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第16話 空いていた席 挿絵有り

 目を覚ました時、窓の外は明るかった。


 アレクは天井を見た。


 昨日も、ここで目を覚ました気がする。

 夕飯を食べて、包帯を替えてもらって、それからまた寝た。


 胸の上が、少し重い。


 顔を起こすと、白いネズミがこちらを見ていた。


『起きたか』


「……乗るとこ、ほかにもあるだろ」


『呼んでも起きんのでな』


 マーカスを掌へ移し、上体を起こした。

 左腕は動かすとまだ痛む。けれど、昨日のように体の奥まで鉛を詰められた感じはなかった。


 卓の上には、水差しと杯。

 その隣に、賃金の控えが置いてある。


 アレクは畳まれた紙へ目を留めた。


 朝飯のあとに、もう一度、話す。


 昨日の約束を思い出し、靴へ足を入れた。


     *


 食堂では、マリアがパンへ匙で何かを塗っていた。


「お兄ちゃん、おはよう」


「おはよう。……俺、ずいぶん寝てた?」


「うん。私、もう食べ終わるところだよ」


 隣のレイラが顔を上げた。


「腕は?」


「動かすと、ちょっとな」


「食べたら、包帯を見てもらってね」


 アレクは頷き、椅子へ座った。


 運ばれてきた皿には、煮た豆と薄切りの肉が入っていた。パンが二つ。

 匙を取ると、向かいでモルデカイが杯を置く。


「食ったら、役所へ付き合ってもらいたい。村の者にも、できる仕事や頼れる先を聞いてもらっとる」


「昨日の話か」


「ああ。商会で引き受ける分と、自治側へ頼む分を相談する。道と魔物については、お前から話してくれ」


「……それなら、話せる」


 パンを割り、柔らかいところをちぎって胸ポケットへ入れた。

 白い鼻先が、一度だけ覗いた。


 アレクは匙を口へ運んだ。


 温かいものを食べれば、少し落ち着くと思った。


     *


 港の役所は、岸壁から二本、道を入ったところにあった。


 玄関の階段は中央だけ浅く削れ、扉の取っ手はよく磨かれている。

 廊下には、船の入出港予定を書いた板が掛かっていた。


 アレクは、その前で少し足を緩めた。


 知らない町の名が並んでいる。

 町の名の隣には、船名と日付が記されていた。


「こちらです」


 案内に呼ばれ、顔を上げた。


 会議室には、すでに何人か集まっていた。

 村のまとめ役がいる。商会の支店で見た男もいた。


 奥に座っていた白髪の男が立ち上がり、モルデカイへ挨拶をした。

 それから、アレクへ向き直る。


「アレクサンドル様。お加減はいかがでございますか」


「もう、だいぶ……昨日より、楽です」


「それは何よりでございます」


 丁寧に頭を下げられ、アレクも会釈を返した。


「ハルトマンと申します。評議会で会計を預かっております。以前は、お祖父様のお屋敷で出納を務めておりました」


 その顔を見た。


 書斎へ帳面を運んでいた男。

 祖父の横で、何枚もの紙を揃えていた手。


「……廊下の突き当たりの部屋に、いた?」


 男の目元が緩んだ。


「お覚えでしたか」


「祖父様に呼ばれて行くと、よく扉が開いてて。いつも、紙が積んであったから」


「今も、似たようなことをしております」


 卓の上には、帳面が積まれていた。


 アレクは少し笑い、勧められた椅子へ腰を下ろした。


     *


 話は、思っていたより速く進んだ。


 昨日、港へ着いた人数。

 診療所へ移した怪我人。

 宿と倉庫へ分かれて泊まった家族。


 まとめ役が読み上げ、役所の男が手元の紙と照らし合わせる。


 荷下ろしの仕事には、すぐに何人か入れるという。

 袋の修繕を頼みたい店もあった。


「ただ、全員分とはいきません」


 支店の男が言った。


「家族ごとの人数も見ながら、働ける方に声を掛けたいと思います」


「畑仕事しかしてこなかった者もおりますが」


「荷の扱いなら、慣れてもらえる。まずは支店で話を聞こう。できん仕事へ無理に回して、怪我をされても困る」


 モルデカイが紙を引き寄せる。


 昨日、橋へ走っていた男の名があった。

 荷車を押していた家族の名も。


 アレクは、やり取りを聞きながら、その顔を一つずつ思い出した。


 道について聞かれると、椅子を寄せた。


「橋は残ってる。最後の車が渡るまでは、壊れちゃいなかった。ただ、その向こうの畑まで魔物が来てた」


「どの辺りまでですか」


 広げられた地図へ指を置く。


「ここから、この曲がり角。道だけ見てても駄目だ。畑を回って、人の横へ出てくる」


 守備隊の男が、地図へ印を付けた。


「村へ戻れる見込みは?」


 アレクは指を止めた。


 麦畑を走る灰色の背中を思い出す。

 倒しても、その向こうから次が来た。


「……今すぐは、やめた方がいい」


 まとめ役が目を伏せた。


「分かりました」


 アレクは地図から手を離した。


 見たことを答えただけだった。

 それでも、男の肩が落ちるのを見ていると、何か言い足したくなった。


 言えることは、見つからなかった。


     *


 ひと通りの確認が済むと、モルデカイは書類を揃えた。


「支店で人を待たせとる。仕事の方は、午後から始められるようにしておこう」


「お願いいたします」


 椅子が引かれた。

 商会の男が立ち、アレクも腰を浮かせる。


「若様」


 ハルトマンが言った。


「恐れ入りますが、もう少し、お時間を頂戴できますでしょうか」


 アレクはモルデカイを見た。

 男は閉じた帳面を脇へ抱えていた。


「私は先に戻っとる。帰りに支店へ寄れ」


「……ああ」


「昼を過ぎそうなら、人を寄越してくれ。マリアが待つからな」


 いつもの調子で言い、扉へ向かう。


 商会の男も続いて出ていった。


 扉が閉まる。

 廊下の足音が遠ざかった。


 さっきまでモルデカイのいた椅子へ、目が向いた。


「どうぞ、こちらへ」


 ハルトマンが卓の奥を示す。


 窓を背にする、一つの席。

 初めから、誰も座っていなかった椅子だった。


     *


 席へ着くと、皆の顔がこちらを向いた。


 残った者たちが、改めて名を述べた。


 役所で働く男。

 守備隊を預かる男。

 倉庫業を営む女。


 父がロス家に仕えていたという者もいれば、祖父の代から屋敷へ出入りしていたという者もいた。


 アレクの知らないところで、それぞれの家は続いていた。


「まずは、ご無事にお戻りになられたこと、心よりお喜び申し上げます」


 ハルトマンが深く頭を下げた。


 アレクは立ち上がりかけた。

 けれど、周りの者も揃って頭を下げるのを見て、膝を止めた。


 こういう時は、どうするのだったか。


「……ありがとうございます」


 右手を膝の上で握った。


 背筋を伸ばすことだけは、考えずにできた。

 幼い頃、食卓でも、客を迎える時にも、母に直された姿勢だった。


挿絵(By みてみん)


 祖父なら、何と言っただろう。


 思い出せたのは、皆が祖父の前では安心して話していたことだけだった。


     *


 顔を上げたハルトマンが、手元の紙を揃えた。


「昨夜の受け入れは、エーガー商会のご厚意で賄っていただきました。ただ、この先も同じようには参りません。自治側で引き受ける分を、早急に決める必要がございます」


 倉庫業の女が、図面を広げる。


「西の倉庫でしたら、屋根を直せば使えます。来月には荷が入りますので、それまでの仮住まいになりますが」


「修繕費の見込みは?」


「こちらです。職人の手が空けば、三日ほどと聞いております」


 数字が出た。

 別の男が帳面をめくる。


 アレクは図面を見た。


 壁に沿って、細かな数字が書かれていた。

 これで、何人が寝られるのだろう。

 示された金額が、安いのか高いのかも分からない。


 話の途中で、知らない言葉が出た。

 続く説明を聞いているうちに、また別の話へ移っていた。


 皆は、よく知っていた。

 どこに建物があり、誰が使い、何に金が掛かるのか。


「若様」


 顔を上げた。


「まずは、こちらを候補として進めてよろしいでしょうか」


 誰も急かさなかった。


 ハルトマンの指は、紙の端で止まっている。

 女も図面へ手を添えたまま、返事を待っていた。


 頷けば、話は進む。


 それが怖かった。


     *


 アレクは卓の端へ目を落とした。


『……爺さん』


『聞いとる』


『俺、何も分からないんだ』


 ポケットの中で、かすかに布が動いた。


『何が分からん』


『金も、場所も。どれくらいなら足りるのかも、分かんねえ。これ、俺がいいって言って、いいのか』


 右手の指を、膝から離した。


『みんな、待ってる』


『うむ』


『……教えてくれ。何を聞けばいい』


 マーカスは、少しだけ間を置いた。


『倉庫を出た後、どこへ移るつもりか。それを聞いてみい』


 アレクは顔を上げた。


「来月、荷が入った後は……別の場所を探すんですか」


「はい。長く使える建物となると、手を入れる箇所も増えますので」


 守備隊の男が、別の紙を寄せた。


「候補はございます。港外れの古い兵舎です。ただ、井戸の手入れと、窓の修繕が必要でして。人を入れられるまで、少し時間が掛かります」


 二枚の図面が並んだ。


 すぐに使える場所。

 長く使える場所。


 その間を、人が移る。


「だったら……倉庫を直す金と、兵舎を直す金が、両方要るんですよね」


「そうなります」


 ハルトマンが答えた。


「兵舎の修繕を急げれば、倉庫に掛ける分を抑えられるのですが。今朝の段階では、まだ職人を揃えられておりません」


 アレクは頷いた。


 自分が聞くより先に、考えてあった。

 そのうえで、どちらにも決められずにいるのだ。


 図面へ目を戻した。


 線と数字だけだった建物が、さっきより少し分かった。

 分かるほど、簡単には頷けなくなった。


     *


 倉庫の女が口を開いた。


「村に、大工仕事のできる方はおられませんか。職人と一緒に手を入れていただければ、兵舎の方を早く開けられるかもしれません」


「おります。ただ、道具を置いてきた者も多く」


 まとめ役が答えた。


「道具は、貸せるものを当たります。井戸は専門の者を呼びませんと」


 話が動き始めた。


 アレクは聞いた。

 分からない言葉は、マーカスへ尋ねた。

 土地や建物のことは、皆へ聞いた。


 兵舎から仕事場まで、歩いて通えるのか。

 怪我をした者が、診療所へ通うのに困らないか。

 家族で暮らすなら、どこを区切ればよいのか。


 質問をするたび、誰かが答えた。


 説明のために、紙を回してくれた。

 見えていない箇所へ、指を添えてくれた。


 誰も、そんなことも知らないのかとは言わなかった。


 それが、かえって身に沁みた。


「……村へ戻るかどうかは、今、決めなくてもいいですよね」


 まとめ役が顔を上げた。


「畑を見に戻りたい者もおります。家畜も、連れてこられたものばかりではありませんので」


「戻りたいのは、分かる。でも、今は……」


 さっき、自分で戻るなと言った。


 まとめ役の目を見てから、言葉を続けた。


「こっちに住む場所を借りても、畑や家を諦めたことには、しないでほしい」


 男はゆっくり頷いた。


「はい。そのように、皆へ伝えます」


 アレクは、膝の上の手を握り直した。


 そう伝えてもらって、自分はいつ、あの人たちを帰せるのだろう。


     *


 修繕に使える金は、少なかった。


 ハルトマンは帳面をこちらへ向け、使途の決まっている分を順に示した。


「こちらまででしたら、今の予備費で賄えます。それを越える分は、ほかの支出との調整が必要になります」


 付箋の挟まれた頁が、何枚もあった。


 道。水路。岸壁。

 アレクがここへ来るまで、誰かの仕事だとも思わず使っていたものが並んでいる。


「黒い壁が出た後も、ずっと、ここで?」


 ハルトマンが顔を上げた。


「はい」


「首都から、金とか、人とかは……」


「初めのうちは、返事を待ちました」


 男の指が帳面から離れた。


「それでも、食べるものは待ってくれませんので。残った役人や商人、守備隊で、手元にあるものを確かめました。昔からロス家に仕えていた家々に声を掛け、内陸とも連絡を取りまして」


 倉庫の女が頷いた。


「父も、蔵を開けておりました。家へ帰れなくなった方を入れて、皆で食事を作って」


「その後は、港を引き渡せという話も参りました」


 守備隊の男が言った。


「こちらの人数と武器を揃え、船を持つ者にも協力を頼みました。交渉へ出た者もおります」


「それで、自治に?」


「ようやく、です」


 ハルトマンは帳面へ目を落とした。

 頁の端を揃え、それでも手を離さなかった。


「……ここは、ロス家の町でございます」


 アレクは顔を上げた。


「役所の名も、旗も変わりました。ですが、私どもは、ここで暮らしてまいりました」


 男がこちらを見た。

 目元に深い皺が寄った。


「そこへ、若様がお戻りくださった」


 声が、わずかに詰まった。


 隣で、倉庫の女が口元へ指を当てた。

 守備隊の男は膝へ両手を置き、深く頭を下げた。


「……ようこそ、お帰りくださいました」


 アレクは唇を開いた。


 ただいま、と答えればよいのだろうか。


 皆の顔を見ていると、その一言を、簡単には口にできなかった。


 窓の外から、荷車の音がした。


 この人たちは、ここにいた。

 自分が知らない土地で眠り、食べ、マーカスに魔術を習っていた間も。


 何度も相談し、断られ、足りないものを探したのだろう。

 今日、自分に説明してくれたように。


 それなのに、この人たちは自分のために席を空けた。


 祖父の顔が浮かんだ。

 思い出の中の祖父は、いつも何をすればよいか知っていた。


 その隣に立っていた時、自分は何を見ていたのだろう。


     *


『アレク』


 マーカスに呼ばれ、顔を上げた。


『今、確かめられるところまででよい。もう一度、聞いてみい』


 アレクは手元の紙を寄せた。


 書き留めた字は、ところどころ乱れていた。

 何の数字だったか、すぐには思い出せないものもある。


「……確認させてください」


 声を出すと、皆がこちらを向いた。


「まず、兵舎を見てもらう。井戸と窓と……屋根も。そこが直るまで、どれくらい掛かるかを調べる」


「はい。今日中に、職人と参ります」


「その間、商会の倉庫を借りられるか、俺からモルデカイさんに聞きます。すぐに出ろとは言われてないけど、いつまで使えるか、ちゃんと聞いてないから」


 ハルトマンが頷いた。


「村の人にも、修繕の仕事ができるか聞いてほしい。ただ、怪我をしてる人や、子供を見なきゃいけない人もいるから……」


「そちらは私から聞きます」


 まとめ役が答えた。


「仕事へ出せる者と、家族の世話が必要な者を分けて、改めてお持ちします」


「お願いします」


 アレクは紙へ目を戻した。


「それで、掛かる金が分かったら、もう一度、相談できますか」


 ハルトマンが顔を上げた。


「もちろんでございます。明日、調べたものを揃えてお持ちします」


「西の集落の分も、こちらで確かめておきましょう」


 倉庫の女が、畳みかけていた図面を開き直した。


「道が通らなくなってから、便りが減っておりますので」


「では、巡回の報告も揃えます」


 守備隊の男が手帳へ書き込んだ。

 ハルトマンと目が合うと、口元を引き締め、背筋を伸ばした。


 アレクは、自分の書いた紙を見た。


 兵舎。井戸。修繕費。

 それだけでも、まだ聞き漏らしたことがありそうだった。


「……明日、全部ですか」


「いえ。まずは、お手元へお届けいたします。順にご覧いただければ」


 ハルトマンは脇へ置いていた帳面を取り、丁寧に表紙を拭った。


「こちらも、次からお持ちいたします」


 古い帳面だった。

 角が擦れ、背には何度も繕った跡がある。


 アレクが頷くと、男はそれを、明日使う書類の一番上へ重ねた。


 皆が席を立った。

 アレクも立とうとしたが、それより先に、揃ってこちらへ向き直られた。


「明日も、よろしくお願い申し上げます」


 深く下げられた頭の向こうに、港の光が差していた。


     *


 会議室を出ると、廊下は少し涼しかった。


 扉を閉め、窓際へ寄る。

 壁へ背を預けた途端、息が長く漏れた。


 左腕を庇っていた右手を下ろす。


 膝に、力が入らなかった。


 踵が床を擦る。

 背中を壁に沿わせたまま、ずるずると座り込んだ。


『疲れたか』


 アレクは頷いた。

 顔を上げる気になれず、曲げた膝を見ていた。


 やっと、誰の返事も待たなくてよかった。

 自分の返事を待つ顔も、見なくてよかった。


 それだけで、肩から力が抜けた。


『……俺、あそこに座っててよかったのかな』


『何故じゃ』


『みんな、俺より分かってる。金も、町のことも。俺に説明しなくたって、話せるのに』


 右手で額を押さえた。

 掌が、少し湿っていた。


『爺さんがいなかったら、何に頷いたかも分からなかった』


 胸元から、白い頭が出た。


 アレクは目を落とした。


『知らねえことがあるのは、分かってたよ。でも……こんなに何も分からねえとは、思ってなかった』


 図面を見ても、人が何人暮らせるか分からない。

 金額を聞いても、何を諦めなければ出せない金か分からない。


 それでも、皆は待ってくれた。

 答えれば、丁寧に頷いてくれた。


『帰ってきてよかったって、あんな顔されるとさ』


 言葉が止まった。


 廊下の向こうで、扉の開く音がした。

 アレクは反射的に顔を上げたが、人は別の方へ歩いていった。


 また、膝へ目を落とす。


『……何とか、したくなるだろ』


『うむ』


『でも、何をしたらいいかも、人に聞かなきゃ分かんねえんだ』


 膝の上に、雫が落ちた。


 アレクは目を瞬いた。

 拭おうとしたが、額へ当てた手を動かす前に、もう一滴、頬を伝った。


 誰にも責められなかった。

 分からないと言えば、丁寧に教えてくれた。


 それなのに、悔しかった。


 皆が顔を上げた時、何か返したかった。

 帰ってきてよかったと、思ってもらえることを。


 唇を噛む。

 胸ポケットの白鼠だけが、こちらを見ていた。


挿絵(By みてみん)


 マーカスは、すぐには口を開かなかった。


 会議室の向こうでは、まだ話す声がしていた。

 職人を呼ぶ順番を確かめているらしかった。


『今日、聞いたことは覚えとるか』


『……全部じゃない』


『なら、書いたものを後で見直せ。足りんところは、明日、また聞け』


 アレクは、懐の紙へ手を添えた。


 明日には、また報告してくれる。

 そうしてほしいと頼んだのは、自分だった。


『爺さん』


『何じゃ』


『……明日も、教えてくれるか』


『構わんよ』


 アレクは目を閉じた。


 しばらくして、右手で頬を拭った。


「……ありがと」


 小さな声が、廊下へ落ちた。


     *


 しばらく、そのままでいた。


 窓から入る風が、汗の引いた首筋へ触れた。

 港からは、荷を動かす掛け声が聞こえてくる。


 モルデカイへ、倉庫のことを聞かなければ。


 アレクは右手を壁へつき、ゆっくり立ち上がった。

 ローブの裾を払い、窓枠へ手を置く。


 港には帆柱が並んでいた。

 岸壁を歩く人も、荷を積む人もいる。


 その向こうで、鐘が鳴った。


     *


 最初は、一つだった。


 少し離れたところで、別の鐘が応えた。

 通りを歩いていた男が足を止め、空を見上げる。


 廊下の窓が、暗くなった。


 雲かと思った。


 違った。


 屋根の上を、船底が通っていた。


 幾重もの金属板。

 その下へ張り出した、窓の並ぶ船室。

 船腹の左右で、大きな羽根車がゆっくり回っている。


 帆は、なかった。


 巨大な船が、港の空へ滑り込んでくる。


「飛空艇……?」


 会議室の扉が開いた。


 出てきたハルトマンが、窓の前で立ち止まる。

 守備隊の男も、その肩越しに空を見た。


 船尾に旗が翻った。


「ブリスベン王国の……」


 誰かが小さく言った。


 アレクは、その旗を見上げた。


 机の上では、井戸を一つ直す金を数えていた。


 窓の外では、町を覆うほどの船影が、ゆっくりとマルドー港へ下りてきた。

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