第八章 侵入者 其の四
「クマを檻に戻したそうじゃな」
「しかし怪我人が出なかったのはこの子のおかげだそうですよ」
トゥーリオ師が横から言う。
「怪我人はほかの方法で防ぐべきじゃなかったのかね」
ファードル師の鋭い声にケーファ師が同情するようにちらりとラジュエルに視線を走らせ、ため息をつく。
「気持ちはわかる。あの状況で人がはねられていたら助けようと思うのが自然な感情じゃ。わしはそれが悪いこととは思えませぬ」
いくらはたから弁護されてもファードル師の機嫌は悪いのが明らかに見て取れる。
「だからクマなどここで飼うべきではないと言っておったのじゃ。しかもあのクマはまだ訓練が十分ではなかった。それは幾度も獣使いに注意しておったはず。それなのにこの騒ぎでは、もはや猶予はない」
思わずファードル師の言い方に、むっとした。
そもそもクマを『飼っている』のではない。あれはまだ『力あるもの』には達していないかもしれないけれど、今成長している途中なのだ。それなのにまるで遊びでクマを飼っているような言い方に、思わず言い返しそうになる。訓練を重ねなければ獣だって『力あるもの』に成長できるわけがないのに。
猶予がないとは何のことだろう。
追放? それともクマを殺そうとしているのだろうか。
「……クマを殺さないでください」
絞り出すようにそれだけ言った。
師匠たちの視線がいっせいに集まる。
「一度クマを抑え込んだぐらいで、獣の決定権があると思うでない」
ぴしゃりとファードル師の言葉が飛ぶ。
たしかに自分などは一介の学生に過ぎない。しかしダッジオ師にも相談せずここでクマの進退が決められるのは、どうしても納得いかなかった。
「でも育てていかなければ、『力あるもの』にはなりません。魔法使いだってそうじゃないですか? 学ばないで魔法使いになれるわけではないんでしょう? だったら……」
「誰に向かってものを言っておるのか!」
「申し訳ありません。私の教育が不行き届きで……」
トゥーリオ師が軽く頭を下げ、ラジュエルの腕を後ろからそっと引っ張った。ファードル師の顔がみるみる真っ赤になる。
「行き届かん学生には、わかるようにさせねばのう。地下室での反省が必要じゃ。そう……次の『白い火柱の儀式』のときがよかろう」
トゥーリオ師とケーファ師が困ったように顔を見合わせたが、逆らえないと言った風にトゥーリオは一礼し、ラジュエルをうながして部屋を出た。
「……すみません」
「いや、謝ることじゃない。それよりもこれからちょっと大変だ」
「僕は今までは地下室で困ったことはないんですけど……」
「そうだってね。でも今は困るんじゃないかな」
『学びの塔』の出口でトゥーリオは立ち止まってあたりを見回し、誰もいないことを確認してから耳元でささやくように言った。
「いいかい? 無駄に抵抗するんじゃないよ」
「抵抗?」
「そう。君はいつか地下室で歌を歌っただろう。そういう古代魔法を使っちゃだめだ。ただ力を抜いて流れに任せるんだ」
「流れ? なんの流れですか?」
トゥーリオは、さあ、と首をかしげて見せた。
「実は僕もよくわからない。僕は古代魔法の使い手じゃないからね。地下室で生き残った魔法使いからそう聞いただけだ。役に立つといいけど」
「生き残ったって……まさか、死ぬようなことじゃないですよね? 学生をそんなひどい目に合わせるなんて」
「そう。君がちゃんとした学生なら」
「どういうことですか」
「ファードル師は、君が『荒野』たちから送り込まれた反逆者じゃないかって疑っておられるんだ。できるだけ大人しくして、早く疑いが晴れるといいんだけど。ダッジオ師にはあまり関わらないほうがいいよ」
「なぜですか? ダッジオ師だって『学びの塔』の師匠なんでしょう?」
「ううん……そうなんだけど。獣学は古代魔法に近いものがあるから。とくに君は目をつけられてるからその方面に近づくのは用心したほうがいい」
そのとき誰かが上階の部屋からシャボン玉に乗って降りてくるのが目に入り、トゥーリオは、じゃあ、と言ってラジュエルを外に送り出した。
獣舎には近づくなと言われていた。それを忘れていた。近づけば獣に会いたくなる。その獣が周りとトラブルを起こしていればついつい手を出してしまいたくなる。
どうしてやることなすこと裏目に出てしまうのだろう。
「あーあ。魔法使いになんてならなくてもいいから、故郷で羊飼いに戻りたいなあ」
誰にともなく愚痴をつぶやきながら、それでもつい、さっきのクマが気になって獣舎のそばを通った。
通り過ぎるだけ、様子をすこし見るだけだと自分に言い聞かせる。
獣舎から誰かが出てくる。
「師匠」
巨大なヒグマを連れたダッジオが、すこし振り向いてすぐにまた視線をそらす。
「待ってください。クマをどこに連れて行くんですか?」
走りよるラジュエルから身を逸らすようにダッジオは行こうとするが、クマ連れなのですぐに追いついた。
「怪我人を出さなかったそうだな」
目を合わさずに師匠は言った。不機嫌そうな声ではない。
「ええ。でもファードル師に叱られました。ほかの方法で対処するべきだったって」
「ほかの方法だって? あの状況でたかだか学生にほかにどんな手が打てたっていうんだ」
怒ったようにつぶやくとダッジオはまたむっつりと黙り込んだ。
「クマをどこに連れて行くんですか?」
「おまえが見たときは、鍵が開いてたんだな?」
答えずダッジオはまた訊いた。
「扉が開いていたので鍵は開いてたんだと思います。僕が連れ戻したときまた鍵をかけたので」
「ただの鍵じゃない。もちろん魔法を使ってる。こいつが自分で開けられるような簡単な鍵じゃない」
ぶつぶつと独り言のようにダッジオがつぶやく。
「ってことは、誰かが故意に鍵をはずした……」
「滅多なことを言うな」
ぴしゃりと言われた。
「ついて来い。おまえには最後の別れになるかもしれん」
「別れ?」
先に行くダッジオに小走りで追いつきながら尋ねると、
「殺処分にならなかったのはおまえのおかげだ。死者が出てたら間違いなく殺されてた。死ななかったから追放ですんだ」
と小さい声で言った。
ダッジオはそのまま街の門を出ると、口笛を吹いて馬を呼んだ。
鞍も乗せていないたくましい馬が二頭走ってくる。
「いつもの馬じゃありませんね」
「野生馬だ。といってもほんとの野生じゃない。もとは飼っていた馬なんだが、今はこういうときのために放牧してある。原種の馬なんて今じゃほとんどいない」
ダッジオとラジュエルが馬に乗りクマは歩く。
行き先がわかっているのか、クマも迷わずまっすぐに森に向かっている。
なんとなくいつもよりうなだれているように見えるのは、なぜ森に向かうかわかっているからだろうか。
「クマが逃げ出したとき、僕はデュカスに助けてくれるよう願ったんです。そしたら……心象が見えたんです。たぶん子供の頃のあなたと子グマの頃のこのクマが。一緒にいたのはアルダムド師だったんでしょうか」
馬を並べるダッジオは驚いた顔をした。
「見たのか。俺がはじめて『喜びの門』をくぐった日のことを?」
「ひげもじゃじゃありませんでしたよ」
「あたりまえだ、馬鹿」
こらえきれないといった風にダッジオが吹き出したので、つられて笑う。
「俺の親父を殺したのは、こいつの母グマだったんだ。王の森の森番だった親父はクマと仲良くしていたはずだった。何か悪い力が働いたのだとアルダムド師は言っていた。人を殺したクマは生かしてはおけない。魔法使いたちが母グマを処分したが、小グマにそれを見せちゃいかんからな。見えないところで母グマは死ぬことになった。俺もこいつも親を亡くしたわけだ」
「何歳ぐらいの頃だったんですか」
「9歳だ。獣使いになるか、とアルダムド師に尋ねられた。母親はすこし前に病気で亡くしていたからな。それでこいつを連れてここに来ることになった。ここで育ったんだ、俺もジュートも」
「ジュート?」
「言っただろう。ジュートとは相棒という意味だ。俺にとってこいつはずっと一緒に育ったジュートだ。アルダムド師の狼、今のおまえのデュカスみたいに、一緒に成長してやがて獣は『力あるもの』になる。そこまで待つことができずに、こんなことになっちまったのは俺の力不足だ」
しばらく黙って、馬を並べて歩いた。
草原にも秋の気配が濃くなって、草は枯れ色に染まり吹く風は冷たい。
冬が近いのだろう。
野生のクマなら今はせっせと食べ物をお腹に詰め込んでいる時期だ。冬になればクマは冬眠する。しかし都で育ったこのクマは野性にかえって、はたしてほかのクマのように生きていけるのだろうか?
ダッジオも同じことを考えているのかもしれない。めずらしくうなだれてずっと黙って、ただ馬の背で揺られている。
森に着くとダッジオとともにラジュエルも馬を下り、クマと一緒に森に入っていった。
「あの……」
ためらいがちに言うとダッジオはなんだ、と振り向いた。
「別れって言ったけど、本当は別れじゃないんでしょう? デュカスは僕と離れていてもいつも僕のことを忘れていなかった。必要なときは助けてくれるってわかってました。再開したときだって僕のことをちゃんと覚えていた。このクマだって……」
「そのとおりだ」
ようやくダッジオは髭の中に笑みをたたえた。
「都では暮らせなくなったが、俺が森に来るのが禁じられたわけじゃない。これからもこいつの成長は続く。ただちょっとな」
「ずっと一緒だったんですよね」
「ああ」
すごした時間が、ラジュエルと狼の間に流れたものよりずっと長くて濃かったのだろう。自分も、まだ決して長くはないけれど、それでも狼との間に分かちがたい信頼関係を築いてきていることを考えると、ダッジオがクマと離れるのは、身を裂かれるように辛いことだろうと想像できる。
「師匠は、本当は『学びの塔』を離れたいんじゃないですか? 都は決して獣使いに居心地がいい環境じゃないですよね」
「馬鹿野郎!」
いきなり怒鳴られたのでびっくりして黙っていると、
「軽々しくそういうことを口にするなと言っただろう。俺がいなかったら誰が学生に獣学を教えるんだ。おまえみたいな奴がやってきたとき、誰が導くんだ。え? 魔法使いたちは獣のことをわかっちゃいない。本当に獣のことをわかって、正しく力を働かせる誰かが、都にも必要なんだ。だから俺が今まで師匠として働いてる」
「……すみません」
「おまえはただの獣使いになるな。しっかりとした魔法を学べ。獣学の基礎があって、さらに理論魔法も身につけることができれば最強だ。せっかく学ぶ機会を与えられてるんだ。ちゃんと勉強しろ」




