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第1話 密航者とヒキガエル 挿絵有り

第1章 密航者とヒキガエル


 曇天の下、錆びた鉄のように赤い荒れ地が、地平線まで続いていた。

 人の背丈ほどもある岩が、ぽつりぽつりと転がっている。草も木もなく、鳥の声さえ聞こえない。

 風だけが乾いた土を巻き上げていくその場所で、若者と老人が向かい合っていた。


「ジジイ! 今日こそテメーを倒して、自由を勝ち取る!」


 アレクは拳を握り締めた。

 昨日の修練が脳裏をよぎる。思い出した途端、奥歯が鳴った。


『ほっほっほ。アレクや、その顔はなんじゃ? ワシの教えを受けられる幸運を噛み締めとるのかのう?』


 老人は白い髭を撫で、楽しげに目を細めた。

 アレクが睨むと、ますます嬉しそうな顔になる。


『それと、年上には敬意を払えと、いつも言っておるじゃろ。マーカス先生、一手ご教授よろしくお願いします、と言うのじゃ』

「黙れえええ!」


 叫びながら、口元へ魔力を集める。


「閃け!」


 唇の前に小さな陣が灯った。

 その円がひとつ先の紋様を描き上げ、白い閃光を放つ。


 視界が白く染まる。

 その間に地面を蹴り、老人へ飛びかかった。


「爆ぜろ」


 短い言葉とともに、握り締めた右拳の前に赤い陣が浮かぶ。

 拳ほどの円が、ひと回り大きな円を描いた。

 その外側へ、さらに光が走る。

 幾重にも重なった紋様が、腕の動きに合わせて老人へ迫った。


「食らえ! 怒りの鉄拳! 豪火爆炎陣!」


 突き出した拳が、見えない壁にぶつかった。

 その先で、魔法陣が赤く輝く。


 爆炎が巻き起こった。


 轟音が大地を揺らし、足元の岩を砕いた。

 吹き上がった土煙が、老人の姿を呑み込んでいく。


挿絵(By みてみん)


 アレクは荒い息をつきながら、その中心を睨んだ。


「……やったか」


 風が吹いた。

 土煙が流れる。


 突き出した拳の、すぐ先。

 老人が立っていた。


『ざーんねん。ワシはぴんぴんしとるよ』


 髭の先まで、傷ひとつない。

 周囲の地面は抉れているのに、その足元だけは綺麗に残っていた。


 アレクは拳へ力を込めた。

 押しても、動かない。

 老人との間に張られた不可視の力場が、拳を受け止めている。


『ところで、さっきの長ったらしい名は何じゃ?』

「技名だ!」

『「爆ぜろ」で、陣はもう動いとったぞ』

「かっこいいだろ!」


 マーカスは、わざとらしくため息をついた。


『起動句は、最初の陣を動かす合図じゃ。次の陣を描く手順は、そこに組み込んである。あとは陣が陣を描き、必要な紋様を組み上げていく。そこまでは分かっとるな?』

「分かってるって!」

『普通の魔術師が身振りと呪文で組み上げるものを、お主はひと言で始められるんじゃ。その利点を、技名を叫んで潰してどうする』

「術はもう出てんだから、いいだろうが!」

『ならば、その間に魔力を練れい。叫んだ分まで、威力が増すわけではないぞ』


 アレクのこめかみが、ひくりと動いた。


『ほれほれ。ワシを倒すんじゃろ?』


 マーカスはわざわざ舌まで出してみせた。


「まだまだああ!」


 アレクは左拳を叩きつけた。

 起動した小陣を、今度はそちらへ走らせる。

 拳の前に新たな陣が描き上げられ、再び爆炎が上がった。


 右。左。もう一度、右。


 拳を繰り出すたびに陣が輝き、爆音が響く。

 だが、その向こうで髭を撫でる老人には、届かない。


『魔力の練りが甘いのう。熟練の魔術士同士の戦いは、互いの防御魔法を破るところから始まるんじゃ。どんなに派手な魔術とて、当たらなければ意味がない』

「説教してる余裕が――」

『あるから、しておるんじゃよ』


『綻びを開け』


 老人が腕を振った。


 袖口に小さな光が灯る。

 それが描いた陣から一筋の衝撃波が生まれ、その先端へ、さらに別の紋様が編み込まれていく。

 衝撃波が、アレクへ放たれた。


 アレクはとっさに顔を庇った。

 防御は張ってある。

 これなら、受け止められる。


 衝撃波が、眼前で止まった。


 先端へ編み込まれていた紋様が、光を増した。

 小さな陣が不可視の壁に貼り付き、光の線を広げていく。

 アレクの防御へ、染み込むように重なった。


『こうやるんじゃ』


 壁の一部が、抜けた。


 衝撃波が通り抜ける。

 アレクが気づいた時には、もう目の前にあった。


 赤い飛沫が、荒れ地に散った。

 首から上を失ったアレクの体が、勢いよく後ろへ吹き飛んだ。


     *


『アレク。起きろ』


 鼻の上で、何かが動いた。

 細い毛が、頬をくすぐる。


『飯の時間じゃ』

「……ん、あー……ひでえ目に遭った」


 アレクは顔を撫でた。

 鼻がある。顎もある。

 首へ手を回し、ちゃんと繋がっているのを確かめてから、ようやく息を吐いた。


 鼻先で、白いハツカネズミがこちらを覗き込んでいた。


 上から見ても、下から見ても、ネズミだった。

 ただし、やたら偉そうなネズミである。


『毎度、確認せんでもよかろうに』

「殺される側の気持ちも考えろよ」


 アレクは白い毛玉をつまみ、胸の上へ移した。

 身を起こすと、ハンモックが軋んだ。


 頭上には船倉の梁が走っていた。

 周囲を囲んでいるのは、積み上げられた貨物だ。外から見れば荷物の隙間にしか見えないが、その奥には、木箱を机にして寝起きできる空間がある。


 机の上には、握り拳ほどの聖銀――ミスリルの球が浮いていた。

 表面に浮かぶ魔法陣が、柔らかな光で貨物の裏側を照らしている。


「爺さん。何度も言ってるけど、首を飛ばす必要はねえだろ」

『精神の修練場、マインドコロシアムでの出来事は、現実の体には影響せんよ』

「それは知ってる! 加減しろって言ってんの!」


 ネズミは後ろ脚で立ち、首を傾げた。


『仕方なかろう。こんな体では、現実で満足に手解きもしてやれん。実戦で死んでからでは遅いんじゃよ』

「だからって、毎回殺さなくてもいいだろ」

『では、次は腕にするか』

「そういう話じゃねえ!」


 アレクが言い募ろうとしたところで、腹が鳴った。

 ネズミの耳がぴくりと動く。


『ほれ。飯じゃ。妙な時間に行って注目を集めると、お主の未熟な認識阻害が解けるぞ』


 アレクは白い毛玉を睨んだ。

 マーカスは、もう聞く気がないらしい。前脚でせっせと顔を洗っている。


 十年前から寝食をともにしているが、この爺さんに口で勝てた試しはなかった。

 修練でも、なかった。


 アレクはハンモックから降り、古びたローブを羽織った。

 布が擦れると、青臭い香りが立つ。


 ケフィア草の匂いだ。

 上位治療薬の原料にもなる薬草だが、今は変装の触媒として使っている。


 体内のマナを練り、指を弾いた。


「姿を借りる」


 指先に灯った小さな陣が、顔の前にひと回り大きな陣を描く。

 さらに外側へ円が広がり、細かな文字が並んだ。


 紋様が完成すると、アレクの顔に光がかかった。

 頬が痩せ、目元に皺が刻まれる。

 木箱に置いた鏡の中で、若者の顔が老婆へ変わった。


 続いて、外周の紋様から小さな陣が次々に描き出される。

 ひとつは喉元へ。

 残りは光の粒となって、ローブに染み付いた香りへ溶け込んでいった。


「……あー、あー」


 出てきたのは、しわがれた声だった。


 幻影に変声、それから、こちらへの興味を薄れさせる認識阻害。

 ひとつの起動句から、用意しておいた三つの手順が枝分かれして動く。

 三つを重ねておけば、多少の不自然さは見逃される。

 もっとも、明らかな違和感を持たれれば、その限りではない。


『顔しか変えられんのは、何とかならんかのう』


 マーカスが、ローブから出た手を見ていた。

 十九歳の手である。

 細かな傷はあっても、老婆のような皺はない。


「この陣、使いにくいんだよ。範囲の指定に魔力を食われすぎる」

『制御が甘いからじゃ。連鎖発動の速さはまあまあじゃが、それで満足しとっては――』

「へーへー。続きは飯の後で」


 アレクはネズミの首の後ろをつまみ、胸ポケットへ放り込んだ。


『こら! 毛並みが乱れるじゃろ!』

「最近もともと乱れてるだろ」

『それを気にしておると言うとろうが!』


 球の光が消えたのを確かめ、アレクは貨物の隙間から抜け出した。


     *


 貨客船ルクセンブルク号は、荷物と客を満載して航行していた。

 これまで船旅は、拍子抜けするほど穏やかだった。

 飯の時間に紛れて食堂へ行き、食べ終わったら船倉へ戻る。

 密航者にしては、悪くない暮らしである。


 ただし、今朝は少し様子が違った。


「お、と、と……」


 通路の床が、足の下で傾いた。

 老婆らしく腰を曲げていたアレクは、思わず壁へ手を伸ばした。


「大丈夫? お婆さん」


 顔を上げると、赤い髪が目に入った。


 柔らかく波打つ髪を揺らし、八歳ほどの少女がこちらを見ていた。

 大きな目を縁取る長い睫毛に、小さな鼻。白い頬には、ほんのりと赤みが差している。

 絵本のお姫様が抜け出してきたような、愛らしい顔立ちだった。

 糊の効いたブラウスに、ふんわりとしたフレアスカート。船の中とは思えないほど、きちんとした身なりだった。


 少女が、手を伸ばす。


「だ、大丈夫じゃよ!」


 触られたらまずい。


 アレクは反射的に後ろへ跳んだ。

 思ったより、遠くへ。


 少女の目が丸くなった。


「わあ。お婆さん、すごーい! そんなに跳べるんだ!」

『馬鹿者』


 胸元から念話が飛んできた。

 言われなくても分かっている。


「む、昔から鍛えとるからね。あたしゃ、まだまだ若いもんには負けんよ」

「そうなんだ!」


 少女は感心した様子で、二人の間の床を見た。

 アレクが跳んだ距離を確かめているらしい。

 両足を揃え、真似するように軽く膝を曲げた。


「マリア! 知らん人間に近づくんじゃない!」


 飛び出したところへ、大声が響いた。

 少女の肩がびくりと跳ねる。

 着地で足がもつれ、前へ倒れかけた。


 アレクは手を伸ばした。

 肩を支え、その場へ立たせる。


「お嬢様に触れるな!」


 黒い服の男が、二人の間へ割り込んできた。


 助けた相手に言うことか。

 そう思ったが、口には出さなかった。

 アレクは少女から手を離し、ゆっくり数歩下がった。


 目立つのは、もう十分だった。


 黒服の後ろから、ヒキガエルが現れた。


 いや、人間だった。

 少なくとも、二本の脚で歩いている。


 脂の浮いた顔に、肉に埋もれかけた小さな目。

 太い首には金の鎖が食い込み、指という指には、大ぶりな宝石の付いた指輪が嵌まっていた。

 上等な服は腹でぱつぱつに張り、その胸元には食べこぼしらしい染みまである。


 商人らしい。

 それも、相当に儲けている商人だ。

 何をどう売ればこうなるのかは、あまり知りたくなかった。


「ふん。ケフィア草の香りだな。婆さん、薬師か?」


 アレクは、袖の中で指を握った。


「だが、その匂いはいかんな。ケフィア草は扱いの難しい薬草だ。マナを上手く活性化させりゃ、上位治療薬にもなる」


 ヒキガエルは鼻を鳴らした。


「だが、生の香りは人の判断力を鈍らせる。人の集まる場所で漂わせるとは、マナーがなっとらん」


 図星だった。

 まさに、その性質を認識阻害の下地に使っている。


 アレクは、目の前の男を見直した。

 見た目だけで判断するものではないらしい。

 それでも、ヒキガエルには見えた。


「パパ! もう、またそんな言い方して!」


 パパ?


 アレクは少女を見た。

 ヒキガエルを見た。

 もう一度、少女を見た。


 父親に似たところを探す方が、難しそうだった。


 少女が父親の前へ出た。

 アレクに向き直り、ぺこりと頭を下げる。


「ごめんなさい、お婆さん。私はマリア。こっちはモルデカイ・エーガーって言います。父の無礼な口をお許しください」

「マリア。パパはお前を心配してだな……」

「お婆さんは、転びそうになった私を助けてくれたの」


 モルデカイは口を開いた。

 娘の顔を見た。

 それから、口を閉じた。


「……それは、礼を言う」


 急に声が小さくなった。


 アレクが返事を考えていると、通路の奥で扉が開いた。

 入ってきた船員が、食堂へ向かう客たちに声を張る。


「お客様は、こちらの階段で下の客室へ! 上の食堂は閉めます。お連れの方と離れずにお願いします!」


 続いて現れた船長が、モルデカイの前で足を止めた。


「エーガー様。お嬢様も、すぐ下へ」

「荒れるのか?」

「風が変わりました。念のためです」


 口調は落ち着いていた。

 だが、船長は返事を待たず、窓の外へ目を向けた。

 揺れる床に自然と足を開き、次の傾きを確かめるように踏ん張る。


 また、船が揺れた。

 今度は壁に手をついている客までよろめいた。


 船長は船員へ短く指示を出すと、客たちを階段へ急がせた。


     *


 下の客室へ続く階段へ行くには、船室の外にある短い通路を通る必要があった。

 屋根はあったが、片側は甲板に面している。

 扉を出た途端、塩気を含んだ風が頬を打った。


 海は、灰色だった。

 波の頭が白く崩れ、船の横腹へ次々にぶつかっている。


「足元にお気をつけください! 手すりから離れて!」


 船員が乗客を誘導する。

 マリアは父の手を握り、黒服の男を先頭に進んでいた。

 アレクも少し後ろから続いた。


 食堂が閉まった以上、ここに用はない。人の流れに紛れて、船倉へ戻るつもりだった。


『海を見てみい』


 胸元の声に、アレクは顔を向けた。

 迫っていた波の、その向こう。

 もう一段高い、水の壁があった。


 船員が叫んだ。


「掴まれ!」


 船が、持ち上がった。

 床が斜めになる。

 次の瞬間、横から叩きつけられた波が通路へ雪崩れ込んだ。


 アレクは柱にしがみついた。

 冷たい水が足を払い、どこかで木の裂ける音がした。


「マリア!」


 モルデカイの声だった。

 黒服の男が、倒れかけた彼の腕を掴んでいる。

 その伸ばした指先から、小さな手が離れた。


 赤い髪が、水に攫われていく。

 波に打たれた手すりが外側へ折れた。

 マリアの体が、その隙間を抜けた。


 アレクは柱から手を離した。


『アレク――』

「分かってる!」


 濡れた床を蹴り、折れた手すりへ走る。

 老婆の歩き方など、覚えている余裕はなかった。

 海へ落ちていく少女に、右手を突き出す。


「浮け!」


 指先に、硬貨ほどの魔法陣が灯った。


 それが回転し、拳ほどの陣を描く。

 新たな陣の外周から光が走り、今度は人の背丈ほどの円が開いた。

 円の内側を文字が埋める。

 完成した紋様が、さらに大きな陣を中空へ描き出した。


 アレクはそこへ、マナを叩き込んだ。


 マリアの落下が鈍った。

 生じた不可視の力場に支えられ、小さな体が海面すれすれで止まる。


 間に合った。


 そう思った途端、船が大きく傾いた。

 船腹が少女へ迫る。


「くそっ!」


 力場をずらす。

 マリアの体が傾き、足が船腹をかすめた。

 慌てて離すと、今度は波が迫ってくる。


『範囲の指定が甘い! 船と波の動きも見んか!』

「いっぺんに言うな!」


 船が沈む。

 少女が遠ざかる。

 頭の白く崩れた波が、その間へ入り込んだ。


 小さな姿が、水に隠れる。


「マリア!」


 背後で、モルデカイが叫んだ。


 アレクは右手を握った。

 見えない。

 だが、どこにいるかは分かっている。


 あの波の中だ。


『アレク、まずは位置を――』

「もういい!」


 アレクは左手も突き出した。


「全部浮かせりゃいいんだろ!」


『……は?』


 アレクは、起動している小陣へさらに魔力を込めた。


「重さなれぇぇぇぇ!!」


 右手の前で輝いていた陣に、新たな光が重なった。

 円の外側へ、もうひとつの円が走る。


 一回り。

 二回り。


 完成した陣が、さらに外側を巡り始める。

 光の線が船の横へ伸び、波の上を渡っていく。

 その先で、船の腹よりも大きな円が閉じた。


 まだ、終わらない。


 外周に並んだ小さな陣が一斉に輝き、それぞれが次の紋様を描き始めた。

 広がる円が重なり、繋がり、船幅を超える大きさの魔法陣を組み上げる。


 灰色の海が、青白く照らされた。


 船員が口を開けた。

 黒服の男が手すりを掴んだまま固まる。

 モルデカイの顔にまで、光の紋様が映っていた。


『馬鹿者! そんな範囲にしたら、何もかも――』

「だから、そう言ってんだろ!」


 アレクはマナを流し込んだ。


 巨大な陣が、外周から順に輝きを増す。

 幾重もの紋様を光が巡り、中心へ達した瞬間。


 海が、持ち上がった。


 砕けかけた波が、形を崩しながら宙へ浮く。

 その下の海水も。

 折れた手すりも、流された桶も。

 水に揉まれていたマリアの体も。


 指定した範囲にあるものが、まとめて不可視の力場に掬い上げられた。


 大小の水の塊が、空中でゆらゆらと形を変える。

 その間に、赤い髪が見えた。


「いた!」


 マリアも浮いていた。

 両腕を縮め、目をぎゅっと閉じている。


 アレクは両手を持ち上げた。

 海水も残骸も、少女と一緒に上がった。


 右肩が軋む。

 喉の奥から、呻き声が漏れた。


『そりゃ重かろうよ! 海まで持ち上げとるんじゃから!』

「うるせえ! あとちょっとだ!」


 変装に回していた魔力まで引き寄せる。

 顔を覆っていた幻影がほどけ、老婆の皺が消えた。


挿絵(By みてみん)


 アレクは足を踏ん張った。

 浮かせたものを、船へ引き寄せる。


 水の塊のひとつが、甲板の上へ入った。

 中に混じっていた桶が、船員の頭のすぐ上を通った。


「頭、下げろ!」


 今度はアレクが叫んだ。

 船員が慌てて伏せた。


『お主、助ける人数を増やす気か!』

「後で聞く!」


 赤い髪が、折れた手すりを越えた。

 マリアの小さな靴が、甲板の上へ届く。


「受け取れ!」


 黒服の男が、弾かれたように動いた。

 両腕を伸ばし、宙に浮いた少女を抱き取る。


 モルデカイが二人へしがみついた。


「マリア!」

「……パパ」


 その声を聞いて、アレクはようやく息を吐いた。


『水を戻せ! 甲板へ落とすでないぞ!』


 アレクは歯を食いしばり、両手を外へ押し出した。

 浮いた海水と残骸が、船から離れていく。


 もういい。

 そこまで行けば、十分だ。


「解け」


 小陣へ送っていたマナを断つ。

 光の繋がりが端からほどけ、魔術が解けた。


 空中の水が、一斉に海へ落ちた。

 凄まじい水音が響き、飛沫が通路の屋根まで叩いた。

 桶と手すりが遅れて落ち、その中へ消える。


 巨大な魔法陣は光を失い、外側の円から順に薄れていった。


 アレクの膝が折れた。

 濡れた床へ尻をつき、壁に背中を預ける。


「……助かっただろ」


『助かったがのう』


 胸元から白い鼻先が覗いた。


『お主、針仕事にも斧を持ってくるつもりか?』

「出来る方でやったんだよ」


 モルデカイは黒服の男から娘を受け取り、震える腕で抱き締めていた。

 指輪だらけの手が、赤い髪を何度も撫でる。


 マリアは小さく咳き込み、父の肩越しにこちらを見た。


「……お婆さん?」


 アレクは濡れた前髪を掻き上げた。

 指に触れた額には、皺がなかった。


「あ」


 モルデカイも、アレクを見た。

 船員も見た。

 黒服の男まで見た。


 老婆だったはずの場所に、十九歳の若者が座っていた。


『ずいぶん派手に若返ったのう』


 アレクは返事をせず、天井を見上げた。


     *


 マリアが毛布に包まれ、温かい船室へ運ばれてから、モルデカイはアレクの前へ戻ってきた。

 服は泥と海水で汚れ、髪は額に張り付いている。

 さっきより、さらに汚いヒキガエルになっていた。


 そのヒキガエルが、床に膝をついた。


「娘を救ってくれた」


 太い指が、アレクの右手を包んだ。


「ありがとう。……本当に、ありがとう」


 それまで大きかった声が、掠れていた。

 アレクは戸惑い、目を逸らした。


「別に。目の前で落ちたんだから、助けるだろ」

「それでもだ。あの子まで失っとったら、わしは……」


 モルデカイは言葉を切り、深く頭を下げた。


 アレクは困って、胸ポケットへ視線を落とした。

 白い鼻先が覗いている。

 こういう時に限って、爺さんは何も言わなかった。


 やがて、船長が入ってきた。

 船の揺れはまだ続いていたが、船員の足音は落ち着きを取り戻していた。


「エーガー様。お嬢様のお加減は」

「受け答えもしっかりしとる。今は横になっとるよ」

「それは、何よりです」


 船長は頷き、アレクへ向き直った。


「君にも礼を言う。よく助けてくれた」

「どうも」

「ところで、名前は?」

「アレク」

「乗船券を見せてもらえるか」


 アレクの手が止まった。


 船長は返事を待った。

 モルデカイも待った。

 胸ポケットのネズミだけが、もぞもぞと位置を変えた。


「……荷物のところに」

「客室は?」

「……下の方」

「何号室だ」


 沈黙が落ちた。

 木の壁が、船の揺れに合わせてぎしりと鳴った。


『もう諦めい』


 アレクは天井を見た。


「……船倉」


 船長は長く息を吐いた。


「密航か」


 否定のしようがなかった。


「陣魔法まで使って、船倉に隠れていたわけか。君は一体――」

「船長」


 モルデカイが立ち上がった。

 アレクの手を放し、濡れた上着の裾を引っ張る。


「この若者の身元は、わしが引き受ける」

「しかし、エーガー様」

「船賃も、こいつが食った分も、わしが払う。船倉に問題がないかは調べてくれ。隠しとる荷物も、こいつに出させる」


 アレクは顔を上げた。

 悪徳商人に見えた男の横顔が、少し違って見えた。


「……いいのか?」


 モルデカイは、アレクへ振り向いた。


「お前は娘の命の恩人だ。その恩は一生忘れん」


 アレクは息を吐いた。

 ようやく、口元が緩む。


「助か――」

「だが、密航はいかん」


 緩みかけた口が止まった。


「……ん?」

「船は客と荷物を乗せて商売しとる。払うもんを払わず、勝手に潜り込んで、勝手に飯まで食ったんだろうが」

「いや、それは……」

「ルールはルールだがや」


 モルデカイは船長へ向き直った。


「罰の代わりに、船の下働きをさせてやってくれ。わしが立て替える分も、その後に働いて返させる。それでどうだ」


 船長はアレクを見た。


「逃げずに働くか?」


 アレクは船長を見た。

 モルデカイを見た。

 最後に、窓の向こうの荒れた海を見た。


「……働きます」


     *


 船倉の寝床は、その日のうちに片付けることになった。

 ミスリル球は荷物に包み、マーカスは胸ポケットに潜り込ませた。船長は球を持ち上げて確かめたが、アレクが師匠から預かった魔術道具だと答えると、ひとまず包みへ戻した。

 代わりに案内されたのは、船員用の寝台だった。

 ハンモックより狭いが、今度は隠れる必要がない。


 荷物を置いて戻ったアレクへ、モルデカイが手を差し出した。

 アレクも、つられて手を出す。


 掌に、雑巾が載った。


「まずは、この廊下からだ」


 そこには、乗客と船員が運び込んだ海水が溜まっていた。

 ヒキガエルの靴跡も、くっきり残っている。


「飯は、ひと仕事済んでから船員食堂で食え。お代わりしてもええぞ」

「……どうも」


 モルデカイが去った後、アレクは廊下の端へしゃがみ込んだ。

 雑巾を絞る。

 胸元で、白いネズミが顔を出した。


『よかったのう、アレク。密航者から出世じゃ』

「下働きだろうが!」


 廊下の向こうで、小さな笑い声がした。

 毛布を肩に掛けたマリアが、船室の扉から顔を覗かせていた。


「ありがとう、アレクお兄ちゃん」


 アレクは雑巾を持ったまま、片手を上げた。


「……どういたしまして」


 扉が閉じると、マーカスが髭を撫でた。


『礼を言われてよかったのう』

「爺さんも少しは手伝えよ」

『この体でか?』

「その尻尾、雑巾代わりにならねえ?」

『ワシの毛皮を何じゃと思っとる!』


 アレクは笑い、雑巾を床へ押し当てた。


 旧グレゴリオ歴四四六年。

 貨客船ルクセンブルク号に、一人の下働きが増えた。


 本人の希望では、なかった。


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