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第14話 車輪の先 挿絵有り

 肩が跳ねて、アレクは目を開けた。


 窓の外を木立が流れている。

 車輪が轍を踏むたび、背中に鈍い振動が伝わった。体を起こそうとして、腕の痛みに顔をしかめる。


「……みんなは?」

「いるわよ」


 ハンドルを握ったまま、レイラが答えた。


「歩いてた人も?」

「今は交代で荷車に乗ってる。怪我した人は先の車。モルデカイさんが、さっきも人数を確かめてた」


 アレクは窓へ目を向けた。

 荷物の上に腰を下ろした子供が、揺れに合わせて足を振っている。その横で、母親らしい女が眠っていた。


「……そっか」

「あなた、同じこと何回も聞いてたよ」

「覚えてねえ」

「そのたびに安心して寝ちゃうんだもの。次に起きたら、また聞くかなって思ってた」


 笑いを含んだ声だった。

 アレクは座席へ沈み直した。膝に掛けられていた毛布がずれ、包帯を巻いた腕が見える。


「これ、レイラが?」

「手当てしてくれたのは、さっきのお婆さん。私は水を渡しただけ」


 ローブの袖は、切れたところを内側へ折って留めてあった。

 今朝、袖を通したばかりだったのに、もう血と土が染みついている。


「……貰ったばっかなんだけどな」

「袖なら直せるわよ。腕までなくならなくてよかったじゃない」

「簡単に怖いこと言うなよ」


 胸元で、白い鼻先が動いた。


『軽口が出るなら、ひとまず心配はいらんの』

「心配してたのかよ」

『寝相が悪うて、潰されんかとな』


 アレクは胸ポケットを覗いた。

 マーカスは布の縁に顎を載せ、細いひげを揺らしていた。


     *


 列が緩やかな坂へ差しかかった。

 レイラは前の荷車と間を取り、ゆっくり速度を落とした。


 窓の向こうで、荷車を押していた男がこちらに気づく。


「アレク様、お目覚めですか」


 アレクは返事に詰まった。


「ああ……うん。そっちも、無理すんなよ」

「はい。ありがとうございます」


 男は深く頷き、再び車輪へ肩を寄せた。


 窓を離れてから、アレクは長く息を吐いた。


「……様、だってさ」

「聞こえた」

「やめてくれって言ったんだけどな」


 レイラは前を見たまま、口元を緩めた。


「隠してたつもりだったの?」

「名乗ってなかっただけだよ。別に、聞かれたら答えるし」

「じゃあ、答えたんだから仕方ないじゃない」


 それは、そうだった。

 アレクは膝の毛布を指でつまんだ。


「あの爺さん、祖父様と戦場にいたんだってさ」

「うん」

「婆さんの方は、お袋を知ってた。俺の顔を見て、二人とも泣くんだぜ。そんなに似てるかね」

「似てるわよ。小さい頃は、もっとそっくりだった」

「今は?」

「目つきが悪くなった」


 即答だった。


「もうちょっと言い方あるだろ」

「でも、ちゃんと見れば分かる。笑った時とか」


 アレクは窓に映る自分を見た。

 寝癖のついた銀髪と、ひどい顔色。頬には、拭き残した土までついている。


 あの老人が見ていたのは、この顔の向こうにいる祖父だったのだろうか。

 老婆は、もう会えなくなった母の顔を探していたのかもしれない。


「……俺は、祖父様みたいにはできねえぞ」


 思っていたより、小さな声になった。


「領地だって、もうねえんだし。急にそんな顔されたって、何をしてやりゃいいんだか」


 レイラはすぐには答えなかった。

 道の石を避け、車を緩やかに右へ寄せる。


「お祖父様に似てたから、助かったんじゃないでしょ」


 アレクは横を向いた。


「あの人たちを助けたのは、あなたじゃない」


 風が窓から入り、レイラの髪を揺らした。


「ありがとうって言われたら、受け取っておけばいいと思う。全部、お祖父様の分まで背負わなくても」


 アレクは何か言いかけ、やめた。

 代わりに、毛布の皺を伸ばした。


「……そっか」

「うん」


 しばらく、車輪の音だけが続いた。


     *


「ねえ。最後に戻ってきた時、途中から先生だったんでしょ」


 レイラが言った。


「分かったのか?」

「歩き方まで違ったもの。あんなに落ち着いて、真っすぐ歩いてきて」


 思い出したのか、少し声が柔らかくなった。


「大丈夫なんだって、思っちゃった」

「俺だと?」

「早く乗って、って思った」

『正しい判断じゃ』


 アレクは胸元を軽く押さえた。


「そこで出てくんなよ」

「今、先生が何か言った?」

「俺の扱いが正しいってさ」


 レイラが吹き出した。


 アレクも笑い、それから自分の掌を見た。

 指を曲げる。あの時と同じ手だった。

 なのに、魔術の使い方はまるで違った。


「……俺は、もっとでかくすりゃ止まると思ってたんだよ」


 麦畑を覆った陣を思い出す。

 あれだけ広げれば、まとめて吹き飛ばせる。実際に、群れは崩れた。

 けれど、次が来た時には、息を整える暇さえなかった。


「爺さんは、石をちょっと動かしただけで転ばせてた。俺だったら、体ごと押し返してたところをさ」

「同じ魔法なの?」

「使ってるものはな。どこに、どれだけ力を掛けるかが違う」


 胸ポケットから、白い耳が出た。


『向こうが勝手に走ってくるんじゃ。足の置き場をずらせば、転ぶ力まで自分で用意してくれる』


 アレクは、その言葉をレイラへ伝えた。


「それ、走ってくる脚の位置が分からないと、できないわよね」

「そうなんだよ」


 アレクは大きく頷いた。


「見て、間に合う場所へ陣を置いて、ちょうどいい強さで動かす。分かるけど、やれって言われたら別だろ」

『分かったなら、次はできるようになれ』

「だから、それが難しいって話をしてんだよ」

『だから修行するんじゃ』


 返す言葉がなかった。

 レイラは二人のやり取りを聞き、少し考えるように眉を寄せた。


「前から不思議だったんだけど……陣を描くところは、勝手に進むのよね。だったら、どこまで先生が決めて、どこからアレクがやってるの?」


 アレクは顔を上げた。


「……ああ。そこか」


     *


 昼を回った頃、列は街道脇の広場で足を止めた。

 水を飲ませる馬がいる。車軸へ油を差す者がいる。歩いていた人たちは、木陰へ腰を下ろした。


 アレクも車から下りようとした。

 足を着いた途端、膝が笑ったので、素直に座り直した。


『立派な第一歩じゃったの』

「うるせえ。今日は歩く修行は休みだ」


 開けた扉の向こうへ、レイラが戻ってきた。

 手には水筒と、紙を挟んだ薄い板がある。


「これ、荷物の数を書いた裏。使っていいって」

「説明するなら、描いた方が早いな」


 アレクは膝へ板を載せ、渡された鉛筆を持った。

 最初の円が、いびつに歪んだ。


「……陣なら、もうちょっとましに描けるんだけどな」

『なら、魔力を使うか?』

「紙でいいです」


 レイラが隣で笑った。


「普通の魔術だと、必要な陣を、身振りや呪文を使って自分で描いていく。簡単なものなら、慣れりゃずいぶん省けるけど、複雑になるほど手間も増える」


 小さな円の中へ、線を足す。


「陣魔法は、その陣を描くための魔法を先に組んでおくんだ。ここまで描け、次はこれを描けって順番ごとな」

「呪文が短いのは、その順番を始める合図だから?」

「そう。長い名前を叫んでも、強くはならねえ」

『よう覚えたのう』


 アレクは聞こえなかったことにした。


 最初の円の右隣へ、同じ大きさの円を描く。

 二つの縁が、ちょうど触れ合った。


「例えば、最初にこれが浮かぶ。その横へ、同じ陣をもう一つ作る」


 隣の円から、大きな矢印を伸ばす。


「最初のは残したまま、こっちを周りに一周させる。縁をくっつけたままな。通ったところに線や文字を残していけば――」


 二つの円を包む、大きな外周を描いた。


「直径が三倍の陣になる」


 レイラは紙を覗き込んだ。


「真ん中の円を、大きくしてるわけじゃないのね」

「ああ。隣のやつが描いてる。できあがった陣を、今度は丸ごと横へ作って、もう一周させると九倍」


 さらに円を描こうとして、紙の端へ鉛筆が届いた。


「……紙が足りねえ」

「もう一枚、貰ってくる?」

「いや、ここからは小さく描く」


 空いたところへ、小さな円を一つ描いた。

 少し離れた四方にも、同じ円を置く。


「ずっと同じところで回してたら、真ん中ができるのを待つことになるだろ。だから、離れた場所でも、同時に始めるんだ」


 五つの円の横へ、それぞれ小さな矢印を添える。


「こっちで二回。その間に、こっちでも二回。できあがったところから繋げる」


 円と円の間を、鉛筆の線が渡った。

 最後に、それらを囲む大きな円を引く。


「小さい陣が、離れたところへ急に出るのは、これ。周りでも別々に描いて、最後に一つの陣へまとめてる」

「それで、いきなり大きく広がるんだ」

「ああ。それをまた丸ごと使えば、さらに広げられる。形によって、置く数や場所は変わるけどな」


挿絵(By みてみん)


 レイラは、最初の円から順に指で辿った。


「これを全部、一つずつ自分で描いてたら……」

「その間に、爪で引っかかれる」

「よね」


 アレクは頷いた。


「どこから始めて、次に何を描くか。それを組んでおけば、毎回、最初から考えなくて済む。だから、でかいのも早く出せるんだ」


 紙の端で、白い前脚が動いた。


『そこまでの仕込みを覚えるのに、こやつは何度、泣き言を申したかの』

「数えてたなら忘れろ」


 レイラが笑い、それから大きな円を指した。


「じゃあ、一度組んじゃえば、誰でも同じものが使える?」

「描く順番を同じにすることはできる。でも、これ全部に魔力を行き渡らせるのは俺の仕事。どこへ出すかも、いつ止めるかもな」


 鉛筆を置き、掌を開く。


「広げすぎりゃ薄くなるし、足りなきゃ途中で止まる。逆に流し込みすぎても、無駄が出る。爺さんが使ってた小さい陣だって、出す場所を外したら、何も起きねえよ」


 レイラはしばらく図を見ていた。


「機械が勝手に動いてくれても、何をさせるかは決めなきゃいけないのと、似てるのかな」

「……たぶん、そんな感じだ」


 アレクは昨日までなら描かなかっただろう、小さな印を円の脇へ足した。

 魔物の脚を描いたつもりだったが、曲がった棒にしか見えなかった。


「俺は、間に合う大きさまで広げて、まとめて押してた。爺さんは、これくらいで足りる場所を、先に見つけてたんだ」


 レイラは紙から顔を上げた。


「でも、大きく広げてくれた時も、みんな進めたわよ」


 アレクの手が止まった。


「あの時、あの畑から全部来てたら、車を直せなかったと思う」


 胸元から、落ち着いた念話が届いた。


『あの場で群れを崩した判断まで、間違いではない。じゃが、その後も働くつもりなら、残すものを考えんとな』


 アレクは、開け放した扉の向こうを見た。

 子供がパンをかじっている。男たちが荷を積み直し、女が座ったまま靴を脱いでいた。

 港までは、まだ道がある。


「……次の分まで、か」

『そうじゃ。お主も、帰りの車へ乗せる人数に入っとる』


 レイラが頷いた。


「それ、忘れないでね。私は運転しながら、あなたまで担ぎに行けないんだから」

「……悪かったよ」


 アレクは鉛筆を紙の上へ置いた。


     *


 温かい汁物が配られた。

 アレクのところへ椀を運んできたのは、マリアだった。


「熱いから、ここ持ってね」


 布を巻いた縁を示してから、慎重に両手を離す。


「ありがとな。腹、減ってたんだ」


 マリアは少しほっとした顔になった。


「パンもあるよ。パパが、食べられるなら食べなさいって」

「食える。いくらでも」


 その返事に、彼女はようやく笑った。

 レイラへもパンを渡し、配り物の籠を抱え直す。


「私、向こうにも持っていくね」

「転ぶなよ」

「転ばないもん」


 言い返しながらも、足元の石はきちんと避けていった。


 汁を飲み込むと、胃の底から温かさが広がった。

 塩気が、ひどくうまい。


 モルデカイがやってきたのは、椀が空になりかけた頃だった。


「食えるなら安心だ。出発まで、もう少し休んどれ」

「あんたは食ったのか?」

「さっきな。先に港へ出した車に、宿と倉庫へ知らせを持たせた。着いてから全員で寝床を探して回るのは、かなわんからな」


 手帳を閉じ、大きな腹の前へしまう。


「村の者の人数は、代表にまとめてもらっとる。空き部屋だけでは足りんだろうが、屋根の下へ入れる場所は探せるはずだ」

「……金、かかるだろ」

「かかるとも。運ばずに済ませた荷の分まで、帳面に書かねばならん」


 モルデカイは、アレクの空の椀を見た。


「だが、お前のおかげで、その帳面を確かめる相手が残った。今日のところは、それで十分だ」


 アレクは、椀の底へ目を落とした。


「俺だけでやったわけじゃねえよ」

「分かっとる。だから、皆に飯を配っとるんだろう」


 そう言われると、何も返せなかった。

 モルデカイは破れた袖を見つけ、眉を寄せた。


「……ずいぶん派手に着たな」

「悪い。貰ったばっかなのに」

「直して使え。腕が付いとるうちなら、袖の寸法も測りやすい」


 レイラが顔を背けた。

 笑っている肩を見て、アレクは溜息をついた。


「みんな、俺の腕に恨みでもあんのか」


     *


 レイラが車を見に回り、モルデカイも列の先へ戻った。


 アレクは空の椀を脇へ置き、足元の袋を引き寄せた。

 中の布包みを開く。

 銀の球が、柔らかな光を返した。


 持ち上げようとして、指が滑った。

 慌てて膝で受け止める。


『落とすでないぞ』

「分かってるって」


 布の上へ載せ直し、両手で支えた。

 ひとところ、光の鈍い部分があった。


 指で触れてみる。

 輪郭のない、薄いくもりだった。


「……汚れてんな」


 アレクは袋から清潔な布を探し出した。

 膝の上で球を回し、その部分を拭く。


 白いネズミがポケットから顔を出した。


「たまには、自分でも手入れしろよ。いつも俺が磨いてんじゃん」


 マーカスは前脚を上げた。

 小さな指が開く。


『この手でか?』

「……少しくらい、手伝う気を見せろって話」


挿絵(By みてみん)


 布を動かすたび、丸い光が形を変えた。

 もう一度、角度を変えて拭く。

 くもりは取れ、窓から差す日差しが、すっきりと映り込んだ。


「ほら。男前になった」

『もとからじゃ』

「球の顔なんか、見分けつかねえよ」


 アレクは少し笑った。

 それから布を畳み直し、球を丁寧に包んだ。


「……さっきは、助かった」


 白い鼻先が、こちらを向いた。


「歩き方も、もうちょっと覚えるわ」

『うむ。まずは、足元を見ずに歩けるようになるところからじゃな』

「そこまで下手じゃねえだろ」

『さっき、車を下りられんかったのは誰じゃ』


 アレクは布包みを袋へ戻した。


「……今日のは、勘弁してくれよ」


 マーカスはひげを動かし、胸ポケットへ引っ込んだ。


     *


 海の匂いに気づいたのは、日が傾き始めてからだった。


 街道を行く車が増え、道端に家が並び始めた。

 遠くに、倉庫の屋根が見える。


 アレクは窓の外へ顔を向けた。

 見覚えのある港の景色だった。

 出ていった時より荷物が減って、人が増えている。屋根へ括りつけた鍋が、車の揺れに合わせて鳴った。


「戻ってきたな」

「うん」


 レイラも少し、肩の力を抜いた。


 先の曲がり角で、一人の男が手を振っていた。

 油の染みた作業着。太い腕。


「父さん」


 レイラの声が明るくなる。

 ヨハンは車へ歩み寄り、窓から娘の顔を確かめた。それから、助手席のアレクを見る。


「……二人とも、いるな」

「いるわよ。そっちは?」

「連れてきた者は、皆、港に着いとる。お前たちが戻ると聞いて、出てきた」


 ヨハンの手が、窓の縁へ掛かった。

 何か言いかけ、アレクの包帯を見る。


「話は後だ。まず、座ってろ」

「さっきから、ずっと座ってるんだけど」

「そのままでいろと言っとるんだ」


 大きな掌が、窓越しに肩を一度叩いた。

 アレクは少し顔をしかめたが、その手を避けなかった。


「商会の倉庫で、人を受け入れる用意をしとる。ここから近い。車は、そのままついてこい」


 ヨハンは窓の縁から手を離し、列の先へ歩いていった。

 車が、ゆっくり動き出す。

 港の入口から倉庫街へ入り、二つ目の角を曲がったところで、再び止まった。


 列の先で、モルデカイが車を下りた。

 迎えの者と手帳を突き合わせ、倉庫の方を指す。


「荷を下ろす場所と、人が休む場所を分けてくれ。宿の主人にも、私から話す。村の代表はどこだ? 一緒に確かめたい」


 人の声が、あちこちで交わされた。

 着いた者が迎えの者を呼び、離れていた家族が互いの顔を探す。


 アレクは背もたれへ頭を預けた。


「……今夜は、ちゃんとした寝床で寝たいな」

「そうね。まず部屋を――」


 レイラの言葉を、外の声が遮った。


「あの車だ。ロス家の若様が乗っとられる」


 アレクは目を開けた。


 倉庫の前にいた男が、こちらを見た。

 隣の女も振り返る。その向こうで、もう一人が背伸びした。


「戻られたのか」

「皆を逃がしてくださったそうだぞ」


 窓へ寄せていた頭を、ゆっくり戻す。

 レイラと目が合った。


「……寝てる間に、何がどうなったんだよ」


 レイラはとうとう、声を上げて笑った。


 胸ポケットから、白い鼻先が覗いた。


『ほれ、若様。今度は、起きたまま礼を聞く番じゃ』

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