第1話 密航者とヒキガエル 挿絵有り
第1章 密航者とヒキガエル
曇天の下、錆びた鉄のように赤い荒れ地が、地平線まで続いていた。
人の背丈ほどもある岩が、ぽつりぽつりと転がっている。草も木もなく、鳥の声さえ聞こえない。
風だけが乾いた土を巻き上げていくその場所で、若者と老人が向かい合っていた。
「ジジイ! 今日こそテメーを倒して、自由を勝ち取る!」
アレクは拳を握り締めた。
昨日の修練が脳裏をよぎる。思い出した途端、奥歯が鳴った。
『ほっほっほ。アレクや、その顔はなんじゃ? ワシの教えを受けられる幸運を噛み締めとるのかのう?』
老人は白い髭を撫で、楽しげに目を細めた。
アレクが睨むと、ますます嬉しそうな顔になる。
『それと、年上には敬意を払えと、いつも言っておるじゃろ。マーカス先生、一手ご教授よろしくお願いします、と言うのじゃ』
「黙れえええ!」
叫びながら、口元へ魔力を集める。
「閃け!」
唇の前に小さな陣が灯った。
その円がひとつ先の紋様を描き上げ、白い閃光を放つ。
視界が白く染まる。
その間に地面を蹴り、老人へ飛びかかった。
「爆ぜろ」
短い言葉とともに、握り締めた右拳の前に赤い陣が浮かぶ。
拳ほどの円が、ひと回り大きな円を描いた。
その外側へ、さらに光が走る。
幾重にも重なった紋様が、腕の動きに合わせて老人へ迫った。
「食らえ! 怒りの鉄拳! 豪火爆炎陣!」
突き出した拳が、見えない壁にぶつかった。
その先で、魔法陣が赤く輝く。
爆炎が巻き起こった。
轟音が大地を揺らし、足元の岩を砕いた。
吹き上がった土煙が、老人の姿を呑み込んでいく。
アレクは荒い息をつきながら、その中心を睨んだ。
「……やったか」
風が吹いた。
土煙が流れる。
突き出した拳の、すぐ先。
老人が立っていた。
『ざーんねん。ワシはぴんぴんしとるよ』
髭の先まで、傷ひとつない。
周囲の地面は抉れているのに、その足元だけは綺麗に残っていた。
アレクは拳へ力を込めた。
押しても、動かない。
老人との間に張られた不可視の力場が、拳を受け止めている。
『ところで、さっきの長ったらしい名は何じゃ?』
「技名だ!」
『「爆ぜろ」で、陣はもう動いとったぞ』
「かっこいいだろ!」
マーカスは、わざとらしくため息をついた。
『起動句は、最初の陣を動かす合図じゃ。次の陣を描く手順は、そこに組み込んである。あとは陣が陣を描き、必要な紋様を組み上げていく。そこまでは分かっとるな?』
「分かってるって!」
『普通の魔術師が身振りと呪文で組み上げるものを、お主はひと言で始められるんじゃ。その利点を、技名を叫んで潰してどうする』
「術はもう出てんだから、いいだろうが!」
『ならば、その間に魔力を練れい。叫んだ分まで、威力が増すわけではないぞ』
アレクのこめかみが、ひくりと動いた。
『ほれほれ。ワシを倒すんじゃろ?』
マーカスはわざわざ舌まで出してみせた。
「まだまだああ!」
アレクは左拳を叩きつけた。
起動した小陣を、今度はそちらへ走らせる。
拳の前に新たな陣が描き上げられ、再び爆炎が上がった。
右。左。もう一度、右。
拳を繰り出すたびに陣が輝き、爆音が響く。
だが、その向こうで髭を撫でる老人には、届かない。
『魔力の練りが甘いのう。熟練の魔術士同士の戦いは、互いの防御魔法を破るところから始まるんじゃ。どんなに派手な魔術とて、当たらなければ意味がない』
「説教してる余裕が――」
『あるから、しておるんじゃよ』
『綻びを開け』
老人が腕を振った。
袖口に小さな光が灯る。
それが描いた陣から一筋の衝撃波が生まれ、その先端へ、さらに別の紋様が編み込まれていく。
衝撃波が、アレクへ放たれた。
アレクはとっさに顔を庇った。
防御は張ってある。
これなら、受け止められる。
衝撃波が、眼前で止まった。
先端へ編み込まれていた紋様が、光を増した。
小さな陣が不可視の壁に貼り付き、光の線を広げていく。
アレクの防御へ、染み込むように重なった。
『こうやるんじゃ』
壁の一部が、抜けた。
衝撃波が通り抜ける。
アレクが気づいた時には、もう目の前にあった。
赤い飛沫が、荒れ地に散った。
首から上を失ったアレクの体が、勢いよく後ろへ吹き飛んだ。
*
『アレク。起きろ』
鼻の上で、何かが動いた。
細い毛が、頬をくすぐる。
『飯の時間じゃ』
「……ん、あー……ひでえ目に遭った」
アレクは顔を撫でた。
鼻がある。顎もある。
首へ手を回し、ちゃんと繋がっているのを確かめてから、ようやく息を吐いた。
鼻先で、白いハツカネズミがこちらを覗き込んでいた。
上から見ても、下から見ても、ネズミだった。
ただし、やたら偉そうなネズミである。
『毎度、確認せんでもよかろうに』
「殺される側の気持ちも考えろよ」
アレクは白い毛玉をつまみ、胸の上へ移した。
身を起こすと、ハンモックが軋んだ。
頭上には船倉の梁が走っていた。
周囲を囲んでいるのは、積み上げられた貨物だ。外から見れば荷物の隙間にしか見えないが、その奥には、木箱を机にして寝起きできる空間がある。
机の上には、握り拳ほどの聖銀――ミスリルの球が浮いていた。
表面に浮かぶ魔法陣が、柔らかな光で貨物の裏側を照らしている。
「爺さん。何度も言ってるけど、首を飛ばす必要はねえだろ」
『精神の修練場、マインドコロシアムでの出来事は、現実の体には影響せんよ』
「それは知ってる! 加減しろって言ってんの!」
ネズミは後ろ脚で立ち、首を傾げた。
『仕方なかろう。こんな体では、現実で満足に手解きもしてやれん。実戦で死んでからでは遅いんじゃよ』
「だからって、毎回殺さなくてもいいだろ」
『では、次は腕にするか』
「そういう話じゃねえ!」
アレクが言い募ろうとしたところで、腹が鳴った。
ネズミの耳がぴくりと動く。
『ほれ。飯じゃ。妙な時間に行って注目を集めると、お主の未熟な認識阻害が解けるぞ』
アレクは白い毛玉を睨んだ。
マーカスは、もう聞く気がないらしい。前脚でせっせと顔を洗っている。
十年前から寝食をともにしているが、この爺さんに口で勝てた試しはなかった。
修練でも、なかった。
アレクはハンモックから降り、古びたローブを羽織った。
布が擦れると、青臭い香りが立つ。
ケフィア草の匂いだ。
上位治療薬の原料にもなる薬草だが、今は変装の触媒として使っている。
体内のマナを練り、指を弾いた。
「姿を借りる」
指先に灯った小さな陣が、顔の前にひと回り大きな陣を描く。
さらに外側へ円が広がり、細かな文字が並んだ。
紋様が完成すると、アレクの顔に光がかかった。
頬が痩せ、目元に皺が刻まれる。
木箱に置いた鏡の中で、若者の顔が老婆へ変わった。
続いて、外周の紋様から小さな陣が次々に描き出される。
ひとつは喉元へ。
残りは光の粒となって、ローブに染み付いた香りへ溶け込んでいった。
「……あー、あー」
出てきたのは、しわがれた声だった。
幻影に変声、それから、こちらへの興味を薄れさせる認識阻害。
ひとつの起動句から、用意しておいた三つの手順が枝分かれして動く。
三つを重ねておけば、多少の不自然さは見逃される。
もっとも、明らかな違和感を持たれれば、その限りではない。
『顔しか変えられんのは、何とかならんかのう』
マーカスが、ローブから出た手を見ていた。
十九歳の手である。
細かな傷はあっても、老婆のような皺はない。
「この陣、使いにくいんだよ。範囲の指定に魔力を食われすぎる」
『制御が甘いからじゃ。連鎖発動の速さはまあまあじゃが、それで満足しとっては――』
「へーへー。続きは飯の後で」
アレクはネズミの首の後ろをつまみ、胸ポケットへ放り込んだ。
『こら! 毛並みが乱れるじゃろ!』
「最近もともと乱れてるだろ」
『それを気にしておると言うとろうが!』
球の光が消えたのを確かめ、アレクは貨物の隙間から抜け出した。
*
貨客船ルクセンブルク号は、荷物と客を満載して航行していた。
これまで船旅は、拍子抜けするほど穏やかだった。
飯の時間に紛れて食堂へ行き、食べ終わったら船倉へ戻る。
密航者にしては、悪くない暮らしである。
ただし、今朝は少し様子が違った。
「お、と、と……」
通路の床が、足の下で傾いた。
老婆らしく腰を曲げていたアレクは、思わず壁へ手を伸ばした。
「大丈夫? お婆さん」
顔を上げると、赤い髪が目に入った。
柔らかく波打つ髪を揺らし、八歳ほどの少女がこちらを見ていた。
大きな目を縁取る長い睫毛に、小さな鼻。白い頬には、ほんのりと赤みが差している。
絵本のお姫様が抜け出してきたような、愛らしい顔立ちだった。
糊の効いたブラウスに、ふんわりとしたフレアスカート。船の中とは思えないほど、きちんとした身なりだった。
少女が、手を伸ばす。
「だ、大丈夫じゃよ!」
触られたらまずい。
アレクは反射的に後ろへ跳んだ。
思ったより、遠くへ。
少女の目が丸くなった。
「わあ。お婆さん、すごーい! そんなに跳べるんだ!」
『馬鹿者』
胸元から念話が飛んできた。
言われなくても分かっている。
「む、昔から鍛えとるからね。あたしゃ、まだまだ若いもんには負けんよ」
「そうなんだ!」
少女は感心した様子で、二人の間の床を見た。
アレクが跳んだ距離を確かめているらしい。
両足を揃え、真似するように軽く膝を曲げた。
「マリア! 知らん人間に近づくんじゃない!」
飛び出したところへ、大声が響いた。
少女の肩がびくりと跳ねる。
着地で足がもつれ、前へ倒れかけた。
アレクは手を伸ばした。
肩を支え、その場へ立たせる。
「お嬢様に触れるな!」
黒い服の男が、二人の間へ割り込んできた。
助けた相手に言うことか。
そう思ったが、口には出さなかった。
アレクは少女から手を離し、ゆっくり数歩下がった。
目立つのは、もう十分だった。
黒服の後ろから、ヒキガエルが現れた。
いや、人間だった。
少なくとも、二本の脚で歩いている。
脂の浮いた顔に、肉に埋もれかけた小さな目。
太い首には金の鎖が食い込み、指という指には、大ぶりな宝石の付いた指輪が嵌まっていた。
上等な服は腹でぱつぱつに張り、その胸元には食べこぼしらしい染みまである。
商人らしい。
それも、相当に儲けている商人だ。
何をどう売ればこうなるのかは、あまり知りたくなかった。
「ふん。ケフィア草の香りだな。婆さん、薬師か?」
アレクは、袖の中で指を握った。
「だが、その匂いはいかんな。ケフィア草は扱いの難しい薬草だ。マナを上手く活性化させりゃ、上位治療薬にもなる」
ヒキガエルは鼻を鳴らした。
「だが、生の香りは人の判断力を鈍らせる。人の集まる場所で漂わせるとは、マナーがなっとらん」
図星だった。
まさに、その性質を認識阻害の下地に使っている。
アレクは、目の前の男を見直した。
見た目だけで判断するものではないらしい。
それでも、ヒキガエルには見えた。
「パパ! もう、またそんな言い方して!」
パパ?
アレクは少女を見た。
ヒキガエルを見た。
もう一度、少女を見た。
父親に似たところを探す方が、難しそうだった。
少女が父親の前へ出た。
アレクに向き直り、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、お婆さん。私はマリア。こっちはモルデカイ・エーガーって言います。父の無礼な口をお許しください」
「マリア。パパはお前を心配してだな……」
「お婆さんは、転びそうになった私を助けてくれたの」
モルデカイは口を開いた。
娘の顔を見た。
それから、口を閉じた。
「……それは、礼を言う」
急に声が小さくなった。
アレクが返事を考えていると、通路の奥で扉が開いた。
入ってきた船員が、食堂へ向かう客たちに声を張る。
「お客様は、こちらの階段で下の客室へ! 上の食堂は閉めます。お連れの方と離れずにお願いします!」
続いて現れた船長が、モルデカイの前で足を止めた。
「エーガー様。お嬢様も、すぐ下へ」
「荒れるのか?」
「風が変わりました。念のためです」
口調は落ち着いていた。
だが、船長は返事を待たず、窓の外へ目を向けた。
揺れる床に自然と足を開き、次の傾きを確かめるように踏ん張る。
また、船が揺れた。
今度は壁に手をついている客までよろめいた。
船長は船員へ短く指示を出すと、客たちを階段へ急がせた。
*
下の客室へ続く階段へ行くには、船室の外にある短い通路を通る必要があった。
屋根はあったが、片側は甲板に面している。
扉を出た途端、塩気を含んだ風が頬を打った。
海は、灰色だった。
波の頭が白く崩れ、船の横腹へ次々にぶつかっている。
「足元にお気をつけください! 手すりから離れて!」
船員が乗客を誘導する。
マリアは父の手を握り、黒服の男を先頭に進んでいた。
アレクも少し後ろから続いた。
食堂が閉まった以上、ここに用はない。人の流れに紛れて、船倉へ戻るつもりだった。
『海を見てみい』
胸元の声に、アレクは顔を向けた。
迫っていた波の、その向こう。
もう一段高い、水の壁があった。
船員が叫んだ。
「掴まれ!」
船が、持ち上がった。
床が斜めになる。
次の瞬間、横から叩きつけられた波が通路へ雪崩れ込んだ。
アレクは柱にしがみついた。
冷たい水が足を払い、どこかで木の裂ける音がした。
「マリア!」
モルデカイの声だった。
黒服の男が、倒れかけた彼の腕を掴んでいる。
その伸ばした指先から、小さな手が離れた。
赤い髪が、水に攫われていく。
波に打たれた手すりが外側へ折れた。
マリアの体が、その隙間を抜けた。
アレクは柱から手を離した。
『アレク――』
「分かってる!」
濡れた床を蹴り、折れた手すりへ走る。
老婆の歩き方など、覚えている余裕はなかった。
海へ落ちていく少女に、右手を突き出す。
「浮け!」
指先に、硬貨ほどの魔法陣が灯った。
それが回転し、拳ほどの陣を描く。
新たな陣の外周から光が走り、今度は人の背丈ほどの円が開いた。
円の内側を文字が埋める。
完成した紋様が、さらに大きな陣を中空へ描き出した。
アレクはそこへ、マナを叩き込んだ。
マリアの落下が鈍った。
生じた不可視の力場に支えられ、小さな体が海面すれすれで止まる。
間に合った。
そう思った途端、船が大きく傾いた。
船腹が少女へ迫る。
「くそっ!」
力場をずらす。
マリアの体が傾き、足が船腹をかすめた。
慌てて離すと、今度は波が迫ってくる。
『範囲の指定が甘い! 船と波の動きも見んか!』
「いっぺんに言うな!」
船が沈む。
少女が遠ざかる。
頭の白く崩れた波が、その間へ入り込んだ。
小さな姿が、水に隠れる。
「マリア!」
背後で、モルデカイが叫んだ。
アレクは右手を握った。
見えない。
だが、どこにいるかは分かっている。
あの波の中だ。
『アレク、まずは位置を――』
「もういい!」
アレクは左手も突き出した。
「全部浮かせりゃいいんだろ!」
『……は?』
アレクは、起動している小陣へさらに魔力を込めた。
「重さなれぇぇぇぇ!!」
右手の前で輝いていた陣に、新たな光が重なった。
円の外側へ、もうひとつの円が走る。
一回り。
二回り。
完成した陣が、さらに外側を巡り始める。
光の線が船の横へ伸び、波の上を渡っていく。
その先で、船の腹よりも大きな円が閉じた。
まだ、終わらない。
外周に並んだ小さな陣が一斉に輝き、それぞれが次の紋様を描き始めた。
広がる円が重なり、繋がり、船幅を超える大きさの魔法陣を組み上げる。
灰色の海が、青白く照らされた。
船員が口を開けた。
黒服の男が手すりを掴んだまま固まる。
モルデカイの顔にまで、光の紋様が映っていた。
『馬鹿者! そんな範囲にしたら、何もかも――』
「だから、そう言ってんだろ!」
アレクはマナを流し込んだ。
巨大な陣が、外周から順に輝きを増す。
幾重もの紋様を光が巡り、中心へ達した瞬間。
海が、持ち上がった。
砕けかけた波が、形を崩しながら宙へ浮く。
その下の海水も。
折れた手すりも、流された桶も。
水に揉まれていたマリアの体も。
指定した範囲にあるものが、まとめて不可視の力場に掬い上げられた。
大小の水の塊が、空中でゆらゆらと形を変える。
その間に、赤い髪が見えた。
「いた!」
マリアも浮いていた。
両腕を縮め、目をぎゅっと閉じている。
アレクは両手を持ち上げた。
海水も残骸も、少女と一緒に上がった。
右肩が軋む。
喉の奥から、呻き声が漏れた。
『そりゃ重かろうよ! 海まで持ち上げとるんじゃから!』
「うるせえ! あとちょっとだ!」
変装に回していた魔力まで引き寄せる。
顔を覆っていた幻影がほどけ、老婆の皺が消えた。
アレクは足を踏ん張った。
浮かせたものを、船へ引き寄せる。
水の塊のひとつが、甲板の上へ入った。
中に混じっていた桶が、船員の頭のすぐ上を通った。
「頭、下げろ!」
今度はアレクが叫んだ。
船員が慌てて伏せた。
『お主、助ける人数を増やす気か!』
「後で聞く!」
赤い髪が、折れた手すりを越えた。
マリアの小さな靴が、甲板の上へ届く。
「受け取れ!」
黒服の男が、弾かれたように動いた。
両腕を伸ばし、宙に浮いた少女を抱き取る。
モルデカイが二人へしがみついた。
「マリア!」
「……パパ」
その声を聞いて、アレクはようやく息を吐いた。
『水を戻せ! 甲板へ落とすでないぞ!』
アレクは歯を食いしばり、両手を外へ押し出した。
浮いた海水と残骸が、船から離れていく。
もういい。
そこまで行けば、十分だ。
「解け」
小陣へ送っていたマナを断つ。
光の繋がりが端からほどけ、魔術が解けた。
空中の水が、一斉に海へ落ちた。
凄まじい水音が響き、飛沫が通路の屋根まで叩いた。
桶と手すりが遅れて落ち、その中へ消える。
巨大な魔法陣は光を失い、外側の円から順に薄れていった。
アレクの膝が折れた。
濡れた床へ尻をつき、壁に背中を預ける。
「……助かっただろ」
『助かったがのう』
胸元から白い鼻先が覗いた。
『お主、針仕事にも斧を持ってくるつもりか?』
「出来る方でやったんだよ」
モルデカイは黒服の男から娘を受け取り、震える腕で抱き締めていた。
指輪だらけの手が、赤い髪を何度も撫でる。
マリアは小さく咳き込み、父の肩越しにこちらを見た。
「……お婆さん?」
アレクは濡れた前髪を掻き上げた。
指に触れた額には、皺がなかった。
「あ」
モルデカイも、アレクを見た。
船員も見た。
黒服の男まで見た。
老婆だったはずの場所に、十九歳の若者が座っていた。
『ずいぶん派手に若返ったのう』
アレクは返事をせず、天井を見上げた。
*
マリアが毛布に包まれ、温かい船室へ運ばれてから、モルデカイはアレクの前へ戻ってきた。
服は泥と海水で汚れ、髪は額に張り付いている。
さっきより、さらに汚いヒキガエルになっていた。
そのヒキガエルが、床に膝をついた。
「娘を救ってくれた」
太い指が、アレクの右手を包んだ。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
それまで大きかった声が、掠れていた。
アレクは戸惑い、目を逸らした。
「別に。目の前で落ちたんだから、助けるだろ」
「それでもだ。あの子まで失っとったら、わしは……」
モルデカイは言葉を切り、深く頭を下げた。
アレクは困って、胸ポケットへ視線を落とした。
白い鼻先が覗いている。
こういう時に限って、爺さんは何も言わなかった。
やがて、船長が入ってきた。
船の揺れはまだ続いていたが、船員の足音は落ち着きを取り戻していた。
「エーガー様。お嬢様のお加減は」
「受け答えもしっかりしとる。今は横になっとるよ」
「それは、何よりです」
船長は頷き、アレクへ向き直った。
「君にも礼を言う。よく助けてくれた」
「どうも」
「ところで、名前は?」
「アレク」
「乗船券を見せてもらえるか」
アレクの手が止まった。
船長は返事を待った。
モルデカイも待った。
胸ポケットのネズミだけが、もぞもぞと位置を変えた。
「……荷物のところに」
「客室は?」
「……下の方」
「何号室だ」
沈黙が落ちた。
木の壁が、船の揺れに合わせてぎしりと鳴った。
『もう諦めい』
アレクは天井を見た。
「……船倉」
船長は長く息を吐いた。
「密航か」
否定のしようがなかった。
「陣魔法まで使って、船倉に隠れていたわけか。君は一体――」
「船長」
モルデカイが立ち上がった。
アレクの手を放し、濡れた上着の裾を引っ張る。
「この若者の身元は、わしが引き受ける」
「しかし、エーガー様」
「船賃も、こいつが食った分も、わしが払う。船倉に問題がないかは調べてくれ。隠しとる荷物も、こいつに出させる」
アレクは顔を上げた。
悪徳商人に見えた男の横顔が、少し違って見えた。
「……いいのか?」
モルデカイは、アレクへ振り向いた。
「お前は娘の命の恩人だ。その恩は一生忘れん」
アレクは息を吐いた。
ようやく、口元が緩む。
「助か――」
「だが、密航はいかん」
緩みかけた口が止まった。
「……ん?」
「船は客と荷物を乗せて商売しとる。払うもんを払わず、勝手に潜り込んで、勝手に飯まで食ったんだろうが」
「いや、それは……」
「ルールはルールだがや」
モルデカイは船長へ向き直った。
「罰の代わりに、船の下働きをさせてやってくれ。わしが立て替える分も、その後に働いて返させる。それでどうだ」
船長はアレクを見た。
「逃げずに働くか?」
アレクは船長を見た。
モルデカイを見た。
最後に、窓の向こうの荒れた海を見た。
「……働きます」
*
船倉の寝床は、その日のうちに片付けることになった。
ミスリル球は荷物に包み、マーカスは胸ポケットに潜り込ませた。船長は球を持ち上げて確かめたが、アレクが師匠から預かった魔術道具だと答えると、ひとまず包みへ戻した。
代わりに案内されたのは、船員用の寝台だった。
ハンモックより狭いが、今度は隠れる必要がない。
荷物を置いて戻ったアレクへ、モルデカイが手を差し出した。
アレクも、つられて手を出す。
掌に、雑巾が載った。
「まずは、この廊下からだ」
そこには、乗客と船員が運び込んだ海水が溜まっていた。
ヒキガエルの靴跡も、くっきり残っている。
「飯は、ひと仕事済んでから船員食堂で食え。お代わりしてもええぞ」
「……どうも」
モルデカイが去った後、アレクは廊下の端へしゃがみ込んだ。
雑巾を絞る。
胸元で、白いネズミが顔を出した。
『よかったのう、アレク。密航者から出世じゃ』
「下働きだろうが!」
廊下の向こうで、小さな笑い声がした。
毛布を肩に掛けたマリアが、船室の扉から顔を覗かせていた。
「ありがとう、アレクお兄ちゃん」
アレクは雑巾を持ったまま、片手を上げた。
「……どういたしまして」
扉が閉じると、マーカスが髭を撫でた。
『礼を言われてよかったのう』
「爺さんも少しは手伝えよ」
『この体でか?』
「その尻尾、雑巾代わりにならねえ?」
『ワシの毛皮を何じゃと思っとる!』
アレクは笑い、雑巾を床へ押し当てた。
旧グレゴリオ歴四四六年。
貨客船ルクセンブルク号に、一人の下働きが増えた。
本人の希望では、なかった。




