第七章 狼と少女 其の三
一瞬、ダッジオは手を止めたが、すぐにまた、なんだおまえと威嚇的な目を向ける。
ぴしり、ぴしりと痛みが走るのも構わずラジュエルはダッジオの動きを見ようとした。よく見ると痛みが走る前にダッジオの手がわずかに動いている。
どう動かしているんだ……指先か。爪をはじくように外に動かしているのか。小石をはじくときと同じ動作だ。これは……。
次にぴしりと何かが当たったとき、とっさにラジュエルは見えない何かをつまみ、今度は自分が、ダッジオに向けて爪先ではじきかえしてみた。
「当たった?」
ダッジオが痛みをこらえるようにわずかに身体をよじったのを見て思わず喜ぶと、
「……この野郎!」
今度は無数の石つぶての痛みがじゃんじゃん来る。
「えい! えい!」
ラジュエルも負けずにどんどんはじき返す。
命中率からすればはるかに劣っているにちがいないが、ときどき痛そうに顔をしかめるのを見ればラジュエルの攻撃もいくぶんか当たっているようだ。
「やめろ、馬鹿野郎。子供の喧嘩じゃないんだ!」
「……そうでした」
叱られてようやく手を止めて、ふうと息をつく。ダッジオが一度座って革袋に入れてきた水を飲むのでラジュエルも水を飲んだ。
「おまえはどうも守りが弱いな。先に手が出る」
「そうかもしれません。小さいときから喧嘩には結構勝ってたので」
「相手が圧倒的に強くて手も足も出なければ、守るしかないだろう」
「それはそうですね」
「ってことは、おまえはまだ俺のことをなめてやがる」
「いえ、そんなことは……」
「やりかえそうとするってことは、やれば勝てるって思ってるんだろう」
ダッジオはいきなり立ち上がって、今度はもっと大きな石を投げた、ほどの痛みをぶつけてきた。
「痛っ!」
続いて身体がいきなり宙に持ち上げられたと思うと、どさりと落とされた。怪我をするほどの高さではないが、何も抵抗できない。そのままどさりどさりと二、三回落とされた。
「やりかえすんじゃない。俺の魔法を防いでみろ。俺がおまえにどう攻撃しようが痛手を受けないようにするんだ」
「そんなこと言ったって」
「つべこべ言うな」
今度は身体が近くの大木の幹にどんとぶつけられた。
「いってえ……」
こんなものをどうやって防げというのだろう。
「しょうがないな。あんまりこういうことはしたくなかったんだが」
ダッジオがこちらに向かって結んでいた手を、ぱっとひろげると、みしみしと音がし始めた。背中にぶつかった樹がだんだんと広がってくる感じがする。
ぐにゃりと堅かった幹が曲がる。そのままラジュエルの背中が、じわりじわりと樹の幹に埋まっていく。手も足も捕らえられ身体の自由がきかない。
「待ってください」
急に恐怖におそわれた。
故郷の村を出て間もなく夜をすごした樹のうろで、樹の精に締めつけられ殺されそうになったことを思い出す。植物の力は実はものすごく強いと言っていたのはアンジェニカ師だったか。
――助けて。
心の声が勝手に叫ぶ。そうだ、あのときはトネリコの杖が助けてくれた。誰が味方だ。魔法は使えないけど、自分にはたしかに味方がいる。大いなる方――。
ふわりと心が、身体全体が温かい光で満たされる。
大きな安心感となんともいえない嬉しい気持ち。
ああ、同じだと思う。『喜びの門』をくぐれたとき、あの羊飼いの親子とすごした星の夜。そして、はじめてデュカス、ジュートと呼ぶことになる狼に助けられたときも、この感覚に似ていた。
ぱあっと周りがまぶしいほどの光で満たされる。
気がつくと身体は樹の力から解放されていた。
「……できたじゃねえか」
「はい……」
何が起きたのか、よくわからないがとにかく楽になれた。
ダッジオが近づいてきてラジュエルにではなく、今まで締めつけていた大樹にぽんぽんとねぎらうように手を置き、頭を少し垂れて祝福の星印をまず樹に、そして自分の額に描いた。
「協力してもらったんだ。感謝しろ」
「はい」
師に倣って頭を垂れて祝福の星印を、同じように樹と自分の額に描く。
「いいか、感謝を忘れるな。大自然の命相手に、自分が従えて当然という顔をしてちゃいかん。獣もそうだ。デュカスがおまえを高く買っているのは、おまえがあいつの方が格上だとちゃんとわきまえているからだ」
「高く買われてるとは知りませんでした。でも、いつだって僕より彼の方がものごとをわかってると感じてきました。言葉が通じないのがもどかしかったです」
獣使いが嬉しそうな笑みを見せる。
「そのうちわかるようになる。アルダムド師が狼をジュートと呼んだわけもな」
ようやくほっと安心した。獣使いに学ぶと決めたのは、狼ともっとわかりあいたいと望んだからだ。それから魔物の事件やらいろいろあってなかなか実践できていなかった。
「今日はそろそろ帰るか。あまり遅くなると夜の魔物が出始める。さっき脱ぎ捨てた防御魔法の下着を着て帰った方がいいぞ」
「はい」
「アンジェニカ師は竜に乗ってましたけど、師匠は乗らないんですか?」
森の外近くに放しておいた馬を呼び寄せている獣使いに尋ねると、ダッジオはふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「魔法使いがここにいるぞと都中の人に宣伝してどうする。お偉い魔法使いたちが竜に乗りたがるのは、ここに偉大な魔法使いが移動してますよってのを見せびらかすためだ。『学びの塔』に金を出しているのは王侯貴族だからな。こんなに立派な魔法使いが都を護っているんだと人々に広く知らしめないといかん。俺がおまえを連れ出すのは内緒じゃあないが、決しておおっぴらに見せびらかすようなものじゃない。歩くと時間がかかりすぎるから馬を使ってるだけで、なるべく目立たず地味に行動した方がいい」
「王様からお金が出てるんですか」
「あたりまえだ。おまえが食ってるタダ飯は空気中からぽんと出てきたと思ってるのか?」
「ああ、いえ。カディオルのような貴族の子弟がたくさん払ってくれるんだと思ってました」
戻ってきた馬の手綱を取って渡しながら、ダッジオは愉快そうに笑った。
「それもある。地方領主が大枚はたいて自分の子弟を学ばせたいと思うのは、魔法使いが名誉ある仕事だと思われてるからだ。演出は必要なんだよ、演出は」
傾きかける午後の日差しを背中に受けて、都へ帰る道はほっとするような、なんとなく寂しいような心持ちがする。寂しいのはまた魔法の中で魔法が使えない環境に戻らなければいけないからかもしれない。
「今なら歌ってもいいですか?」
言うと、ダッジオはちらと背後の空をふりむいた。
「あの、西の空が燃える歌か。そうだな、歌うのはちょっと待て。今はまだ音楽に乗せるな。俺の思いすごしでなけりゃ、あれは魔法大戦のときの歌だ。もうずっと昔にこの辺じゃ禁止になったんだが、辺境の羊飼いの歌として残っていたとはな。国の中央を追われて、魔物は北や東へ逃げ込んだと言われている。おまえの戦った『見えない敵』もそういった魔物のひとつなのかもしれん。帰ったらちょっと教えてくれ。どんな歌詞だったか」
「音楽があるといけない……そうか。トゥーリオ師が音と一緒に言葉を使うと力があると言ってましたね」
「そう、言葉そのものにも魔力はあるが、それが音楽と一緒だとさらに、もっと言えば情感を込めて歌われると最大の力を発揮する。だからまず言葉だけ俺にそっと教えてくれ。それで判断しよう」
森の向こう、西の山に傾きかける午後の太陽が、王城の北側を東へ向かって流れるヴァリーニャ河を照らし、さざ波がきらめいて見える。獣使いは西を見やって独り言のようにつぶやいた。
「西のかなたに『谷間の風のはじまるところ』がある。『西の空が燃える』と言えば、魔法使いたちの間では、太古の力が封印された魔法大戦のことを指す。すべてが落ちついたと思われてたんだ。そして今の体制が整った。マルリオスはその後継者だ」
「『谷間の風のはじまるところ』ってなんですか?」
今度こそ、自分にも知る権利があると思って尋ねたが、師匠が言ったのは、
「狼は西から来るだろうよ」
だけだった。
それから天気のいい日は毎日、森での特訓が続いた。
魔法を覚えるためにはトゥーリオの防御服を脱がなければいけないが、都でそれを脱ぐのは許されていない。だから森へ行く。
魔法の攻撃なので怪我はしないが、あちこち筋肉痛でよろよろする。
「どうしたんだ、ラジュエル。具合でも悪いのか。顔色は悪くなさそうだが……」
心配してくれるカディオルにも、本当のことを言うかどうか迷う。
「うん、大丈夫。最近、ダッジオ師の手伝いでちょっと森へ行くことが多くて。馬になんて乗り慣れないから、落ちたりして身体のあちこちが変な感じなんだ」
「馬か。そうだな、はじめて乗るときは私もよく落馬したものだ。落ちるときはなるべく足の方から落ちるんだ。馬に踏まれたり蹴られたりしないように気をつけるんだぞ」
原因が乗馬のせいと聞いて安心したのか、カディオルはにこやかに教えてくれる。
今は魔法特訓のことは言わない方がいいように思えた。ダッジオも、おおっぴらに宣伝するようなことじゃないと言っていた。そもそも防御服をこっそり脱いでいるのを知られるのも、多分いいことではないだろう。
スティーノは何をしているのか詮索したがったが、獣学についてだよ、とあやふやに答えておく。
「ふうん。まあ、頑張ってください」
案の定、獣学にも獣使いにもまったく興味のないスティーノはすぐに関心を失ってくれた。
あの日以来、樹に閉じ込められるような攻撃はされていない。石つぶてを投げられたり、急にまっ暗になったり、身体が宙に浮いたり、そんなことだ。
やり返すのではなく防ぐのだと言われても、最初はまったく何もできなかった。
だが回数を重ねるにつれ、ダッジオの手の動きや視線や、何よりも身体から発せられる雰囲気のようなもので、どんな攻撃がいつ来るのか少しわかるようになった。
「いてっ!」
かわした攻撃が後ろの岩を直撃し、岩の一部ががはじけ飛ぶ。今回は攻撃そのものの痛みではなく、飛んだ岩のかけらが後ろから当たったものだ。
「甘い甘い。周りの状況も把握して魔法の影響を推しはからんといかん。ほれ、次」
どおおんと今度は岩がこっぱみじんになる。
「大自然の力には感謝するんじゃなかったんですか」
「うるせえ!」
続く攻撃を、今度は地面に身を伏せてかわす。
ひゅっと音がして、肩先の服が裂けた。服の下の皮膚がすこしひりひりするが痛みはない。
ラジュエルに当たらなかった攻撃は後ろの草を丸く焦がしていた。さっきまで岩があったところに砕かれた細かい石がちらばり、岩の下に潜んでいた虫たちが慌てて走り回っている。
「逃げるのはうまくなったな。だがそれじゃだめだ。かわすんじゃない、守るんだ、おまえの力で」
力と言われてもやっぱりわからない。
どおん、どおんと激しい攻撃が続く中、地面をごろごろ転がったり身をかわしたりしながら避けるしかない。獣使いの攻撃は日増しに強くなってきて、まともに当たったら大怪我になりそうだ。
そのとき。
「あっ!」
危ない、と言う前にラジュエルは一人の少女を身をもって庇っていた。




