過去編1 ロス家への帰郷 挿絵有り
――グレゴリオ歴四百三十五年、春。
窓の外を、雪の残る山々が流れていった。
山裾の森を抜けると、黒い土を掘り返した畑が広がる。畦道を歩く人影が見え、遠くでは、小さな農機が白い鳥の群れを追い立てていた。
アレクは窓枠へ両手を掛け、身を乗り出した。
「お母さま、見て! 駅!」
線路の先に、明るい色の建物が見えた。
新しい木の壁に、赤い屋根。駅名を記した看板には、大きく『ロス』とある。
「ええ。座っていなさい。もうすぐ着くから」
母の言葉を聞き終える前に、アレクは座席を離れた。
長く座っていたのに、脚が少しも重くない。胸の奥につかえていたものまで、いつの間にか消えている。
首都では、庭をひと回りしただけで息が切れた。
今日は、どこまででも走れそうだった。
汽笛が響いた。
蒸気機関車が白い煙を吐き、客車と貨車を連ねてホームへ滑り込む。
「着いたー!」
「サンドラさん、まだ――」
列車が止まりきる前に、アレクは出入口から飛び出した。
思っていたより、地面が速く流れた。
着地するはずの場所が足の下を通り過ぎ、体が横へ傾く。
「わっ!」
兄に教わった言葉が、とっさに口をついた。
「緩め!」
足元に、小さな光の輪が灯った。
輪から伸びた線がもうひとつの陣を描き、靴底の下で淡く輝く。
体を引っ張っていた勢いが、ふっと弱まった。
アレクは両足でホームへ下り立った。
「……出来た」
自分の足を見た。
それから、客車を振り返った。
「お母さま! 見た? 今の!」
「見ました」
返事が、少し冷たかった。
母は車掌へ頭を下げてから、停車した列車を下りてきた。
歩くたびに旅装の裾が揺れる。微笑んでいるのに、アレクは一歩後ずさった。
「列車が動いている間に飛び下りてはいけません」
「でも、ちゃんと――」
「着地出来たから、いいのではありません」
母はアレクの前へ屈み、両肩に手を置いた。
「あなたは治癒魔法が効きにくいのよ。また怪我をして、寝台から出られなくなったらどうするの?」
アレクは靴の先へ目を落とした。
ようやく外に出られたのだ。寝台へ戻るのは、嫌だった。
「……ごめんなさい」
「それから。今の、お兄ちゃんが組んだ陣でしょう。いつ教わったの?」
「兄上がおうちに帰ってきた時。練習は、まだ駄目だって言われたけど」
「それは覚えていたのね」
母の手が、肩から頬へ移った。
怪我がないことを確かめるように顔を覗き込まれ、アレクはそっと口を尖らせた。
「だって、体が軽いんだ。こんなの初めてだよ。首都じゃ、あの陣も光るだけだったのに」
手を開き、握る。
指先まで、力が行き渡っている感じがした。
「ロス地方はマナが濃いって、兄上が言ってた。本当だったんだね」
「ええ。あなたには、ここの空気が合っているのね」
母は立ち上がり、アレクの銀髪に指を通した。
肩に触れる長さで切り揃えた髪が、春の日差しを受けて光る。
「ロス家には、たまにあなたのような子が生まれるの。体の中のマナが濃すぎて、外のマナが薄い場所では、うまく調子を整えられない子が」
「じゃあ、ここにいたら治る?」
「それを確かめるために来たのよ。まずは、ゆっくり暮らしましょうね」
アレクは頷いた。
ゆっくり、というところだけは、少し聞き流した。
*
「ロス家って、駅にも名前が付いてるんだね」
改札へ向かいながら、アレクは看板を見上げた。
「昔、この辺りを治めていたからよ」
「でも、貴族はもういないんでしょ? うちだって、普通のお役人の家じゃないか」
「お父さまは、普通のお役人ではありません」
母の背筋が伸びた。
「魔法局で立派なお仕事をなさって、王室から庭付きのお家をいただいたのよ。大変、名誉なことなんです」
「お庭、あんまり使わせてもらえなかったけど」
「あなたが植木の陰で魔法を練習するからでしょう」
返す言葉がなかった。
「それに、さっき『俺』と言いかけたでしょう。お父さまの前では、きちんと『僕』と言えるのに」
「ぼ……俺だって、もう八歳なんだよ」
アレクは胸を張った。
細い体では、あまり迫力が出なかった。
「兄上みたいな、格好よくて強い男になるんだ。それから、サンドラじゃなくてアレクって呼んで」
「どうして?」
「兄上もお父さまも、アレクって呼ぶじゃないか。サンドラって、小さい子みたいだよ」
母は、少しだけ困ったように笑った。
「小さい頃から、そう呼んでいるんだもの。急には変えられないわ」
「もう八歳なんだけど」
「ええ。アレクサンドル・ロス。立派なお名前に負けないように、大きくならないとね」
母の手が、そっと頭へ載った。
「でも、お母さまにとっては、もう少しサンドラさんでいてほしいわ」
「名前まで大きくなるのを待つの?!」
母は楽しそうに笑った。
*
駅前には、一台の自動車が止まっていた。
黒く磨かれた車体に、真鍮色の灯具。大きな車輪の奥では、細い管が何本も機関へつながっている。
アレクは母の手を引いた。
「魔導自動車だ! 煙突がない!」
「本当ね」
「首都じゃ、蒸気のしか見たことない。誰が乗るんだろう」
車の傍らに立っていた男が、こちらを向いた。
背筋の伸びた初老の男だった。執事服には皺ひとつなく、白い手袋をした両手が、きちんと揃えられている。
「お帰りなさいませ、ブランカお嬢様」
深く頭を下げた男に、母の顔がほころんだ。
「ただいま、セバス。変わらないわね」
「お嬢様も、お変わりなく」
「もう息子が二人もいるのよ。いつまでもお嬢様はやめてちょうだい」
「私にとっては、いつまでもお嬢様でございます」
母はため息をついた。
けれど、どこか嬉しそうだった。
「お母さま、先週、四十二歳になったもんね。兄上の二十四歳のお祝いと一緒に――」
「サンドラさん」
アレクは口を閉じた。
セバスは目元だけで笑い、今度はアレクへ向き直った。
「初めてお目にかかります、アレクサンドル様。お会い出来る日を、楽しみにしておりました」
「あ……よろしく、お願いします」
頭を下げようとすると、母に背中を軽く支えられた。
どのくらい下げればよいのか、分からなかった。
「さあ、お車へ。館の者も、皆様のお帰りをお待ちしております」
「この車、俺たちが乗っていいの?」
「もちろんでございます」
後部の扉が開いた。
アレクは母を見た。
母は、どうぞ、とでもいうように微笑んでいた。
*
駅を離れると、舗装はすぐに途切れた。
車輪が轍へ落ちるたび、座席が弾む。
「あはは、揺れる!」
アレクは座席の縁を掴み、窓の外を見た。
歩いていたらすぐに疲れてしまう道を、車は畑も小川も置き去りにして進んでいく。
「よく、こんなものを用意出来たわね」
母が、前の座席へ声をかけた。
「魔導式は、整備するだけでも専門の方が必要でしょう?」
「大旦那様が、お嬢様とアレクサンドル様の移動に必要だとお考えになりまして」
助手席のセバスが振り返った。
「運転と整備は、こちらのヨハンが務めます」
「……それだけをしに来たわけじゃない」
ハンドルを握る男が、初めて口を開いた。
日に焼けた首筋に、短く刈った髪。上着の袖口には、油の染みが残っている。
「魔法局魔導具室のヨハン・ローガンだ。マナの濃い地域で、機関の稼働を調べるために派遣された」
セバスの眉が、わずかに動いた。
「こちらの滞在中は、お嬢様方の移動もお任せすることになっております」
「それは聞いてる」
ヨハンは、道の窪みを避けた。
車がゆるく傾き、アレクは母の腕へぶつかった。
「ルドルフからも頼まれた。奥さんと息子をよろしくってな」
「お父さまのお友達なの?」
「大学で一緒だった」
母が、ヨハンの横顔を見た。
「ああ。あなたがヨハンさん。主人から聞いています。機械の話を始めると、夕飯を忘れてしまう方だって」
「あいつだって、魔法の話なら朝まで帰らなかったぞ」
母が笑った。
ヨハンの口元も、少しだけ緩んだ。
「局では、ずいぶんご苦労があったそうですね」
セバスが言った。
ヨハンの口元が戻った。
「……上司と意見が合わなかっただけだ」
「ルドルフ様のお口添えで、今回の赴任が決まったと伺っております」
「世話になったことは、分かってる」
車内が静かになった。
車輪の下で、小石が跳ねる音がした。
「ヨハンさん」
アレクが呼ぶと、ヨハンは前を向いたまま、短く返事をした。
「この車、どうやって動いてるの?」
「座席の下に魔晶石がある。そこから機関へマナを送ってるんだ」
「耕運機みたいに、手を置いてなくてもいいんだね」
「走ってる間ずっと手を置いてたら、曲がるのも大変だろう」
アレクは、ハンドルを握る手を見た。
「あ、そっか」
「後で止めたら、機関を見せてやる。勝手に触るなよ」
「うん!」
弾んだ返事に、ヨハンは鏡越しに目を向けた。
「よろしくな、アレク」
アレクは、にっと笑った。
この人は、ちゃんとアレクと呼んでくれた。
*
「煙が出とらんな」
畑の農夫が、道を走る車へ目を向けた。
手元の魔導耕運機から、片手を離す。
「あれが魔導自動車か。どこのお貴族様だべ」
「よそ見するな! 畦まで掘る気か!」
隣の畑から、老人が怒鳴った。
農夫は慌てて両手を戻し、耕運機の向きを変えた。
「あれはロス家のお嬢様じゃ。二番目のお子の静養で、首都から戻ってくると聞いとる」
「お嬢様ねえ。もう貴族がなくなって、三十年近く経つべ」
「家がなくなったわけじゃない」
老人は腰を伸ばした。
「身分解放の時、お前の親父が畑を買えたのは、どこの金のおかげじゃ」
「そりゃ、ロス家だ」
「結界の手入れは? お前、その耕運機を、よその土地でも同じように使えると思っとるか」
農夫は、手元へ目を落とした。
古びた機体は、今日も土を掘り返していた。
「……ありがたいとは思っとるよ」
「なら、それでええ」
老人は帽子を脱いだ。
近づいてくる車へ、深く頭を下げる。
車窓から、その姿が見えた。
アレクは振り返った。
老人は、車が通り過ぎるまで頭を上げなかった。
「お母さま。今の人、知り合い?」
「お顔は覚えていないけれど、この土地の方でしょうね」
「どうして、俺たちにお辞儀したの?」
母は、窓の向こうへ小さく会釈した。
「お祖父さまに、お世話になったのかもしれないわ」
アレクも頭を下げようとしたが、老人はもう見えなくなっていた。
落ち着かなくなり、膝の上で手を組んだ。
首都では、お父さまの息子だった。
ここでは、まだ会ったこともない人が、自分をロス家の子として知っている。
窓の外へ戻した目に、鉄の門が映った。
「……あれ?」
門の奥には、広い庭があった。
刈り込まれた木々の間を道が続き、その先に、蔦の絡んだ煉瓦の館が立っている。
首都の家より、窓の数がずっと多かった。
「あれ、全部がおうち?」
「ええ。ご先祖のマクシミリアン様も暮らした、古い館よ」
車が門をくぐった。
砂利を踏む音へ変わり、アレクは座席から少し腰を浮かせた。
「俺たち、どの部屋に住むの?」
「あなたのお部屋は二階。日当たりのよいところを、お祖父さまが選んでくださったそうよ」
「庭に出てもいい?」
「明日、案内してもらいましょうね」
「今日じゃ駄目?」
母はアレクを見た。
アレクは、そっと座り直した。
それでも目は、窓から離れなかった。
庭の奥には大きな木があり、その向こうには森がある。
行ってみたいところが、次々に増えていく。
車が止まった。
館の扉が開き、人々が出てくる。
アレクは扉の取っ手へ手を伸ばしかけ、止めた。
母を振り返る。
「もう、下りてもいい?」
母は笑い、頷いた。
「ええ。今度は、足元に気をつけてね」
アレクは、魔法を使わず車を下りた。
靴の下で、砂利が鳴った。




