第23話 超越したモノ 挿絵有り
「待たせたのう」
自分の口から、声が出た。
アレクは右手を見ていた。
握り締めていた指が、一本ずつ開いていく。爪の食い込んだ掌へ、風が触れた。
息が、ゆっくり吐き出された。
胸の奥には、まだ魔力があった。
先ほどまで何度も縺れた流れが、今は細く揃い、腕へ、足へと分かれていく。
右手が上がった。
車の横へ飛び出してきた魔物が、こちらへ跳んだところだった。
指が鳴る。
「爆ぜろ」
短い音がした。
灰色の頭が横へ折れ、体が地面へ落ちた。土へ転がるより先に、小さな陣がその下へ入り、道の外へ押し流した。
その時には、もう足が地面を離れていた。
*
跳んだのではなかった。
膝は伸びたままだった。
靴底を支えていた土の感触が消え、草が遠ざかっていく。
飛翔の陣。
浮かせるだけなら、アレクにもできる。
だが、自分の体を運びながら、姿勢を保ち、向きを変え、止まる。その間に別の術まで使うとなれば、話は違った。
足をつく場所がない。
傾いた体を戻すにも、踏ん張る代わりの力を、その都度作らなければならない。
それを、マーカスは何でもないことのようにやっていた。
「アレク!」
レイラの声がした。
顔が、そちらを向いた。
車の扉を押さえたまま、こちらを見上げている。その奥に、ケスラーの靴が見えた。
『爺さん、ケスラーを』
『分かっとる』
左手の指が動いた。
ローブの内側から、銀の球が浮き上がる。
表面へ細かな光が走り、その周囲に幾つもの小さな陣が生まれた。
ポケットには、白いネズミの重みが残っていた。
「傷を押さえたままにしておけ。棘は動かすな」
小さな光が、車へ流れていった。
レイラが車内を振り返る。
アレクには、その奥へ伸びていく魔力が分かった。浮き上がる体を支えているものとは、別の流れだった。
車の上へ、薄い防御が張られた。
さらに別の陣が、兵たちの横へ開く。
その間も、体は静かに上がっていた。
「……血が、止まった!」
レイラの声が届いた。
アレクは、もう一度そちらを見たかった。
けれど、顔は上がっていった。
*
車が、小さくなっていく。
石垣の向こうも、林の切れ目も、一度に見えた。
灰色の背中が動いていた。
道へ出ていたものだけではなかった。
窪地が、群れで埋まっている。
石垣に沿って走る列は、その端へ届く前に二手へ分かれていた。片方は兵たちの背後へ、もう片方は車の退路へ回り込もうとしている。
百では、利かない。
二百か。
三百か。
見渡す間にも、木々の間から次々に出てきた。倒れた仲間を踏み越え、先を行くものの背へ乗り上げながら、こちらへ向かってくる。
その手前に、車があった。
銃を構えた兵たちが、ひどく少なく見えた。
一人が撃つ。その間に、別の兵が弾を込める。
一匹が倒れても、群れの先頭は近づいていた。
あの車の中に、ケスラーがいる。
「数が多いのう」
自分の口が言った。
声は、静かなままだった。
「一気にいこうかの」
*
右の指先へ、陣がともった。
銅貨ほどの、小さな円だった。
隣に、同じ陣が生まれる。
二つが、四つに。
四つが、八つになった。
大きくはならなかった。
同じ大きさの円が、その外へ、その隣へと増えていく。
十六。
三十二。
六十四。
さらに、その倍。
その先は、アレクにも数えきれなかった。
肩の横へ。
頭の上へ。
視界の端へも、光が広がった。
一枚一枚が、違う方を向いていた。
石垣を越えたものへ。
車へ走るものへ。
林の陰から腹を低くして出てきたものへ。
それぞれの中心に、小さな光の粒がともった。
「貫け」
白い線が、一斉に地上へ走った。
しゅ、と音が重なった。
灰色の皮へ光が触れたところから、白い蒸気が細く噴いた。
跳び上がったものは空中で力を失い、走っていたものは、その勢いのまま土を滑った。
石垣の向こうで、幾つもの背中が崩れた。
窪地を埋めていた群れが、一度に沈んだ。
車のすぐ前にいた一匹も、兵へ爪を掛ける寸前で倒れた。
銃を構えていた男が、引き金から指を離した。
その横で、弾を込めかけた兵の手が止まっている。
アレクは、息を呑もうとした。
胸は、ゆっくり動いていた。
*
道から、動くものが消えていた。
陣の一つが傾いた。
その向こうには、魔物の体を縫って走る兵がいた。
倒れた仲間へ肩を貸し、車の方へ連れていく。
光は、その頭上を越えていた。
『……すげえな、爺さん』
『まだ来るぞ』
林の縁が揺れた。
次の群れだった。
先頭が、倒れた魔物の背へ前脚を掛けた。
空中に残っていた陣が、向きを変えた。
白い線が一本、走る。
魔物が崩れた。
その横へ出たものにも、もう別の光が向いていた。
兵が銃を上げ直した。
狙いを定める前に、相手が倒れた。
クラウスの杖が動く。
保っていた陣へ魔力が集まるのが見えた。
その術が放たれる前に、林から出た三匹が地面へ伏せた。
魔術士は杖を止め、後ろを振り返った。
「負傷者を先に! 乗れる者から、乗ってください!」
ヴァルターの声がした。
兵たちが動いた。
その背後へ回ろうとしていた一匹が、草の上へ倒れた。
*
クラウスも、一度作った陣を保ち、そこから続けて術を放っていた。
今、目の前で起きていることも、それと同じはずだった。
だが、幾つある。
一つの陣を目で追う間に、隣の陣は次の標的へ向いていた。
右へ流れた光を見れば、左でも魔物が倒れている。
体が、横へ滑った。
木々に隠れていた空き地が見えた。
そこを走る三匹へ、三つの円が傾く。
終わった。
地面へ足をつけて、狙い直すところさえなかった。
アレクは、自分の中を流れる魔力へ意識を向けた。
足元には飛翔の陣。
車の上には防御。
ケスラーの傷へも、細い流れが続いている。
それらを保ったまま、目の前の陣が一枚ずつ標的を変えていた。
魔力は、まだある。
同じ体だった。
同じ魔力を使っていた。
先ほどまで、自分は何をしていたのだろう。
車の方で、レイラがこちらを見上げた。
その姿を見て、アレクは思い出した。
帰れる。
これなら、ケスラーを連れて帰れる。
*
林の奥で、また枝が揺れた。
三度目だった。
今度は、先頭が真っすぐ走ってこなかった。
倒れた仲間の手前で散り、低い草の間へ伏せていく。その後ろから、一つだけ、立った姿が出てきた。
人に見えた。
細い腕が、膝の近くまで垂れている。
歩くたび、黒い靄が肩からほどけ、首へ、頬へと這い上がった。
兄の体に絡みついていた黒を、思い出した。
周囲の魔物は、その足を避けていた。
小さな陣が、そちらへ向いた。
光が走る。
細い肩へ穴が開いた。
人影が、少しだけ傾いた。
倒れなかった。
穴の縁から黒いものが伸び、向こうの見えていた隙間を塞いでいく。
銀球が、肩の前へ回った。
周囲で、白い線が幾筋も走った。
草へ伏せていた魔物が、一匹ずつ動かなくなった。
細い人影だけが、そこに残った。
アレクの体が、静かに下りていった。
*
黒い靄の向こうで、顔が上がった。
「……誰ダ、お前」
その目が、こちらの顔を見た。
首へ。
胸へ。
腕へと、視線が動く。
右手の指先で止まった。
「そウか。我ラと同じく、超越したか。……いい体を手に入れたナ」
アレクには、何を言われているのか分からなかった。
魔族は、口元を歪めた。
「俺にモ貸せ」
右手の指が、一度止まった。
誰に言っている。
自分の体だった。
こちらの顔を見ているのに、その言葉は、アレクへ向けられていなかった。
銀球が、目の前をゆっくり横切った。
『……爺さん?』
返事はなかった。
掌へ、爪が食い込んだ。
自分が、握ったのではなかった。
*
「……ドうした。独り占めする気か」
魔族の首が傾いた。
その肩から、黒い靄が細く伸びた。
指先へ集まり、地面すれすれを走る。
車へ向かっていた。
アレクは、手を伸ばそうとした。
その前に、黒い筋が折れた。
車を囲む防御へ触れるよりも手前で、何かに切られ、草の上へほどけていく。
魔族が、そちらを見た。
「まダ、それを運ぶのか」
開いた扉の奥へ、顔が向いた。
右手が、ゆっくり開いた。
「触るな」
低い声がした。
*
魔族の足元で、土が割れた。
細い体が、上へ逃れた。
黒い靄を引きながら、空中へ浮き上がる。
アレクの体も動いた。
地面が遠ざかった。
さっきまで下から見上げていた顔が、今は目の下にあった。
魔族が腕を振った。
黒が、幾筋にも分かれて伸びた。
銀球が肩の後ろへ回る。
触れる寸前で黒い筋が裂け、左右へ吹き流された。
ローブの裾が、わずかに揺れた。
右手の指が鳴った。
魔族の頭が消えた。
短い音だった。
首の上で黒がほどけ、肩が割れた。
片腕が崩れ、胴も、人の形を失っていく。
けれど、地面へは落ちなかった。
黒い靄が、三つに分かれた。
一つは林へ。
一つは、黒い壁へ。
残る一つが、道の方へ流れた。
銀球が、肩の横を離れた。
*
靄の行く先へ、光がともった。
小さな陣だった。
触れる前に、黒が折り返す。
その先にも円があった。
逃れようとした細い筋が、空中で引き延ばされた。
林へ入ったものが、枝の間から剥がれる。
壁へ向かっていたものも、途中で止まった。
右手が、何かを手繰るように動いた。
三方へ散った黒が、掌の前へ集まってきた。
その向こうで、二匹の魔物が林へ走っていた。
こちらへは来ていなかった。
宙に残っていた陣が、二つ傾いた。
二匹が倒れた。
右手は、黒い靄を捕らえたままだった。
*
人の頭ほどに集められた黒が、激しく波打っていた。
伸びる。
陣へ触れる。
押し戻される。
どこへも行けない。
右の指が、少し曲がった。
黒い塊が縮んだ。
声のようなものがした。
耳の奥へ、細い針を差し込まれるようだった。
銀球が動いた。
音が途切れる。
黒の内側へ、光が入った。
細い線が幾つにも分かれ、その一本一本へ、さらに小さな陣がともった。
何をしているのか、アレクには分からなかった。
黒が薄くなる。
向こうの地面が、透けて見えた。
それでも、指は止まらなかった。
『爺さん』
返事はなかった。
銃声は、もう止んでいた。
車の扉が開いている。
レイラが、こちらを見上げていた。
『もう、戻れるだろ』
掌の前が、一度だけ強く光った。
黒い塊が消えた。
*
陣だけが残った。
何もない空中を囲んでいた。
その内側へ、さらに光が走る。
アレクは、右手を下ろそうとした。
動かなかった。
ここへ戻ってから、二度目だった。
マーカスに体を使ってもらうのは。
頼んだのは、自分だ。
助けてくれと、言った。
ケスラーの血が止まったのも、兵たちが車へ戻れたのも、マーカスのおかげだった。
分かっている。
けれど、今、何をしているのか分からない。
呼んでも、返事がない。
『爺さん。もういい』
指が、わずかに動いた。
『……体、返してくれ』
止まった。
風に揺れるローブの裾だけが、動いていた。
『……アレク?』
聞き慣れた声だった。
その声が、ようやくこちらへ向いた。
*
右手が下りた。
陣が、一枚ずつ消えていく。
銀球が、肩の横へ戻った。
体が、車へ向かった。
低く、地面のすぐ上を滑っていく。
走る兵の横を越え、開いた扉の前で止まった。
靴底へ、土の感触が戻った。
右手が、扉の縁へ掛かった。
『治癒の陣は、残しておく』
マーカスが言った。
『そこへ魔力を絶やすでないぞ』
『……ああ』
『返すぞ』
胸へ、息が引っかかった。
膝が揺れた。
アレクは扉を掴み直した。
指が、縁へ食い込んだ。
今度は、自分で握った。
肩の横から銀球が下りてくる。
左腕で受け、胸へ寄せた。
「アレク」
レイラが腕を支えた。
「座って。そこ、空けてもらうから」
車内の兵が膝を引き、場所を作ってくれた。
もう一人が外から背へ手を添える。
アレクは、その手を借りて車へ上がった。
*
ケスラーは、倒した座席へ寝かされていた。
革の胴着が開かれ、傷の周りへ布が当てられている。
赤く染まっていたが、それ以上は広がっていなかった。
布の上に、小さな陣が浮いていた。
アレクは、そこへ魔力を繋いだ。
男の胸が、浅く動いている。
唇には、ほとんど色がなかった。
「ケスラー」
呼んだ。
瞼は、動かなかった。
毛布から出ていた手へ触れた。
太い指が、アレクの掌へ重く載った。
さっきは、この手で槌を握っていた。
こちらの前へ立ち、任せろと笑っていた。
『爺さん』
ポケットの中で、布が動いた。
『……何じゃ』
『助かるか』
少し、間があった。
『まだ、血が足りん』
白い鼻先は、出てこなかった。
『傷の奥にも裂けたところが残っとる。棘は、そのまま支えておけ。ここで抜けば、また血が出る』
『治せねえのか』
『まずは船へ戻れ。揺れる車の中で、奥まで触るでない』
アレクは、傷へ目を落とした。
陣の下で、魔力が細く巡っていた。
深く押し込もうとすると、行き先を失いそうになる。
『右へ寄っとる。少し、戻せ』
言われたとおりにした。
流れが、繋がった。
*
「出せますか」
ヴァルターが扉の外から尋ねた。
レイラが、アレクを見た。
「……血は、止まってます。でも、まだ」
続きが出てこなかった。
ヴァルターはケスラーの顔を確かめた。
「船へ戻します。術の維持を、お願いできますか」
アレクは頷いた。
「分かりました」
男は外へ向き直り、運転席へ声を掛けた。
車の後ろでも、兵たちの声がした。
レイラが棘の周囲へ布を足した。
抜こうとはしなかった。揺れないように、両側から支えている。
扉が閉まった。
車体が、一度震えた。
ゆっくりと、車輪が回り始める。
ケスラーの指が、掌の中で揺れた。
握り返されたのかと思った。
違った。
アレクは、その手を握り直した。
*
窓の外を、灰色の体が流れていった。
道へ。
石垣の下へ。
林の縁へも、幾つも倒れていた。
さっきまで、あれだけいた。
全部、止めてくれた。
アレクは、膝へ置いた銀球を見た。
もう光っていなかった。
窓から差す光が、銀の表面を滑った。
その一角だけ、薄く曇っていた。
前に磨いた時には、消えたはずだった。
『爺さん』
『魔力を緩めるでないぞ』
『……分かってる』
ポケットの奥から、いつもの声がした。
何度も叱られた声だった。
分からないことがあれば、すぐに聞けた。
あの魔族が、何を言っていたのかも。
どうして、返事をしてくれなかったのかも。
口を開きかけて、ケスラーへ目を戻した。
傷を囲む光が、一度揺れた。
『そこじゃ。その流れを保て』
アレクは、指先へ意識を集め直した。
陣が、静まった。
ケスラーの胸が動いた。
その次を待ちながら、アレクはマーカスの言葉に従った。
聞きたいことは、聞けないままだった。




