第17話 返事をする人
船から、綱が下りてきた。
先に落ちた細い縄を、岸壁の男が拾う。その先には、腕ほどもある太い綱が繋がっていた。
「そっちへ寄せるな! 荷車を出す!」
積まれた木箱の間を、人が走った。
荷車が引かれ、樽が転がされる。空いた場所へ守備隊の男が入り、集まりかけた見物人を道の向こうへ下がらせた。
アレクは役所の玄関で、空を見上げていた。
船腹の羽根車が向きを変える。
低い唸りが石畳を伝い、靴の底へ響いた。
「あれ、ここへ下りんのか」
「ひとまず、船具の荷捌き場を空けさせています。綱を留める場所もございますので」
ハルトマンが答えた。
窓から見た時より、船は大きかった。
腹の下に張り出した船室には、何人もの影がある。こちらを見下ろしている者もいた。
『爺さん。ああいうの、見たことあるか』
『空へ物を浮かせる試みなら、昔からあった。あれほど人を乗せて運ぶものは、ワシも初めてじゃな』
アレクは、船の向こうへ目をやった。
屋根の連なり。その先に、山がある。
道が塞がっていても、あれなら越えられる。
黒い壁に呑まれた街道を、通る必要さえないのだ。
*
船は、地面へ着かなかった。
張り出した金具から綱が渡され、岸の杭に巻き取られていく。
船体が人の背丈より高いところで止まると、腹の下から階段が伸びた。
羽根車の音が、一つずつ小さくなった。
ハルトマンが襟元へ手をやる。
守備隊の男も、上着の前を留め直した。
「若様。こちらへ」
アレクは二人の後を追った。
階段の下で待つ間に、港の男たちが綱を引き終えた。
結び目を確かめる声がする。
船の扉が開いた。
最初に姿を見せたのは、濃紺の上着を着た男だった。
胸元に銀色の徽章があり、片手には革張りの書類入れを持っている。
後ろには、詰襟の男と、木箱を抱えた者たちが続いていた。
磨かれた靴が、タラップを下りてくる。
地面まで、あと三段というところで、ハルトマンが進み出た。
「ヴァルター殿。お久しぶりでございます」
男が足を止めた。
「ハルトマン殿。急な来訪にもかかわらず、ご手配をいただき感謝します」
「まずは、無事のご到着をお喜び申し上げます」
二人は互いに礼をした。
男はタラップに立ったまま、ハルトマンの隣へ目を向けた。
「こちらの方は?」
ハルトマンが半歩下がる。
「アレクサンドル・ロス様でございます」
書類入れを持つ指が、わずかに動いた。
「ロス家の方が、こちらに?」
「アズール様のお孫様に当たられます。このたび、お戻りになられました」
アレクは足を揃えた。
「アレクサンドル・ロスです」
頭を下げる。
顔を上げても、男は同じ場所にいた。
顎をわずかに引き、こちらを見下ろしている。
「ブリスベン王国より参りました、ヴァルター・ベルクと申します」
「こちらこそ、お目にかかれて……」
言いかけて、言葉が絡んだ。
「光栄です」
遅れて続ける。
ヴァルターは微笑んだ。
目元は動かなかった。
視線が左腕の包帯へ落ち、ローブの胸元を辿って、顔へ戻ってくる。
アレクは、襟を直したくなるのを堪えた。
港の男たちが綱を引く声がした。
返事を待たれている気がして、もう一度、何か言おうとする。
「では、ご案内いただけますか」
ヴァルターはハルトマンへ顔を向け、残りの段を下りた。
地面へ着いた靴の先から、アレクは半歩、足を引いた。
*
役所へ戻る道では、ハルトマンが港の様子を説明した。
綱を留めた場所は、午後には荷が入る。
今日は場所を移してもらうが、明日以降も船を置くなら、港の者と相談が要る。
「使用した場所と、人手の分はお支払いします。綱を扱っていただいた方々の人数も、後ほどお知らせください」
「承知いたしました」
アレクは二人の傍らを歩いていた。
通りの先で、見覚えのある男が帽子を取った。
「若様」
足を緩めかける。
男の後ろにいた女も、荷を下ろして頭を下げた。
アレクは小さく頷き、そのまま通り過ぎた。
「お戻りになられて、長いのですか」
ヴァルターに聞かれた。
「いえ。港へ着いたのは、昨日です」
「それは、お忙しいところでしたね」
返事をした男の目が、帽子を胸へ当てたままの町人へ向いていた。
*
会議室には、新しい杯が並んでいた。
さっき畳んだ地図は、脇の卓へ移されている。
代わりに、厚い布で包まれた冊子が運び込まれた。
ハルトマンが奥の椅子を引く。
アレクは、その前で足を止めた。
また、ここなのか。
向かいでは、ヴァルターが立ったまま待っていた。
こちらを見てから、引かれた椅子へ目を移す。
今さら別の席へ行くこともできず、アレクは腰を下ろした。
傷めた腕を膝へ置き、背を伸ばす。
それを待って、周りの者が座った。
「では、今回の来訪について、ご説明いたします」
ヴァルターが書類入れを開いた。
「王国では、旧首都周辺における黒い壁の観測を続けております。こちらからも記録をお送りいただいておりますが、同じ機材と手順で測定し、比較する必要があると判断しました」
隣の詰襟の男が、冊子を開いた。
紙いっぱいに、黒い半円が描かれていた。
その下に細かな数字。
地面へ打ち込まれた杭と、黒い壁の間に線が引かれている。
「……首都の壁ですか」
「はい。南側の観測点から描いたものです」
男が頁をめくる。
別の方向から描かれた、同じ壁。
近くに残る建物が、小さく添えられていた。
アレクは図を見つめた。
この向こうに、家があるはずだった。
父と母と兄と、一緒に暮らした家が。
どの辺りなのかさえ、分からなかった。
「外縁の位置に、明確な変化は認められていません」
詰襟の男が説明を続ける。
「ただし、周辺で確認される生物については、記録を集め直しています。こちらでも被害が増えていると伺っておりますが」
「昨日も、街道沿いの村を引き払っております」
守備隊の男が答えた。
*
地図が戻された。
守備隊の男が、昨日の道を指で辿る。
「こちらで群れを確認し、住民を退避させました。この橋まで追われております」
「橋は残っていますか」
「最後の車が渡るまでは、壊れていませんでした」
アレクが答えると、詰襟の男が顔を上げた。
「現地におられたのですか」
「はい。後ろを守っていました」
「群れは、街道に沿って追ってきた?」
「畑にも回ってきました。道だけ守っていても、人の横へ出てくる。川沿いの草の中にもいました」
男は地図へ顔を寄せた。
「川を渡ったものは」
「浅瀬へ落としたのはいます。その後、自分で渡ったかは見ていません」
「泳げない、とまでは言えないわけですね」
「……ええ」
言われてから、昨日の川岸を思い出す。
落とせば、その分だけ時間が稼げた。
そこからどうなったか、見届ける余裕はなかった。
「数は?」
「正確には。倒しても、向こうから来たので」
男は手帳へ書き込んだ。
分からないと答えても、顔色は変わらなかった。
ヴァルターが口を開いた。
「地元の守備隊を指揮されたのですか」
「いや、俺は――」
いつもの声が出て、アレクは言い直した。
「商会に雇われて、同行していました。村を出ることは、モルデカイさんと村の人たちが決めています」
「エーガー商会の?」
「はい」
ヴァルターは、ペンを置いた。
「商会長も、こちらへお越しなのですね」
「支店に戻られています」
ハルトマンが答えた。
「避難した者たちの受け入れを、手配してくださっておりますので」
「この港では、以前から随分とお力添えをいただいていると伺っています」
「ええ。食料も薬も、内陸へ運んでいただいております。船の手配でも、長く世話になっております」
ヴァルターは頷き、こちらへ顔を戻した。
「エーガー商会長と、ご一緒に戻られたのですね」
「はい。船で知り合って、その後、雇ってもらいました」
「船で」
そこで、言葉が切れた。
「では、こちらへお戻りになることは、以前から商会長とご相談を?」
「いや。帰るつもりだったのは、俺が先です。モルデカイさんとは、船に乗ってから会いました」
ヴァルターの目が、隣のハルトマンへ移った。
ハルトマンは頷いたが、何も付け加えなかった。
「なるほど。商会長には、私からもご挨拶を申し入れましょう」
男は手元へ何かを書いた。
「帝国に本店を置かれる商会ですから、王国側での調達にも、ご協力いただける範囲を伺っておきたい」
アレクは、机の脇にいる商会の者を探しかけた。
今朝、一緒に来た男も、モルデカイも、ここにはいない。
「商会のことは、俺からは……」
「ええ。そちらは、商会長ご本人に」
ヴァルターは微笑み、地図の上の印へ目を落とした。
「では、戦闘に加わられた際の状況として、記録させていただきます」
詰襟の男が頷いた。
アレクは膝の上で手を擦った。
握ってもいないのに、掌が湿っていた。
*
調査の話は、機材と人数の話へ移った。
飛空艇で地形と壁の位置を確認する。
その後、地上にも観測点を設ける。
人と機材を残すために、宿舎と倉庫が要るという。
「調達は、できる限りこちらで。代価はお支払いします」
ヴァルターが紙を差し出した。
必要な水と食料。
木材。燃料。
宿泊する人数。
ハルトマンが紙を手元へ寄せる。
「数量によっては、船で取り寄せることになります。町の備えだけで賄えるとは限りませんので」
「その手配も含め、ご相談したい」
倉庫業の女が、紙を覗いた。
「機材は、宿舎と同じ場所に置く必要がございますか」
「隣接している方が都合はよいですが、別の建物でも構いません」
「借用の期間は」
「当面、三か月。その後は、観測の結果を見て」
「延長については、改めて契約をお願いいたします」
女が書き込んだ。
話を聞きながら、アレクは数字を目で追った。
これだけ人が来れば、仕事は増える。
今朝、働き口が足りないと話していた人たちにも、頼めることがあるかもしれない。
けれど、その人たちを泊める場所も、まだ直っていないのだ。
*
「飛空艇は、その間、こちらに?」
ハルトマンが尋ねた。
「定期的に往復させます。停泊場所は、継続して使えるところをお願いしたい」
「本日の場所を、そのままとは参りません。港の荷が止まりますので」
「空いている土地をお借りし、必要な整備をこちらで行う方法もございます」
ヴァルターは、港外の土地が描かれた図面へ目を向けた。
「工事に必要な人手も、地元で雇うことになるでしょう」
「候補地は、こちらで確かめます」
ハルトマンが図面を畳んだ。
その動きを見てから、ヴァルターは別の紙を取り出した。
「併せて、警備の配置についても」
守備隊の男が顔を上げた。
「調査隊の護衛ですか」
「観測点と宿舎、機材倉庫。それから、飛空艇の停泊場所にも置く必要があります」
「人数と、配置の範囲をお示しください」
「一覧を作成します」
「町中の見回りは、引き続きこちらで行います。住民への取り調べや、荷の検査についても、権限を明確にしておきたい」
ヴァルターの指が、紙の端を揃えた。
「調査隊に関わる事件であれば、我々が対処する場合もございます」
「町の者が関わった場合も、でしょうか」
「関わったという理由だけで、護衛に何もさせないわけにはいきません」
男の声は、変わらなかった。
「必要な協力を、その都度お願いすることになるでしょう」
守備隊の男は、すぐには頷かなかった。
「その都度では、現場で食い違います。先に取り決める必要がございます」
アレクは、地図の上を見た。
港に、兵が残る。
宿にも、倉庫にも。
魔物が来た時に助けてくれる兵と、町の人間を捕まえる兵は、同じ人間なのだ。
*
「自治に関する合意は、こちらも承知しています」
ヴァルターが言った。
「今回は、その合意の下で、調査に必要な協力をお願いしております」
「でしたら、双方で条件を確かめる時間をいただきたく存じます」
ハルトマンが答えた。
「若様とも、十分にご相談の上で」
ヴァルターの目が、アレクへ向いた。
アレクは隣を見た。
ハルトマンは口を開かなかった。
こちらの言葉を待っていた。
「失礼ですが、一点、確認させてください」
ヴァルターが言った。
「アレクサンドル殿は、評議会では、どのようなお立場に?」
喉が詰まった。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
今朝、初めて来た。
昨日の道と魔物の話をして、そのまま残された。
それを、この席でどう言えばいいのか。
「若様には、こちらの現状をお伝えし、ご相談に加わっていただいております」
ハルトマンが答えた。
「ご帰還されたばかりでございますので」
「では、本日の協議に対する正式な回答は、従来どおり評議会よりいただく。それでよろしいですね」
ヴァルターはハルトマンへ尋ねた。
「はい。書面はこちらでお受けいたします」
「承知しました」
ペンが紙を走った。
アレクは、その先を見ていた。
自分が答えられなかったことが、書かれている気がした。
*
「もちろん、ロス家のご事情にも配慮はいたします」
ヴァルターが、再びこちらを向いた。
「ただ、土地の借用や兵の配置については、決定の権限をお持ちの方と、責任の所在を明らかにして進める必要があります。ご了承いただけますね」
アレクは頷きかけた。
止める。
また、分からないまま頷こうとしていた。
膝の上の右手が、左腕へ触れた。
傷が痛み、息を呑む。
『爺さん。俺、何に返事すりゃいい』
『お主に決める権限があるか、聞かれとる』
『……ない』
『なら、あるように振る舞うな』
アレクは顔を上げた。
「土地や、町の兵のことを決める立場ではありません」
声が、思ったより硬くなった。
「俺が帰ってきたからって、それが変わるわけじゃないです」
ハルトマンの手が、帳面の上で止まった。
アレクは、その手を見ないようにした。
「ただ、昨日、見たことなら話せます。魔物のことも、俺に分かる範囲なら」
ヴァルターは、しばらくこちらを見ていた。
「分かりました」
そう答えてから、ハルトマンへ向き直った。
「では、施設と警備の件は、評議会と協議を続けさせていただきます」
話が、アレクの前を通り過ぎていった。
ほっとしたはずなのに、胸の辺りが熱かった。
*
条件を書面にすることが決まると、詰襟の男が地図を寄せた。
「先ほどの群れについて、もう少しよろしいですか」
アレクは顔を上げた。
「ええ」
「村の外へ出る前から、人を追っていたのでしょうか。それとも、退避を始めてから?」
「村の周りにもいました。逃げる途中では……」
畑の中で、魔力を練った時のことを思い出す。
「俺へ向きを変えました。魔力を使うと、寄ってくるんです」
男のペンが止まった。
「音や光ではなく?」
「大きな術を使う前です。魔力を練っただけで、畑にいたのがこっちを向いた」
「何体ほど」
「その時に見えていたのは、三体。もう少し前にも、同じことがありました」
男が、別の頁を開いた。
「首都側では、灯りに寄るという報告と、術者を優先して追うという報告が混在しています。その時の距離と、人の位置を教えていただけますか」
アレクは地図へ手を伸ばした。
「俺が、この辺りにいて。逃げてた人たちは、道のこっち側です」
「家畜は?」
「連れていたのもいました。少なくとも、俺へ向いてきた時は、そっちへは行かなかった」
男は頷き、印を書き足した。
ヴァルターが尋ねた。
「同じことが、もう一度起きると考えてよいのですか」
アレクは顔を向けた。
「必ずとは、言えません」
「では、護衛の配置を変える根拠には、まだ使えませんね」
言い方に、腹が立った。
昨日は、それで人を逃がしたのだ。
口に出しかけ、アレクは唇を閉じた。
あの時に来た三体と、次に出会う三体が、同じように動くとは限らない。
「……だから、確かめるんじゃないんですか」
ヴァルターの目が戻った。
「俺の話だけで、兵を動かせとは言ってません。でも、術を使う人間がいるなら、気をつけた方がいい」
詰襟の男が頷いた。
「観測時の注意事項に加えます。距離を取った上で、反応を確かめる必要がありますね」
アレクは、地図から手を離した。
今度の返事には、頷けた。
*
会議が終わると、ヴァルターは書類を揃えた。
「施設の件は、条件を整理してお届けします。それまでは船内で寝泊まりさせ、補給も町の負担にならない形で手配いたします」
「お願いいたします」
ハルトマンが答えた。
男はアレクへ向き直った。
「アレクサンドル殿。地上での調査に、ご協力いただくことは可能でしょうか」
「俺が、ですか」
「実際に群れと接触し、住民の退避にも同行された。現地の状況を知る方には、加わっていただきたい」
アレクは、詰襟の男を見た。
男も頷いた。
「先ほどのお話を、現地で確かめたいのです。もちろん、危険を伴います。行程と役割は、先にお伝えします」
「護衛として?」
「魔術による対応と、遭遇時の状況判断について、ご相談したいと考えています」
ヴァルターが続けた。
「ただし、調査隊の行動には取り決めがあります。単独で先へ進まれるようでは、同行をお願いできません」
まだ引き受けてもいないのに。
アレクは、頷く代わりに息を吐いた。
「……俺も、勝手なことをされたら困ります。人を囮にして調べるとか」
「そのような計画はありません。必要な懸念は、打ち合わせで伺います」
ヴァルターは笑わなかった。
「同行されるかどうかも、その後で結構です」
アレクは膝の上の手を開いた。
「今は、商会に雇われています。先に、相談させてください」
「分かりました。お返事をお待ちします」
*
使節たちを見送った後、廊下に地元の者だけが残った。
ハルトマンが、抱えていた帳面を持ち直した。
「若様。先ほどは、お答えしづらいことを」
「……いや」
アレクは、階段の方を見た。
「俺も、最初に言えばよかったんだ。何も決まってねえのに、あそこへ座ったから」
ハルトマンは黙っていた。
その向こうで、守備隊の男が紙を畳む。
倉庫業の女は、書類を胸へ抱え直した。
今朝から、いろいろ教えてもらった。
十年間、この町を守ってきた話も聞いた。
頼られるのが嫌だったわけではない。
それでも、さっきの男に聞かれて、自分には何も答える立場がないと分かった。
「調査の話は、考えます」
アレクは言った。
「昨日の続きみたいなもんだし。俺にできることがあるなら」
ハルトマンが顔を上げた。
「まずは、お体を休めてくださいませ」
今度は、アレクも素直に頷いた。
*
役所の階段を下りると、腹が鳴った。
『昼を過ぎたな』
『……知らせるの、忘れてた』
アレクは、港の方を見た。
飛空艇の下には、まだ人が集まっている。
見物人を下がらせる声の向こうから、聞き慣れた声が飛んだ。
「だから、これを回すのは蒸気じゃないのかって聞いてるんだ!」
「動力部については、お答えできません!」
「じゃあ、あの配管は何だ!」
「お下がりください!」
ヨハンだった。
傍らで、レイラが父の袖を引いている。
引きながら、本人も船腹を見上げていた。
アレクは、少しだけ笑った。
あちらへ行って、文句でも聞いていたかった。
けれど、商会へ戻る約束を思い出し、通りを曲がった。
*
支店では、戸口に座った女が袋を繕っていた。
「若様。お帰りなさいませ」
「……ただいま」
言ってから、足が少し鈍った。
商会の建物だ。
自分は、部屋を借りているだけだった。
女は安心したように頷き、針を動かし始めた。
アレクは、その横を通って奥へ向かった。
開いた扉の向こうで、モルデカイが人と話していた。
「飲み水は、先に樽を見せてもらえ。積み込める形か、船の者に確かめさせろ」
商会の男が頷く。
「野菜と肉は、量を確かめてからだ。何日おきに要るかも聞いてこい。一度きりの注文と、続く注文を混ぜるなよ」
男が書類を抱えて出てくる。
すれ違うと、アレクへ頭を下げた。
モルデカイは、扉の向こうからこちらを見た。
「遅かったな。飯は、取り分けてある」
「悪い。知らせるの、忘れてた」
「マリアが何度も外を見に行っとったぞ。次は人を寄越せ」
アレクは頷き、部屋へ入った。
机の上には、新しい注文書があった。
「あの船、もう買い物してんのか」
「水も飯も、空から湧くわけじゃなかろう」
モルデカイは椅子を示した。
「座れ。何を話してきた」
*
アレクは、借りたいと言われたものを順に話した。
倉庫。宿舎。
飛空艇を留める場所。
観測点に置く兵。
町に置く兵。
モルデカイは、最後まで聞いてから尋ねた。
「期間は」
「ひとまず、三か月。その後は、調べた結果でって」
「人数と警備の範囲は?」
「書いてくれることになってる。評議会で、前の取り決めも確かめるって」
「そうか。それで、お前は何の立場で、返事をすることになっとる?」
アレクは顔を上げた。
「……あっちのおっさんにも、同じこと聞かれた」
モルデカイは笑わなかった。
「何と答えた」
「決める立場じゃないって。俺が帰ってきても、町のことを決められるわけじゃないだろ」
「そうだな」
モルデカイは、注文書の端を指で押さえた。
「私のことは、何か聞かれたか」
「船で一緒に帰ってきたのかって。前から相談してたのかとも聞かれた。あんたにも挨拶したいってさ」
「そうか」
男は、それ以上尋ねなかった。
何か変な答えをしたのだろうか。顔を窺ったが、モルデカイは紙を脇へ寄せただけだった。
自分に決定権がないと言ったことは、間違っていなかったらしい。
ようやく肩が下がった。
「でもさ。ハルトマンさんたち、俺と相談してからって言うんだよ。みんな、こっちを見るし」
右手で、膝を擦った。
「何か言わなきゃって思うんだけど。何を言っても、勝手に約束しちまいそうで」
モルデカイはペンを置いた。
「なら、分からんうちは約束するな。聞いて持ち帰ったことまで、恥じる必要はない」
「……分からねえって、向こうにもばれたぞ」
「分かったふりをして、明日から兵を泊めるよりはよかろう」
アレクは、口元へ手をやった。
笑うには、まだ胸が痛かった。
けれど、さっきより息がしやすくなった。
*
「それと、別に頼まれた」
アレクは言った。
「黒い壁の調査。一緒に来ないかって」
モルデカイの目が戻った。
「どういう仕事だ」
「魔物が出た時の対応とか。俺が話したことを、現地で確かめたいってさ。詳しい役割は、これから聞く」
「引き受けたのか」
「まだ。あんたに相談してからって言った」
「そうか」
モルデカイは、机の上の注文書を脇へ寄せた。
「そっちは、話を分けて聞こう。行程も、誰の指示で動くかも、働きに対する払いもだ」
アレクは頷いた。
「……感じの悪いおっさんだった」
「会ったこともない者の人柄までは、私には分からん」
「そうだけどさ」
「仕事を頼まれたんだろう。何を求められ、お前が何を引き受けられるか、まずはそこを確かめろ」
廊下で、食器が触れ合う音がした。
モルデカイが扉の方へ目をやる。
「その前に、飯だ。腹を空かせた怪我人と、いつまでも話をしとると、私まで叱られる」
アレクは椅子から立ちかけた。
胸ポケットで、白い耳が動く。
『腕の具合も、医者に見せてからじゃぞ』
「分かってるって」
そう答えてから、机の上の紙へ目を戻した。
朝は、井戸を直す金の話が分からなかった。
昼には、兵を置く返事を求められ、言葉が出なかった。
けれど、地図を広げた時には話せた。
群れが走ってきた畑。
人を逃がした橋。
魔力を練ると、こちらを向いた灰色の顔。
あの男の隣で、手帳へ書き込んでいた調査員の手を思い出した。
アレクは、もう一度、椅子へ手を掛けた。
「飯の後、少し時間あるか」
モルデカイが顔を上げる。
「調査のこと、ちゃんと相談したい」




