第21話 任せたはずの背中 挿絵有り
「襲撃だ!」
笛が、もう一度鳴った。
ケスラーの手が肩を引いた。
アレクは二歩、壁から離れた。
林の端で、草が倒れていく。
一筋ではなかった。
木々の間から、灰色の背中が次々に現れた。長い前脚が地面へ刺さり、低く伏せた頭がこちらを向く。
銃声がした。
先頭の一匹が肩から崩れた。
後ろの体は止まらず、その上を越えてきた。
アレクは右手を見た。
さっきまで、壁へ触れていた。
「……俺が、触ったからか」
『アレク』
胸元で、マーカスが呼んだ。
黒い壁を振り返る。
波紋は、まだ遠くへ広がっていた。
「アレク!」
ケスラーが、前へ出た。
「右、頼む!」
槌が下がる。
太い柄を握った両手が、腰の横へ引かれた。
その右側へ、一匹が回った。
アレクは手を上げた。
「退け!」
指先の円が隣へ同じ陣を生んだ。
巡った光が広がり、灰色の体を横から捉える。
前脚が滑った。
ケスラーが踏み込んだ。
槌の後ろで、火が光った。
轟音。
鉄の頭が、魔物の肩へめり込んだ。
倒れた体が土を削り、そのまま動かなくなった。
ケスラーは追わなかった。
槌を引き寄せ、次へ向き直る。
アレクも、男の右側へ立った。
*
「観測を中止します。箱は置いて、車へ!」
ヴァルターの声がした。
「記録と携行品だけ持ってください。走らず、前の人に続いて!」
紙を抱えた研究員が立ち上がる。
三脚が倒れ、筒が草へ落ちた。
拾おうとした男の肩を、兵が押した。
「そのまま! こちらです!」
クラウスが杖を立てた。
「風よ、我が声に従え。迫るものを退け、その歩みを阻め――」
杖先が弧を描く。
左手の指が、その内側へ細かな光を刻んだ。
陣が揃った。
魔術士の前で、草が一斉に伏せた。
地面すれすれを走った風が、群れの前脚へぶつかる。
三匹が、折り重なった。
兵たちが銃を向けた。
続けて二発。
「伍長、後退できますか!」
「できます! 先に人を!」
ケスラーが答えた。
アレクは、後ろを確かめた。
壁から車までの道を、人が下がっている。
その脇の草が揺れた。
「左、二匹!」
「頼む!」
ケスラーの返事を聞いてから、アレクは走った。
*
飛び出した一匹の前へ、防御を置いた。
「阻め」
灰色の頭が、陣へぶつかった。
後ろに続いた体が横へ逃げる。
アレクはそちらへ指を向けた。
「沈め」
前脚の下で、土が落ちた。
頭が下がる。
右の掌を、開く。
「爆ぜろ」
小さな陣が、顔の前で弾けた。
熱い風がローブを揺らす。
アレクは倒れた体を避け、防御へぶつかった一匹へ向き直った。
もう、こちらを見ていなかった。
横から、槌が来た。
骨の砕ける音がして、灰色の体が地面を転がった。
「戻ってこい! ここは空けとく!」
ケスラーが言った。
アレクは頷いた。
男の脇を抜け、元の位置へ戻る。
その背後から、別の一匹が跳んだ。
「後ろ!」
掌を返す。
開いた陣が、空中の体を斜めに押した。
ケスラーの肩を越えるはずだった爪が、届かない。
着地したところへ、振り戻された槌の柄が突き込まれた。
体が折れる。
男は柄を引き、下がった。
「助かった」
「こっちも!」
アレクは笑った。
笑ってから、自分で少し驚いた。
*
前へ来たものを、ケスラーが受ける。
止まった脚を、アレクが払う。
倒れかけた体へ、槌が落ちる。
噴射が要らない時には、火も使わなかった。
鉄の重さと男の踏み込みだけで、灰色の背中が潰れた。
その間に、アレクは周囲を見られた。
研究員を追う一匹。
兵が装填している、その横。
道を外れて回り込む二匹。
陣を置く。
逸らす。
足を止める。
「クラウスさん、そっちへ二匹!」
魔術士が杖を傾けた。
保たれていた陣の中で、光が動く。
風の塊が二つ、続けて飛んだ。
アレクは、横へ逃げかけた魔物の前脚を押した。
肩が射線へ戻る。
衝撃が当たった。
灰色の体が転がる。
「そのまま、下がってください!」
クラウスの声が返ってきた。
アレクは、もう次を見ていた。
全部を、自分で倒さなくていい。
止めれば、槌が来る。
通す場所を空ければ、風が飛ぶ。
人の背中へ、防御を張り続ける必要もなかった。
銃を持った兵は、撃った者と装填する者を入れ替えながら、少しずつ下がっていた。
村を出た時とは、違った。
「やりやすいな、あんた!」
ケスラーの右へ戻りながら言った。
男は槌を構えたまま、口元を緩めた。
「こっちもだ!」
*
車の方で、エンジンが鳴った。
ヨハンが運転席から身を乗り出す。
「こっちは乗ったぞ!」
レイラは、後ろの車の扉を押さえていた。
研究員が一人、兵の手を借りて乗り込む。
「あと、そっちの人たち!」
こちらへ腕を振った。
ヴァルターが人数を確かめる声がした。
「一台目を先に。残る車を、道の入口へ回してください!」
車輪が動き始めた。
アレクは、ケスラーの背を右手で軽く叩いた。
「下がれる」
「よし。次を受けたら下がるぞ」
「ああ」
灰色の体が、二つ並んで近づいていた。
アレクは左の足元へ陣を置いた。
右の一匹が跳ぶ。
ケスラーの槌が、斜めに上がった。
鉄が顎を打つ。
体が仰向けに返る。
アレクは、もう一匹を横へ押した。
着地した前脚が絡まり、倒れた体の下へ潜る。
「今!」
二人で下がった。
ケスラーの歩幅は大きかった。
それでも急がず、アレクが横へ並ぶのを待っていた。
十歩ほど先で、クラウスが立ち止まっている。
杖を向け、二人が戻る道の脇へ風を放った。
林の枝が揺れる。
その下にいた灰色の体が、道から押し出された。
車まで、あと少しだった。
*
アレクは息を整えた。
魔力には、まだ余裕があった。
陣も、思った場所へ揃っていた。
ケスラーの槌から、薄く煙が上がっている。
男の息は深くなっていたが、足は崩れていない。
「火薬、まだある?」
「まだある。だが、船へ戻る分は残しときたいな」
「じゃあ、近いのだけ頼む。遠いのは、俺が」
「分かった。任せるぞ」
その時、道の右手にある低い石垣の向こうで、草が動いた。
灰色の背中が見えた。
一匹だけ、こちらへ来ていない。
道に沿って、車の方へ進んでいた。
あれを先へ出したら、乗り込むところへ回られる。
アレクは距離を見た。
遠くない。
陣を届かせるより、数歩、寄った方が早い。
正面には、ケスラーがいる。
今なら、潰せる。
*
アレクは右へ踏み出した。
石垣の切れ目へ、灰色の頭が出る。
指先へ陣をともした。
隣へ生まれた円が巡り、掌の前へ広がる。
「退け!」
魔物の体が、石垣から剥がれた。
こちらへ横腹を見せる。
無防備だった。
アレクは、さらに一歩入った。
右手を引く。
拳の前へ、次の陣が揃った。
その向こうで、ケスラーが何か叫んだ。
声を掛けていなかった。
そう気づいた時には、拳を出していた。
「爆ぜろ!」
灰色の体が、炎の向こうへ消えた。
*
石垣の向こうに、もう一つ、頭があった。
低かった。
長い前脚の間へ、腹を伏せている。
こちらを見上げていた。
アレクは、右手を開いた。
防御を。
『足元じゃ!』
マーカスの声がした。
灰色の体は、跳ばなかった。
肩の辺りが膨らんだ。
皮膚の裂け目から、黒いものが突き出す。
アレクは陣を下げた。
尖った脚だと、思った。
違った。
黒い棘が、体から離れた。
*
掌の前で、陣が開いた。
薄すぎた。
正面から受けるつもりのない、斜めの防御だった。
飛んできたものの先が触れ、光の縁が歪む。
逸らせない。
魔力を足そうとした。
横から、革の胴着が視界へ入った。
肩へ、強い衝撃が来た。
アレクの体が、石垣から離れた。
空いたところへ、ケスラーが入った。
*
鈍い音がした。
男の体が、折れた。
槌の頭が地面へ落ちる。
柄を握った手が、引きずられた。
アレクは、片手を土へついた。
ケスラーの脇腹から、黒いものが出ていた。
革の胴着を、突き破っていた。
男が一歩、こちらへ来た。
二歩目で、膝が落ちた。
「……ケスラー?」
呼ぶと、顔が上がった。
口が、動いた。
何も、聞こえなかった。
*
アレクは立ち上がった。
石垣の向こうで、魔物の肩が動く。
「爆ぜろ!」
陣が開いた。
今度は、拳を届かせなかった。
灰色の頭の前へ小さな円が生まれ、その内側が白く光った。
石垣の上へ、熱い風が噴いた。
体が見えなくなる前に、アレクはケスラーへ駆け寄った。
肩を支える。
重かった。
さっきまで、自分より大きな歩幅で歩いていた。
槌を振り、笑っていた。
その体が、腕の中へ落ちてきた。
「おい。待てって」
膝をついた。
男の背を支え、ゆっくり下ろす。
手が、濡れた。
*
「伍長!」
兵が走ってきた。
アレクは顔を上げた。
「布。何か、押さえるもん――」
「あります!」
兵が鞄を開く。
アレクは、傷へ目を戻した。
棘は、脇腹へ斜めに刺さっていた。
革の縫い目から、血が出ている。
掌を近づけた。
指先へ、小さな陣がともる。
「治れ」
光が傷へ沈んだ。
切り傷なら、治したことがある。
魔力も、残っている。
陣の内側へ、もう一つ。
流す魔力を増やした。
ケスラーの体が、びくりと震えた。
『抜くでないぞ。まず、血の流れを見い』
マーカスが言った。
アレクは頷いた。
けれど、男の顔から目が離れなかった。
息を吸おうとしている。
胸が少し持ち上がり、途中で止まる。
「……治れ」
次の陣を開いた。
傷の縁へ光が集まった。
その下から、また血が溢れた。
どうしてだ。
陣は揃っている。
魔力も届いている。
「治れ」
もう一度。
掌を押しつけるように近づけた。
指の間へ、温かいものが流れ込んだ。
『アレク。先に、中を確かめい』
「分かってる」
答えながら、次を描いた。
黒い棘の奥が、見えない。
どこまで傷ついている。
どこへ魔力を通せばいい。
ケスラーの唇が動いた。
アレクは顔を寄せた。
「何だ? 痛えのか?」
返事はなかった。
「待ってろ。今、治すから」
陣を重ねた。
光が、男の脇腹を白く照らした。
「治れ」
血は、止まらなかった。
「治れよ」
掌が震えた。
円の縁がぶれ、アレクは力を込めて押さえた。
まだ出せる。
こんなに残っている。
「治れ、治れ……治れえ!」
『アレク!』
鋭い声が、頭の中へ響いた。
『同じところへ流すな! 陣を一つ解け!』
指が止まった。
光の中で、ケスラーの顔が歪んでいた。
アレクは慌てて掌を引いた。
重ねた陣が、一枚ずつ消える。
「……ごめん」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
*
「アレク、後ろ!」
レイラの声がした。
振り向く。
灰色の体が走ってきていた。
「阻め!」
右手から、陣が広がった。
大きすぎた。
ケスラーを支える兵の腕へ縁が掛かり、アレクは慌てて位置をずらした。
魔物がぶつかる。
掌が押された。
傷の上へ残した治癒の陣が、薄くなった。
『そちらはワシが見る。お主は、前から来るものを止めい』
アレクは傷へ顔を戻した。
兵が、布を差し出していた。
受け取る。
棘を動かさないよう、傷の脇へ押し当てた。
白かった布が、赤くなった。
「……まだ、出てる」
『聞こえとる。今、見とる』
「爺さん」
布を押さえた。
指に、力が入らなかった。
「頼むよ」
*
「担架を! 車から持ってきてください!」
ヴァルターの声がした。
クラウスの呪文が聞こえる。
銃声がした。
ケスラーの右手が、土の上を動いた。
槌を探していた。
「もう、いい」
アレクは、その手を掴んだ。
「俺がやる。あんたは、寝てろ」
太い指が、こちらの手を握った。
弱かった。
あの時、空き地で差し出した手を、軽く握り返してきた。
自分の脚で立ち上がった。
今は、肩を支えても、起きなかった。
「……声、掛けるって」
喉が詰まった。
「言ったのに」
ケスラーの目が、こちらへ動いた。
唇が、わずかに開いた。
アレクは顔を寄せた。
言葉は、聞こえなかった。
握り返していた指から、力が抜けた。




