第八話 ひらりの世界
ガラッ!
教室の前扉が、力強い音を立てて開いた。
「ちょっと! 廊下にまで声が響いていたわよ。一体なにを大騒ぎしているの?」
凛とした、少し低めの声が教室に響いた。
――その瞬間、頭の奥で何かが弾け、ひらりくんが跳ね起きた。
『薫っ!』
(ひらりくん!?)
今まで眠っていたはずのひらりくんが、突然、意識の奥から飛び起きた。
『おばさん! これ、どういう状況!?』
(……ご覧の通りでございます)
『ご覧の通りじゃないよ!』
私は、ひらりくんの反応が消えてからの出来事を、簡潔に三行で話して聞かせた。
脳内で、ひらりくんが頭を抱えている。
目の前にいる、艶めく黒髪を後ろで緩く束ねた美少女は、
『橘、薫ちゃん……』
ひらりくんは、珍しく口籠りながら、たどだどしく話す。
『俺の……。彼女、だよ』
ひらりくんは、かなり照れながら、それだけを伝えてくれた。
橘薫。
ひらりくんの彼女。
クールで大人びた雰囲気をまとった、美しい女子高生。
薫ちゃんが現れた途端、ひらりくんの心臓が激しく跳ね始めた。
ドッドッドッドッ――。
心臓の鼓動を確かめるように、胸に手を当てながら尋ねる。野暮すぎるかな……でも、ひらりくんを動かす身としても、必要な情報だ。
(あなた、薫ちゃんのこと、とても好きなのね)
『うん』
即答だった。
『大好き』
その言葉と同時に、鼓動がさらに速くなる。
ドドドドド――。
(ちょ、ちょっと……! ひらりくん!)
『おばさん! どうしたの!? すごい心拍数』
胸の奥から、猛烈な鼓動が響いてくる。
(なんだか、息まで苦しくなってきた……)
「はぁ……はぁ……」
『おばさん、大丈夫!?』
(大丈夫……たぶん……)
『もしかして……更年期障害とか……?』
(違います!)
視界がぐらりと揺れた。
『大丈夫じゃないよ!』
(大丈夫なのよ。これは……あなたの心臓の音だから……)
『俺の?』
(そう。あなたが薫ちゃんを見て、こうなったの……更年期障害じゃ、ないんだから……ね)
目の前が真っ白に塗り替えられ、意識がぼんやりとしていく。
それでも、しっかりと、否定だけはしておいた……。
教室のざわめき、女の子の悲鳴、ひらりくんの声、何もかもが、薄い膜の向こう側へ消え、すべてが遠ざかっていく。
まるで水の底へ沈んでいくように。
そして――。
ドタッ。
目を開けると、そこには教室があった。
さっきまでいた、教室。
机が並び、黒板があり、窓から柔らかな光が差し込んでいる。
けれど、誰もいない。
あまりにも静かな空間。
「……ここ、どこ?」
私は立ち上がった。
廊下を覗いてみるが、誰もいない。外を見ても、生徒の姿はない。
なのに、不思議と怖くなかった。
むしろ――。
「……落ち着く」
妙に心地よかった。
空気も、光も、何もかもが穏やかだった。
時計は止まっている。風もない。音もない。
ただ、ここにいるだけで、身体から力が抜けていく。
(……眠い)
まぶたが重くなる。
机に突っ伏してしまえば、そのまま眠れそうだった。
「……ここ、ひらりくんの場所?」
『そうだよ』
声がした。振り向くと教室の一番後ろ。
窓際の席に、ひらりくんが座っていた。
「ひらりくん……?」
『うん』
ひらりくんは柔らかく微笑んでいた。出会ったときの、真剣な顔とも、入れ替わってから見た鏡の中の顔とも違う。
穏やかで、静かな表情。
「ここ……何?」
ひらりくんは窓の外を眺めた。
『僕の教室』
「教室?」
『ここ、僕が眠ってるときに作ったんだと思う』
「作った?」
『うん。いつの間にか、こうなってた』
そう言って、ひらりくんは笑った。
『ここ、好きなんだ』
私は教室を見回した。
誰もいない。
何も起こらない。
何も要求されない。
何も傷つけてこない。
ただ静かに、そこにある。
――なるほど。
ここなら、眠っていられる。
何も考えなくていい。
何も決めなくていい。
何も頑張らなくていい。
「……ひらりくん」
『なに?』
「ここに、ずっといたの?」
ひらりくんは少しだけ考えた。
『……うん。たぶん』
その答えが、なぜか胸に引っかかった。
不意に鼻歌が聞こえた。
『誰もいないし、何も起こらないから、ここが好きなんだ』
――耳の奥に、その言葉だけが妙に残った。
けれど、それがひらりくんの声だったのか、自分の声だったのか――そのときの私には、まだ分からなかった。
ふと目を開けると、顔面に大量の水が降り注いできた。
生ぬるい雨?……シャワー!?
『えっ……どこ?』
シャアアアア……。
「ふふーん♪」
『…………』
私は固まった。
『ちょっと待って!』
「おばさん、起きた?」
『ひらりくん?』
「うん」
『ここって……』
「俺の家」
『やっぱり! これって……』
「入れ替わったみたい!」
『入れ替われたの!?』
「そう!」
視界に、浴室の光景が重なった。ひらりくんの見ている景色だ。
すると突然――。
ひらりくんの視界が大きく動いた。
『――待って!』
「え?」
『いま、下向いちゃダメ!』
反射的に叫んだ。
『目線! 目線共有してるでしょう!』
「してるね」
『シャットダウンして!』
「わかった!」
『できるの!?』
「……できない!」
『……』
「……」
『とりあえず……目を閉じなさい』
「りょー」
手を伝わる感触は、極力、無視(しようと努力)した……。
「ふふふーん♪」
(……また鼻歌?)
私は思わず苦笑する。
『すごく嬉しそう』
「さっき、薫とデートしたんだ」
『……そう!』
「すごく楽しかった」
『……はいはい』
完全に浮かれている。
その声を聞いていると、なんだかこちらまで嬉しくなってしまう。
「それに、久しぶりだったから」
『……何が?』
「自分の体を、自分で動かすの』
私は黙った。
ひらりくんは、それ以上何も言わなかった。
シャワーの音と、ひらりくんの鼻歌が、響いていた。
「おばさん……」
暗い寝室で、横になったひらりくんが、ぽつりと言った。
『……なに?』
「もう、ずっと寝ててよ」
『……うん。私もそう願ってる』
「俺、やっぱり、この体でいたい」
『……それは! だって、これはあなたの体なんだから、私のことは気にしないで!』
「……うん」
『……』
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
「……ねえ、ひらりくん」
『ん?』
(でも。じゃあ、私の体は?)
そう思ったけれど、言葉にできなかった。
『……ううん。何でもない』
「俺、探しに行くよ!」
『えっ!?』
どうして、私の考えてることが、ひらりくんに……。
(あっ!)
「『脳は共用!』」
二人同時に口にして、同時に吹き出していた。
私は教室のことを思い出した。
誰もいない、静かな教室。
ひらりくんが眠っている間に作った、逃げ場所。
あの場所を、ひらりくんが作った意味。
そして――。
なぜだろう。
私はもう一度、あの教室に戻りたいと思っていた。




