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契約書の三ページ目、第十七条項の二行目で、私の素早い指先がピタリと止まった。
「……大公閣下。少々お尋ねしたいのですが」
アルビオン王宮の中で最も豪華であったはずの『太陽の間』は、すでにシロディール帝国の暫定財政統括本部に改修されていた。かつて愚かな王族たちが夜な夜な酒を汲み交わしていた最高級マホガニーの円卓の上には、現在、山のような資料と書類がうずたかく積まれている。
私は羽ペンを握りしめたまま、向かいに腰掛けて優雅に紅茶を嗜んでいる黒銀の軍服姿の男――ルシウス・ヴァレリウス大公を見つめた。
「何だ、私の愛しいCFO。契約条件に不満でもあったか? 給与の支払いは前金で三ヶ月分、帝国中央銀行の金貨現物で支給する手筈になっているはずだが」
「給与や福利厚生、年に三十日の有給休暇および特別労務手当については、完璧の一言に尽きます。私の前職における劣悪な労働環境――いわゆる不眠不休・残業代未払いのブラック環境と比較すれば、まさに神の御業のような契約内容です。……問題は、この第十七条項です」
私は契約書を突き出し、その該当箇所を爪先でトントンと叩いた。そこには流麗な帝国文字で、こうハッキリと記されていた。
『第十七条:乙は、アルビオン王国の財政再建事業が完了した時点で、甲との婚姻手続きを滞りなく行い、シロディール帝国大公妃としての全義務を履行するものとする』
「閣下。これは『労働契約書』ですか? それとも『婚姻予約書』ですか?」
「両方だ」
ルシウス大公は、何でもないことのようにティーカップをソーサーに戻すと、美しすぎる青い瞳を細めて私を直視した。
「優秀な人材の流出を防ぐのは、経営者として当然の危機管理だ。特に君のような、国家規模の裏台帳を一瞬で見抜き、破綻した財政から利益を絞り出せる稀代の財務分析官を、他の国に奪われるわけにはいかない。最も強固で解除不可能な排他的囲い込み契約……それが『婚姻』だ」
「排他的囲い込み……。ずいぶんと物々しい経済用語を求婚の言葉にお使いになりますね」
「お気に召さなかったか? では言い直そう。私は最初から君という女性に深く執着しており、愚かな王太子の手から君を合法的に奪い去る機会をずっと狙っていた。君のその冷徹なまでの計算深さと、危機に瀕した時の不敵な笑みが大好きなのだ。……これで満足か?」
極上の美貌から放たれたあまりにもストレートで情熱的な言葉に、私の心臓が一瞬ドキンと跳ね上がった。
だめだ、落ち着けルキッラ・ヴァレリウス。相手は百戦錬磨の帝国大公だ。顔が良いからといって惑わされてはならない。私は数字を愛し、数字に愛された女なのだ。
「……なるほど。私という『資産』に対する正当な評価額の提示と受け取っておきます。ただし、第十七条項に追記を要求します。『再建事業の進捗率が五十パーセントに達するまでは、身体的接触および恋人らしい振る舞いを強制しないこと』。これを入れていただければ、サインいたします」
「フッ、交渉成立だ。ただし、『自発的な接触』までは禁止されていないな?」
ルシウス大公は不敵に微笑むと、私の手に持たれていた羽ペンを優雅に奪い取り、自ら追記を書き加えてサインを済ませた。こうして、私は一瞬にして破産国家の再建総責任者兼、帝国大公の婚約者という、怒涛の肩書を手に入れることになったのだった。
「さて、契約も完了したことだ。早速だが最初の『仕事』に取り掛かろうか」
ルシウスがパチンと指を鳴らすと、重厚な扉が開き、帝国の武装兵士たちによって数人の人物が引きずり込まれてきた。
「ひ、ひえええっ! 離せ! 離さぬか無礼者ども! 私はアルビオン王国の王太子アウレリウス・クラウディウスだぞ!」
「嫌ああっ! 私のドレスが汚れちゃう! アウレリウス様、何とかしてぇ!」
「ぐぬぬ……放せ! 私は王国騎士団長のカシウスだぞ!」
そこに転がり込んできたのは、つい数時間前まで私を処刑台の上で見下していた、愚か者三人組であった。
ただし、現在の彼らの装いは絢爛豪華な貴族服ではない。囚人が着るようなガサガサした粗末な麻のチュニックと、薄汚れた粗悪なスリッパである。
そして、彼らの後ろからコソコソと怯えた様子で這い進んできたのは、フラヴィアの父親であるフェリシタス男爵だった。
「ル、ルキッラ様……! お助けください! 私はただ、殿下に命じられて台帳を管理していただけで……!」
「黙りなさい、フェリシタス男爵」
私は冷ややかな視線を男爵に浴びせた。
「貴方が『管理』していたとされる過去三ヶ月の王宮台帳を拝見いたしました。……一言で申し上げて、あれは台帳ではありません。お酒に酔った幼児が羊皮紙に描いた落書きです。例えば、七月十二日の支出項目にある『フラヴィア様のお風呂に入れるための魔法の泡立つ入浴剤 四万ディーナ』とは何ですか? 四万ディーナあれば、地方の村一つに綺麗な水道管を引くことができますよ?」
「えっ、いや……それは、フラヴィアがどうしてもお肌をスベスベにしたいと泣きつかれまして……」
「さらに、八月五日の『アウレリウス殿下の髪の毛を輝かせるための金粉入りヘアオイル 十万ディーナ』。王家の金庫が空っぽの中で、よくもまあこのようなふざけた支出の書類に判を押せましたね? 貴方の不正経理と怠慢により生じた直接的な損害は、概算で千二百万ディーナに上ります」
「ひえええええっ!」
フェリシタス男爵は白目を剥いてその場に卒倒した。まったく、打たれ弱い男だ。自分の犯した罪の重さ(と金額の大きさ)に耐えかねたのだろう。
私は続いて、地面にひれ伏しているアウレリウス、フラヴィア、カシウスの三人へと視線を移した。
「さて、債務者番号001、002、003の皆様。これより、皆様の『返済計画』についてご説明いたします」
「ざ、債務者番号だと……!? 私は王太子だぞルキッラ! 戯言をやめろ!」
アウレリウスが顔を真っ赤にして叫ぶ。しかし、彼の横に立つ帝国兵が槍の柄でトンと床を叩くと、彼は「ひっ」と短い悲鳴をあげて縮こまった。
私は手元の羊皮紙を開き、算盤代わりの計算用羊皮紙を叩きながら朗々と読み上げた。




