第十六話 お兄ちゃんの好きなもの
ドサッとベッドに転がり込む。
朝から張り切ってお弁当を作ったのに、肝心の薫ちゃんが休みだった。
ひらりくんの立つ瀬もない。
枕に顔を埋めたまま、「うー、うー」と唸っている。
「もうダメだ! 薫チャージできなかった!」
――薫チャージ?
「一日一回、薫に会えないと死ぬ!」
『何よ、大げさね』
「薫と話したい」
『電話したら?』
「……俺から? ……無理」
『どうしてよ?』
「……重いヤツって思われたくない」
『電話くらいで、そんなこと思わないわよ』
「薫はカッコいい女なんだ。休んだくらいで、いちいち電話してくるような男は、女々しいって、きっと思われる……」
『……拗らせてるわね』
「……」
ガチャ!
玄関のドアが開く音がした。
続いて、ドタバタと足音がする。
『……!? ひらりくん!』
「なに?」
『誰か、入ってきた……』
「何が?」
『玄関のドアが開いて、今、階段を……』
トントントン……。
足音が近づいてくる。
カチャ。
「……え、マジ?」
ひらりくんが飛び起きた。
「ただいま。ひらり!」
華やかな衣装に、華やかな化粧。
まるでステージからそのまま抜け出してきたような女性が、ベッドサイドまで歩いてきた。
「お、母さん……おかえり」
ひらりくんは立ち上がると、その女性を抱きしめた。
「ひらり」
二人は、しばらく何も言わずに抱き合っていた。
――え?
私は驚きを隠せなかった。
今どきの高校生って、お母さんとこんなふうに抱き合うものなの?
「仕事が片付いたから、一日早く帰れたの! ひらりに早く会いたくて、タクシー飛ばしてきたわ!」
「……お父さんは、まだ帰ってないよ」
「知ってるわ。ねぇ、ご飯食べに行きましょう? お腹が空いたわ」
「今日は、ちょっと……」
「何よ、元気ないの? 病気かしら? ご飯はちゃんと食べてる? 何でもカードで買えばいいのよ。あの人は、そのために働いてるんだから!」
「ちゃんと食べてるよ。今朝は玉子焼き作って食べたよ」
「……玉子焼き? あなたが作ったの?」
「うん」
「……やだ。やめてよ。料理なんか、あなたはしなくていいのよ」
「……」
「いいわ。私が何か作るから、待ってなさい」
ひらりくんのお母さんは、くるりと振り返ると、部屋を出ていった。
『……お母さん? ……若いわね』
「……うん。今年、三十五だったかな?」
――私の三つ下!
ひらりくんが着替えてキッチンへ向かう。
お母さんは、すでに米を計っていた。
ひらりくんはダイニングテーブルの椅子に腰掛け、その姿をじっと見つめている。
「ふふ。まだ、ご飯できてないわよ」
お母さんが振り返って笑う。
その笑顔が、眩しい。
整った顔立ちのひらりくんを産んだ母親なのだから、やはりこの人も整っている。
お母さんが計量カップに米を一杯すくう。
そして、そのまま炊飯器の釜へ。
――なるほど。
一カップで一合だと思っているらしい。
ひらりくんは、何も言わなかった。
『教えてあげないの?』
(……うん)
『……そう?』
(うん)
頬杖をつき、その後ろ姿をじっと見つめている。
「ひらり、おかずは何食べたい?」
「……卵かけご飯」
「やだ。ちゃんと作るわよ。言ってみて?
「じゃ……納豆ご飯」
「ふふふ。変な子」
お母さんが楽しそうに笑う。
「お兄ちゃんの好きなものばかり言って……」
ガン!
シンクに釜を置く音が響いた。
お母さんは無言で、パタパタとキッチンを離れて行った。
『ひらりくん……?』
「……」
ひらりくんは何も言わなかった。
ただ、母親の後ろ姿を、じっと見送っていた。




