第15話 若様の休み方 挿絵有り
第14話の終盤に、ヨハンとの合流後、商会の倉庫へ移動する描写を加筆しました。
場面のつながりを補う短い追記ですので、読み戻っていただく必要はありません。
扉が閉まる音に、モルデカイは顔を上げなかった。
「入るなら、先に声を掛けろ。今、数字を合わせとる」
アレクは扉へ背を預けたまま、息をついた。
「……さっきは大変だった」
「後ろに魔物がおらんだけ、楽だったろう」
「逃げられねえ分、こっちの方が厄介だよ」
そこでようやく、ペンが止まった。
モルデカイは机の向こうからアレクを眺め、空いている椅子を顎で示した。
「座れ。茶なら、そこにある」
窓際の小卓に、茶器が置かれていた。
アレクは杯へ手を伸ばしかけ、先に椅子へ腰を下ろした。
「……あとでもらう」
「ほれ見ろ。まだ休まねばならん体で、うろうろするからだ」
「うろうろしてねえよ。車から下りたかっただけだって」
机の上には、帳面が三冊開かれていた。
伝票の束。村人の名を書いた紙。宿の部屋割りらしい走り書き。
紙を押さえているのは、商会の印が入った大きな文鎮だった。
アレクは、それらを見渡した。
「あんた、ずっとこれやってたのか」
「誰かさんを囲んで、お祭りをしとる暇はなかったからな」
「俺だって、祭りを頼んだ覚えはねえよ」
胸ポケットで、白い耳が揺れた。
『見事な歓迎じゃったのう、若様』
「爺さんまで、それやめろって」
*
最初は、手を貸してもらっただけだった。
港の入口でヨハンと落ち合い、案内された商会の倉庫前へ着いた時だった。
先に下りた人たちが荷物を運ぶ中、一人の男が車の扉を開け、腕を差し出してくれた。
足元が頼りなかったので、その肩を借りて下りた。
それが、いけなかった。
「アレク様がお怪我を!」
誰かが言った途端、椅子が運ばれてきた。
水が来た。手拭いが来た。
アレクが腰を下ろす間に、前には人の輪ができていた。
「いや、大したことじゃねえから。ちょっと切っただけで」
「まずは先生に診ていただきましょう」
「手当ては、もうしてもらって――」
「先生! こちらです!」
呼ばれた医師は、アレクの顔を見てから包帯を確かめた。
傷より消耗の方が問題だと言い、食事と休息を勧めた。
まったく、その通りだった。
それで終わると思った。
「お食事は、こちらにご用意します」
「部屋を空けてまいりますので、どうぞ、そのままで」
「お寒くはございませんか」
断るより早く、膝へ毛布が載った。
立とうとするたび、誰かが肩へ手を添えてくれる。
ありがたい。
ありがたいのだが、寝床へ行く隙がなかった。
*
「……休めって言うくせに、誰も寝かせてくれねえんだよ」
話し終えたアレクは、椅子の背へ体を預けた。
机の向こうで、モルデカイが口元を緩める。
「皆、お前を気遣っとるんだろう」
「分かってるって。だから、どいてくれとも言えねえし」
アレクは溜息をついた。
「それに、アレク様、アレク様って呼ばれるから、様はいらねえって言ったんだよ」
「そしたら?」
「『では、若様とお呼びします』だってさ」
モルデカイの口の端が上がった。
「……悪化してねえか?」
「大事にされとるな」
「他人事だと思って」
「しかも、今日、助けた人だけじゃねえんだぞ。礼を言いに来るの」
アレクは指を折った。
祖父に世話になったという男。
母が結婚する前、屋敷へ品物を届けていたという女。
祖父の祖父に、自分の祖父が世話になったという者までいた。
「そこまでいくと、俺も誰の話か分かんねえんだけど」
「聞いてやったのか」
「途中まではな。家系図が欲しくなった」
モルデカイはとうとう、鼻から息を漏らした。
*
「お前の顔を見て、安心したんだろう」
笑いを収め、モルデカイが言った。
「港へ人が入ってくるたび、内陸の悪い話が増える。知っとる家がなくなった、道が通れん、誰が戻らん。そんな話ばかりだ」
窓の下を、荷車が通った。
車輪の音に混じって、誰かが知人を呼ぶ声がした。
「そこへ、ロス家の子が帰ってきて、人を助けたと聞いた。昔を知っとる者には、会っておきたくもなるだろう」
アレクは、膝に置いた手を見た。
「……別に、嫌だったわけじゃねえんだ」
港で、人の輪が少し途切れた時のことを思い出した。
一人の女が来た。
腕に子供を抱いていた。
車の外から見た、あの荷車の親子だった。
女は眠っている子供の顔を、少しだけこちらへ向けた。
「この子も、ちゃんと着きました」
それだけ言って、頭を下げた。
子供の口が、わずかに開いていた。
頬にパンくずが一つ付いている。母親の襟を掴んだ指は、眠っても離れていなかった。
アレクは、その顔を見た。
橋の手前で、子供を抱き上げていた女の姿を思い出した。
「……よかったな」
口から出たのは、それだけだった。
女は頷き、もう一度、頭を下げた。
今度はアレクも、やめてくれとは言わなかった。
*
杯と受け皿が触れる音で、アレクは顔を上げた。
モルデカイが小卓から戻り、茶を目の前へ置いた。
「飲め。冷めてはおるが」
「ありがと」
杯を持つと、腕が少し痛んだ。
両手で支え、口をつける。
「それで、どうやって抜けてきた」
「レイラが、医者に休めって言われた人を、いつまで座らせとくのって」
「もっともだな」
「みんな道を空けてくれたんだけど、そのあと部屋まで送るって言い出してさ。そこにいた商会の人に、あんたの場所を聞いた」
廊下の途中でレイラには先に休む部屋を見てもらい、アレクはこの部屋へ入った。
仕事中の商会長を訪ねる用事があると言えば、さすがに人はついてこなかった。
モルデカイはペンを取り直した。
「私を口実にしたわけか」
「仕事の話なら、邪魔されねえと思って」
「なら、ちょうどいい。こっちにも、お前へ聞くことがある」
アレクは杯を置いた。
「働かせる気かよ」
「話しに来たのは、お前だろうが」
*
差し出されたのは、細長い紙だった。
出発した日。
立ち寄った場所。
その横に、働いた日数と金額が書き込まれている。
「ここまでの分だ。先に渡した金を引いてある。間違いがないか、確かめろ」
アレクは紙を引き寄せた。
下まで読んで、また上へ戻る。
「……これ、今日の分も?」
「当然だ」
「途中で、爺さんに代わってもらったぞ」
「先生の働き分は、お前と先生で話せ。私はお前を雇った」
胸元で、白い頭が上がった。
『ふむ。では、ワシの取り分を相談せねばな』
「今じゃなくていいだろ」
モルデカイは、二人のやり取りには構わず続けた。
「追加で頼んだ危険な仕事の分も、別に付けた。魔物の数を数えて払う気はないが、引き受けてもらった仕事まで、なかったことにはせん」
紙の端を、太い指が押さえた。
「村人を逃がすと決めたのは私だ。お前には、その後ろを守ってもらった」
アレクは、数字へ目を落とした。
「……あんたも、かなり出てくだろ。宿とか、薬とか」
「出るな」
「今は、そっちに使っても――」
「それは、私の勘定だ」
声は荒くなかった。
モルデカイは引き出しから小さな革袋を取り出し、机へ置いた。
口紐を緩めて傾けると、金貨と銀貨が触れ合い、澄んだ音を立てた。
太い指が、袋と硬貨をアレクの方へ押し出した。
「困っとる時に働いてくれた者から、先に払いを削る。そんな商会に、次も人が来ると思うか」
アレクは黙った。
「受け取ってから、お前がどう使うかは、お前が決めろ。まずは、自分の取り分を確かめることだ」
もう一度、紙を読んだ。
働いた日を指で辿り、机の上の硬貨と金額を照らし合わせる。
「……合ってる。たぶん」
「たぶんで署名するな」
アレクは、最初の行へ戻った。
今度は一つずつ確かめ、硬貨を革袋へ収めた。
*
紙へ署名をしている間に、扉が叩かれた。
入ってきたのは、村のまとめ役と商会の男だった。
アレクを見ると、まとめ役が足を止めた。
「こちらにおいででしたか、若様」
「……ああ。ちょっと、話してて」
モルデカイが、机の空いたところを指した。
「人数は合ったか」
「はい。家族ごとに確かめました。怪我人の方も、診療所へ移せています」
「宿の部屋は?」
商会の男が紙を広げた。
「空いていた分は押さえました。ただ、全員となると足りません。倉庫の二階なら、今は荷を入れていませんので、今夜は使えます」
「床は?」
「掃除を始めています。寝具が足りず、船具屋にも当たっていますが」
まとめ役が、手元の紙を見た。
「毛布と敷物なら、持って出た家があります。皆で使えるものを確かめてきます」
「頼む。宿の部屋は、年寄りと小さい子のいる家から回してくれ。家族が離れんように、そっちで相談してもらいたい」
二人は頷いた。
部屋割りの紙へ、名前が書き足される。
アレクは机の端から、それを見ていた。
橋を渡った人たちが、今度は紙の上で居場所を探していた。
「明日からのことですが」
まとめ役が、声を落とした。
「しばらく戻れないなら、働き口を探さねばなりません。家畜を預ける場所も……」
「港で頼める仕事を、支店に聞かせとる。荷下ろしも、袋の繕いもあるだろう。ただ、誰が何をできるか、私には分からん」
「こちらで聞いて、まとめます」
「無理に皆を商会へ集めんでもいい。親戚や知り合いを頼れる者もおるだろう。まず、当てを確かめよう」
モルデカイが帳面へ書き込んだ。
「今夜の飯と寝床は、こっちで手配する。明日の朝、もう一度、話そう」
まとめ役が深く頭を下げた。
扉が閉まってから、アレクは言った。
「……逃げて着いたら、終わりじゃねえんだな」
モルデカイは紙の束を揃えた。
「今朝まで、あの村で暮らしとったんだ。寝る場所も、明日の仕事もあった。それを、みんな置いてきたんだからな」
窓の外で、荷車を押す掛け声がした。
「とにかく、今日は寝かせたい。先のことを決めるにも、腹を空かせたままでは話にならん」
*
「俺も、何かできるか」
アレクが聞くと、モルデカイは顔を上げた。
「明日、起きてから聞け」
「座ってできることでもいいよ。名前を書き写すとかさ」
モルデカイの目が、署名の紙へ落ちた。
アレクも、その目を追った。
最後の一画が、少し流れていた。
ペンを持った手は、まだ思ったようには動かなかった。
「……明日だな」
「そうしろ」
モルデカイは伝票を二つに分け、一方をアレクへ渡した。
「お前の控えだ。なくすなよ」
アレクは丁寧に畳み、懐へしまった。
「でも、あの呼び方は、どうにかなんねえかな」
「まだ言っとるのか」
「だってさ。頼られたって、俺に分かるの、魔術と飯くらいだぞ」
モルデカイは椅子へ背を預けた。
「何か頼まれたのか」
「……いや」
「なら、まず礼を受け取ってやれ。頼み事をされた時に、できるか考えればいい」
アレクは、机の上を見た。
部屋割り。薬代。人数の書かれた紙。
「祖父様だったら、こういうのも分かったんだろうな」
「アズール様のところにも、帳面を見る者や、倉庫を預かる者がおっただろうよ」
モルデカイは、文鎮を持ち上げた。
下にあった伝票を一枚抜き、別の束へ重ねる。
「お前の家の屋敷を、お祖父様一人で掃除しとったか?」
アレクは顔を上げた。
長い廊下と、磨かれた手すりを思い出す。
玄関に並んでいた人たちの顔も。
「……してねえな」
「そういうことだ。家の名を聞いた途端、仕事を全部、一人で抱えようとするな」
胸ポケットから、静かな念話が来た。
『お主、明日の修行の分まで忘れとらんか』
アレクは、胸元を見下ろした。
「……爺さんは、それを忘れてくれてもいいんだけどな」
*
今度のノックは、少し軽かった。
「入っていい?」
レイラの声だった。
モルデカイが返事をすると、扉が開いた。
マリアも一緒だった。
「部屋、使えるって。お水も運んでもらったから」
レイラは、椅子のアレクを見た。
「ちゃんと休んでた?」
「座ってた」
「話してたのね」
否定はできなかった。
マリアは父の机へ歩み寄り、紙の山を見上げた。
「パパ、まだかかる?」
「少しかかる。先に食べててもいいぞ」
「一緒に食べたい」
モルデカイの手が止まった。
帳面の開いた頁へ紙を挟み、閉じる。
「……そうだな。これを一つ済ませたら、いったん休もう」
マリアは頷いた。
それからアレクへ、小さな包みを差し出した。
「これ、お兄ちゃんにって」
中身は、焼き菓子だった。
甘い香りに、胸ポケットから白い鼻先が出た。
「また来たのか」
「さっきの人とは違うお婆さん。お部屋に持っていってあげてって、頼まれたの」
アレクは包みを受け取り、膝へ置いた。
「……礼、言っといてくれるか」
「うん」
マリアは嬉しそうに笑った。
*
部屋までは、レイラが付き添った。
アレクは壁へ手をつかずに歩けたが、階段の前では足を止めた。
「二階?」
「一階。そっちじゃないわ」
袖を引かれ、廊下を曲がる。
寝室の扉が開いていた。
小さな卓と、椅子と、寝台が一つ。
洗面の水差し。畳まれた手拭い。
寝台には、きれいな敷布が掛かっていた。
アレクは、その白さを見た。
「……ああ。やっと寝られる」
荷物を置き、寝台の端へ腰を下ろす。
靴を脱ぐ前に横になりかけ、レイラに止められた。
「土、落としてから」
「分かってるって」
言いながらも、紐を解く指は鈍かった。
レイラは急かさず、扉のそばで待っていた。
アレクは靴を揃え、ようやく横になった。
枕が、頭の重さを受け止めた。
胸ポケットからマーカスを出し、傍らへ置く。
白いネズミは敷布を踏み、満足そうにひげを動かした。
『悪くない寝床じゃ』
「俺のだからな」
レイラが、卓へ菓子の包みを載せた。
「夕飯になったら呼ぶ。それまで、寝ててね」
「誰か来ても、寝てるって言ってくれ」
「言うわよ。モルデカイさんも、休ませてやれって」
扉の外で、紙を貼る音がした。
レイラが顔を出し、戻ってくる。
「面会謝絶、だって」
アレクは、ようやく笑った。
「助かった。あのおっさん、話が分かるな」
廊下から、商会の男の声が聞こえた。
「若様へのお見舞いは、こちらでお預かりします」
アレクは、枕から顔を上げた。
「……呼び方まで定着させて、どうすんだよ」
レイラが、声を殺して笑った。
マーカスは早くも菓子の包みへ向かっていた。




