第十五章 森の西、そしてさらに谷の奥へゆく 其の四
それからは気をつけて歩き続けた。もうここは師匠たちや『荒野』の魔法使いの管理が行き届く安全な場所ではない。魔物や野生の獣たちが跋扈する恐ろしい場所なのだ。
西に行くにつれて風の影響で魔力が強くなる。夕べ襲ってきた魔物はまだ序の口かもしれない。これからはもっと用心してかからないと。
その日の昼前、森が明るくなったと思うと河のほとりに出た。チェルザードと訓練にやってきたのはもしかしたらこのあたりかもしれない。全く同じではないが転がっている岩の大きさは似ている。都近くに行くともっと川幅も広く流れもゆっくりだったが、このあたりでは狭くやや速い流れになっている。
チェルザードと上空からちらりと見たとき、都でヴァリーニャ河と呼ばれる河にはいくつかの支流が流れ込み大きな流れになっているようだった。
「デュカス……じゃなくってジュート、魚とか捕れるかな。パンとエールでもいいけど、ちょっと違うものも食べたくなったんだよ」
狼はちらりとこちらを見た。ラジュエルの方というよりトネリコの杖の方だ。
「杖? あっそうか」
魔法でなんとかしろということだろうか。
故郷にいた頃は魚釣りはあまりしなかったが、近所のおじさんで魚を釣る人はいた。子供の頃はそのおじさんに話しかけたりしながら魚釣りを眺めていたことがある。
釣りについては『学びの塔』でも『荒野』でも習わなかったが、この杖には思っていなかったような力がある。試しに杖を河に向けて念じてみた。
「魚……食べられるような魚を捕るにはどうやったらいいんだ」
ぐいと引っ張られるような感じがした。杖が導いてくれている。
そのままラジュエルは川に近づき、杖を流れに差しこんでみる。
杖の周りで水が渦巻くのが見える。そのまま食べ物のことを考えながら念じていると、驚いたことに足ほどの大きさの魚が杖に寄ってくるのが見えた。
「僕が、この魚を食べていいなら、ここへ」
命をいただくのだ――。決してむやみな殺戮をしたいのではない。生きるために食べるのだ、そう念じたとき、急に魚がぴょんと跳ねて足下の陸地に落ちた。
「ありがとう、いただきます」
大いなる方に感謝を捧げて背負い袋から火打ち石を出し、河原の流木や枯れ葉を集めて火をたいて魚を焼く。不思議な体験だった。
狼は横でじっとしている。焼いた魚を食べながら、ふと昨日の魔物は自分を食べようとしたのだろうか、それともただ捕まえてみたかっただけなのだろうかと考えた。しかしどっちにしろ得体の知れない魔物に捕まるのは気分がよいことではない。もう逃げてしまったものだし、考えないことにした。
腹ごしらえをして今度は河べりを上流へ向かって歩く。
天気はよく、このあたりは森と河の間に平らな地面もあるので足場は悪くない。それに山歩きは故郷の山で慣れている。夕方にはまた森に入り寝床になりそうな場所を探す。数日雨は降っていないので、とにかく乾いて平らな場所であればいい。
「魔物に、出てくるなって言ったって無理だよなあ。ここはもともと魔物や獣の方が先にいるんだから、僕の方がよそ者だもんね」
念のために寝る前に、自分を囲む範囲の木々に護りの呪文をかけておいた。
魔力にも、馴染みというものがある。普段からよく見知っている場所、よく使う道具などには簡単に魔力がこめやすいが、はじめての場所やものを使いこなすのは難しい。
だから過剰な期待はできない。ただ、ぐっすり眠っている間に頭から喰われてしまうような事態は避けたい。せめて異変が起きたら自分を起こしてくれるように願う。
食事を終えた狼も、昨日の用心のためかラジュエルにぴったり体をつけて眠る。夏とはいえ森の夜はすずしいので毛皮が心地よい。だんだんと土地の高度も上がってきているようだ。
なんとなく不穏な気配で夜中に目が覚めた。
魔物かと思ったが昨日のような生臭さはない。なんだろうとじっと耳を澄ませてみた。
これは人の気配か。狩人や炭焼きならこんな夜中にわざわざ出歩かない。噂に聞いた山の民だろうか。
明かりはないがとなりの狼が頭を上げて空気の匂いを嗅いでいるのがわかる。
人の気配はラジュエルがじっとうかがっているうちに消えていった。
しかしおそらく気のせいではない。こちらが気がついたのを知って退散したように思える。それは害のない人物だからだろうか? それとも気がつかれるのが困るからだろうか。
「こんな夜中ってのが嫌だよな」
そっと狼につぶやく。
こちらが何ものだか確かめるためなら昼間の方がずっと都合がよいではないか。そうしない理由はいくつか考えられる。一つには相手が極端に用心して昼に近づくと襲われると警戒している場合。もう一つは、考えたくないが、眠っている間に襲ってこようとしている場合だ。
襲いかかろうとする前にこちらが気づいたから逃げたのだろうか。それともただ様子をうかがっただけ?
毎日、寝る時間になにかが来るのはきつい。昨日も寝不足だったし今日もたくさん歩いて疲れている。
狼は頼りになるとはいえ、同じように寝不足には変わりないだろう。
なんとかしなければ、なんとかできないものかと起き上がって杖に明かりをともす。木々にかけた護りの呪文が護ってくれたのかと確認しに行って妙なことに気がついた。
呪文をかけた木に限ってなにか模様のような傷跡がついている。呪文をかけたときにはなかったはずだ。
「一体誰が……。というより、これは獣や魔物じゃなく、人が来たってことだよな」
半ば狼に聞かせるようにつぶやいて木に手をあてる。
模様は呪文のように見えた。いつか着せられた魔法防御の服には美しい模様が織り込まれていた。自分のとらなかった象徴学という学問だろうか。
象徴学とは、抽象的な概念を図や像によって表現する学問だと習った。よくわからないので専攻しなかったが、カディオルは為政者には必要な学問だと言って学んでいた。上級者になるとその文様に魔力を込めることができるのだそうだ。
しかし、こんな森の奥で誰が? まさかとは思うが『学びの塔』の魔法使いだろうか。嫌な感じがする。
「君たちが傷つけられてしまったのは、僕が護りを頼んだからだろうか。変なことに巻き込んでしまってごめん」
片手を木に当てて心から謝る。木はただここに生えているだけなのに、自分が魔法を頼んでしまったから傷をつけられることになってしまった。
「そうだ、傷をつけたのが人間なら傷を治すことも僕にできるんじゃないか」
チェルザードと訓練した、岩を直したときのことを思い出してみる。形作る、そう、もとの形をイメージして修復するんだ。
元の形がはっきり思い出せるわけではないが、ほかの樹皮の状態を見て、傷が元通りになったところを思い描く。
集中してゆっくりと力を込めると、だんだんと周りの樹皮が成長して傷を埋めていく。やがてすっかりとは言えないまでもかなり傷は目立たなくなった。
つづいてほかの数本の木のところも回って一本一本傷を治していった。
木々がざわめきはじめる。高い梢の葉がさらさらと揺れる。
風が吹いたのかと思って見上げ、おどろいた。
木々が歌っている。いや、歌っているように聞こえるだけだろうか。葉ずれの音はまるで木々が喜んでいるように心地よく響く。
――おやすみ。
と言ったように思えた。
――傷を治してくれてありがとう。私たちが見守っていましょう、今はおやすみ。夜には子供はぐっすりとおやすみ。
もう子供じゃないつもりだけど、と思ったが、その優しさに思わず頬がゆるむ。
「君たちは木の精霊なの? ありがとう。嬉しいよ」
そういえば故郷の村を出てすぐ、木の精霊に絞め殺されそうになったとき、トネリコの杖が護ってくれた。
植物学のアンジェニカ師のこともふと思い出された。
今木々は自分を護ってくれようとしている。そのお礼に自分ができることは何かあるのだろうか、今は甘えてしまっていいのだろうかと考えながら、抗いがたい眠気が押し寄せてきた。
安心、そう、木々の歌はあまりに心地よく響いた。
「きっとこういうのも導きだよね? デュカス……じゃなくってジュート」
狼はすでにさっきの場所でぐっすり眠っている。きっと大丈夫だ、木々の精霊は信頼できる、と杖を握りしめて夢うつつに考えながら意識を失っていた。
すぐ横に寝ていた狼が体を動かしたので目が覚める。目を開けてすぐ異変に気づいた。焦げ臭い。そして木の燃えるぱちぱちという音がする。
火事だ!
体を起こすと少し離れたところの一本の木が炎を上げている。
逃げなければと考えるのと同時にはっと気がついた。
あれは自分が護りを頼んだ木の一本だ! それではさっきの怪しい文様は発火させる呪文だったのだろうか。もしさっき傷を直しておかなかったら、ほかの木々もあのように燃え上がったのだろうか――。
「消さなきゃ!」
狼がぐいと鼻面で反対方向へラジュエルを押す。逃げろと言っているのか。
「ジュート、でもあの木はぼくのせいで燃えることになった。消してあげなきゃ。それにほうっておいたら山火事になる。燃え広がってからじゃ大変なことになる!」
まだ燃えているのは一本の木だけだ。今ならきっと押さえられる。
『荒野』の人たちに『どこからでも水を出せる呪文』を教えてもらっておいてよかった。飲み水のことだとばかり思っていたが、今使わなくてどうする。
杖を掲げて呪文を唱え、力を集中する。
「アパラックァ! (水よ、出ろ)」
途端に滝のような大量の水が集中したところに噴き出す。ちょっと練習が足りなくて力のコントロールがうまくいかない。だが、今のような場合にはちょうどよかった。
滝のような水を浴びて木の炎が、じゅうと音を立てて消える。
「よかった……」
あらためて近づいて木を確かめると、ほかの木についていた文様と同じぐらいの高さのところが一番焦げている。
「この木だけ文様を消し忘れてたんだな」
焼け焦げた木をどこまで修復できるかどうかわからなかったが、とにかく心を込めて直す魔法を試してみる。
燃え落ちた小枝までは元に戻せなかったが、焦げてはげた樹皮は少しは戻る。だが木が自力で修復したような傷跡が痛々しい。
自分のせいで、ここにただ生えていた木を巻き込んでしまったと思うと悲しかった。
「ほんとにごめん」
焦げたところに手を当て、大いなる方が御恵みをくださるようにと祈る。魔法だけでは直しきれない。自分の魔法がもっと強かったらいいのかもしれないが。
やがて手を当てているところに木の中から樹液がじわりと湧き出てきた。傷を自らの力で直しているのだ。
狼がやってきて傍らに立つ。
「急いだ方がいいな、ジュート」
夜が明け始めて空の藍色が薄くなりつつある。少し眠いが、ここは危険な気がする。どこか安全な場所を早く見つけて一休みした方がいい。
軽く食事をとりながら、あらためてぞっとする。
あの文様は後から発火する魔法だったのだ。もし夜中に目覚めて傷をなおしておかなかったら自分を囲む木がすべて発火し、火に囲まれて焼き殺されていたかもしれない。
そのとき、ふと声が響いた。
――追っ手に気をつけろ
「ダッジオ師?」
ダッジオ師の声に聞こえて思わず見回した。だが周りは相変わらず木々ばかりで人気はない。
耳を澄ませてみたが声はそれ以上語ってくれなかった。
だがあれはやはり師匠だ。せっかく忠告してくれたのだから、急いで支度を整え出発することにした。
しばらく森の木々をかきわけて狼と進んでいたが、突然狼がぐいと服を引っ張るので転んでしまった。
「ジュート、何を……」
その途端、前方の木に風をかすめて飛んできた矢がどすっと刺さる。間一髪だった。
一体誰が――?
倒れたままそうっと振り返ってみると悲鳴が聞こえた。後ろに大きな岩ほどの黒い塊がちらりと見える。
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まったく関係ない話ですが、本日わたくし猫洞、誕生日でございます♪




