第十八章 『見えない敵』だったもの 其の四
モルジェニカの手を借りて、森の木々の間に境界の魔法をかけて回る。場所の魔法については講義で習ったが、退屈だったのでしっかり覚えていない。
ダッジオ師に馬鹿もんと罵られつつ教えてもらい、なんとか人の住む平野からある程度入ったところの一帯に魔法をかけおわった頃には二日経っていた。
ふう、と額の汗を拭ってもう一度山の方を見やる。
あれから魔物はなんとなくラジュエルを慕ってくれているのか、一日一回は姿を現して首を近づけてくる。そうなるとこの馬鹿でかい魔物もかわいく思えてくる。
「残念だけど、お別れだね。君を都に連れてってみんなに見せたかったなあ」
こんな大きな魔物の背中に乗って帰ったら、カディオルやミリュウはどんなに驚くだろう。スティーノは腰を抜かすかもしれないなと想像すると楽しくなった。
驚かすことはできないが、早くみんなに会いたい。
トゥーリオ師やラジュエルを追ってきた魔法騎士団の魔法使いたちはいつごろ都に着くのだろうか。羽を使ってずっと飛んでいくのは疲れるが、きっと森を出たら馬を使うのだろう。
ラジュエルは『荒野』にも滞在していたし、ここまで来るのにかなりの日数を費やしてしまった。もう森には秋がおとずれ、高いところでは紅葉が始まっている。
途中に食べる木の実にはことかかないが、野生の動物たちは冬に備えて食いだめしておかないといけないので、食べ物の取りあいになりそうなことはあった。
あれほど大きな魔物は会わなかったが、もう少し小さい魔物にはしょっちゅう遭遇した。来る途中はこれほど多くはなかったから、おそらく『風』の力で今まで隠されていた魔物が姿を現すようになったのだろう。
ほとんどの魔物には攻撃をせず、ただ威厳を示して人里に近づかないように教えた。
そんな風にしてもうだいぶ森のはずれに近づいたと思われる頃。
夜中に生ぐさい臭いが漂ってきた。起こしたのは狼だった。
昼もずっと歩いてきた疲れでまだ目蓋が重くぼうっとしている。
「どうしたの、ジュ……」
言おうとして気がついた。
血の臭いだ!
「どこだ。何者?」
声を抑えてジュートに尋ねる。
闇の中でも狼の金色の目がきらりと輝き、暗がりの一点を見据えている。
シュウシュウと息づかいのような音が、かすかに聞こえてきた。
魔物か。普通の獣ならジュートがこれほど耳をそばだてはしないだろう。ジュートには見えているのかもしれないが、星明かりも届かない森の中の暗闇では相手がどんなものだか全く見えない。
向こうはこちらに気づいているのだろうか。それによって対応の仕方が大きく変わる。
――明かりをつけた方がいいのかな。
物音を立ててはまずい。師匠かジュートには心の声だけで聞こえるだろう。
――馬鹿。わざわざこっちの姿を見せてやる奴がいるか。
――師匠。
――目を凝らせ。ジュートには姿が見えている。おまえの目も暗闇でものを見るようにできるはずだ。力を借りろ。
力を。
――ジュート、僕に力を貸して。暗闇の向こうにいる、あれは何なんだろう。
言葉が終わらないうちに、ぼうっと目が見えてきた。
バリバリと音を立てて何かを食っている。その姿を見てぞっとした。
『鬼』と呼ばれる魔物だろうか。座っている姿は粗野な男に見えるが、けむくじゃらで背中が曲がっている。その『鬼』は両の手のそれぞれに何か大きなものをつかんでかぶりついている。
つかんでいるものが獣にしては大きい、と考えて悪い想像にぞっとした。
――気配を消せ。おまえも危険だ。
――消せって……。
そんな訓練はしたことがない。トゥーリオ師に追われたときのように、目立たないことに集中すればいいのだろうか。
そう思って息を殺しじっとしていたが、魔物がこちらを見ているような気がする。
来るな来るな。念じていたが、鬼の動きが変わった。
鬼は持っていた獲物を地面に置いて、いちどかがみ込んだと思うと、いきなり飛び出してきた。
「うわっ!」
とっさにトネリコの杖で身を護る。ガキンと音がして鬼の歯が杖に食いこんだ。
「止まれ!」
呪文を唱える暇もない。つづいて繰り出される鬼の腕、鋭い爪に杖を持つ右腕をひっかかれた。すぐ近くで鬼の歯がガキンと噛み合わさる。また爪が走り、とっさに身を引いたが顔をひっかかれた。流れる血が唇に垂れてくるのがわかる。
杖で防ぎきれない強力な力で鬼の顔がすぐそばに迫ったとき、グオッと声をあげて狼が動いた。鬼の後ろ足にしっかりと噛みついている。噛まれたまま鬼は足を振りまわし、くわえて離さない狼が揺さぶられる。
その隙に杖を握りなおし呪文を唱える。
「プロヒベ!」
ようやく思い出せた。進行しているものごとを止め、時間を稼ぐ。
一瞬、鬼の動きが止まった。
それからどうする、と考えていた瞬間、後ろから巨大なヒグマが鬼を一撃で打ち倒した。
ぐぐう……と、倒れたまま鬼はうめき声を上げたが、まだ動いている。身をかがめたかと思うと、まだ狼の食らいついた足ごと、ばっと飛びかかってきた。
「『風』よ、力を!」
トネリコの杖をかかげ、精一杯の力、自分の中に満たされている『風』の力を杖に込め、鬼に向かって集中する。
目の前に、ぱあっとまぶしい光がひろがる。周りが急に昼間になったように、一瞬明るくなった森に、ヒヒに似た鬼が灰色になって見えた。
ごとりと大きく硬いものが地面に落ちた。あたりはまたまっ暗になる。
再び何も見えなくなったが、今は生き物の気配が消えている。
――ジュート。何が起こった? また僕に視力を貸してくれ。
ぼんやりと暗闇の中に風景が見えてくる。
足下に大きな物が転がっている。さっきの鬼だ。だが生気はもうない。気をつけて近づいてみると温度を感じないのに気がついた。近づいても動かないのを確かめて、そっと手を伸ばして触ってみる。
硬い。石になってしまったのか。『風』の力は自分でもどういう風に作用するのかよくわからないが、この場合は敵を石化してしまったようだ。
さっきまで鬼が食事をしていたところに目をやると、地面には血が広がっていて、バラバラになってまだ肉のついた骨と、あたりには布のようなものが散っているようだ。
――やはり人間だったのか……。
ぞっとすると同時に悲しくなり、祝福の星印を額に切って亡くなった人の冥福を祈る。
「行こう。ここはまだ危険かもしれない」
今はもう、おそらく敵はいないので、魔法でぼうっと明かりをつけて足下だけ照らして森の道を行く。
暗がりでもつまづかないで歩けるのは、やはりモルジェニカが植物を魔法で動かして邪魔にならないようにしてくれているからにちがいない。
しばらくは怖くて夢中で歩いた。狼とクマは夜の森でも平気で歩いて行く。狼を案内に、ヒグマをしんがりにして行くので、万一敵が現れても心配はすくない。
夜が明けそめる頃、森の出口が見えてきた。
「ここなら大丈夫かな」
ずっと眠らず歩いてきたので、ほっとしたと同時に疲れが出た。
「ここで少し休もう。君たちも疲れただろ?」
完全に森から出たところで休まなかったのは、木々の中の方がかえって隠れ場所があると考えたからだ。
横になると同時にぐっすり眠ってしまい、目覚めたときは日は中天にかかりはじめていた。
森から出ると、一番近くの村が、丘を下ったむこうにぼんやりと見えた。
やっと普通の人間に会えるかと思うと、嬉しくて走り出したい気分だ。
だが、近づくにつれて気がかりになってきた。狼とヒグマを連れていたら普通は村に入れない。都では獣使いのことは広く知られていたが、そこに来るまでは魔法使い専用の宿でなければ狼の立ち入りはおろか、村に近づくだけでも嫌がられたものだ。
しかし『つきないパン』だけではさすがに味気なく、できれば人の作る食事も食べてみたい。
「悪いけど、僕が村に行くとき、君たちは村の外で過ごしてくれないかな」
なんだか不義理をするようで申し訳ないと思いながら頼んでみる。
狼は旅の途中何度もそういうことがあったので、慣れた様子でラジュエルから離れてくれたが、ヒグマは戸惑った様子でうろうろしている。ダッジオ師に連れられていたときはいつも一緒だったのだろう。それに子供のときから都の獣舎で育ったクマだ。
「寂しいんだね、ごめんよ。でも、こういう村には君たちは入れないんだ。敵だと思われてしまうよ。そうだ、僕もちょっと行ってくるけど、夜になったらまた出てくるからさ」
なおもラジュエルに未練がありそうなクマを撫でていると、狼が鼻面で促して連れて行ってくれる。本当に面倒見のいい狼だと思う。
ひさしぶりに一人になって、トネリコの杖を握りマントのフードを後ろになびかせながら村に向かって歩いて行く。知らないところでは顔を見せた方が怪しまれないだろう。
畑に人々が麦の刈り入れに出ていた。
「おうい、すみません!」
手を振って声をかけてみると、作業をしていた女性がぎょっとしたような顔をして、慌てて仲間のところに駆けていく。
彼女と話をした身体の大きい男がやって来て声をかける。
「何者だ。あんた、どっから来た」
「西の方です」
男は疑わしそうにじろじろとラジュエルを見て、
「西には人家はないはずだ。山賊……にしちゃ身なりがいいな。何者だ」
「普通の人間……えっと、魔法使いです、一応。『学びの塔』にいたんですけど、ちょっと、あの、仕事でこっちに」
「『学びの塔』の」
男の顔から警戒心が薄れた。ここで『学びの塔』の名前を出すのは心苦しいが、説明すると複雑だ。とりあえず間違いではないので、そういうことにしておく。
話していると、農作業をしていた男たちがなにごとかと集まってくる。
「魔法使いだとよ」
「『学びの塔』から来たんだとさ」
「へええ、こりゃまた。こんな田舎に何しに」
そういう一人が、
「魔法使いなら竜に乗ってるんじゃないか。こいつ、本物か」
と言い出した。
「ああ、竜には乗ってましたが……。借り物の竜だったんで、もう返してて」
「何の魔法が使えるんだ」
と言われると、迷う。獣使い以外にこれといって自慢できる魔法というと。
「あの、身体を軽くする魔法とか」
「なんじゃ、そりゃ」
魔法を見世物にしていいのかどうかわからなかったが、怪しまれてたたき出されてもつまらない。口の中でそっと呪文を唱えて、足で地面をぽんと蹴って飛び上がる。
効いた!
足で軽く蹴っただけなのに、ラジュエルの身体はふわりと人の身長ほど浮かび上がり、またふわふわと降りてくる。
「うへえ」
村人たちは驚いて急にラジュエルから距離を取った。
「あの……怪しいものじゃないんです。魔法使いとしては、僕なんかまだまだ下っ端で」
慌てて言い訳をしたが、村人たちはなおも胡散臭そうに遠巻きにしてみている。
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