第十七章 『風』の始まるところ 其の四
洞窟は入るとすぐに曲がっていて、入口からの光は奥には届かない。どこまで深いのだろう。そして、コウモリなどの生き物が出てくることはないのだろうか。
つまづかないようにゆっくりと裸足の足でさぐりながら歩く。
「もうちょっと明るかったらいいのにな」
そうつぶやいたのが影響しているのかいないのか、すぐ先の岩壁がぼうっと発光しているのが見えた。
光の正体はなんだろう。岩そのものが光っているのか、『学びの塔』で学んだ発光する何かの生き物なのか。それとも、光がそもそも魔法なのか?
『学びの塔』にいたときには勉強は退屈でさぼりがちだったが、こうして一人になってみるともっと勉強しておけばよかったと思う。ミリュウやカディオルに頼りすぎていた。発光する生き物が危険なのか危険でないのかぐらいは覚えておけばよかったと思いながら、そうっと光っている部分に近づく。
目を凝らしてよく見てみるが、生き物ではなく岩そのものが光っているように見える。
「なんだろう、これ」
手をかざして温度を確かめてみるが、とくに他と変わった感じはない。思い切って手を伸ばし、そっと触ってみた。
その途端――。
「うわっ!」
いきなり足下の地面の支えがなくなった。触ったのは手の先だけのはずなのに。
慌てて魔法で支えようと胸元の羽に手を伸ばす。
「ウォルフェ……」
唱えようとして、何かちがうと気がついた。
落ちているのではない。といって浮かんでいるのかどうかわからない。
四方八方をまばゆいほどの光に包まれている。目が開けていられないほどの明るさなはずのに、なぜかまぶしくない。しっかりと目を開けていられる。これは普通の光ではないのか。
身体が浮かんだ感覚のまま、あたりを見回してみるが、上も下も横もぜんぶ光で溢れていて他の何も見えない。
「そうか」
目標となるものが何もないから、落ちているのか浮かんでいるのかわからないのだ。
普通の空間なら、夜でなければ建物や木々や地面が見える。それを指標に今自分がどこにいるのか見当がついたのだが、ここには何もない。ただ身体の感触として、今まで飛んだり浮かんだりしたときに似ていると感じるだけだ。
なんとなく『学びの塔』の上空でマルリオス師に『器』にされたときの感覚に似ていなくもない。だがあのときは苦しいだけだったが今はむしろ心地良い。
ちょうど眠りに落ちるとき、うとうとして身体に力がなくなっていくような、心地良い筋肉のゆるみが広がってくる。モルジェニカがまとっていた爽やかで治癒力のあるすがすがしい香り、耳にはかすかに、ふるふると鈴の音のような美しい音が聞こえるような気がする。
ここがそうなのか。ここが『谷間の風のはじまるところ』――。
何かをしなくてはと考えるが、それ以上に心地がよくてうっとりして、このままふわふわと浮かんでいたい気分だ。眠くてたまらないときにふかふかのベッドに飛び込んだときのように、眠るようにこのまま漂っていたい。
使命とか、義務感とか、誰かのためにとか、そんな重荷をすべて忘れて永遠にぼうっとしたまま、ここにいたい。
どのぐらいそうしていただろう。ぐっすり眠った後のような心地よさだが、目の前には相変わらず光が満ちあふれている。
光以外に何も見えないので、そのままぼんやりしていると、実際に見えているのか記憶がよみがえっているのか、様々なものが目の前をすぎていく。
まずは食べ物。焼きたてのふかふかしたパン、都で飲んだ極上のエール、ソーセージとジャガイモをハーブで調理した大好きな料理、故郷で母が作ってくれたキャベツの酢漬け、夏に森で採ってくるヤマブドウのジャム……。
食卓を囲んで笑っている。一緒にいるのは……故郷の友達、家族、村の人たち、婆様、神官様もいる。そしてなぜか、同じところにカディオルやミリュウ、ダッジオ師やスティーノもいる。一緒にいる人たちは見る度に入れ替わって、トゥーリオ師になったりアンジェニカ師になったり管理人さんになったりする。
次には『学びの塔』の一部屋、いつかマルリオス師と面会した最上階の部屋にいる。窓からは空に竜が飛ぶのが見える。中心に立っているのは自分だ。とても上等な服を着て宝石に飾られている。おめでとう、おめでとうとみんなが唱和する。何を祝われているのだろう。窓からの竜は……チェルザードの黒い竜、そしてフリーナの赤い竜。竜に乗ったチェルザードが窓越しに悠々と飛び、こちらに笑みをなげかける。
これは夢か。それとも、人が死ぬときは、それまでの人生が駆け巡るように見えるという。自分は死んでしまったのだろうか? 死ぬときはもっと苦しいのかと思っていた。気がつかないうちに死んでいるということがあるのだろうか?
ああ、そうだった。そういえば、一度死にかけた。狼が助けてくれたのだ。
突然、ジュートの顔が、すぐ近くに現れた。
ジュート、相棒。
その呼び名を許されたのはつい近頃のことだ。
狼なので微笑むという顔はないのだけれど、人間でいえばにっこり笑ってくるような顔で、狼がすぐ近くにいる。
「ありがとう、ジュート」
言いながら手を伸ばす。
この不思議な空間で、手にも足にもなにも触れていないはずなのに、狼の温かい毛皮の感触が本物のように感じられる。
つづいて意識はアルダムド師に向かう。アルダムド師と会っているというより、亡くなった瞬間のアルダムド師が、どのように感じたのか、急にわかったような気がした。
『全きもの』になるとは、こんな感じだったのだ、きっと。すべてが心地良くふうわりと温かい羊毛にくるまれていくような――。
自分の抱えてきた重いものを誰かに託すことができて、身体という重荷を下ろして『全きもの』になるとは、怖ろしいことではなく幸せなことだったのかもしれない。
気がつくとアルダムド師がとなりでにこにこしていた。
「『志のよいもの』であったな」
「すみません、僕はあなたの期待にこたえられるような人間じゃありませんでした。こんなところで諦めようとしてるなんて」
「いや、そうではない」
師は光の中に漂いながら言う。
「今まさにおまえはわしの期待にこたえているではないか」
急に身体の奥底から力がみなぎってくる感じがした。なんでもできる、今ならどんな魔法でも使えるとダッジオ師が言っていた。
「『谷間の風のはじまるところ』をつかみ取ることも? 古代魔法を自分の手に入れることも?」
何もない光の空間に、アルダムド師は立っていて髪と髭が風になびいている。
「どうしたい。おまえはどうしたいのだ」
急にまたいろいろなものが見えてきた。
じゃらじゃら鳴る金貨の山、箱からあふれ出す色とりどりの宝石、こちらに向かって笑いかけるきれいな女の子たち、おいしそうな飲み物や食べ物、豪華な衣装、みんなが囲んで笑いかけてくる。どんなものでも手に入るとささやいてくる。
でも何かがちがう。こんなものを本当に自分は求めているのか? 心からほしかったものは、こういうものだろうか。
お金がたくさんあって食べ物にも贅沢ができて人気者になって……その何が嫌だというのだろう。
いいじゃないか。人が羨むものが全部手に入って、何不自由なく暮らしていくことができて。
頭が麻痺するようにぼうっとする。
そのすべてが手に入ったとして、自分の人生はそれで満足なのか?
「いや、ちがう」
またしばらくただ光だけが見える。
喜び、理由がわからない、ただの喜び。心がうちふるえるような。それは――。
人の姿が見えてきた。マントをはためかせて歩いている。一人ではない。いや、一緒にいるのは人ではない。あれは、大きな獣……。
「僕か」
狼と歩いている。風がそよそよと心地良く吹いている。草原に座って背中の袋からパンとエールを出して食べ、草の上にごろりと横になる。ミリュウのことを思ってにっこりする。
今から帰るよ、ミリュウ。
「そうか、わかった!」
叫んだ途端、急に光がなくなった。
あたりは薄暗い。足下にはしっかりと地面がある。
目が慣れてくると、立っているのはさっきアルダムド師に見つめられていたあの洞窟の、同じ場所であることに気がついた。
「アルダムド師、僕は……」
「つかみとったかね」
さっきからどのぐらい時間が経ったのだろう。長い長い夢を見ていたようだが、滝の外は明るく、さほど時が経ったようには思えない。
「いいえ。何も」
やっぱり期待にこたえられなかったのだなと、なかばがっかりしながら答えた。アルダムド師は人選をまちがった。それが申し訳ない。
「何もない、それがおまえの答えだ」
「でも僕は」
「マルリオスがおまえのことを『器』にしたそうだが、その点に関してだけは見る目があったと言えるな。善き『器』だ。これほどの逸材はなかなかいない。導きはやはり正しかった」
「でも僕は何もつかみとれなかったんですよ。あんなに素晴らしいものがいっぱいあったのに。その気になればもっといいものを手に入れられたかもしれないのに」
「ラジュエルよ。ここに入れ物がふたつあったとする。ふたつは同じ大きさだ。ひとつの入れ物にはさまざまなものがたくさん入っている。もうひとつは空っぽだ。ここに水を満たすとすると、どちらの入れ物の方がたくさん入るかね」
「それは、後の方です。余計なものが入ってなければその分水がたくさん入るでしょう」
「おまえはそういう『器』だよ」
「……どういうことですか」
よくわからない。長い楽しい夢を見ていただけで、さっきの自分と何も変わっていないのに。
「さあ、行きなさい。おまえはすでに決めている。最後に言ったことを忘れたかね」
「最後に……」
あ、と気づいてすこし恥ずかしくなった。
ミリュウのことを思って、今から帰るよと言ったのだ。
あんなに素晴らしいものを手に入れられたかもしれないのに、考えたのが好きな子のことだけだと知れたら、きっと呆れられるだろう。
「何を赤くなっとる。大事なものや大事な相手のことを大切に思うことができんで、いったい人間に何ができるっていうんだ」
急に現れたダッジオ師が、ぽんと頭をたたく。
「あ、はい。もちろん、ミリュウのことは大切です。でも、ほんとはもっと……」
「大丈夫だ。アルダムド師もおっしゃっただろう。おまえはちゃんと『器』になれた。答えをみつけたじゃないか」
「はあ……」
やはり納得いかない。
『学びの塔』であれだけの騒ぎを起こして逃亡し、『荒野』に助けられ、期待をかけられてやってきたのに、何も手に入れられなかったと知られたら、きっと失望されるだろう。
ざあざあと落ちる滝の裏側に外の光が透けて、角度によって美しい虹がかかる。
満足したような笑みをたたえてアルダムド師がうながす。
「さあ、行きなさい。ここから先おまえの目の前に現れる、おまえにできることを、善き心をもって行いなさい。喜びをいつも忘れんように」
「はい」
虹が輝くように美しくなった。その光に溶け込むように、アルダムド師の姿は薄れて消えていく。
「アルダムド師」
「頑張れよ」
となりのダッジオ師の姿も薄れていく。
「師匠! 待ってください! 一緒にいてくださるんでしょう?」
――ああ、いるぞ。いつも一緒にいる。見えなくてもな。
実体が、ない。さっきまではっきりと耳で聞こえていたダッジオ師の声は、再び頭の中で響くようになっている。
「師匠! ……」
――大丈夫だ。
しっかりした別の声が聞こえてくる。
「ジュート……。ありがとう。今そっちに戻るよ」
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今週も読んでいただきありがとうございます<m(__)m>
書きながら「ラジュエル、血迷うな。欲望のままにつかみ取れ~」って思った欲望に汚れた著者でした……。
来週もよろしくお願いいたします(^^♪




