第十二章 再び西へ 其の二
「ラジュエル! おぬしか!」
マルリオス師の声が図書館中に響き渡ったと思うと、ページの間から小さく白いマルリオス師の姿が立ち上がり、すぐに人間よりも大きい姿にふくれあがる。
マルリオス師が、今しがた自分が出てきた本をむんずとつかむと、本はぱあっと白い炎を上げて燃え上がり、師の手の中で炎になり燃え尽きて消えてしまった。
あまりのことに尻餅をついて、ただただ眺めていたラジュエルに、マルリオス師は冷たい視線を投げかけた。
「どこまで首をつっこめば気がすむのじゃ。その好奇心の強い首が、身体についていることに感謝することじゃな」
気がつくと言葉だけが暗い図書館に響いていて、師の姿も炎も、ラジュエルが手に取っていた本もどこにもなかった。
ぱたぱたと足音がして、一階から司書が駆け上ってくる。
「まあ、まあ。閲覧禁止の書棚を覗いたのね。警報が鳴ってしまいましたよ。マルリオス師に知られたらお叱りが……」
「あの……たぶん、もう知られてしまったと思います。ページの間からマルリオス師が現れて、えっと、本が燃えちゃって。すみません」
「そう。よほど強い禁止呪文がかけられていたのね。困ったことをしてくれました」
「すみません。あの……僕はどうすれば……。大切な本を燃やしてしまって」
「禁書とはいえ、本当に燃えてしまったわけじゃないと思いますよ。でもマルリオス師は知ってしまわれるでしょう。覚悟しておいた方がいいですよ」
また覚悟か――。
どこに行ってもマルリオス師とは相性が悪いようだ。
もうここにいるのも潮時なのかもしれない。
そこまで考えて、はっとした。
――『谷間の風のはじまるところ』へ旅立たなければいけない。
――去るのは今。
狼の声にも聞こえたしダッジオ師の声にも聞こえた。あるいはアルダムド師かもしれない。それとも、実はそう思っているだけで、本当は自分の心の声なのかもしれない。
禁書というのは気になるが、どのみち、獣学で文字で書いたものは少ないと司書も言っていた。
「ひとつ教えてほしいんです。獣学は文字じゃなければいったいどうやって記録に残ってるんですか?」
「そうですね……口伝とか……私もあまり詳しくは。ダッジオ師もお亡くなりになってしまいましたし」
「口伝ですか。ありがとう」
人から人へ伝える。
それは羊飼いたちの仕事の知恵もそうだ。
だから読み書きは必要なかった。
年長者から、親から、親戚から、友達から。そうやって必要な知恵は受けつがれてきていたのだ。自分が獣学に心惹かれ、古代魔法に縁があるのも、そういうところから来ているのかもしれない。
『学びの塔』を去るべきだ。
はっきりとした意志が、すでに固まってきている。
だが、どうやって、どこを目ざしていけばいいのか、その知識はない。
一人でここを静かに去ってもいいのだ、と自分に言い聞かせながら、なんとなくトネリコの杖をいじっていた。
この杖でチェルザードと対峙したなんて、この一見平和な宿舎の部屋にいると信じられない気がする。
あのとき、自分は必死で応戦したつもりだったのに、彼にとっては上出来だと敵を褒めるほどの余裕があったと思うと悔しい。
ダッジオ師の息子の言ったように剣術をもっと修行するべきなんだろうか。しかし、剣術の習得にも時間がかかるだろうし、第一、ここで剣術の師を見つけるのも難しい。カディオルなら教えてくれるのかもしれないが、彼も忙しいし、『荒野』と戦うためと言ったら、そんなことは止めておけと言われそうだ。
「デュカス……」
あのとき、剣が発光し確かに力がこもったのが感じられた。自分が迷ってしまったのがいけなかったのか。
助けられてもいいと狼は言った。
何かがひらめきそうな気がする。
何かが……。
そのままトネリコの杖を前に置き、大いなる方に祈りを捧げた。
まずダッジオ師の安らかな休息を、そしてこれから自分がゆくべき道を――。
――何を迷っとる。どっちみち、できることしかできんだろうが。
聞こえてきたのはダッジオ師の声だった。
「そうですね」
姿は見えないが、師匠の言うことがわかるような気がする。
今ここでできること。それは魔法修行しかない。逆に言えば、せっかく『学びの塔』にいるのに、魔法以外のことをするのはかえって効率が悪いだろう。
日が暮れかけていたが、もう一度『学びの塔』に行くことにした。
夜の塔にはいい思い出がない。
『白い火柱の儀式』のときに毎回閉じ込められたこと、最後の儀式のときには『器』にされてひどい目に会ったこと、そこでダッジオ師が……と考えてしまってまた辛くなる。
でも今回は、トネリコの杖が導いてくれるような気がして、遅い時間にここに来た。
夜、塔に来ることは別に禁止されているわけでもないはずだ。
はっきりとした目的がないまま、杖自体に力があるように感じて、足の向くままに歩く。
杖は、地下室の入口のあたりに案内して止まった。
「地下室か。そういえば、ここはなんのためにあるんだろう……」
ここで死んだ人がいた。力を奪われて。
ラジュエル自身から吸収した力に、悪いものはなかったとファードル師とマルリオス師が言っていた。
ちょっと待て。
力を吸収する?
自分はあのとき、エスケレス師とアルダムド師が現れたから、奪われた力を補ってもらって助かった。それでは、あの死んだ魔法使いは、力を奪い尽くされて亡くなったのか?
本当に、彼は悪い魔法使いだったのだろうか。
悪いって、なんだ――。
ホールには人の気配はもうほとんどなく、暮れゆく日差しが、入口である東側に影を落とす。
その暗い石の床に、膝をついて、手を床そのものに当ててみた。
『学びの塔』は下から上へ力を吸収し上に向かって放散する。
あのときマルリオス師は自分の身体を踏み台にしてさらなる高みに登って敵と戦ったのだ。
力には流れがある。何もないところから出てくるわけではないのだ。
そして『白い火柱の儀式』の間、町の人々から魔法の力が奪われている。では、その力はどこへいくのだろう。
床にぴったりとつけている手から、力の流れを感じ取ろうとする。
ダッジオ師と訓練した成果はまだ失われていない。
力の集中、そして拡散。
どくんどくんと感じられる心の臓の音、この世界に流れる魔法の力、人々の感情――。
「あっ……」
そうか。感情があるのは人間だけじゃない。獣も、おそらく魔物も、同じように感情がある。人の感情と獣の感情はすこしちがうものかもしれないけど。
ということは、ここに流れる力の一部に、今は森にいるデュカスも、空を飛ぶ竜も含まれているのだ。
両膝をつき、床につけている手にますます神経を集中する。
流れている、たくさんの力が――。
力強くまっすぐな力、繊細で美しくぴんと張り詰めた力、平凡だが強い流れの力、下品で弱く情けない力、そして荒々しい野生の力。
どうしてだ。『学びの塔』には、本来こんなにたくさんの力が流れている。
それなのに、マルリオス師の使った力が、あんなに純粋に冷たく尖っているのはなぜだろう。
もっとここには何かがありそうだ。
地下室の、もっと奥深く。
「何をしているかね」
急にケーファ師の声がして、飛び上がるほど驚いた。
「あ、いえ、落とし物を……」
「ふむ」
ケーファ師は近づいてきてかがみ込むとラジュエルの目を見つめ、今までついていた床を見た。
「あまり無理せんように。君にはまだ荷が重い」
「なんのことでしょう」
「危険な道に、踏み込もうとしておる」
ケーファ師はそのまま、眠るようにじっと目を閉じて長いこと沈黙した。
「もっと力をつけてからにしなさい。今のままではまだ、君は、弱い」
驚いて思わず、師の目を見つめ返した。
この人は、自分が考えていることを知っている。少なくとも自分の決意を見透かしているのだ。
だが、もう決意してしまった。
『学びの塔』を去る。
優しくしてくれたケーファ師を欺くのは心苦しいが、どうしても行かなければならない。
何も言葉は交わさなかったが、ケーファ師は諦めたようにふう、とため息をついた。
「トネリコの杖を持ってきなさい。祝福は多ければ多いほどよい。『学びの塔』の施設長としてではなく、わし個人として祝福を与えよう。願わくばそれが君を護る力になるように」
マルリオス師やファードル師に冷たくされていただけに、ケーファ師の言葉はありがたく感じる。
言われたとおり部屋からトネリコの杖を持って戻ると、もう薄暗くなったケーファ師の部屋へ招かれた。
「正式なものではないから、簡素に、じゃがの」
部屋の隅の香炉に香を焚きしめ、捧げ持ったラジュエルの杖に香りをあてる。
杖に向かって祝福の星印を描いて、
「この杖が、ラジュエルを愛するすべての人々の願いに応え、持つものを護り導いてくれるものとなりますよう。常に持ち主と共にあり、危機を乗り越え、正しい道を教えてくれますよう。また必要なときに必要な助けを呼ぶことができますよう。大いなる方の祝福とともに」
すっすっと杖で香炉の煙を払い、自分の額に星印を描き、ついで師はふりかえってラジュエルの額にも星印を描いた。
「わしの力がどれほどのものになるかはわからぬ。大いなる方の示される道を、はずれぬようにしなさい。様々な人が、様々なことを言ったり行ったりするじゃろうが、すべてはひとつにつながっておる。信頼することじゃ」
「ありがとうございます」
頭を垂れ、ケーファ師に向かってと自分の額に星印を描く。
ダッジオ師の葬儀がなかったことで、『学びの塔』の師匠はみんな信頼できないような気がしていただけに、ケーファ師の態度は心にしみた。
「ケーファ師のご迷惑にならないようにします」
「まあ、そんなことは気にせんでよい。何が迷惑で何が役に立つか、よくわからんじゃろう。大いなる方に祈り、その導きのままにゆきなさい」
ふぉふぉと師は軽く笑い、ラジュエルの肩をぽんと叩いて、もう帰ってよろしいと言った。
「ただし、君の考えていることを、あまりたくさんの人に言わないように。ごくごく信頼できるものだけに留めておきなさい。邪魔されたくなければの」
「はい」
ごくごく信頼できる相手。
それは誰だろう。
おそらくカディオルとミリュウは大丈夫だろう。では師匠は?
トゥーリオ師は信頼できるのか? アンジェニカ師は? 管理人さんは?
自分のすることはきっとマルリオス師には気に入らないだろうとはわかる。しかし、ここはマルリオス師の支配する世界だ。誰が、誰とつながっているのか、ダッジオ師もいない今、自分にはわからない。
よほど用心してかからなければならないのだろう。
実はケーファ師こそ、マルリオス師にもっとも近い人物なのかもしれない。それなのに、この言葉はなんだか不思議な気がした。
去りかけて、ふと頼まれていたことを思い出した。
「あ、そういえば、ダッジオ師の奥様がおっしゃっていたことです。師の息子さんが『学びの塔』で学びたいとの強い希望があるのです。許可していただくわけにはいきませんか?」
「ああ、『学びの塔』はすべての者に開かれておる。息子さんはおいくつだったかね?」
「もうじき11歳になるそうです」
「15になるまでに読み書きができるようになっておきなさい。そして『喜びの門』をくぐれたら、受け入れようと伝えてくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
何かをつかみかけていた。地下に流れる力、西から吹いてくる風、人々の持つ微細な魔法の力――。
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