第18話 俺にできること 挿絵有り
「先に食え」
モルデカイは、アレクの前へ皿を寄せた。
白い豆の煮込みに、焼いた肉が二切れ載っている。脇には、厚く切ったパンがあった。
「相談は、腹に入れてからでも逃げん」
「分かってる。食いながらでも、聞けるだろ」
「私は、まだ食っとらんのだ」
言われて、口を閉じた。
隣でマリアが、父の皿へパンを一つ置いた。
「パパ、さっきもお仕事してた」
「そうだったな。少し待ってもらおう」
モルデカイが匙を取る。
アレクも、煮込みへ目を落とした。
役所を出てから、ずっと腹が減っていた。なのに、食べ物を前にすると、さっきの卓が頭へ浮かんだ。
地図。帳面。こちらへ向けられた顔。
自分には決められないと口にした時、ハルトマンはどう思ったのだろう。
「冷めるわよ」
向かいから、レイラが言った。
アレクは頷き、豆をすくった。
*
皿が空くと、モルデカイは杯へ茶を注いだ。
「それで。調査について行きたいと言ったな」
「ああ」
「何を頼まれた」
「魔物を見つけた時の判断と、魔術の方。あと、俺たちが通った道の案内も」
「どこまで行く」
「……詳しくは、まだ」
「いつ出て、いつ戻る」
「それも」
モルデカイは茶を飲んだ。
叱られるかと思ったが、男は杯を置いただけだった。
「では、その話を聞いてこい。返事は、それからでよかろう」
「行くなとは、言わねえの?」
「聞きもしとらん仕事を、私が断るのか」
アレクは、指で杯の縁をなぞった。
「今、あんたに雇われてるからさ」
「ああ。こちらの仕事との折り合いはつけねばならん。お前が出る間の護衛も、考える必要がある」
「だったら――」
「それを相談しろと言っとる。働き先を変えるにも、掛け持ちするにも、黙って出ていかれては困るからな」
アレクは顔を上げた。
モルデカイは、机に置いていた手帳を開いた。
「調査の条件が分かったら、私にも見せろ。危険な仕事だ。頼まれたことと、引き受けたことが食い違わんよう、紙にしてもらえ」
「……分かった」
*
「それと、もう一つだ」
モルデカイが続けた。
「調査へ行くなら、お前自身が何を引き受けるか、はっきりさせておけ」
「だから、役割を聞くんだろ?」
「私や、評議会の代わりに話すことまで、引き受けるなということだ」
アレクは杯から手を離した。
「そんなこと、頼まれてねえよ」
「お前は頼まれたつもりがなくても、向こうから見れば分からん。私と一緒に帰り、今は私の商会に雇われとる。今日は、ロス家の者として評議会の席に座っていた」
「……座らされたんだけど」
「そこまでは、向こうに見えん」
モルデカイは、手帳を閉じた。
「私がお前を連れて帰り、あの席へ座らせたと思われても、不思議ではないな」
「何のために?」
「お前を迎えた者たちと、私の商会が一緒になって、ブリスベンへ何か要求するつもりだとな」
アレクは、男の顔を見た。
「……船じゃ、下働きさせられたんだけど」
「向こうは、そんなことまで知らん」
ヴァルターの声を思い出した。
以前から、商会長と相談していたのか。
ただ帰ってきた経緯を聞かれたのだと思っていた。船で会ったと答えた後も、同じようなことを聞かれた理由が、少し分かった。
「じゃあ、あんたと知り合いなの、言わねえ方がよかったのか」
「事実だろうが。隠して、後から知られる方が面倒だ」
モルデカイは、口元を拭った布を畳んだ。
「商会の話は私がする。町の取り決めは評議会がする。お前は、お前の仕事について話せ。調査で何か聞かれても、返事を預かっていないことは、そのままそう言えばいい」
「あんたにも、挨拶したいって言ってたな」
「先ほど、使いが来た。時間を合わせて会う」
アレクは、卓の上の手帳を見た。
「俺のこと、何か聞かれるかな」
「聞かれるだろうな。船で会って、娘を助けてもらい、仕事を頼んだ。まずは、その通りに話す」
あの男も、これを聞けば分かってくれるだろうか。
尋ねかけたが、モルデカイはもう、調査の話を書いた頁を開いていた。
「ただし、その前に医者だ。お前は、まだ腕を治しとらん」
隣でレイラが頷いた。
「私も、そう思う」
「分かってるって。すぐ出るとは言ってねえよ」
「すぐ出られると思っていた顔だったがな」
否定しかけて、やめた。
*
マリアが、空いた皿を重ねていた。
小さな手から受け取ると、少女はアレクを見上げた。
「また、黒い壁のところ?」
「たぶんな。でも、今度は大勢で行く。何を調べるかも、先に聞いてくる」
「帰る日も?」
「ああ。それも聞く」
マリアは、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、決まったら教えてね」
「分かった」
少女は父の方へ戻っていった。
アレクは皿を運び、食堂の隅にある卓へ置いた。
戻る途中で、レイラが立ち上がる。
「診療所まで、一緒に行くわ」
「一人で歩けるぞ」
「私も用事があるの。昨日借りた包帯のお礼、まだ言っていないから」
レイラは椅子の背から上着を取り、扉へ向かった。
*
医師は包帯を外し、傷の縁を確かめた。
冷たい指が二の腕へ触れる。
「腫れは引いていますね。指を握ってみてください」
握る。
「肘を曲げて」
曲げると、傷口が引かれた。
顔へ出たらしい。医師が手を止めた。
「治癒の術で表面が塞がっても、すぐ元通りにはなりません。昨日より楽だからと、同じ使い方をされては困りますよ」
「調査に、同行する話があって」
「いつからです」
「まだ、決まってねえけど」
「では、先方へお伝えください。少なくとも明日は、力仕事も訓練も控えること。出発前に、もう一度診せていただきます」
新しい包帯が巻かれた。
「歩くのは構いません。ただし、走って逃げねばならない場所へ行くなら、歩けるだけでは足りませんからね」
アレクは、膝の上へ視線を落とした。
橋の手前で、立てなかった時のことを思い出す。
「……はい」
診療所を出ると、レイラが隣へ並んだ。
「ちゃんと聞けた?」
「聞けたよ。明日も休めって」
「そう。じゃあ、明日は車の荷台を持ち上げてもらえないわね」
「俺を何だと思ってんだよ」
「便利な人」
笑いながら言われ、アレクも少し笑った。
*
港へ近づくと、飛空艇は屋根越しに見えた。
役所の窓から見た時より、ずっと大きい。
長い船体の下に船室が下がり、その左右へ骨組みが張り出している。推進器は止まっていた。足元には何本もの綱が渡され、人がその間を行き来していた。
囲いの外へ、見物人が集まっている。
その中に、見覚えのある背中があった。
「親父!」
レイラが呼んだ。
ヨハンは振り向いたが、すぐ船へ顔を戻した。
「おう。今、ちょうど機関を止めたところだ」
「ずっと、ここにいたの?」
「途中で飯は食った」
答えになっているのか、分からなかった。
アレクが隣へ立つと、ヨハンは船腹の張り出しを指した。
「あそこに軸があるだろう。左右の推進器を回す。機関から蒸気管を通して、使った蒸気を冷やして戻しとるらしい」
「魔導機関じゃねえのか」
「違う」
即答だった。
「浮く方も?」
「あの船体の中に、空気より軽い気体を詰めとる。浮くのに魔術は使わん」
アレクは、長い船体を見上げた。
あれだけ大きければ、それだけで相当な重さになるはずだった。下には船室もあり、人も、荷も載せている。
「……それで山を越えてきたのか」
「越えてきたんだな」
ヨハンの声は、少し低くなった。
けれど、その目は船から離れなかった。
「機関も、骨組みも、軽くせねばならん。軽くして、壊れんようにする。どこをどう削ったんだか、一度ばらしてみたいもんだ」
「それは頼まないでね」
レイラが言った。
「見るだけだ」
「見るだけで済む時の顔じゃないわ」
ヨハンは返事をしなかった。
*
囲いの向こうから、制服姿の男が近づいてきた。
「アレクサンドル殿でいらっしゃいますか」
呼ばれ、アレクは背を伸ばした。
「……はい」
「ベルク様より、お越しになられたらご案内するよう承っております」
男の目が、レイラとヨハンへ移った。
「お連れの方は」
「この人は、車を動かしてくれてる整備士で――」
「ヨハン・ローガンだ。娘のレイラも、整備と運転をやる」
ヨハンが先に言った。
制服の男は一度、船へ目を向けた。
「確認してまいります。少々お待ちください」
その背中を見送り、アレクは息を吐いた。
「爺さん」
小声で呼ぶ。
胸ポケットの縁へ、白い鼻先が出た。
「この船、魔力は?」
『浮かせるほどの流れはない。人が乗っとる分は、あるじゃろうがな』
アレクはもう一度、船体を見た。
自分なら、どれだけ魔力を流せば浮かせられるだろう。
そこまで考えて、やめた。
この船は、浮かせ続ける魔術士を乗せていない。それでも山を越え、ここまで来たのだ。
*
案内されたのは、船室の一つだった。
窓の下に、細長い卓が固定されている。椅子も脚を金具で留めてあった。
ヴァルターは、広げていた紙から顔を上げた。
「お待ちしておりました。お身体の方は」
「明日は休むように言われました。出発する前に、もう一度診てもらいます」
「承知しました。こちらも、明日すぐの出発は考えておりません」
男は椅子を勧めた。
アレクが座ると、左腕へ一度、目が向けられる。
「本日は、同行についてのお返事を?」
「その前に、詳しく聞きたいです。どこへ行って、何をするのか」
ヴァルターの指が、紙の端から離れた。
「もちろんです」
向かいへ座り、地図をこちらへ回す。
「エーガー商会長には、お話を?」
「はい。行程と役割を聞いて、条件を持ち帰って相談することにしました」
「商会の方からも、何かご希望がございますか」
アレクは、すぐに首を振りかけた。
分からない。聞いていない。
モルデカイの手帳を思い出し、卓へ置いた右手を開く。
「商会としての話は、預かっていません。今日は、俺が調査で何をするかを、聞きに来ました」
ヴァルターは、一度こちらを見た。
「承知しました。商会長とは、別にお話ししましょう」
ペンの先が、地図の端へ置かれる。
アレクの隣では、レイラが膝の上へ手帳を置いた。ヨハンは卓の金具を見ていたが、娘に肘をつつかれ、地図へ顔を向けた。
*
「最初に、上空から地形と街道の状況を確認します」
ヴァルターの指が、山沿いを辿った。
「その後、地上班を降ろします。以前の記録と比較できる場所で観測し、魔物の分布も調べたい」
「黒い壁へ、入るんですか」
「入りません」
返事は、はっきりしていた。
「今回の目的は、内部への侵入ではありません。接近できる経路と、地上での危険を確かめることです」
「上から見るだけじゃ、足りない?」
「樹木の下や、斜面の陰までは見えません。それに、上空から記録できるものばかりでもありませんので」
窓の外で、金属を叩く音がした。
ヴァルターは続けた。
「あなたには、地上班へ加わっていただきたい。魔物が出た場合の対処と、魔術に関わる異常の確認をお願いするつもりです」
「何か分かったら、誰に言えばいいですか」
「地上班の責任者へ。私も同行します」
「下がった方がいいと思った時も?」
「理由と併せて、お伝えください」
アレクは、地図へ置いた指を止めた。
「言ってる間に、間に合わなくなりそうなら」
ヴァルターは、こちらを見た。
「その場合は、警告と必要な対処を。ただし、危険を察したからと、一人で追跡に出られては困ります」
「追わねえよ。……追いません。守る人がいる時は」
「では、その点も、役割として明記しましょう」
卓の脇から紙を取り、男はペンを走らせた。
*
初回の行程は、二泊三日を予定しているという。
ただし、天候や観測地点の状況によっては、早めに戻る。延長が必要になった場合も、いったん船へ戻り、補給と参加者の都合を確かめることになった。
アレクは、聞いたことを手元へ書いた。
途中で、隣からレイラが口を開く。
「地上班は、車を使うんですか」
「積載できる車を一台、用意しております」
「故障した時の整備員は?」
「船の機関員から、一名を付けます」
「車も見られる方ですか」
ヴァルターは、すぐには答えなかった。
「機種によって違う、と?」
「はい。部品と工具が合わないと、直せるものも直せませんから。道の様子によっては、車高も確かめたいです」
ヨハンが頷いた。
「予備の鎖と、軸受けもな。持っていく車を先に見せてくれ」
アレクは、二人を見た。
話が、急に細かくなった。
ヴァルターは別の紙へ何かを書き、扉の外にいた男を呼んだ。
「車両担当に、後ほど確認の時間を取るよう伝えてください」
それから、レイラへ向き直る。
「同行を希望されますか」
「必要なら。私、運転もできます」
アレクは思わず、隣を向いた。
レイラは、こちらを見なかった。
「整備の方で、お役に立てると思います」
ヴァルターは頷いた。
「担当者とお話しください。その上で、条件をご相談しましょう」
*
報酬の話になると、アレクは書く手を遅くした。
示された日当は、港で荷を運ぶ仕事より、ずっと高かった。
「食事と、泊まるところは別に?」
「こちらで用意します。調査中に必要となった消耗品についても、事前に申告いただければ」
「薬は」
「救護の者が同行します。ただし、現在のお怪我については、出発できるか医師に判断いただきたい」
アレクは頷いた。
紙へ目を落とす。
高い。
けれど、昨日のモルデカイの声を思い出し、すぐには何も言わなかった。
何を頼まれ、その金で何を引き受けるのか。
もう一度、上から読んだ。
「俺一人で、地上班の全部を守れって仕事じゃ、ないですよね」
「護衛は、別におります」
ヴァルターは答えた。
「あなたの魔術を頼みに、兵を減らす予定もありません」
アレクは息をついた。
「……なら、これを持って帰って、雇い主と相談します」
「ええ。整いましたら、写しをお渡しします」
男が紙を引き寄せた。
アレクは、膝の上で右手を開いた。
さっきから、ずっと握っていたことに気づいた。
*
船を下りると、海から風が吹いてきた。
レイラは手帳を閉じ、ヨハンを見た。
「明日、車を詳しく見せてもらえるって」
「聞いとった」
「私、行くつもりだから」
ヨハンは、しばらく娘を見た。
「車を見てから決めろ。部品も工具も足らんのに、何とかしますとは言うなよ」
「分かってる」
「分からん物があれば、持ってこい。一緒に見る」
レイラは頷いた。
それで話は終わったらしい。
ヨハンはまた、船腹へ目を向けた。
「明日なら、機関も見せてもらえんかな」
「そっちは自分で頼んで」
*
商会へ戻る途中、アレクは歩く速さを緩めた。
「レイラ」
「何?」
「一緒に来るつもりだったのか」
「あなたは?」
「俺は、誘われたから」
言ってから、首を振った。
「……違うな。行きたいから、話を聞きに来た」
「私もよ」
レイラは手帳を上着の内側へしまった。
「車が使えなくなったら、困るでしょう。昨日だって、あと少しだったし」
橋の手前で止まった車を思い出す。
あの時、レイラは直せると言った。
どこが外れ、何を動かせば戻るのか。アレクには見えない所を、迷わず指した。
「……そうだな。助かった」
「これからは、もう少し早く気づけるようにしたいけど」
レイラは少し眉を寄せた。
自分の仕事の話をしている顔だった。
アレクは、港の役所の屋根を見た。
明日、ハルトマンたちは、調べたものを揃えてくれると言っていた。
自分が調査へ出たら、どうなるのだろう。
また、空いた椅子へ目を向けられるのだろうか。
*
その話をすると、モルデカイは紙を読む手を止めた。
「ハルトマンには、話したか」
「まだ」
「では、先に話せ。待たせたまま、こちらで全部決めるな」
「……あの人たち、俺に残ってほしいんじゃねえかな」
「そうかもしれん」
あっさり認められ、アレクは黙った。
モルデカイは、紙を卓へ置いた。
「だが、あそこに座っておれば、できることが増えるのか」
「それは……勉強しねえと、分かんねえけど」
「勉強はすればいい。話も聞けばいい。ただ、調査へ出たい気持ちまで隠して、あの者たちの望む返事を探すことはない」
アレクは、地図の写しを見た。
「何か頼まれたら、断れなくなりそうで」
「引き受ける前に、考えろ。私も、あの者たちも、お前の返事くらい待てる」
窓の下を、荷車が通った。
アレクは、その音を聞いた。
「……明日、話してくる」
「ああ」
モルデカイは、契約の紙へ指を戻した。
「こちらは、支店の者にも見てもらおう。私はこの辺りの道なら分かるが、飛ぶ船の仕事までは知らん」
「知らねえこと、あるんだな」
「あるとも。だから、人に聞くんだろうが」
*
夕方、アレクは部屋の窓を開けた。
港の向こうに、飛空艇の船体が見えた。夕日を受け、長い外殻の上だけが明るかった。
明日は休む。
役所へ行き、ハルトマンへ話す。医師にも、出発前にもう一度腕を診てもらう。
それから、出発する。
まだ、返事をしていない。
けれど、何を伝えたいかは決まっていた。
『少しは、顔が戻ったのう』
卓の上で、白いネズミがひげを動かした。
「そんなに、ひでえ顔してたか」
『昼に帰ってきた時よりは、ましじゃ』
「そんな顔してたかよ」
返事の代わりに、鼻先がこちらを向いた。
アレクは窓枠へ右手を載せた。
「爺さん。俺、あの会議じゃ、聞くことも分からなかった」
『そうじゃな』
「けど、魔物の話なら、変だと思ったことは言えたんだ」
人を襲う灰色の体。
魔力を練ると、こちらへ向いた群れ。
黒い壁のそばで、もう一度、確かめたいことがあった。
「分かんねえことの方が、まだ多いけどさ」
窓から手を離した。
「俺にも、ここでなら出来る事があると思う」
マーカスは、しばらく黙っていた。
それから、前脚を揃えた。
『ならば、腕を治せ。魔力も戻せ。自分にできる仕事を、できる体で引き受けい』
「……ああ」
『今度は、途中でワシへ丸投げせんようにな』
「分かってるって」
アレクは笑った。
卓へ戻り、渡された紙を開く。
役割の欄を、もう一度読んだ。
魔物への対処。
魔術的な異常の確認。
そこには、商会や評議会に代わって返事をする仕事はなかった。
自分が見て、考え、伝えること。
紙を押さえ、アレクは小さく口にした。
「その仕事、引き受けます」
今度は、途中でつかえなかった。




