第2話 勘定と感情 挿絵有り
――旧ローデリア王国、ロス地方沿岸――マルドー自治区。
マルドー湾へ、一隻の貨客船が静かに入ってきた。
沖で火を落とした煙突からは、細い煙がわずかに尾を引いている。魔導機関へ切り替えた船は、波を押し分け、ゆっくりと岸壁へ近づいていく。
「アレク、ご苦労だったな。オメエさんの魔力量たいしたもんだ」
舵輪を握る船長が、隣へ声をかけた。
銀髪の青年は、壁に据え付けられた魔導機関の給魔板から手を離さず、胸ポケットをじとりと見下ろした。
「鍛え方が違うからな」
返事はなかった。
ここ数日、胸ポケットは空である。
「湾内じゃ煙を抑えるために、魔導機関付きの船はそっちで入る。守らなきゃ入港税が上乗せ、だったか?」
「よく覚えたな。船が集まると、町にも荷にも煤がかかる。港からのお達しだ」
「なら、その分を俺の賃金に上乗せしとけよ」
船長は鼻で笑った。
「ほう。密航者風情が偉そうだな。簀巻きにしてサメの餌にされたって、文句は言えねえんだぞ」
「いやいやいや、船長様の寛大なご配慮のおかげで、快適な船旅を堪能いたしました!」
「ふふん。これに懲りたら、密航なんぞやめるこった」
船長は窓の外へ目を戻した。
岸壁の人影が、顔の見分けられる距離まで近づいている。
「出力、そのまま。もう少しだ」
アレクは給魔板へ意識を戻した。
機関がマナを吸い上げる感覚が、掌から腕へ伝わってくる。
大きな船を動かすための機構にしては、流れが細い。気を抜いて流し込みすぎれば、機関の方が先に悲鳴を上げる。
最初に手を貸した時は、船長にも悲鳴を上げさせた。
あれ以来、出力を上げるたびにこちらを睨んでくる。
「……もう慣れたって」
「何も言っとらん」
「目が言ってる」
船長は笑い、岸へ合図を送った。
*
綱が張られ、渡し板が下ろされた。
甲板は、たちまち足音と掛け声で賑やかになった。
荷物を抱えた乗客が下り、港の荷役人が入れ違いに乗り込んでくる。
アレクはずだ袋を肩へ掛けた。
持ち物は、増えていない。
服の汚れと、手の傷は増えた。
「おい、アレク」
渡し板へ向かうところで、船長に呼び止められた。
「ほれ」
小さな袋が飛んできた。
受け止めると、ずしりと重い。
中で硬貨が鳴った。
「お、と……って、こんなに? いいのか?」
「ああ。オメエの陣魔じ、、、いや、魔術のおかげで、水にも困らんかった。魔導機関にも手を貸してもらったしな。助かったよ」
船長は顎を掻いた。
「船賃を引いた、オメエの取り分だ。少し上乗せした。餞別だと思って持っていけ」
アレクは袋を見た。
船長を見た。
さっきまでの軽口が、うまく出てこなかった。
「……ありがとう」
「おう。次に乗る時は、券を買えよ」
船長は片手を上げ、荷役人たちの方へ歩いていった。
アレクも手を上げてから、渡し板へ足を踏み出した。
久しぶりの陸は、動かなかった。
そのはずなのに、歩くたびに足元がふわふわ揺れている気がした。
*
港は忙しかった。
荷車が行き交い、樽が転がり、どこを歩いていても誰かに退けと言われる。
アレクは人の流れを抜け、倉庫の間の路地へ入った。
壁際の木箱に腰を下ろし、ずだ袋を膝へ載せる。
「さてと……マーカス爺さん。もう出てきていいぞ」
袋の口が、もぞりと動いた。
白い鼻先が覗き、続いて耳が出る。
ネズミは周囲を見回してから、ようやく外へ這い出した。
『やれやれ。ひどい目に遭ったわい。あの三毛猫め、ずっとワシをつけ狙いおって』
小さな鳴き声に合わせ、老人の声がアレクの頭へ響いた。
マーカスは前脚で耳を撫で、乱れた毛を懸命に直している。
「あいつらもネズミ退治が仕事だからな。爺さんが動かしてたって、ネズミはネズミだろ。労働は大事だぜ」
アレクは鼻歌交じりに報酬の袋を開け、銀貨を数え始めた。
『密航がばれた挙げ句の強制労働に秘匿事項の陣魔法をバンバン使うことがか?』
「仕方ないだろ。嵐で食料は流されるわ、水樽に海水は入るわ。俺が手を出さなきゃ、遭難だぜ。遭難!」
『プロの船乗りは、予備の手段も用意しとるもんじゃ。相変わらずの早合点を』
「でも、助かったって言ってたし余計な詮索しないでくれたろ」
『それはそうじゃな』
あっさり認められ、アレクは銀貨を数える手を止めた。
マーカスは髭を撫でている。
「……何だよ」
『別に。お主、礼を言われると、いちいち妙な顔になるのう』
「うるせえ」
銀貨を袋へ戻し、口を縛る。
船賃を払って乗ったことはないが、働いて金をもらうのは、悪くないと思った。
「で、この町はどっちへ行けばいいんだ?」
『まずは宿じゃな。日が暮れてから探すと、ろくなことにならん』
「飯も食いたい」
アレクが袋を懐へ仕舞った時だった。
路地の入口で、鈴が鳴った。
マーカスの耳が立つ。
荷車の車輪の向こうから、三毛の顔が覗いた。
『……あやつじゃ』
「お。あいつも下りてきたのか」
猫は、アレクを見た。
膝の上を見た。
姿勢を低くした。
マーカスが走った。
『何でここまでついてくるんじゃ!』
「そっちは袋と反対――」
猫が跳んだ。
白い毛玉が木箱から飛び下り、路地の向こうへ駆けていく。
三毛の影が、その後へ続いた。
「爺さん!」
アレクはずだ袋を引っ掴み、追いかけた。
*
路地を抜けた先には、露店が並んでいた。
魚を売る声に、焼いた肉の匂い。
その一角で、白い毛玉が商品台へ駆け上がった。
並んでいるのは、色付きの酒瓶と陶器の器だった。
板の床に柱を立て、薄い屋根を載せただけの小屋だ。店主は脇の石畳に立っていた。
マーカスは瓶の間へ潜り込む。
猫が台の縁へ前脚を掛けた。
「こら! 何だ、お前ら!」
店主が振り返った。
猫が跳び上がる。
瓶がひとつ、ぐらりと傾いた。
アレクは手を突き出した。
「浮け!」
硬貨ほどの陣が灯り、掌ほどの円を描く。
その外周から光が伸び、商品台を覆う大きさの紋様を中空へ組み上げた。
さらに外側へ、もう一つの円。
広げすぎた光が床の下へ潜り、柱も屋根もまとめて囲んだ。
倒れかけた瓶が、止まった。
その隣の器も、酒瓶も。
白いネズミも、三毛猫も。
台の上にあるものが、一斉に浮き上がった。
その下で床板が軋み、柱ごと地面を離れた。
小屋が、丸ごと浮いていた。
「よし!」
『よし、ではない! 猫もおる!』
宙に浮いたマーカスが、じたばたと脚を動かした。
すぐ下で、猫も四本の脚を広げていた。
猫が前脚を伸ばす。
マーカスの尻尾をかすめる。
『上じゃ! もっと上げい!』
アレクは手を持ち上げた。
浮いたものが、ゆっくり上がる。
思ったより重い。
酒瓶だけではない。床も、柱も、屋根まで持ち上げていた。
店主が、自分の店を見上げて口を開けている。
「なら、もう一枚! 重ねろ!」
最初の小陣が、描き終えた紋様の上へ走る。
輝く紋様に、新たな陣が重なった。
同じ働きをする魔術を、もう一つ。
流すマナを増やし、アレクは腕を振り上げた。
浮いていた一団が、勢いよく跳ね上がった。
「うおっ!」
店主が仰け反った。
マーカスが酒瓶へぶつかった。
猫がその瓶を蹴り、前脚を伸ばす。
追いかけっこは、宙でも終わらなかった。
「だから、動くなって!」
アレクは猫を避けようと、力場を横へずらした。
瓶と器が、まとめて店主の方へ流れた。
「こっちへ寄越すな!」
今度は反対へ。
アレクは、全体を手の届く高さまで下げた。
マーカスが目の前を通ったので、左手で掴んだ。
猫も、その手に飛びついた。
「痛っ!」
右手が揺れた。
陶器の鉢がひとつ、支えていた範囲からこぼれた。
アレクは慌ててそちらへ力場を広げた。
今度は逆側の瓶が、落ちた。
乾いた音が、石畳へ響いた。
ひとつ。
続いて、ふたつ。
「何がどーなってるんだ!やめてくれー!」
店主の悲鳴に、アレクは腕を止めた。
目の前で、残った器と酒瓶が揺れている。
左手には爺さん。
その腕には猫。
足元には、破片と酒が広がっていた。
『……ほれ。制御が甘い』
「今それ言うな!」
*
猫は、店主がアレクの腕から剥がしてくれた。
小屋を慎重に元の場所へ下ろし、無事だった商品も、一つずつ台へ戻した。
割れたものは、戻らなかった。
店主は濡れた石畳を見て、頭を抱えた。
「弁償します」
アレクは、先に言った。
船長からもらった袋を開ける。
銀貨が並んだ。
店主が割れた商品の値段を数え、銀貨を取っていく。
袋が軽くなった。
最後には、何も鳴らなくなった。
「……これで、全部です」
店主はアレクを見た。
銀貨を見て、長く息を吐いた。
「少し足りんが、あとは片付けを手伝え。素手で拾うなよ。そこに箒がある」
アレクは頷いた。
今度は、魔術を使わなかった。
*
片付けを終えたアレクは、露店から少し離れた木箱へ座った。
空の袋を逆さにして振る。
銀貨は出てこなかった。
もう一度振っても、同じだった。
『確かめんでも、空じゃよ』
「さっきまでは、あったんだよ」
マーカスは膝の上で毛を直していた。
猫は店主から魚の切れ端をもらい、向こうで食べている。
今回いちばん得をしたのは、あいつらしい。
「海では、あれで上手くいっただろ」
『海には、売り物の酒瓶が浮いとらんかったからのう』
アレクは空の袋を丸めた。
「浮かせる力なら、足りてた」
『足りすぎじゃ。途中でもう一枚、重ねたじゃろ』
「重かったんだよ」
『そこで加減を覚えんから、同じことになるんじゃ』
アレクは、自分の右手を見た。
小さな陣に次の陣を描かせ、さらに大きな陣を描かせる。
完成した紋様へマナを流せば、魔術は発動する。
同じ働きの陣を重ねれば、その分だけ出力も積み上げられた。
手順は、すべて陣魔法に組み込まれている。
「浮け」は、その最初の陣を起動するための合図だった。
ひと言から始まる連鎖が、瓶も猫も海水も持ち上げる紋様を描き上げる。
どの範囲に、どれほどの力を働かせるかは、アレクが与える魔力と制御次第だ。
『昔のやり方なら、あれだけの陣を描くのに、どれほどかかると思う?』
マーカスが言った。
「身振り手振りで、一つずつ描いて……呪文でマナを流して」
『そうじゃ。出力を上げるためにもう一つ重ねたければ、それも描かねばならん。描き損じれば、そこからやり直しじゃ』
アレクは右手の人差し指を曲げた。
「俺は『重ねろ』だけで済む」
『描き直す手順も、先に用意してあるからのう。じゃが、陣が増えた分の魔力まで、どこからか湧くわけではないぞ』
「猫に食われてるな、爺さん」
『その前に、お主が素手で追い払えばよかったんじゃ!』
アレクは向こうの猫を見た。
腕に爪を立てられた時より、ずいぶん穏やかな顔をしていた。
『陣を早く描けるのは、陣魔法の利点じゃ。重ねるのも容易い。じゃが、何を浮かせるか、どこまで動かすかは、使う者が決めるんじゃぞ』
「……へーへー」
『返事が軽いのう。財布も軽うなったというのに』
アレクは空の袋を握った。
「半分は、爺さんを助けたせいだろ」
『残りの半分は?』
「猫」
『お主は入っとらんのか』
返事を考えていると、腹が鳴った。
「お兄ちゃん?」
アレクは顔を上げた。
赤い髪が、目に入った。
*
「ここにいたんだ、アレクお兄ちゃん!」
マリアが近づいてきた。
後ろにはモルデカイと、あの黒服の男もいる。
「下りたと思ったら、どこへ行ったか分からん。探したぞ」
モルデカイは今日も、たいそう立派なヒキガエルだった。
上着は新しくなっているが、金の鎖と指輪の量は変わらない。
港の熱気で浮いた汗が、その顔をてらてらと光らせていた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
マリアが、アレクの手元を覗いた。
空の袋がぶら下がっている。
「……働く理由が、また出来た」
「また?」
モルデカイの小さな目が、袋へ向いた。
「船長から賃金をもらっただろうが。もう使ったのか?」
「使ったというか……」
アレクは露店を見た。
店主は、残った器を並べ直していた。
モルデカイも、そちらを見る。
「何をした?」
アレクは説明した。
猫。
ネズミ。
魔術。
酒瓶。
説明するほど、モルデカイの顔が渋くなった。
「……お前、あの時と同じことをしたんか」
「今回は水じゃなくて、瓶だった」
「そこを言っとるんじゃない」
胸ポケットで、マーカスが小さく鳴いた。
いつの間にか、膝から引っ込んでいた。
モルデカイは露店へ歩いていき、店主と少し話をした。
戻ってくると、アレクを見下ろした。
「弁償は済んだそうだな」
「ああ。残りは片付けで勘弁してもらった」
「逃げんかったのは、まあ、ええ」
それから、深いため息をついた。
「その魔術を使えるのに、何で猫一匹で一文なしになれるんだ」
「……俺も、それは思ってる」
マリアが笑った。
「じゃあ、うちに来ればいいよ!」
「マリア。お前が決めるんじゃない」
「でも、パパも誘うつもりだったんでしょう?」
モルデカイは口を開いた。
閉じた。
アレクは、船でも見た顔だと思った。
「……支店に、客用の部屋が空いとる」
アレクは箱から立ち上がった。
「今、払うもんが何もないんだけど」
「分かっとる。空の袋を、いつまで振っとるんだ」
モルデカイは、アレクの手にある袋を押し下げた。
「泊まる分は、また働いて返せばええ。仕事と賃金は、始める前に決めるぞ」
「飯も?」
「食わんと働けんだろうが」
アレクの腹が、もう一度鳴った。
モルデカイが鼻を鳴らす。
「まずは飯だ。仕事の話は、それからにしよう」
マリアが、アレクの袖を引いた。
「行こう、お兄ちゃん!」
*
エーガー商会の支店は、港から少し離れた大通りにあった。
一階では帳面を抱えた人間が忙しく行き来し、奥の倉庫からは荷を下ろす音がする。
モルデカイが入ると、従業員が一斉に頭を下げた。
「空いとる客室をひとつ。湯を用意してくれ。あと、この若者に着替えを」
次々に出される指示を聞き、アレクは自分の袖を見た。
乾いた塩が白く残り、手首の辺りには拭き掃除の染みがある。
「着替えまでいいのか?」
「その服で食卓へ来る気か?」
返す言葉がなかった。
案内された部屋には、寝台があった。
机と椅子もあった。
窓まで付いていた。
アレクは入口で立ち止まった。
「……ここ、俺が使っていいのか?」
「そのために連れてきたんだろうが」
モルデカイは怪訝な顔で答えた。
マリアがくすくす笑う。
「今度は、隠れなくていいんだね」
アレクは寝台へ手をついた。
柔らかかった。
押しても、揺れなかった。
「湯を使ったら、下りてこい。夕飯にする」
モルデカイは扉の前で足を止めた。
「仕事の話は明日だ。今日は、もう休め」
アレクは顔を上げた。
「……ありがとう」
モルデカイは手を振り、廊下へ出ていった。
マリアも、その後に続く。
「ご飯の時、隣に座ってね!」
そう言い残して、扉が閉じた。
アレクはしばらく扉を見ていた。
それからずだ袋を寝台へ置き、口を開けた。
『猫はおらんか?』
白い鼻先が覗いた。
「最初にそれかよ」
『大事なことじゃ』
マーカスは寝台へ下り、布の上を歩いた。
前脚で押してみる。
もう一度押す。
『ほう。よい寝床じゃな』
「俺の寝床な」
*
湯を使い、用意された服に着替えると、体が少し軽くなった。
袖はやや長かったが、塩でごわつかないだけでも十分だった。
アレクは濡れた髪を拭きながら、階段を下りた。
「お兄ちゃん、こっち!」
マリアが食卓から手を振っていた。
隣の椅子を、空けてある。
モルデカイは迎えようと顔を上げ、わずかに目を細めた。
汚れが落ちると、ずいぶん印象が違った。
くすんでいた髪は灯りを受けて銀色に光り、露わになった額から鼻筋へ、すっきりとした線が通っている。
目の下には疲れが残り、鳶色の瞳は相変わらず険しかったが、その顔立ち自体は、よく整っていた。
「……何か付いてるか?」
見られていることに気づいたアレクが、頬を擦った。
「いや。座れ」
「お兄ちゃん、髪を洗うと本当に銀色なんだね」
「前から銀色だよ」
アレクはマリアの隣へ腰を下ろした。
食卓には、焼きたてのパンと、湯気の立つ煮込みが並んでいた。
肉と香草の匂いがする。
腹が鳴りそうになり、アレクはそっと息を吐いた。
折られたナプキンを取り、膝へ広げる。
椅子へ深くもたれず、自然に背筋が伸びた。
給仕が皿を置くと、小さく礼を言った。
それから、マリアの前にも料理が置かれるのを待った。
モルデカイは、パンへ伸ばしかけた手を止めた。
腹を空かせているのは分かっていた。
さっきから、料理へ目が向いている。
それでもアレクは、こちらが食事を始めるまで、道具に手を付けなかった。
「冷めんうちに食え。遠慮はいらん」
「ああ。ご馳走になる」
ようやくスプーンを取った。
食べるのは早かった。
だが、口へ運ぶ量は無理がなく、皿にも道具にも音を立てない。
パンは一口分ずつちぎり、肉を切る時も、持ち替える手に迷いがなかった。
モルデカイは、自分の皿へ視線を落とした。
商売柄、金を持つ者とは大勢食事をしてきた。
席へ着くなり礼法を披露したがる者も、珍しくはない。
この若者には、そういう気負いがなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。どうして船に隠れてたの?」
マリアの問いに、アレクの手が止まった。
口の中のものを飲み込む。
ナプキンで口元を押さえてから、少女へ顔を向けた。
「船賃がなかった」
「でも、今日もなくなっちゃったね」
「……そうだな」
「次は、ちゃんと買えるといいね」
アレクは少し困った顔をした。
それから、笑った。
「次こそはな」
険しかった目元が、ふっと緩んだ。
マリアも笑い、煮込みの肉をスプーンで追いかける。
その会話の間も、アレクの姿勢は崩れなかった。
道具を持つ手も、皿の縁に置く位置も、意識して直す様子がない。
なるほど、とモルデカイは思った。
陣魔法を使えるだけの若者ではない。
この所作が当たり前になるまで、誰かが手をかけて育てたのだ。
洗い立ての袖口からは、傷の多い手が覗いていた。
爪の脇にも、まだ落ち切らない汚れが残っている。
モルデカイは、それ以上は尋ねなかった。
「この若者に、もう一皿用意してやってくれ」
給仕へ声をかけると、アレクが顔を上げた。
「いいのか?」
「足りんだろう」
「……かなり」
素直な返事に、モルデカイは笑った。
「なら食え。明日からの働きに期待しとるぞ」
アレクも口元を緩めた。
給仕が皿を下げようとすると、邪魔にならないよう手を引き、また小さく礼を言う。
モルデカイは満足して、残りのパンを取った。
*
部屋へ戻ると、マーカスは枕の上で丸くなっていた。
『遅かったのう』
「飯、食ってきた」
『知っとる。よい匂いが上まで届いとったわい』
アレクは布に包んだ小さなパンを、机の上へ置いた。
「もらってきたぞ」
『ほう。気が利くではないか』
白い毛玉が、すぐに起き上がった。
寝台から机へ移り、パンの周囲をひと回りする。
アレクは窓を開けた。
昼間より涼しい風が入り、遠くから荷車の音が聞こえてきた。
港の灯りの向こうには、暗い海が広がっている。
財布は空になった。
だが今夜は、腹も満ちている。
寝床を隠す必要もない。
窓を閉めて振り向くと、マーカスはパンを枕の上へ運んでいた。
「……せめて枕は残してくれ」
返事はなかった。




