第十四話 疑惑の視線、違和感の朝
学校へ向かう足取りも軽い。
「よう! レン、おはよう!」
「おー、ひらり。おはよう!」
朝から距離の近い二人。
レンくんがひらりくんの肩に腕を回し、何やらヒソヒソと話し込んでいる。
耳元に口を当てるように話す秘密の会話も、私には全部聞こえているのだけれど。
周囲の女の子たちの視線も、相変わらず熱い。
「おはよう、ひらりくん。レンくん」
この子は……何て名前だったかしら?
ええっと、七瀬……。
「美依紗、おはよう!」
レンくんが先に声を掛ける。
「よお!」
ひらりくんも、美依紗ちゃんに声を掛けた。
その瞬間だった。
周囲の女の子たちが、一斉に振り返った。
ざわめきが、波のように押し寄せてくる。
――どういうこと?
――あの、ひらりくんが挨拶を返したの?
――七瀬はかわいいから……?
どうやら、ひらりくんが女の子に挨拶を返したことが、ちょっとした事件になっているらしい。
すると、眼鏡を掛けた女の子が、二人の近くまでやって来た。
「おはようございます。ひらりくん、レンくん……」
礼儀正しく背筋を伸ばし、ほとんど直角になるほど深々とお辞儀をする。
レンくんもノリよく同じ姿勢でお辞儀をした。
「おはよ! 今日も頑張ろうね」
そして、明るい笑顔でやさしく挨拶を返す。
「……はよ」
ひらりくんも、少し口を尖らせながら、首をピョコンと下げ、小さな声で挨拶を返した。
女の子は一瞬、目を丸くした。
それから、ぱっと顔を輝かせる。
「……お、おはようございます!」
ぺこりと頭を下げると、嬉しそうに跳ねるような足取りで去っていった。
「ひらり、今日なんか機嫌よくね?」
「そう?」
「いや……なんつーか」
レンくんが、ひらりくんの顔を覗き込む。
「……別に」
「ふーん」
レンくんは、それ以上何も言わなかった。
……あら?
もう一人、こちらを見ている。
さっきの光景を見ていた別の女の子が、友達に背中を押されている。
「ほら、行きなよ」
「む、無理だって……!」
「大丈夫だってば!」
とうとう、その子が意を決したように近づいてきた。
「あ、あの……おはよう、ひらりくん」
「……おはよう」
ひらりくんが、また返した!
女の子の顔が、一気に赤くなる。
「……っ、ありがとう!」
今度は小走りで去っていった。
『ひらりくん!』
(なに?)
『挨拶できてるじゃない!』
(……普通だろ)
『昨日まで、女の子に挨拶されても無視してたじゃない』
(……そうだっけ?)
『そうよ』
私は、なんだか嬉しくなってしまった。
次は、二人組の女の子が駆け寄ってきた。背の高いひらりくんとレンくんを交互に見上げながら、胸の上で手のひらをトントンさせている。
高鳴る心臓を、落ち着かせているようだった。
女の子二人組は顔を見合わせ、同時に頷き、か細い声で震えながら「おはようございます……」と、声を合わせた。
「ありがとう! 二人とも、おはよう♡」
レンくんが二人の勇気を讃え、頭をポンポンと撫でてあげていた。
「……おはよ」
ひらりくんも小さく挨拶を返していた。
二人組は手を取り合って、笑い合い、レンくんとひらりくんに頭を下げた。
レンくんが手を振って笑い掛けると、嬉しそうに跳ね、顔を真っ赤にしたまま、どこかへ走り去ってしまう。
周囲の女の子たちは遠巻きにその様子を見ていた。
そして――勇気のある者から、次々と二人のもとへ押し寄せてくる。
まるで、王子様への謁見待ちだ。
ひらりくんも、「……おはよう」から、「……よお」に変わり、「……っす」になっていったが、問題ない。
『すごい! ひらりくん、今日のあなた、とてもすごいわ!』
私は胸の奥が、じんわりと熱くなった。
そして、ひらりくんの後ろ姿を見ながら私は思った。
たった一言。たったそれだけのことなのに。
ひらりくんにとっては、今までしてこなかったことだ。
だから――。
――ひらりは、挨拶を覚えた!
RPGの画面で、レベルアップしたひらりくんが、効果音付きで、テレレレッテッテッテー♪と喜んでいる姿を思い浮かべた。
(おい、のばら。言い方!)
『何が?ひらりは、挨拶を覚えた!テレレレッテッテッテー♪』
(うっざ!)
『本当に偉いわよ、ひらりくん!』
(……なんかムカつく)
『頭を撫でてあげたい!』
(やめろ)
『よしよし』
(やめろって!)
ひらりくんの脳内から、猛烈な抗議が飛んできた。
けれど、その声はどこか嬉しそうだった。
……ふふ。
私は、とても誇らしかった。
今はただ、ひらりくんが少しずつ変わっていくことが嬉しい。
だからレンくんが、ひらりくんをジーッと横から見つめているのも、つい見逃してしまったのかもしれない――。
そのときの私は、まだ何も知らなかった。




