第十七章 『風』の始まるところ 其の二(イラストあり)
(アルダムド師。イラストはiwajun様)
「性質の悪いいたずらでしたね」
「あなたは精霊にも支配力を持っているんですか?」
「いいえ。支配はしていません。精霊は自然そのものと同じで誰も支配はできません。でもうまく扱うことはできます。彼女たちの性質を理解していればいいのです」
「あの、どうやって……」
「彼女たちに人間の食べ物は必要ありませんからね」
具体的な解決策を知りたいと思ったのだが、それは教えてくれなかった。
アンジェニカ師もどことなく浮世離れしている雰囲気があったが、モルジェニカはそれ以上のようだ。人間の社会に生きたことがないのだから無理からぬことなのかもしれない。
「そういえば、あのとき、夜やってきて僕の傷を治してくれたのもあなただったんですか?」
「『魔傷』のことですか? そうです。アンジェニカが上空で攻撃されるあなたを見ていました。彼女は『学びの塔』の師匠ですからマルリオスを裏切ることはできないでしょう。でも私なら。私の存在は都の人々には知られていませんから」
「アンジェニカ師があなたに頼んでくれたんですか?」
くすくすとモルジェニカは楽しそうに笑った。
「アンジェニカは、あれであなたのことをたいそう気にかけているのですよ」
言われてちょっと嬉しくなる。アンジェニカ師にもまた会いたい。でも、これから自分はいったいどうしたらいいのだろうか。
「いろいろありがとうございました。ところで、僕は『谷間の風のはじまるところ』を目ざした方がいいと、たぶんこれは導きだと思うんですけど、それはどこにあるものなんでしょう?」
「『風』をどういう形で持って行くのかは自分で選ぶこと」
歌うようにつぶやくとモルジェニカの姿はだんだんと薄れてきた。気づいたときにはその姿は透明になり、あとには爽やかに香る空気だけが揺らいでいた。
本当に生身の人間ではないのだな、と少し背筋が寒くなる心地がした。
そして急に心配になり振り向いた。
「師匠、まだいます?」
「ああ、いるぞ。心配するな」
わっはっはと豪快な笑い声とともに、肩をばしばし叩かれた。
「すみません。あの人が急に消えてしまったので、『全きもの』っていうのは、もう少し一緒にいたいと思っても消えちゃうことがあるのかなと」
「うん、人によるな。でも『全きもの』はいつでも相手の前に姿を見せたり隠したりできるから、興味がなくなった途端消えちまう人は多い。言っとくが、俺はずっとおまえと一緒にいたぞ。ほぼ、な」
「僕が『荒野』にいたときも?」
「ああ……あいつはちょっと苦手でな」
「チェルザードのことですか? 僕も最初は苦手でした。ちょっとじゃなくて、かなり。でも、いい人でした。師匠と同期ぐらいだったんですか?」
「そうだな。俺は子供のときから都にいるから俺の方が古株なんだが、あいつは神官の家系ってことで鳴り物入りで入ってきたから目立ったもんだ。頭もよくて知識も豊富だったし、いろんなことに優れていた。それだけに師匠たちからは多大な期待をかけられていた。とりわけあのマルリオスに」
「今じゃ敵対関係ですよね」
「おまえもだろう。他人事じゃないぞ」
わははとダッジオ師は楽しそうに笑う。つられて笑うと今まで張り詰めていた緊張が急にほぐれた。
開けた森の草の上に腰をおろすと、ダッジオ師もとなりに座る。
「師匠、どうしてもっと早く姿を見せてくれなかったんですか。心配したんですよ。『全きもの』になったならなったで、言ってくれたらよかったのに」
「さんざん教えただろうが。自分で力をつけんといかんぞ。俺にばかり頼るな」
「そういう理由で?」
「いや、実はそうじゃない。なんちゅうか、うまく扱えなかったんだな、この身体が。俺からはおまえは見えてたし、何回か話しかけたりもした。でもおまえは気づかなかったんだ、最初は。俺の声が聞こえたこともあっただろう、たぶん、魔力が強くなってたときだ。『全きもの』の存在を感じることもこっちから伝えるのも魔力だからな。西に来て『風』の力が強くなってようやく俺が見えるようになった。都に帰ったら見えるかどうかわからん」
「見えますよ。だって、もう師匠がいるってわかったんですから」
嬉しくなって言うと、ダッジオ師はなかば嬉しそうな、なかば寂しそうな顔で目を細めた。
「変わったな、ラジュエル」
「すみません、偉そうでしたね」
「いや、そうだと思う。おまえはここにいるから一時的に力があるんじゃない。本物の力を身につけてきているんだ。俺の助けもなしで、自分の努力で」
「そうでしょうか。あっ、ジュートの助けもだいぶあったと思いますよ」
「そうだな」
「それから森に来てからはヒグマにも助けてもらいました。クマを派遣してくれたのは師匠だったんでしょう?」
「ああ。こいつはまだ生きてる。おまえもまだ生きてるんだから、生きてるものに助けてもらうのは意味があることだ」
ダッジオ師が立ち上がったのでラジュエルも荷物をまとめる。
森の中を歩き出す師匠について行きながら、いくつもある疑問を口に出す。
「あの、僕、根本的なことをわかってないと思うんです。『谷間の風のはじまるところ』に行けと、それだけを頼りにここまで来ちゃったんですけど、それっていったい何なんですか?」
わははと師匠は大声で笑った。あんまり笑うので、もしかしてこんなところに来るんじゃなかったかなと思い始めた頃、ダッジオ師は笑いすぎて出た涙を指で拭った。
「いや、知らんよな。そりゃ知らんだろう。『風』の正体なんて、『学びの塔』でも上級の魔法使いたちが議論するようなことだからな。実のところ、正体が何かってのは俺にもよくわからん。ただ、みんなの言ってるように『風』の源に近づけば近づくほど魔力は強くなる。実感があっただろう」
「ええ。僕が都の魔法使いたちを追っ払えたのは、モルジェニカや『力あるもの』たちの助けもあったけど、僕自身の魔力が強くなったからだったと今はわかります。あっ、でもそれって今は『風』の近くにいるからだけど、都に帰ったらまた元通りのへなちょこに戻っちゃうってことなんですか?」
「へなちょこか」
ぷっと師は吹き出して、ラジュエルの頭をわしわしと揺すった。
「おまえはへなちょこじゃない。それはずっと見てた俺が保証する。もちろん学ぶことはまだまだあるがな」
「さっきモルジェニカが『風』を持っていくって言いましたよね。『風』なんて持って行くことができるものなんですか? 持って行けるってことは、魔力の源を持って行けるってことなんですか? もしそれができたら便利ですよね」
「ああ。だが、それは危険でもある。『風』はおまえだけに作用するわけじゃなくて周りの環境全体にも作用するからな。使い方をわきまえないと大変なことになりかねない。それが今まで『風』を持って行ったやつがほとんどいない理由だ。そもそも生きてここまでたどり着けた者はごく少ない」
「どうして僕なんかにできたんでしょう」
「導き、だろうな。だが導きというのは運や偶然じゃない。おまえはおそらく選ばれているのだ。アルダムド師がおまえに狼を託したときから」
「そして、それは正解だったと考えておるよ」
突然、ダッジオ師の反対側のとなりからアルダムド師の声がして驚いた。
「アルダムド師、いつからいらっしゃったんですか!」
はは、と師は笑って、
「『全きもの』というのはそういうものだ。その場にいなくても気にかけている者のことはわかるし、力も及ぼせる。だからこそ、あまり生きている者たちに力を及ぼすことは慎んでいるのだ」
「『学びの塔』の地下で、僕を助けてくれたようなことですか?」
「知っていたのか」
「やっぱり、あれは夢じゃなかったんですね」
「ああ」
言ってアルダムド師は、歩きながらすこし悲しそうに目を伏せた。
「こちらの世界のことがらは、こちらの世界の者たちに任せたらいい、我々はそう考えている。だが、目に余るということもあるものだ。もちろん、我々が力を及ぼすことは、やろうと思えばできる。だが、そんな世界がおまえたちにとって善いものか? 死者が思うように造り上げている世界など。時代は変わっていく。新しく生まれてこれから生きていく者たちが、自分の世界を作っていくべきだと、わしも思う」
「おっしゃっているのは、マルリオス師のことですか」
「ああ、マルリオスはな。本当なら、もうあの場所にいるべき者ではない。誰かが正すべきだ。あるがままの世界に」
突然、アルダムド師が足を止めた。
「着いたぞ。ほら、ここだ」
「わあ……」
ごうごうと轟音が響いている。
目の前には大きな滝が流れ落ちている。水しぶきを上げる滝壺から、今までずっと辿ってきたヴァリーニャ河の源流が東に向かって下っている。
「河の元がここなんですね。でも、『風』は?」
「感じてみなさい。『風』が興っているところを」
言われて立ち止まり、目を閉じる。
今なら言われていることがわかる気がする。
『風』はすべての力の、魔力と呼ばれる力の源。それが始まっているところが、ここにある。それはいったいどこなのだろう。
光が見える。太陽や炎の光ではなく、『学びの塔』の『喜びの門』に入ったときにぱあっと目の前にまぶしいほどに広がったあの不思議な導きの光が、閉じている瞼の裏側に見えてくる。
心がやすらぎ、力を回復させるモルジェニカの周りにただよっていた神秘の香り。
トネリコの杖、『力あるもの』たちの躍動。
どくんと自分の心臓の鼓動を感じる。
確かに、ここには力がある。自分の力ではなく、すべての生命に力を与える命の源が。
「ここですね」
目を開けると、滝の後ろ側の岩がえぐれて洞窟になっているのが見えた。
「そうだ」
横に立つアルダムド師が微笑んでいるのが、顔を見なくてもわかる。
「僕が行っていいんですか?」
「『風』をどういう形で持って行くのかは、自分で選ぶこと」
唐突にモルジェニカの声がすぐそばで、した。
『全きもの』が突然現れたり消えたりするのに、まだ慣れなくていちいち驚く。
「持って行けるんですか? 『風』なんて形がないのに」
そよそよと風に揺らぎながら、モルジェニカの姿は透明になったりはっきりしたりしている。
「ラジュエルよ。形がないものを、人はどうやって扱う。形がないものは、すべて存在しないものかね?」
アルダムド師が楽しそうに言う。
「いいえ。そうですね、たとえば……。水なら入れ物に入れて持ち運ぶし、それ以外の……あなたがおっしゃっているのは、大いなる方の教えとか誰かの気持ちとか、そういったもののことでしょうか。教えは言葉にして人に伝えることができます。気持ちならそれを象徴するものに託すことができるかもしれません」
カディオルの御守りのことを思い出しながらこたえた。あのとき自分が受けとったのは、ものではあったがカディオルの気持ちだった。ダッジオ師の魔道具も。
「そう。『風』も同じだ。おまえなら、どうやってそれを持って行く。自分に一番合った方法を選びなさい。自分らしくないことをやろうとしても、それはおまえ自身ではないから、途中で消えてしまうだろう」
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