第十五章 森の西、そしてさらに谷の奥へゆく 其の三
一年のうちで最も暑いころ、ラジュエルは本格的な旅支度を、『荒野』の集落で整えた。
「『つきないパン』は持ったか?」
「『どこからでも水を出せる魔法』ちゃんと覚えてる?」
「困ったら鳥を呼ぶんだよ」
みんなが囲んでいろいろ忠告してくれる。
「そうだ。すごく役に立つ魔法を教えるの忘れてた。なくし物をしたときに戻ってくる呪文がある!」
フリーナが叫ぶ。
「へえ、そんなのがあるの。便利そうだね」
「あらかじめ大切なものに名前をつけておくの。名前を呪文に結びつけて、手放してしまったときに唱えれば戻ってくる。だけど、もっと強い魔法に縛られてしまった場合は取り戻せないけどね」
「もっと強い魔法って?」
「うーん、たとえば、あなたより強い魔法使いが、そのものを呪文で縛ってしまったりとか。まあ、パンぐらいなら魔法使いにとってはそんなに執着するものでもないと思うけど、ほら、あなたのお守りとかトネリコの杖は大切にしなきゃだめよ」
「そういうものか」
わかったようでわからないが、パンをなくしてしまったらお腹がすく。さっそくフリーナに呪文を教えてもらった。
「フリーナは言葉による呪文が得意だ。『学びの塔』に行っていたら言葉学の優等生になっただろう」
「もういいのよ。どうせ『学びの塔』には行かないから」
横から誇らしげに見ていたチェルザードにフリーナは口をとがらせる。
「今の都や『学びの塔』の体制には反対だが、魔法使いの教育機関はあるのが望ましい。そのためにもマルリオス体制は一刻も早くなんとかせねばならん」
「力になれなくてすみません」
「いや。おまえが『谷間の風のはじまるところ』に行くことが、もしかしたら大きな力になるかもしれない。おまえが命を落として終わりかもしれないが」
「死なんように気をつけるんじゃな」
ふぉふぉと長老が人ごとのように笑う。そんなことはあたりまえだ、と思ってラジュエルはちょっと肩をすくめて見せた。
なにかとラジュエルに反目していたあの背の曲がった男が、ひひひと笑う。
「おまえが死んだらここで葬式ぐらいは出してやるぜ」
「死んだら戻ってこれないから、死んだかどうかわからないじゃないですか」
「なあに。獣が知らせてくれるじゃろう」
「遺体がなくても?」
「手とか足とか持ってきてもらえばいいじゃないか、獣に」
「いや、それはちょっと……」
背の曲がった男は冗談なのか、またひひひと笑う。
「ご遺体が出ないと葬式はできんという話か。ま、その場合は死んでないかもしれんからの」
「あの、ダッジオ師はご遺体が出なかったから葬式を出せないと言われたんです。もしかしてあの人は死んでないってことはないんですか?」
「魔法使いの場合はまた事情が違う」
「事情って?」
長老ならなにか知っているのではないかと期待したが、ちょうどそのとき、子供が長老に見てほしいものがあると引っ張っていってしまった。
「じゃあ、さようなら。皆さんには本当にお世話になりました」
「いやだよ、さよならはよしとくれ。行ってきますでいいじゃないか」
なにかと世話を焼いてくれた中年の女性が笑って手を振り、フリーナや仲良くなった子供たちも、
「早く戻ってね、ラジュエル」
と見送ってくれる。
荒っぽくて怖い人々と思っていた『荒野』だが、一緒に過ごしてみれば仲間思いのいい人たちだった。荒くれ者が混ざっているのは、一般社会からはみだしている人々なので、どうしてもしようがないことなのだろう。
別れを惜しんで出発はやや遅くなってしまい、朝の日差しは高くなりつつある。
背中の荷物に食料と水、旅に必要なものを背負い、トネリコの杖を持つ。もちろん、傍らには狼が歩く。
うららかな夏の日だった。木漏れ日が肩にちらほらと光をおとし梢を風がそよぐ。西に行くにはまず森を北上してヴァリーニャ河方面に向かわなければならない。狼は道を知っているように迷わず進む。
昼になってもまだ森から出られなかった。木々が少し開けたところに座り、持たせてもらったエールを飲み、つきないパンを切って食べる。狼は夜になってから狩りをしようと思っているのか、傍らで体を休めている。
その日は一日、一人で森を歩き続けた。途中獣に出くわすことはあったが、こちらは狼連れなので怖くない。人間には一人も出会わなかった。
アンジェニカ師と来た森の中の薬草園はここよりもっと東なのだろう。ダッジオ師の家も。
西に向かうにつれ河は上流になるので、おおむね道はゆるやかに登りだった。
以前、チェルザードと訓練した河原は石がごろごろして歩きにくそうだった。河を右に見ながら森の中を通っていった方が足場はいいのだろう。
日が傾き、森は暗くなりつつある。そろそろ泊まる場所を見つけないといけない。
「とりあえず天気はいいから、地面が乾いて平らなところなら寝られると思うんだけど」
狼に言ってみるが、言葉で会話ができるわけではない。狼は確かな足取りで歩いて行くから、寝る場所の目星はついているのだろうと思ってついていくと、落ち葉がたまってふわふわになった岩の陰の窪地があった。
「これはいいや」
早速マントを敷いて残ったパンとエールで夕食にする。パンは少しだけ残しておかなければいけない。
「これ、いつ復活するんだろう。夜明けなら大丈夫かな」
ずっと歩いているとお腹もすく。だがこれから先は頼れる相手もいないから、大切に食べていかないといけない。ラジュエルが夕食を食べる間、狼は狩りに行き、小動物をとらえてすこし離れたところで食事にしていた。
たき火をするかどうか迷ったが、落ち葉が多く火事になるかもしれない。日の入りとともに寝ることにしてマントにくるまって横たわった。狼はラジュエルを守るようにすぐ隣に腹ばいになり静かにしている。
フクロウが啼く。空は木々に隠れてはっきりは見えないがよく晴れているようだ。この分なら朝は日の出とともに起きて、順調に歩けるだろうと思っているうちに眠りに落ちた。
暑苦しくて目が覚めた。昼はこんなに暑かっただろうか? ただ気温が高いだけではなくなんとなくいやな暑さだ。まるで生き物の体温のような……。
気がついてはっとして体を起こす。
暑いだけではない、生臭い。
「デュカス?」
狼はどこだ。
気がつくと一人で寝ていて、あたりには深い闇が垂れ込めている。慌ててトネリコの杖を探ると杖はそのまま体の横にあった。
「光を」
命ずると杖がぼうっとほの明るく発光する。
あたりの暗闇を見回してぎょっとした。
暗い森の中に大きな目がある。いや、目のようなものというべきか。
はっきりとした生き物の目ではなく、ひとつの曖昧な光なのだが、なぜかそれは目だという気がする。
魔物だと直感した。魔物が暗闇からこちらをうかがっている。
だが、敵かそうではないものか?
獣学を学んで、得体の知れないものにも、明らかに戦わないといけないものと、近づかなければ害にはならないものがいるとわかってきていた。
トネリコの杖の明かりをまた消した。杖を握りしめたままさっきの目のあったところを凝視する。光が消えると目の光も消えた。だが気配は依然として残っている。
息を潜めてじっと監視していると、シュウウという息のような音が聞こえるのにも気がついた。魔物は距離を縮めてこない。
こちらを狙っているのではないのかもしれない。獣と森の中で出会ってしまったように、たまたま森にいる魔物に出会ってしまって、向こうも驚いているのかもしれない。といって眠るわけにはいかない。眠ったとみるやいなや頭から食べられてしまうかもしれないのだ。
オオオン……と狼の遠吠えが聞こえた。どこだろう。離れている。
その途端、何かの感触が暗闇から伸びてきて背中に触れた。カエルのようにぬるりとして冷たく弾力のある大きなものだった。その物体はラジュエルに触れた途端、ひゅるっと伸びて体に絡みつきながら急に力をこめた。
締めつけられる――!
とっさに握っていた杖に力を込める。
「ギャア!」
何かに当たった杖は一瞬発光して灰色の腕のようなものを照らしたが、すぐにまた暗闇に戻ってしまい、どんなものかは確認できなかった。杖の当たった何かは声を上げて暗闇に戻っていく。シュウシュウという蛇のたてるような音が暗闇に遠ざかっていく。
闇の中から息づかいと足音が聞こえてきた。
「デュカス!」
足音の方に杖を向け、明かりをともす。森の中から狼が現れた。
ほっとして狼の首に腕を回そうとして、口の周りが汚れているのに気がついた。さっきの食事の後の汚れではなく、泥のようなものだが妙に粘り気がある。
「魔物だね? 君は僕のために別の魔物と戦ってきてくれたんだね?」
返事はないが、そうだとわかる。
「ありがとう」
狼の首筋をなでほっと息をついた。
油断してはいけない。ここはただの森ではないのだ。西へ行くほど風から流れてくる魔力は強くなる。『学びの塔』に来る前に出会った魔物よりも強くたちが悪いものたちが隠れているかもしれないのだ。
それからはトネリコの杖を握りしめて寝た。
幾度かオオオン……といううなり声のような声を聞いたように思った。うつらうつらしては目を覚まし、あたりを見回す。狼はときおり顔を上げて虚空の闇を見ていたが、明け方までラジュエルのそばを離れなかった。
ほの明るくなった頃目が覚めて、昨日、目のような気配を感じたあたりの草がなぎ倒されているのを見つけた。
血のようなものが点々とそのあたりまで垂れていたが、色は赤ではなく青緑のような色だった。
「これ、魔物の? 君が?」
狼は案じ顔――人間でいえば心配そうな顔をして血の点々が続いている先を見て、鼻をひくつかせて空気の匂いを嗅いでいたが、やがて落ち着いて、また昨日の道の続きを歩き出した。
ここから先は人間はほとんどいない。いるとすれば魔物か魔法使い――と言っていたチェルザードの言葉を思い出す。
狼がいなかったら命を落としていたかもしれないと、あらためてぞっとした。
「ありがとう、デュカス」
――ジュート。
声が聞こえたような気がした。
「え? 僕が? ジュートと呼んでいいの?」
驚いて狼の顔を見る。
そうだというように狼は確かなまなざしを向ける。
「ジュート。……本当にいいんだね。ようやく僕は君の生徒じゃなくて仲間になれるんだね」
嬉しくて思わず狼の首に両腕を回す。狼も嬉しくて笑っているように思える。いや、自分で思うだけではない。わかるのだ、言葉に出さなくても。
「そうか。仲間になったからには、君が僕を守ってくれるだけじゃなくて、僕も君の役に立てるようにする。がんばるよ」
狼がぱたりと尻尾を振る。
村を出て一年半になる。ようやく狼にジュートと認められたうれしさで、今は魔物の怖さのことを忘れられるような気がした。
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