第20話 隣に立つ男 挿絵有り
港へ着くと、ヨハンの荷物が増えていた。
昨日は木箱が一つだった。
今朝は、その上へ革の鞄が載っている。
「……親父。それも持っていくの?」
レイラが言った。
「船の整備士に頼まれた」
「何を」
「向こうで使う工具を、少し見せてくれとな」
ヨハンは鞄を持ち上げた。
中で、重い金属がぶつかった。
レイラはしばらく父を見てから、自分の荷物を持ち直した。
「ちゃんと、自分で運んでよ」
「そのための取っ手だ」
アレクは笑った。
肩へ掛けた袋を直すと、後ろから声がした。
「帰りも、それだけ笑っとれよ」
モルデカイだった。
傍らに、マリアがいる。
「見送りに来てくれたのか」
「支店の荷を確かめに来た。お前らだけのために、朝から港まで歩くか」
「パパ、先にこっちって言ったよ」
モルデカイは咳払いをした。
「……出る前に、話しておくこともあるからな」
太い指が、アレクの肩の袋を示した。
「控えは持ったか」
「ああ。雇われた日と、帰る予定と、遅れる時の知らせ方。読んだよ」
「ならいい。現地で話が変わったら、分かったつもりで頷くな。聞き直せ」
「分かってる」
言ってから、アレクは少し笑った。
「分かんなかったら、そう言う」
モルデカイは頷いた。
マリアが、小さな包みを差し出した。
「これ、途中で食べて」
「菓子?」
「うん。先生の分もあるよ」
胸ポケットから、白い鼻先が出た。
『気の利く子じゃ』
「爺さんが褒めてる」
マリアは嬉しそうに笑い、それから飛空艇を見上げた。
「帰ったら、お船のお話、聞かせてね」
「ああ。飯がうまかったかも、確かめてくる」
「そこなの?」
「大事だろ」
マリアが笑った。
その頭へ、モルデカイの手が優しく載った。
「こっちも、今日は一緒に飯を食う約束だ。留守のことまで気にせんでいい」
「……まだ、何も言ってねえよ」
「顔に出とる」
アレクは言い返しかけ、やめた。
包みを袋へしまい、二人へ手を上げた。
*
タラップの下に、ケスラー伍長がいた。
上着の上から革の胴着を着けている。
足元には、見覚えのある木箱が置かれていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日も、それ持っていくんだ」
アレクが箱を見ると、伍長は蓋へ手を置いた。
「ええ。これを置いていっては、昨日、何を確かめていただいたのか分かりませんので」
「火薬は?」
「別にしてあります。船へ持ち込む分は、整備担当にも確認していただきました」
その整備担当に含まれているつもりなのか、ヨハンが隣へ来た。
「噴出孔の内側、思ったより傷んどらんな」
「昨夜、お見せした時からは使っておりませんので」
「点火の位置を変えれば、もう少し――」
「親父、荷物」
レイラに呼ばれ、ヨハンが振り向いた。
アレクは、伍長を見た。
「……開けさせられたのか」
「私が閉じるところまで、見届けました」
「そりゃ、よかった」
伍長の口元が緩んだ。
「お二人のお気持ちが、少し分かりました」
アレクは声を出して笑った。
*
船室の椅子には、幅の広い革帯が付いていた。
アレクは腰を下ろし、金具を見比べた。
「それ、捻れてる」
隣からレイラの手が伸びた。
帯を裏返し、金具へ通す。
「こう。お腹のところで締めるんだって」
「知ってたのか」
「今、説明してたでしょう」
「……外、見てた」
窓の向こうで、兵たちが綱を扱っていた。
岸壁の端には、モルデカイとマリアがいる。
アレクが手を振ると、小さな手が振り返された。
床が、細かく震え始めた。
船腹の向こうで羽根が回る。
低い音が重なり、椅子の背へ伝わってきた。
「上がるぞ」
誰かが言った。
アレクは窓へ顔を寄せた。
岸壁が、下がった。
そう見えた。
倉庫の屋根が窓の下へ入り、帆柱の先が横を通り過ぎる。
足元にあるはずの石畳が、どんどん遠くなった。
「……うわ」
レイラが、小さく声を漏らした。
アレクは返事をしなかった。
できなかった。
港が、見えた。
船と倉庫の間を歩いていた時には分からなかった道が、屋根の間を繋いでいる。岸壁の曲がり方も、湾へ突き出した防波堤も、全部、一度に見えた。
モルデカイは、もう見分けられなかった。
それでも、さっきまで立っていた場所へ手を振った。
*
「初めてですか」
向かいから、ケスラーが言った。
「ああ。あんたは?」
「三度目です」
「じゃあ、慣れてるな」
「最初は、そこを握っておりました」
太い指が、椅子の肘掛けを示した。
アレクは、自分の右手を見た。
しっかり掴んでいた。
「……揺れた時、危ねえだろ」
「ええ。私も、そう申し上げました」
レイラが顔を背けた。
肩が揺れている。
アレクは肘掛けから手を離し、膝へ置いた。
「落ちたら、俺が浮かせるよ」
「船ごとですか」
「できなくは、ねえと思う」
ケスラーの目が、少し大きくなった。
胸ポケットで、白いひげが動いた。
『できることと、やってよいことは別じゃぞ』
「……爺さんに怒られるから、落ちねえ方がいいけど」
「船長にも、そのように伝えておきます」
今度は、アレクも笑った。
*
水平に進み始めると、帯を外してよいと言われた。
ヨハンは、すぐに席を立った。
船員へ何か尋ね、その後をついていく。
レイラは父を見送ってから、窓へ向き直った。
「あとで私も行こう」
「止めに?」
「見に」
「だろうな」
アレクが立ち上がると、ケスラーも帯を外した。
「歩けますか」
「そんな、足腰弱くねえって」
「いえ。私が初めて乗った時は、立った途端に揺れましたので」
アレクは一歩、通路へ出た。
床は動かなかった。
二歩目で、ゆっくり傾いた。
「……言っといてくれて、助かった」
「どういたしまして」
ケスラーが先に歩いた。
アレクは、その広い背中についていった。
*
観測用の窓は、客席より低い位置まで開いていた。
下には、畑が続いている。
畝の間を、小さな人影が歩いていた。
道を行く荷車もある。家の煙突からは、細く煙が上がっていた。
アレクは、その煙を見た。
港で聞いた話だけなら、内陸にはもう、暮らせる場所が残っていないような気がしていた。
けれど、朝になれば畑へ出る人がいる。
火を起こし、飯を作る家がある。
「見え方が、違いますな」
ケスラーが言った。
「ああ。道からだと、向こうの家なんて見えねえもんな」
「地上では、あの林の陰が気になります。こちらからなら、裏まで見える」
男の指が、畑と道の間を辿った。
アレクも、そこを見た。
「……あそこで来られたら、槌、振れる?」
「道の真ん中なら。木の間へ入ると、少々厄介です」
「柄、長いもんな」
「短く持てますが、加速させるなら空間が要ります。味方が横へ入る時も、先に知らせていただきたい」
アレクは頷いた。
「じゃあ、俺が動く時は声掛ける。昨日みたいに、急に懐へ入んねえよ」
「そうしていただければ、ありがたい」
「振り切った後は? すぐ戻せる?」
ケスラーは、自分の手を見た。
柄を握るように指を曲げる。
「外したと思えば、戻すより先に踏み込みます。相手に近づかれたまま、槌の頭だけ引こうとすると、間に合いませんので」
昨日、鼻先を通った肩を思い出した。
「……あれか」
「ええ。あれです」
「肩まで来るとは思わなかった」
「槌は重いですが、体も、それなりに重いもので」
ケスラーが自分の胸を叩いた。
アレクは笑い、それから窓の下を見た。
「なら、前は任せてもいいのか」
言ってから、男へ目を戻した。
「魔物が来た時。俺、横へ回ったり、後ろへ抜けたやつを止めたりする方が、やりやすいんだ」
ケスラーは頷いた。
「そのための護衛です。こちらへ来たものは、まず私が受けます」
「……そっか」
「ただ、右から回り込まれると、追うのが遅れます。振り下ろした後なら、なおさら」
「そっちは見てる」
返事は、すぐに出た。
ケスラーが、こちらを見た。
アレクは窓の下へ指を向けた。
「ああいうとこから来たら、足、払う。止まったやつなら、当てやすいだろ」
「それは、助かりますな」
男が笑った。
「止めるなら、どのくらいです」
「ん?」
「脚です。完全に止まるのか、少し躓く程度なのかで、こちらも振り方を変えますので」
「足場によるな。昨日みたいに踵を沈めるなら、一瞬。横から払うなら、もう少し崩せる」
「では、倒れるまで待たずに入った方がよさそうですな」
「ああ。そこへ俺も撃ったら、邪魔だろ?」
「槌の届かんところを頼みます。近いものは、こちらで」
ケスラーが右手を上げた。
指を軽く握り、アレクの肩の手前へ置く。
「例えば、ここへ来たものを私が受けたとして」
「俺は、こっちか」
アレクは半歩、横へ出た。
ケスラーの左手が、その先へ伸びる。
「そちらは、柄を戻すところです」
「……あ。昨日、腹に来たやつ」
「ええ」
「なら、一歩深く」
腕の下を抜け、男の斜め後ろへ回る。
ケスラーは振り向かず、顎を引いた。
「そこなら、構いません」
前が見えた。
ケスラーの肩越しに、窓と、その向こうの林がある。
自分の正面へ来るものは、先にこの男の間合いへ入る。
アレクは右手を、外側へ伸ばした。
「ここから横を止める。あんたは、そのまま前を見てていい」
「承知しました」
ケスラーが腕を下ろす。
アレクは元の場所へ戻りかけ、足を止めた。
「今度は、俺が前から戻ってくる時」
「右からですか、左からですか」
「右。追ってきたやつを、あんたの前へ連れてくる」
「でしたら、声を掛けてから――」
「二人とも」
レイラの声がした。
顔を上げると、通路の向こうに立っていた。
「さっきから、通れないんだけど」
アレクは足元を見た。
自分とケスラーで、通路を塞いでいた。
「……悪い」
二人で壁際へ寄る。
間を通りながら、レイラがケスラーの空いた手を見た。
「槌まで持ち出さないでね」
「そこまでは、いたしません」
「そこまでは?」
アレクが男を見た。
ケスラーも、こちらを見た。
どちらからともなく、笑った。
*
「お二人とも、こちらへ」
ヴァルターに呼ばれ、卓へ戻った。
地図の横で、クラウスが記録を取っていた。
窓の外を確かめ、紙へ細い線を足している。
「着陸予定地まで、間もなくです。周辺を一度回り、地上からも確認してから、調査を始めます」
ヴァルターの指が、地図の空白に止まった。
「境界へ近づくのは、観測の準備ができてからです。単独では動かないよう、お願いいたします」
アレクは頷いた。
卓の向こうに、黒いものが見えた。
窓枠の端から、ゆっくり入ってくる。
初めは、雲の影かと思った。
けれど、地面の色も、林の形も、その中にはなかった。
黒い壁だった。
*
近づいても、見えるものは増えなかった。
なだらかに曲がった表面が、地面から空へ続いている。
日の当たる側も、山の影へ入ったところも、同じ黒さだった。
その手前に、線路があった。
草へ埋もれながら、二本の鉄が進んでいる。
途中で曲がり、黒へ入るところで見えなくなった。
アレクは窓へ手をついた。
「……あれ、ロス駅へ行く線路?」
ヴァルターが地図を見た。
「そのはずです。古い記録では、駅は境界の内側にあります」
「乗ったんだ。母さんと」
窓に、自分の指が映っていた。
あの時、母は向かいに座っていた。
まだ着かないのかと、何度も尋ねた。
終着駅が近づくと、座っていられなくなった。
線路の先を見た。
何も、見えなかった。
「……アレク殿」
ケスラーの声がした。
振り向くと、男は通路を空けていた。
「下からも、見られます。今のうちに、荷物を確かめておきましょう」
アレクは窓から手を離した。
「ああ」
*
飛空艇は、境界から離れた草地へ下りた。
綱が張られ、兵たちが先に降りる。
周囲を確かめる声が戻ってきてから、荷下ろしが始まった。
ヨハンとレイラは、地上で使う車を確かめていた。
研究員たちが運ぶ箱には、筒や三脚が収められている。
アレクは地面を踏んだ。
足元が動かない。
それだけのことが、少しおかしかった。
「どうです」
後ろから下りてきたケスラーが言った。
「地面って、いいな」
「ええ。私も、毎度そう思います」
男は槌を受け取り、肩へ担いだ。
アレクは、その頭を見上げた。
「……重くねえの?」
「重いです」
「浮かせようか」
「いざ振ろうとして、重さが戻る方が困ります」
「そりゃそうか」
ケスラーは、もう片方の手で自分の鞄を示した。
「お願いするなら、こちらを」
アレクは受け取った。
見た目より、ずっと軽かった。
*
車を降りてから、最後は歩いた。
足元の草が、短くなっていた。
風が変わる。
湿った土の匂いの奥で、低い音がしていた。
聞こえるというより、胸の底へ触れるようだった。
以前、レイラと来た時にも、ここで足が止まった。
近づくほど、見たくないものを見せられる気がした。
今日は、後ろに車がある。
左右には、銃を持った兵がいる。
ケスラーが並んで歩いていた。
アレクは、黒い壁を見上げた。
これほど近くても、表面の凹凸が分からない。
草の葉が触れているところだけ、黒と緑の境目が見えた。
*
観測の準備には、時間が掛かった。
三脚が立ち、目盛りを刻んだ棒が地面へ据えられる。
兵は壁へ背を向け、林と道を見張っていた。
アレクは、クラウスが手袋を着けるところを見ていた。
魔術士の指が、ゆっくり黒へ近づく。
触れた。
押す。
それ以上は、進まなかった。
「変化はありません」
記録する男へ告げ、手を離す。
「いつも、こうなのか」
アレクが尋ねると、クラウスが頷いた。
「少なくとも、この場所では。押しても、物を当てても、向こうへ通りません」
「魔術は?」
「本日は、まだ試しておりません」
ヴァルターが記録から顔を上げた。
「大きな魔力を使う試験は、周囲への影響を確かめてからです」
「……うん。それがいいと思う」
アレクは、胸ポケットへ指を触れた。
『爺さん』
『見とる』
『何か、分かるか』
返事まで、少し間があった。
『ここから見ただけでは、何とも言えん』
白い鼻先が、ポケットの縁から出た。
ひげは、動かなかった。
*
アレクは、壁の前へ立った。
この向こうに、家がある。
玄関の階段。
長い廊下。
書庫の扉。
母がいた。
祖父がいた。
最後に見た兄も、ここにいるのだろうか。
「俺も、触っていいですか」
ヴァルターへ顔を向けた。
「手で触れるだけなら。ただし、何か感じても、魔力を流そうとはしないでください」
「分かりました」
右手を上げた。
横で、ケスラーが槌を持ち直した。
壁ではなく、アレクの顔を見ている。
「何かあれば、すぐ離れましょう」
「ああ」
掌を、黒へ近づけた。
冷たいのか、熱いのか。
触れる寸前まで、分からなかった。
指先が触れた。
硬かった。
そのはずだった。
*
掌の下で、黒が沈んだ。
「……え?」
小さな輪が、指の間から広がった。
水へ触れた時のように。
一つ。
その外へ、もう一つ。
黒い壁を、波紋が走った。
「手を離してください」
ヴァルターの声がした。
アレクは右手を引いた。
輪は、止まらなかった。
頭の上へ。
足元へ。
左右へ。
広がった黒が、どこまで揺れているのか、見渡せなかった。
『下がれ、アレク』
マーカスの声がした。
ケスラーの手が、肩へ掛かった。
低い音が、途切れた。
その一瞬、何か聞こえた気がした。
アレクは顔を上げた。
背後で、笛が鳴った。
「襲撃だ!」




