第13話 最後の一人 挿絵有り
出発前、モルデカイが宿の前で包みを寄越した。
「これを着とけ。荷に残っとったものだが、お前の寸法なら合うだろう」
広げると、濃い灰色のローブだった。
厚手の生地に、丈夫な縫い目。裾にも袖にも、ほつれ一つない。
「……いいのか? 売り物だろ」
「これから外で働いてもらうんだ。雨風を防げる服くらいは用意する。ただし、裾を踏んで転ぶなよ」
「そこまで間抜けじゃねえって」
古い上着を袋へしまい、袖を通す。
肩を回しても突っ張らず、腰帯を締めれば裾も足に絡まなかった。
胸元へ移した白いネズミが、新しい布を前脚で撫でた。
『ようやく、弟子を連れて歩いても恥ずかしゅうない格好になったのう』
「ネズミに言われたくねえよ」
モルデカイが眉を上げたので、アレクは慌てて胸ポケットを指した。
「……あんたじゃなくて、爺さん」
「分かっとる。ほれ、車へ乗れ」
*
最初の一匹は、畑の畝から頭を上げた。
アレクは窓へ掛けていた肘を引いた。
「レイラ、止めて。後ろにいる」
車が止まる。
扉を開けて下りる間に、銃を持った男が振り返った。
「一匹か?」
「今、見えてるのはな。先へ知らせてくれ。列は止めなくていい」
灰色の体が、畝を越えた。
長い前脚が土へ刺さる。跳んだ。
「退け」
指先の陣が開いた。外周を巡る光が、次の円を描く。
灰色の体は空中で横へ流され、畑の石垣へぶつかった。
銃声がした。
立ち直りかけた前脚が崩れる。
「そのまま下がって! 俺の横へ出るなよ」
男が頷き、銃を開いて薬莢を落とした。
アレクは車へ戻りかけた。
畑の向こうで、麦が揺れた。
風とは、違う動きだった。
*
車へ乗る暇は、なくなった。
三匹を押し返す。
荷車へ回り込んだ一匹を、道端の溝へ落とす。
歩く人の背中を追う体へ、斜めに力を掛ける。
銃を持つ男たちも、歩きながら撃っていた。
アレクは装填する手が止まらないよう、その前へ防御を置いた。
昨夜は眠れた。朝も腹いっぱい食った。
体の中を巡る魔力には、昨日の朝より確かな張りがあった。
それが、陣を開くたびに削れていく。
「まだ橋じゃねえのか」
「次の曲がり角だ! 先の車は、もう渡り始めてる!」
走って戻ってきた男が叫んだ。
アレクは後ろを見た。
荷車の車輪が、浅い轍にはまっていた。押している男の隣で、女が子供を抱き上げる。
その向こうにも、人がいる。
自分が五歩下がる間に、列は二歩しか進まなかった。
*
「阻め!」
道を横切る陣が広がった。
飛び込んできた二匹が、見えない壁へ腹からぶつかる。
アレクは掌を引き、押し返した。
重なった体が転がる。
左の麦畑から、別の一匹が顔を出した。
「そっちもかよ!」
左へ陣を置く。
右で、銃声がした。
群れは、道だけを走ってこなかった。
倒れた体を避け、畑へ散る。そこから前へ回り、歩く人たちの脇へ飛び出してくる。
『後ろへ広く張っても、横が空けば同じじゃ。人の位置を見て、陣を移せ』
「見てるって!」
胸ポケットの白いネズミは、出てこなかった。
肩の袋も、そのままだった。
アレクは道の左側へ寄った。
畑から来た三匹が、揃って顔を向ける。
足を止め、魔力を練る。
群れが、向きを変えた。
「……爺さん。こいつら、俺に来る」
『気づいたか。じゃが、餌になるつもりなら止めい』
「食わせねえよ。人の方へ行かれるより、まとめて来た方が楽だろ」
道から数歩、畑へ入る。
「餌はこっちだ! こっちに来やがれ!」
灰色の背中が、こちらへ向いた。
『足を止めすぎるな。集めた後で、お主だけ先へ走るわけにはいかんぞ』
アレクは頷いた。
引きつけた体へ、次の陣を開いた。
*
曲がり角の先に、橋が見えた。
川幅は狭い。
けれど、橋も狭かった。
荷物車が一台、ゆっくり向こうへ渡っていく。その後ろで、徒歩の人たちが岸へ寄り、次に渡る車を待っていた。
「歩く者を先に! そっちの荷車は、寄せて待ってくれ!」
集落のまとめ役が、腕を振った。
対岸から、モルデカイの声が返る。
「渡ったら先へ進め! 橋の出口で止まるんじゃないぞ!」
アレクは畑の端まで下がった。
そこから先は、川へ向かって道が落ちている。
陣の向こうに、灰色の体が重なった。
一匹を倒すと、その背を踏んで次が跳んだ。
掌が、じんと痺れた。
「……埒が明かねえな」
アレクは、橋を振り返った。
こちら側には、まだ人がいる。
「少し下がってくれ! 畑の方へ、でかいのいくぞ!」
銃を持つ男が、近くの二人を道へ引いた。
アレクは左手で、その背中へ防御を残す。
右手を、開いた。
*
親指と人差し指の間に、小さな円がともった。
掌へ滑る。
その縁を巡った光が、ひと回り大きな陣を描いた。
次の円は、腕の長さを越えた。
さらに外周を巡り、アレクの背丈を越える。
四方に、小さな陣が開いた。
離れた円を線が繋ぎ、その外側にまた新しい円が生まれる。
麦の穂が、光の方へ傾いた。
アレクは陣の向きを、畑へ振った。
掌の前から離れた大きな円が地面と平行になり、群れの足元へ広がっていく。
土埃が、一筋、輪を描いた。
「吹き荒れろ!」
畑が、鳴った。
灰色の体の間を、風が走る。
正面から押す風ではなかった。地面を這って集まった空気が円に沿って曲がり、群れを巻き込みながら上へ立ち上がった。
前脚が土を掻いた。
爪の下から、土ごと剥がれた。
麦の葉。折れた茎。灰色の背中。
それらが巻き上がり、巨大な渦の中で見えなくなる。
轟音が、銃声を呑んだ。
外へ飛び出しかけた一匹が、別の流れに横から捕まる。
周囲の小さな陣が向きを変え、散った体を中央へ戻した。
アレクは、両足を踏ん張った。
左手の防御へ、小石がぶつかる。
右手からは、魔力が流れ続けた。
「今だ! 渡れ!」
自分の声も、風に消えかけた。
男が頷き、橋へ走った。
*
群れが消えると、前へ進む人の足が速くなった。
でも、車は急に速くならなかった。
橋の手前で、農具を運ぶ小さな車が止まった。
運転していた男が何度も操作桿を動かす。車体の下で金属が鳴るばかりで、車輪は回らない。
「動かん!」
レイラが乗用車から飛び下りた。
荷台へ一度、目を走らせる。
「みんな下りて。歩けない人は、そっちの荷車へ移して!」
道の脇へ屈み、車体の下を覗く。
アレクは右手を握った。
渦が細くなる。
巻き込まれた体を畑の奥へ放り出し、陣を解いた。
風が途切れた瞬間、膝から力が抜けた。
踏み直す。
耳の中に、まだ轟音が残っていた。
畑には、倒れた灰色の体が並んでいる。
その向こうを、別の背中が走っていた。
「……何匹いるんだよ」
『息を整えい。次を描く前に、今の陣を全部解いたか確かめろ』
アレクは頷いた。
指先に残っていた光を消す。
魔力は、半分どころではなかった。
*
車から下ろされた老人が、道端へ座り込んでいた。
杖を突く。
腰が浮きかけて、また落ちる。
そばにいた老婆が腕を支えたが、立たせるだけの力はなかった。
息子は、足を怪我した御者を荷車へ移していた。
老人が顔を上げ、その背へ何か言おうとする。
川沿いの草が揺れた。
「伏せろ!」
アレクが手を振った。
開いた陣の向こうで、灰色の前脚が滑る。二人へ跳びかかった体は、道から逸れて浅瀬へ落ちた。
アレクは老人の前へ膝をついた。
「立てるか? 橋、渡っちまおう。肩、貸すから」
差し出された手を、老人は見つめた。
背後ではまだ銃が鳴り、薄い光の陣が灰色の体を押し返している。
その光を背にした青年へ、老人が顔を上げた。
「……アズール様」
「え?」
節くれだった手が、アレクの袖を掴んだ。
「あの時も……そうして、戻って来てくださった」
声が、震えた。
老人の頬を涙が伝う。
「戦で脚をやられて……皆が下がっていくのを、儂は見とるしかなかった。もう、置いていかれると思うたのに……」
掴んだ袖を、離さなかった。
「最後まで、儂らの後ろにおられた。あの方は……」
アレクは老人の腕を、自分の肩へ回した。
老婆がその顔を覗き、息を呑む。
「……ブランカお嬢様」
白髪の下で、目が大きく開いた。
「その髪のお色も……目元も、お若い頃のお嬢様と、よう似て……」
アレクは老婆へ顔を向けた。
次の銃声が、返事を急かした。
「ああ。母さんと爺ちゃんだ。二人のこと、あとで聞かせてくれ。今は、ここから出ようぜ」
老人は、泣いたまま頷いた。
「ロス家の……嗣子が……」
戻ってきた息子が、アレクを見た。
荷車を押していた男も、顔を向ける。
「こっち、手を貸してくれ! 俺ももう、あんまり力が入んねえんだ」
息子が慌てて母の肩を支えた。
アレクは老人を抱え起こし、橋の入口まで連れていく。
「ここから頼む。ゆっくりでいいから、向こうまで渡ってくれ」
息子が父の腕を受け取り、両親を支えた。
老婆が何か言いかけたが、アレクは頷いて三人を送り出し、群れへ振り返った。
*
「直せるか!」
レイラは車体の下から腕を出した。
「伝動鎖が外れたの! 戻せれば動く。でも、軸を少し回したい。そこの車輪、浮かせられる?」
アレクは、車の後ろへ手を向けた。
「浮け」
小さな陣が車輪の下へ滑る。
車体が片側だけ、わずかに上がった。
レイラが木の台を差し込む。
「載った。解いていい!」
アレクは陣を解いた。
すぐに、畑へ向けて別の陣を開く。
銃を持った男が、肩を押さえて後ずさった。
灰色の体が足元へ潜り込む。
「退け!」
体が、横へ飛んだ。
さっきのようには遠くへ行かなかった。
アレクは、男の襟を掴んだ。
「下がってくれ。橋の向こうから見てていいから!」
「だが、お前一人じゃ――」
「装填できねえ腕で、ここにいんな!」
男が、唇を噛んだ。
別の男へ銃を渡し、橋へ下がっていく。
アレクは左へ陣を残した。
正面へ、もう一つ。
指が、言うことを聞かなかった。
*
出す魔力を、減らした。
一匹を吹き飛ばす代わりに、前脚を払う。
倒れた体が道を塞ぐ間に、次の一匹を横へ逸らす。
大きな防御は張らない。
跳んだものの前にだけ、陣を開く。
『そうじゃ。全部を受け止める必要はない。届くところだけ変えろ』
マーカスの声が、近かった。
アレクは息を吸った。
胸の奥から、残っているものを引き上げる。
陣の縁が、一度揺れた。
押さえる。
「阻め」
一匹、止まった。
右に、もう一匹。
陣を移す。
左手で握っていた魔力が抜けた。
薄くなった防御を、長い前脚が破る。
アレクは体を捻った。
袖が裂け、二の腕に熱い痛みが走った。
地面を蹴る。
拳を突き出した。
「爆ぜろ!」
陣が、弾けなかった。
小さな光だけが、拳の前で潰れた。
アレクは前脚を掴み、体ごと引いた。灰色の体が道へ転がる。
手を離した途端、足がもつれた。
片膝が、土へ落ちた。
*
「動いた!」
レイラの声がした。
車輪が回る。
木の台が引き抜かれ、荷台へ放り込まれた。
アレクは右手を上げた。
指先に、円を描く。
輪郭の半分で、光が途切れた。
もう一度。
胸の奥が、空振りした。
息は吸えるのに、魔力がついてこなかった。
「……あと、ちょっとだろ」
向こう岸に、モルデカイが立っていた。
動き出した車へ腕を振り、それからこちらを見た。
最後の乗用車は、まだ橋の手前にいる。
自分が乗れば、出られる。
立とうとした。
膝が、持ち上がらなかった。
『アレク』
胸ポケットから、声がした。
『少し、体を貸せ』
「……魔力、もうねえぞ」
『残っとる。お主が陣を揃えようとして、ばら撒いとる分がな。今は、それも拾う』
灰色の体が、起き上がった。
アレクは、息を吐いた。
「頼む。みんなを守ってくれ」
『当たり前じゃ』
*
右手から、力が抜けた。
落ちると思った掌が、膝の上で止まる。
指が一本ずつ開いた。
アレクは、その動きを見ていた。
乱れていた呼吸が、ゆっくり整う。
足の裏が土を捉えた。
体が、静かに立ち上がる。
胸ポケットの中で、白いネズミが丸くなった。
肩の袋が、軽くなる。
銀の球が、口紐の間から浮き上がった。
肩の高さへ来ても、飛び回らなかった。
アレクの半歩後ろで、一つの陣をともす。
小さな光だった。
そこから細い線が、掌の前へ伸びた。
自分なら、もう一つ大きくする。
もっと魔力を流す。
指は、それをしなかった。
「退け」
自分の口から、低い声が出た。
跳んできた灰色の体が、ほんの少し傾いた。
着地するはずの前脚が、道の端を外す。
後ろから来た一匹が、その背へ乗り上げた。
二つの体が、溝へ転がる。
アレクの体は、それを確かめようともしなかった。
車へ向き直り、一歩を踏み出す。
急がなかった。
背筋は伸び、肩には余計な力が入っていない。
道が空いている時と、同じ歩き方だった。
銀の球が、肩の後ろを静かについてくる。
小さな陣も、一緒に移った。
*
左から、一匹が飛び出した。
体は、避けなかった。
踏み出す足の速さも、変わらない。
掌がわずかに返り、薄い陣が前脚の脇へ差し込まれた。
灰色の体が傾く。
その爪が地面を掻く頃には、アレクの体はもう隣を通り過ぎていた。
次の一匹へは、陣を向けなかった。
道端に転がった石へ、細い光が渡る。
石が、前脚の着く場所へ滑った。
踏んだ脚が崩れる。
倒れ込む体の鼻先を、靴がゆっくり通った。
歩幅も、足取りも変わらなかった。
群れが迫るたび、歩く先に必要なだけの道が空いていく。
魔力が増えたわけではなかった。
胸の奥に残る、わずかな流れを、アレクは感じていた。
その流れが、途切れない。
次の陣を描く場所も、魔力を渡す線も、迷わず揃っていた。
『よく見とけ。押す力は小さくても、崩れる場所へ当てればよい』
橋へ歩きながら、左手が上がった。
草の間から来た体の鼻先へ、薄い陣が差し込まれる。
頭が、横へ逸れた。
勢いのついた胴体は、そのまま川岸へ落ちた。
水音がした。
足は、止まらなかった。
『倒れたものへ、もう一度撃つな。もう、お主には届かん』
アレクは、動く自分の手を見ていた。
なぜ、こんなに小さな陣で間に合うのか。
なぜ、あんなに近くを通って、爪一つ触れさせないのか。
周囲では、土が跳ね、灰色の体が転がっていた。
その中を、自分の体だけが、何の妨げも受けずにまっすぐ歩いている。
優雅とさえ思える足取りだった。
最後の車の扉が、開いていた。
運転席から振り返ったレイラが、呼びかけようとして口を止める。
まっすぐ歩いてくるアレクが、穏やかに微笑んでいた。
目元の力が抜け、口の端がほんの少し上がっている。
いつもの彼なら見せない、こちらを安心させるような顔だった。
*
「アレク!」
レイラが、運転席から呼んだ。
アレクの手が、扉の縁を掴む。
片足を載せ、座席へ体を押し込んだ。
銀の球が肩を越え、足元の袋へ戻る。
『ここまでじゃ。陣を解くぞ』
アレクは頷こうとした。
顎が、胸へ落ちた。
体が、急に重くなった。
「……乗った」
「見れば分かる! 腕、入れて!」
肘を引く。
扉が閉まった。
車が動き出す。
後ろで、銃声がした。
対岸の男たちが、橋へ近づいた魔物を撃っている。
車輪が板を踏んだ。
揺れが、背中へ伝わった。
橋を渡り終えたところで、モルデカイが車の脇へ来た。
「全員、渡った。歩く者も、もう先へ出とる」
アレクは顔を上げた。
「……ほんとか」
「名前を確かめた。お前で最後だ」
アレクは、息を吐いた。
視界の端で、川と橋が遠ざかる。
灰色の体が見えたが、数えられなかった。
*
街道へ戻るまで、レイラは車を止めなかった。
前には荷車がいた。
その先を、家族が歩いている。
アレクは、座席に沈んでいた。
右手を持ち上げようとして、やめた。指先が、膝の上で震えている。
胸ポケットの中で、何かが動いた。
『眠れ。今の手本の話は、起きてからじゃ』
「……爺さん、歩くのも、うまいんだな」
『お主が、止まりすぎなんじゃ』
アレクは笑おうとした。
息だけが、漏れた。
窓の外で、あの老人の乗った荷車が並んだ。
息子に支えられ、老人がこちらへ頭を下げる。
「アレク様……」
震える声がした。
アレクは、目を向けた。
「……様はいらねえよ。俺、雇われてるだけだし」
老人は何度も頷いた。
それでも、涙は止まらなかった。
後ろから、声が重なった。
「ロス家の方だったのか」
「ブランカ様の……」
アレクは、目を閉じた。
さっき言ったことを、今になって思い出した。
レイラが、少しだけこちらを見た。
すぐに、前へ目を戻す。
「寝てて。港まで、私が連れていくから」
アレクは返事をしようとした。
声にならなかった。
最後に聞こえたのは、自分の名を呼ぶ人たちの声だった。




