。
「そう! 昨日まで歩けたのに、って言われるんだ。でも、脚が動かなくて……」
「お前が怠けているわけではない」
祖父の声は、穏やかだった。
「この小さな体で、よく頑張ったな」
アレクは、祖父の手を見た。
大きくて、皺だらけで、温かかった。
「……これ、よくなる?」
「体が育ち、マナの扱いを覚えればな。ここは周りのマナも濃い。首都にいた時より、楽に過ごせるはずだ」
母が、長く息を吐いた。
アレクは、握られていた手に力を込めた。
「じゃあ、俺も魔法を覚えていい? 兄上みたいになれる?」
「ザイールか」
祖父は笑った。
「あれは、昔から本ばかり読んでいた。分からんことを見つけると、飯の時まで考え込んでな」
「兄上、今もそうだよ。お父さまに呼ばれても、返事だけするんだ」
「そこは、父親に似たな」
母まで笑った。
「お前も、学べば魔法を使える。ただし、いきなりザイールの真似をする必要はない。まずは自分のマナを知るところからだ」
「陣魔法も?」
「それも、順番にな」
アレクは大きく頷いた。
今まで、魔法は見るものだった。
兄が教えてくれた陣も、思い出して眺めるだけだった。
「俺、頑張る!」
声が、思ったより大きく出た。
母が、すぐにこちらを見た。
「サンドラさん。お祖父さまはお休み中なのよ」
「あ……ごめんなさい。つい」
「つい、ではありません。駅でも言ったでしょう。体が楽になったからといって、何でもしてよいわけではないの」
アレクは肩をすくめた。
「それに、魔法を習うなら、力を使う責任も覚えなければ。ロス家のご先祖様は、ご自分の力だけを誇ったのではありません。グレゴリオ王を助け、人々を守り、その功績を認められて――」
「ブランカ」
祖父が呼んだ。
「歴史の授業は、明日でよかろう」
「お父さまが甘やかすから、この子が調子に乗るんです」
「初日に元気な顔を見せてくれたくらい、喜ばせろ」
祖父はアレクへ目を向けた。
「そうだ。お前に本を用意していたんだった」
アレクの顔が上がった。
「魔法の本?」
「マナの流れを覚えるための入門書だ。最初のうちは、儂と一緒に読もう。勝手に先の術を試してはいかんぞ」
「うん!」
「書庫に置いたままだ。取ってきてくれるか?」
祖父は、奥の扉を指した。
「書斎を抜けて、向かいの部屋だ。入口の机に、緑の表紙の本がある。題は読めるか? 『魔力の流れと呼吸』だ」
「読めるよ。そのくらい」
「それは頼もしい」
祖父は、母から見えないように、片目をつぶった。
アレクは笑いそうになり、唇を結んだ。
「行ってきます」
今度は、走らなかった。
けれど、足取りは軽かった。
*
書斎の机には、帳面が何冊も積まれていた。
紙の束を押さえる重しに、小さな時計。壁際の棚には、使い方の分からない魔道具が並んでいる。
アレクは立ち止まりかけ、緑の本、と小さく呟いた。
向かいの扉を開ける。
紙と革の匂いがした。
窓から入る光の中に、本棚が並んでいた。
大きな本、小さな本。革の背表紙に金色の字があるものも、擦り切れて題の読めないものもある。
棚は部屋の奥まで続いていた。
兄がいたら、きっと喜ぶ。
アレクはそう思った。
入口の机に、緑の本が置いてあった。
隣には、薄い帳面と鉛筆まで揃えられている。
表紙の題を、指で辿った。
「魔力の、流れと、呼吸……」
本を開くと、最初の頁に挟まれた紙が落ちた。
拾い上げる。
そこには、少し角張った字で名前が書いてあった。
アレク・ロス。
アレクサンドルではなかった。
アレクは紙をもう一度本へ挟み、帳面と鉛筆を載せた。
両腕で抱えると、胸へずしりと重さが伝わってきた。
まだ、本に書いてある魔法は使えない。
でも、今度は覚えていい。
アレクは、祖父のいる部屋へ戻るため、ゆっくりと歩き出した。




