第十七章 『風』の始まるところ 其の三
「自分に一番合った方法……」
そんなことを言われてもよくわからない。
「まあ、ともかく行ってみたらいい。足下に気をつけろ。おまえはまだ死んどらん身体だからな」
ダッジオ師は豪快に笑い、先に立って滝壺に向かって山を降り始めた。
降りながら、師にとっては冗談かもしれないが冗談ではないことに気づきはじめた。『全きもの』はここから落ちても死ぬことはない。一度肉体の死を迎えているのだから。だが、自分はもし足を滑らせて落ちて、打ち所が悪ければ本当に死んでしまうのだ。
そう思うと歩みも慎重になる。
ダッジオ師が振り向いて見上げた。
「心配なら魔力で自分を守ったらいい。ここまで来て自分が『全きもの』になったんじゃ洒落にならん」
考えたことも伝わってしまうらしい。
「魔力で?」
「飛べるだろう。落ち始めてから飛ぶんじゃなく、最初から準備しておくんだ」
「翼をはやしとくってことですか?」
「そうじゃない。翼をはやしたままじゃ、狭いところが通りにくいだろうが。騎士団の連中がさんざん樹にひっかかっとったのを見たか。ありゃ、見ものだったなあ」
「僕を追ってきたのは魔法騎士団の人たちだったんですか。トゥーリオ師もいましたけど」
そんなすごい連中が追ってきていたのかとあらためて身が引き締まる心地がする。知らなかったとはいえ、よく一人で撃退できたものだ。
「騎士団の連中はおまえをあまり知らないから、トゥーリオもつけられたんだろう。別のやつをつかまえて連れ帰ったりしたら、マルリオスにど叱られるからな」
いいか、とダッジオ師は坂の途中で立ち止まる。
「魔道具には表の使い方と裏技みたいな使い方がある。羽で飛ぶのが本来の使い方だが、飛ぶためには身体を軽くする必要がある。羽を生やさないで身体だけ軽くすることができるんだ」
「そんな裏技が! すごいですね、師匠が自分で考えたんですか?」
ははっと師匠が軽く笑う。
「そういうのも『学びの塔』ならでは、だな。学生たちの遊びや失敗が、いつのまにか新しい裏技になる。魔法を学ぶのは一人より学舎がいいというのはそんな理由だ」
師はラジュエルに魔法の羽を持たせて新しい呪文を教えてくれた。
「アデューヴォ・ペナンタ・マジョリス。助けよ、魔法の羽、と言う意味だ。同時に身体でもイメージする。飛ぶときには鳥のように大空を滑空するのをイメージするだろう。こっちは、そうだな、バッタなんかが軽々と飛んでいくイメージだ。羽を広げはしないが、昆虫は高いところから落ちても怪我しない。うまく使えれば落ちても大して怪我はしないでいられる」
「はい」
さっそく言われた呪文を唱えてみる。
なにも変化は起きない。
「僕、なんか変わりました? なんにも起こらないみたいですけど。失敗かな」
「まあ、動いてみろ」
「え、ああ、はい」
今までと同じように坂を下る。妙な感触だ。土や岩を踏んでいるのになんだかふわふわした感触だ。試しに下る足を大きく一歩踏み出してみる。ふわりと浮かぶように一足が大きく軽い。
「うわあ、面白い」
思わずはしゃいで、急な崖をぴょんぴょん飛びながら降りてみる。これなら落ちる心配はほとんどないだろう。
ダッジオ師を追い越してどんどん谷を降りてみる。そのままの位置で見守っている師を見上げて、あらためて彼のありがたさを思う。
「師匠、僕、まだまだあなたに教わらなきゃいけないことがたくさんあります。これからも一緒にいてくださいませんか」
「一緒におると言えばおるし、おらんと言えばおらん」
「どういうことですか」
「『全きもの』ってのはそういうもんらしい。『学びの塔』におけるエスケレス師みたいにな」
言われて急に辛い気持ちになる。エスケレス師はふと見えたかと思えば見えなくなる。会いたいと思ったからといっていつでも会えるわけではない。むしろ、会えたら幸運という感じだった。
ダッジオ師は身体も触れられるし話もできる。生きているときと変わらないように見えてもやっぱり、生きているこの身体とはちがう存在なのだ。
そのときモルジェニカが、となりの斜面をすうっとすべるように降りていくのが見えた。あれが『全きもの』なのだ。やりたいと思ったことは軽々とできて、身体の重みという軛もない。ダッジオ師はもう、そういう世界の人になってしまったのだ。
そう思うと、身体が軽くなったぐらいではしゃいでいたことが、ひどく浅はかで子供っぽいように思えて、もう一度ちゃんと自分の足を一歩一歩踏みしめて降りていった。
「ラジュエルよ」
だんだんと急に『全きもの』が現れるのにも慣れてきた。今度声をかけてきたのはそのエスケレス師だった。
「『全きもの』がうらやましいと思っているんじゃろう。じゃが、『全きもの』がすべてにおいて優れているわけではない。生きている者には生きている者にしかできんことがある。おぬしが、自分の足で大地を確かめながら歩いているように、この世界を感じきることは生きているその身体でしかできんことじゃ。その身体の感覚を大切にしなさい。自分にしかできないことを見極めなさい」
「生きている者にしかできないこと?」
そう言われてもぴんとこない。『全きもの』は魔法を極め、自由にどこにでも存在することができて、できないことなど何もないようにしか思えない。
「そのために『風』はこちらの世界に吹いておるのじゃ」
ますますわからないことを言う。
それでも、ともかくラジュエルは崖の一番下、滝がごうごうと落ちている滝壺のほとりの岩場にたどり着いた。滝の裏にえぐれている洞窟が、『風』の出所のように、上にいたときに感じた。
ここからよく観察すると、そこまではなんとか河に入らなくても崖づたいに行くことができそうだ。だが、故郷の山にも滝はあったが、滝壺というのは一度落ちると抜け出せなくて溺れる危険がある。そこで亡くなった子供もいるから決して滝の近くでは遊ばないようにと子供の頃から厳しく言われていた。
滝壺の見えるこの川原には石がごろごろしているが、平らで安全だ。そこに荷物を置いて一度ゆっくり考える。
いつのまにか来ていた狼とヒグマの背中を軽くなでながら話しかけてみる。
「さっき、エスケレス師に生きている身体の感覚を大事にしなさいって言われたんだ。でもこんなところじゃ『全きもの』なら平気だけど、僕が行ったら命の危険があるよね。それでも、『谷間の風のはじまるところ』に行く必要があるのは彼らじゃなくて僕なんだ。なんだか変な話だよね」
――生きているからこそ、生きている者たちの世界に必要なことができる。
金色の目を向ける狼と視線が合ったとき、ふとそんな返事が浮かんできた。これはずっと憧れてきた狼と意志を交わしあうことができているんだろうか。
「生きている者たちの世界に必要なこと?」
――魔法使いたちは我々に何をした。今の『学びの塔』の魔法使いたちのしたことは、世の理に沿っていることなのか。
今度はヒグマが大きな黒い顔から厳しい黒い目を向ける。
「世の理……そうか」
最初は『谷間の風のはじまるところ』に行くのは自分のためだと思っていた。欲望をかなえるためと一番始めに出会った意地の悪い神官に言われた。その次は直感のようなものに導かれた。そして『荒野』のチェルザードの言ったこと――。
『学びの塔』の地下に閉じ込められた哀れな竜の魂。
「そうだったね。君たちの獣舎はファードル師に取り壊されることになった。都には獣はいらないと言われたんだ。もともとあんな場所に君たち自身が選んでやって来たわけじゃない。獣学を『学びの塔』に取り入れようとして、そして連れてこられた『力あるもの』たちだったんだ。それを魔法使いたちの勝手な事情で獣のことを邪魔にしたりいらないと言ったり、本来は最も力のある魔物である竜を人形のように扱ったり。そういうことが、僕はおかしいと思ったんだ」
すっくとラジュエルは立ち上がった
「やっぱり僕は行くよ。どうやったら行けるのかわからない。でも、ここには頼りになる人たちがいる。僕がここまで来たのが導きなら、ここから先に進むのもきっと導きであるはずだ。もしそれで僕が命を落としたら、僕の役割はそれまでだったってことなんだろう」
狼が顔をこすりつけてくる。
「ありがとう、ジュート。君に出会ったときだって、もう僕は死んだと思ったんだ。いわば君に与えられたもう一つの命を、僕は生きているんだ。その命を何に使うかという問題かもしれない」
目の前に落ちる大きな滝に向かって、今度こそ立ち上がる。
「行ってきます、師匠」
「靴を脱いでいったらどうだろう。岩が濡れてすべる。裸足なら岩場を捕まえるのがもう少し楽かもしれん」
「そうか。やってみます」
「ここは魔力が強い。今までできなかったことでも試してみるといい。いただいた命だからと軽んじるな。生きて戻ることを大事にしろ」
「はい」
師匠の言うとおりだ。カディオルや友人、獣たちも『荒野』の人々も、『学びの塔』に閉じ込められているだろう竜の魂も、自分が戻るのを待っている。そして最愛のミリュウも。
靴、上着、マントを脱ぎ荷物を置いて下着だけで岩場を歩きはじめた。狼とヒグマはダッジオ師の両脇に立って見守っていてくれる。
岩は熱いし尖っている岩もあるので、気をつけて慎重に進んでいく。さっきの身体を軽くする呪文はこういうとき役に立つ。一度つるりと滑りそうになったがすぐに体制を立てなおすことができた。
幸いなことに歩いて行ける岩は滝壺の裏までつづいており、さっきの洞窟まで滝壺に落ちることなくたどり着くことができた。
滝の裏から見ると水しぶきが大気中に大きく散り、光が当たる部分に虹ができている。
「きれいだ……」
しかし見とれているヒマはない。滝壺の裏の洞窟をのぞくと入口付近は光が入って明るい。もう一度振りかえってみると、滝の裏、虹の出ているあたりにエスケレス師が立っていた。
「ここに入っていいんですよね?」
師はゆっくりとうなずく。
「様々なものが見えるじゃろう。何が一番自分らしいか考えなさい。おぬしなら大丈夫じゃ。いと高きところにまします大いなる方の導きのままに。御身に祝福あれ」
ラジュエルに向かって祝福の星印を描く。ラジュエルも返礼して星印を描いた。
「ありがとうございます。いと高きところにまします大いなる方の祝福が、御身の上にもありますように」
そのとき胸のカディオルの御守りにふと手が当たる。
――ありがとう、カディオル。行ってくるよ。
ふるふると鈴が鳴るような心地良い音が、響いた気がした。
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