第12話 置いていくもの 挿絵有り
パンを食べ終える頃には、食堂の卓が足りなくなっていた。
宿の主人が隣の卓を寄せ、椅子を運んでくる。畑から呼び戻された男の靴には、湿った土が付いていた。
アレクは席を譲り、壁際の長椅子へ移った。
昨夜、荷を受け取った男が、卓の奥へ座る。集落のまとめ役をしているという。倉庫の帳面に加え、今日は各家から聞いたことを書き付けた紙も持っていた。
「まず、エーガーさんに道の様子を聞こう。そのあとで、皆の話を聞かせてくれ」
「今朝、見てきてもらった道は使えん。黒いものが、魔物と一緒におった」
モルデカイの前に、地図が開かれている。
「昨日の街道も群れが出た。荷を運ぶ者に、いつも通り通れとは言えん状況だ。港へ知らせる。その上で、こちらが何日持つか、確かめておきたい」
卓を囲んだ男たちが、顔を見合わせた。
「小麦粉なら、今朝お伝えした通りです。昨日の分を入れても、次の荷が来なければ……」
「芋はある。うちは、まだ去年のが残っとる」
「食うだけなら、しばらくは何とかなるだろう。だが、車の油も薬も、こっちじゃ作れんぞ」
モルデカイは帳面へ書き込んだ。
アレクは、窓の外へ目を向けた。
子供が二人、水の入った桶を運んでいる。一人では持てないらしく、両側から取っ手を掴んでいた。
食堂の中で道の話をしていても、集落の仕事は続いていた。
*
「港へ移った方がよくないか」
アレクが言うと、鍬を壁へ立て掛けた男が振り返った。
「畑はどうする」
「……置いていくしかねえだろ。魔物が来るかもしれないんだぞ」
「今、置いていけば、今年の食い扶持がなくなる。港へ行ったら、誰が食わせてくれるんだ」
アレクは口を開きかけた。
先に、別の男が言った。
「親父は、長く歩けん。車に乗せてもらえるならいいが、あんたらの車だけじゃ全員は乗らんだろう」
窓際で、杖を両膝の間に立てた老人が顔を上げた。
「儂の足のことは、儂に聞け」
「歩けるのと、港まで歩くのは違うだろ」
息子らしい男に言われ、老人は鼻を鳴らした。
けれど、反論は続かなかった。
「港へ移るにしても、着いてから暮らす場所が要る。エーガーさん、商会で頼れるところはあるか」
まとめ役の男に聞かれ、モルデカイが帳面から顔を上げる。
「港の商会の倉庫なら、荷を寄せて場所を作れる。寝具も食料も要るが、まず雨風をしのぐ場所はある」
「そこへ、みんなで押しかけるんですか」
「そのために、私が話をする。家を用意できるとは言っとらん。畑の代わりも、すぐには出せん。だが、着いたその日に路上で寝ろとは言わん」
太い指が、地図の港を押さえた。
「こちらに残るなら、荷が途切れた場合と、魔物が来た場合の支度が要る。移るなら、人をどう運ぶか決めねばならん。どちらも、今日のうちに考えておきたいんだ」
畑の話をした男は、地図を見下ろした。
まとめ役が、手元の紙を広げる。
「人数は、各家に確かめてもらう。寝込んでいる者も、歩ける距離が分からん者も、漏らさず書いてくれ。移るかどうかは、その支度と一緒に相談しよう」
「車を出せる家も教えてくれ。うちの車だけでは足りんからな」
モルデカイは帳面へ目を戻した。
*
庭では、レイラが荷物車の運転手と話していた。
アレクが外へ出ると、彼女は荷台の縁へ手を置いた。
「こっちは荷を下ろしてるから、人を乗せられる。でも、そのまま座らせると揺れて危ないわ。板で腰掛けを作って、掴まれる綱を張りたいの」
「板なら、宿の裏に積んであったぞ。持ってくるか?」
「使っていいか、先に聞いてきて。あと、水の樽も残す。人を乗せるからって、全部空けるわけにはいかないから」
アレクは頷いた。
庭の端では、農夫が二人、荷車の車輪を確かめている。商会のものとは違う、木の荷台を載せた小さな車だった。
「あれも出せるのか」
「動くって。ただ、重くすると坂を上がれないそうよ。もう一台は直せるかどうか、これから見る」
レイラは布で手を拭いた。
「あなたたちの乗用車には、横にならないといけない人を乗せたい。座席を外せば、少し場所を作れるから」
「モルデカイとマリアは?」
「荷物車の方へ。マリアちゃんには、ちゃんと座れるところを作るわ」
運転手が荷台へ上がった。
レイラも工具袋を持ち直す。
まだ出発は決まっていない。
それでもレイラは、人を乗せる支度を進めていた。
*
宿の主人から板を借り、アレクは庭へ運んだ。
一枚目を荷台へ渡したところで、門の方から声がした。
「人が来たぞ!」
街道の先に、二人の男が見えた。
一人が、もう一人の腕を肩へ回している。支えられている男の靴は片方なく、足を引きずるたび、白い脛が覗いた。
門番が走った。
アレクも板を置き、そちらへ向かった。
「担架! 歩かせるな!」
宿の前で、誰かが叫んだ。
男は門柱へ手をついた。顔を上げ、庭に止まった荷物車を見た途端、膝を折る。
アレクが脇へ腕を差し入れた。
「おい、座れ。もう着いたから」
「……荷が」
男の唇は、ひび割れていた。
「荷を、置いて……」
モルデカイが食堂から出てきた。
男の顔を見て、足を速める。
「お前、三日前に港を出た車の者か」
男が頷いた。
「荷はあとで聞く。何人乗っとった。ほかの者は、どこにおる」
「四人……二人、沢の小屋に。こいつが、畑に来て……」
男は、自分を支えてきた農夫へ目を向けた。
「あっちの畑で見つけたんです。水車小屋の方から、這って来たらしくて」
農夫が答える。
診療所の者が、担架を持って駆けてきた。
モルデカイは道を空け、男の顔へ身を屈める。
「残った二人は、生きとるんだな」
「はい。一人、足が……動けなくて」
「分かった。場所だけ教えてくれ。それが済んだら、あとは休め」
*
男の指した場所は、アレクたちが朝に通った道ではなかった。
港から来る街道の、集落より手前。
荷物車はそこで灰色の群れに襲われ、道を外れて横倒しになったという。
「四人って言ったよな。小屋に二人で、あんたが一人。もう一人は?」
アレクが尋ねると、男は口を閉じた。
担架の上で、胸に掛けられた布を握る。
「……分からん。車から飛び下りたのは、見た。俺らと反対へ走って……」
モルデカイは、少し待った。
「小屋へ行く者に、探せる範囲を見てもらう。お前は、見たことだけ話せばいい」
男は頷いた。
「灰色の奴らは、小屋まで来たのか」
「川を渡っては、来なかった。車の辺りを……昨日も、動いとった」
アレクは地図を見た。
朝、自分で書いた文字とは別の場所へ、印が増えていた。
あの坂を塞いでも、こちらの道は空いている。
魔物は、その道を歩いてくる。
*
まとめ役が小屋への道を確かめ、集落の男たちへ声を掛けた。畑の裏道から、迎えに行くという。
先ほど男を見つけた農夫が、道を知っていた。黒服の一人が銃を持って同行し、動けない者を運ぶ荷車も出した。
「俺も行く」
アレクが言うと、モルデカイは首を振った。
「お前はここにおれ。迎えに出た間、こっちへ来られては困る」
「でも、向こうにもいるかもしれねえだろ」
「だから、街道へは出さん。小屋の二人を拾って戻る。車と荷の回収は、今はせん」
黒服の男が頷いた。
アレクは門の外を見た。
銃を持った門番が一人、こちらに残る。
食堂の戸口には、集落の人たちが集まっていた。
「……分かった。気をつけてくれ」
アレクが言うと、黒服の男は帽子の縁へ触れた。
*
日が傾く前に、荷車が戻った。
乗っていたのは二人だった。
一人は足へ板を添えられ、もう一人は荷台の端を掴んでいる。集落の女が駆け寄り、その男の肩へ両手を置いた。
迎えに出た黒服は、門の内側でモルデカイへ話した。
「小屋の周りにはいませんでした。車の方は見に行っていません。帰りに、畑の向こうを三匹。こちらへ向かっていました」
「距離は?」
「すぐ来るほどでは。ただ、あのまま進めば、この集落に当たります」
モルデカイは、そばにいたまとめ役へ顔を向けた。
「見張りを増やしたい。畑へ出とる者も、呼び戻してもらえるか。うちからも一人、門に付ける」
「分かった。北の畑道にも、人を立てよう」
男が門番を呼んだ。
モルデカイは黒服へ残るよう伝え、食堂へ戻った。
卓には、人数を書いた紙が置かれていた。
その横に、車と荷車の台数。
まとめ役が、その紙を皆に見えるように置いた。
「荷が遅れているだけなら、まだ待てた。だが、迎えに行った者も魔物を見た。今の柵と銃だけで、家族を守り切れるとは言えん」
昼に畑の話をした男が、顔を上げた。
「……出るなら、いつだ」
まとめ役はレイラへ車の支度を確かめ、モルデカイを見る。
「運ぶ方は、どうだろう」
「今夜のうちに積み終えれば、明朝には出せる。暗い道へ出るより、見えるうちに移動したい。私のところは、そのつもりで用意する」
「今夜、来たら?」
「見張りを交代で立てる。来たら、すぐ皆を起こす。歩く者も、宿の前へ集まってくれ」
まとめ役が答えると、モルデカイも頷いた。
「車は門へ向けておく。乗せる順を決めて、夜でも迷わんようにしておこう」
モルデカイは、アレクへ目を向けた。
「その場合は、お前にも頼む」
「ああ。寝る時も、靴は履いとく」
男が、息を吐いた。
「芋を、少し積ませてくれ。港へ着いて、すぐ全部あんたの世話になるわけにもいかん」
「食うものは持っていく。重さを見ながら、分けて積もう」
まとめ役は、卓を囲む顔を一人ずつ見た。
「明朝、港へ移る。それでいいか」
小さな返事が重なった。畑の話をした男も、ゆっくり頷く。
「まだ迷っている家には、俺から話をしに行く。各家で、持ち出すものを決めてくれ」
モルデカイが、新しい紙を引き寄せた。
「受け入れ先や運ぶことで聞きたいことがあれば、私も一緒に行こう。ただ、積める量には限りがある。それは先に伝えてくれ」
*
夕方の庭に、荷物が並んだ。
布団。鍋。着替えを包んだ布。
アレクが板を渡している間に、大きな衣装箱まで運び込まれていた。
「それを積むと、人の場所がなくなる」
レイラが言った。
箱を抱えた女が、困った顔をする。
「母のものなの。服だけじゃなくて、中に……」
「箱から出して、小さく包めない? 割れ物なら、服の間へ入れれば運べると思う」
女は箱を見下ろした。
やがて膝をつき、蓋を開く。
アレクは、その隣へ布を一枚置いた。
「これ、余ったやつ。使っていいってさ」
女が小さく礼を言った。
箱の中から、額に入った写真が出てきた。
女は袖で表面を拭き、服へ包んだ。
アレクは、開いた蓋から目を離した。
*
マリアは、食堂の主人とパンを包んでいた。
庭へ出てきて、小さな包みを父へ渡す。
「これ、明日の分。お水も、車に載せたよ」
「ありがとう、マリア。助かった」
モルデカイは包みを受け取り、娘の髪に付いた粉を払った。
「お前はそろそろ休もう。明日は早く起こすからな」
「パパは、まだお仕事?」
「人数をもう一度、確かめてから行く。先に主人のおかみさんと、部屋へ上がっておいで」
マリアは頷いた。
戸口で振り返り、荷台の綱を引いているアレクを見る。
「お兄ちゃんも、ちゃんと寝てね」
「おう。これ結んだら、飯食って寝る」
「また食べるの?」
「明日の分まで食っときたいんだよ」
マリアが、少しだけ笑った。
手を振って、宿の中へ戻っていく。
『食い溜めで魔力が戻るなら、苦労はせんわい』
胸ポケットから、念話が来た。
「減らすよりはいいだろ」
アレクは綱を引いた。
新しく作った腰掛けは、動かなかった。
*
夜の食堂で、まとめ役が各家の返事を確かめた。
出発する人数が揃うと、モルデカイが車の割り振りを書いた紙を広げる。
港へは、来た時の街道を戻る。
水車小屋の近くで襲われた場所を避け、途中だけ畑の道へ回る。迎えに行った者たちが通った道だ。
狭い橋があり、車を一台ずつ渡す必要がある。
そこで列が詰まらないよう、歩く者を先に進める。
「乗れる者から勝手に乗るんじゃない。寝かせる必要のある者、子供、長く歩けん者を先に乗せる。歩ける者にも、途中で交代してもらう」
レイラが地図へ指を置いた。
「畑の道では、車同士の間を空けて。前が止まったら、押し込まないでください。荷車の車輪が溝へ落ちると、引き上げる場所もないので」
男たちが頷いた。
窓際の老人は、杖を膝へ載せて聞いていた。
息子が何か言いかけると、今度は先に頷く。
「橋までは乗せてもらう。向こうへ渡ったら、足を見て決める」
「そうしてくれ」
息子が答えた。
モルデカイは紙へ印を付け、最後にアレクを見た。
「お前には、後ろを頼みたい。銃を持つ者も付ける。先に出た者へ追いつかれんよう、見ていてくれ」
「殿ってやつか」
「そうだ。車列から離れすぎるな。追ってきても、追い返した先まで行く必要はない」
アレクは地図を覗いた。
橋の向こうから先にも、道は続いている。
「分かった。こっちが進めばいいんだな」
「ああ。最後の車には、お前を拾える席を空けておく。乗り損なうんじゃないぞ」
レイラが、アレクの方へ顔を向けた。
「私が運転する。乗る時は呼んで。ちゃんと止めるから、走ってる車へ飛び乗ろうとしないでよ」
「まだ何もしてねえだろ」
「しそうだから、先に言ってるの」
アレクは口を閉じた。
ポケットの中で、白いネズミが頷いていた。
*
夜が明けるまで、門の外から銃声はしなかった。
アレクが庭へ出ると、もう車に人が乗っていた。
荷台の綱を握る手。膝へ抱えた包み。毛布にくるまれ、目だけを出した子供。
まとめ役が各家の名前を読み、一人ずつ返事を聞いていた。
モルデカイはその横で、乗る車を伝えている。
宿の主人が、入口の鍵を掛ける。
二度引いて確かめてから、鍵を懐へ入れた。
空になった衣装箱が、軒下に置かれていた。
アレクは肩の袋を掛け直した。
胸ポケットで、白い頭が上がる。
『眠れたか』
「まあな。爺さんは?」
『お主の寝言で、一度起こされたわい』
「それ、俺が悪いのかよ」
ネズミは、ひげを撫でた。
前の車が動き出した。
歩く人たちも、それに続く。門を抜けたところで、何人かが振り返った。
畑へ通じる道。
宿の窓。
煙の出ていない、家々の煙突。
後ろから来た家族が、立ち止まった男へ声を掛けた。
男は頷き、また歩き始める。
モルデカイがマリアを抱き上げ、荷物車の腰掛けへ座らせた。
綱を握らせ、自分もその隣へ乗る。
「全員出たら、門を閉めてくれ。鍵は持っていけ」
まとめ役の声に、門番が返事をした。
最後の車の窓から、レイラが顔を出す。
「アレク、最初は乗って。何もいないうちから、走って付いてくることないでしょ」
「歩くつもりだったんだけど」
「余計に時間がかかるわ。ほら」
助手席の扉が開いた。
アレクは乗り込み、窓から後ろを見た。
銃を持つ男たちが、荷車の両側を歩いてくる。
その最後に、門が閉じた。
アレクは、開けた窓へ肘を載せた。
列が進む速さは、自分一人で歩くより遅かった。
その速さで、港まで行くのだった。




