第六章 獣使い 其の五
「なんだって? それでまた傷を受けることになったのか!」
カディオルは声を荒らげたが、心配のためなのか怒りのためなのかわからない。
「僕が考えなしだったんだ。気をつけるようにって言われてたのに甘く見てた。アンジェニカ師と僕じゃ全然力がちがってあたりまえなのに」
「いや、でもそりゃどう考えても獣使いが悪いですよ。初心者をそんな危ないところに行かせるなんて。やっぱりあいつはどっかおかしいんです。そうに決まってます」
カディオルのベッドに座る二人と向かい合う形で椅子に腰掛けて、ラジュエルは苦笑しながら首をふった。
「狼が迎えに来てくれるだろうって甘い考えだったんだ。でも来なかった。どうしてだろう。……というより、今まで僕と狼の関係って何だったんだろうって思うよ。僕が一方的に彼に……狼に頼りすぎてた。ダッジオ師に新しい呼び名をもらったぐらいで、狼が喜ぶかどうかなんて考えもしなかった」
「たしかにもっと学んでから行けばよかったのかもしれないな」
「問題は宿舎の学生がみんな怖がり始めてしまったってことなんですよ。『魔傷』のある者がいたんじゃ、この先もあの『白い火柱の儀式』のときみたいに魔物が都にまでやってくるようになるんじゃないかって」
「それは誰が言ってるんだ」
ぴしりと厳しいカディオルの問いに、スティーノはええっと、と言葉を詰まらせ一度頭を掻いた。
「ええ……僕が聞いたのは食堂とか……広場で言葉使いのトゥーリオ師と学生が話してたりとか……」
「トゥーリオ師が?」
「ああ、いえ、トゥーリオ師ではなく食堂のおじさんだったかな……」
「それをおまえがいちいちみんなに広めてるってわけじゃないだろうな」
「いえ、僕は、そんな。とんでもない」大慌てで両手をふって否定したスティーノは、「あっ、そういえばまとめないといけない課題があるんでした。今夜はもう失礼します」
と、そそくさと自分の宿舎に帰っていった。
「それで、おまえの方はお咎めなしか。とりあえず、よかったな」
「うん……でも、最後にアンジェニカ師に言われた隠し立てってのが気になるよ。思い当たらなくて」
「わざとじゃないんだろう。だったら気にするな。堂々としていればいい」
カディオルにそう言われたので気にしないことにして、普通に学びを続けていたのだが、午後になってケーファ師に治療を受けるとき、
「獣学はしばらく止めておきなさい」
と言われた。
「だめなんですか。僕はそもそもあの狼を託されたから『学びの塔』に来たんです。でも、今なんだか本来の目的がわからなくなってしまって。あの忌み人……じゃなくって多分、アルダムド師っていう人だと思うんですけど、その人は僕に何をさせたかったんでしょうか。狼をここに連れてきて、本当によかったんですか?」
ふむ、とケーファ師はしばらく黙った。
「我々も答えを待たなければならないことは、いくつかある。わしの考えで言えば、最終的にはここには狼はふさわしくない。だが、君に取ってみれば最善の策だったと思うよ。少なくともチェルザードに渡してしまうよりずっといい」
「チェルザードって、あの白髪で片目の人ですか? 彼は何者なんですか? どうして『学びの塔』の師匠たちはみんな彼のことを知っているんですか?」
そこまで尋ねて、彼はかつてここにいたか、師匠たちと深く関わっていたにちがいないのだと思い当たった。その考えを呼んだかのようにケーファ師は深い目を向けた。
「君はもう少しここにいるべきじゃ。最終的には都の魔法使いにはならないかもしれないが、君の運命には危険が多すぎる。十分な強さを身につけるまでは塔の中にいなさい」
「はい……」
それは、しばらくは都の外、とくに森の方へは行かない方がいいということだなと、なんとなくわかった。狼はどうなっているのだろう。もう会えないのだろうか。
最初から自分のものではないことはわかっていた。だが、もう会えないと思うと無性に寂しい。
獣学は止めろと言われたことを、ダッジオに伝えなくてはならないと思い、探したが見当たらない。獣舎の掃除をしながらバイソンやヒグマに話しかけてみる。返事はわからなくても獣に話をするということが、以前は奇妙に思えていたが、ダッジオのおかげで最近では普通のことのように思える。
バイソンは今ではすっかり懐いて、ラジュエルが獣舎に入るとすぐ寄ってくる。つんとすまして高いところから見下ろしているヒョウや、頑丈な檻の中をうろうろするヒグマとも、いずれは心を通わせ会えるようになるのだと楽しみにしていたのに、獣学が学べなくなるのは残念だ。
「君たちはどう思う。どうして狼は僕の所に戻ってきてくれないんだろう」
前に狼とうなりあっていたヒグマに話しかけたとき、後ろから声がした。
「ヒグマにはまだ近づくな」
戸口の所にダッジオが立っていた。
そのままラジュエルの横をヒグマの檻に近づくとダッジオは魔法で大量のエサをクマの目の前に出した。
「クマってのは狼よりも人に馴れない。しかもこいつは『力あるもの』としてはまだちょっと未熟だ。おまえのデュカスはかなり成熟しているが、未熟なものはまだもともとの獣としての性質がたくさん残っている。危険なものを扱うのは、自分に十分な力がついてからだ。今のおまえじゃ、ヒグマに一発殴られただけであの世行きだからな」
いつもなら笑い飛ばす悪い冗談だが、今日は笑わない。
「そのことなんですけど」
「ああ、知っとる」
ダッジオは鮭や果物にがぶりつくクマに視線を向けたまま短く答えた。
「残念です。これから獣学を学べるって楽しみにしてたのに」
ダッジオはラジュエルの方を見ないまましばらく黙っていたが、クマがだいぶ食べおわる頃、小さな声でぼそりと言った。
「しばらく俺とも会えなくなる。もしかしたらずっとかもしれん。一月経っても戻らなかったら狼を呼べ。あいつなら導いてくれる」
「呼べるんですか? どうやって?」
そんな方法があるならもっと早く知りたかった。
「おまえは森で『いたるところにいる方』を呼んだな? それができたってことは、やればできるってことだ。いいか、古い力を持った相手を呼ぶときは、言葉で呼ぶだけでは足りん。あの方を呼んだときのように、自分の中の本物の力を使って呼ぶんだ」
「本物の力? 僕はただ大いなる方に祈っただけです。それがどんな効果をもたらすかとか考えもしなかった」
「ふむ。祈りか。似てなくもない」ようやくダッジオはラジュエルの方へ向き直った。「祈りは大いなる方との対話だ。相手はちがうが、同じように心を開いて、おまえのすべてを向けて語りかけるんだ。目に見えない力に働きかけるという点では、祈りと魔法は似ている。おまえが祈ると助けを呼べるというのは、それだけおまえの祈りに力があるんだろう。田舎者の素朴な祈りってのは、案外、太古の力に通じるものがあるのかもしれん」
その日から本当にダッジオには会えなくなった。
宿舎の管理人からファードル師の命令と告げられ、獣舎にも行くことが許されなくなった。
学ぶこと自体は禁止ではなかったので、アンジェニカ師の植物学や薬学の講座には参加したが、眠いばかりであまり頭に入ったような気はしない。
狼の毛が手に入らなかったので、結局それ以外の材料で薬を調合してもらい、治療には毎日通っている。傷はだんだんと治り、もうほとんど痛みはない。
「この傷より古い傷の方が問題だな」
薬学の師匠は見る度に言う。
「古い『魔傷』は消えないんですか」
「うむ。消えるわけじゃない。君がそれ以上の力を身につければ、いずれは気にならなくなるかもしれないが、とりあえず今は安全なところにいた方がいいな」
言われるが『安全なところ』というのは退屈なところだ、と思う。
獣たちにも会えず、都から外に出るのも許されない。自分はつくづく町中には向かないと思う。いっそのこと、魔法など学ぶのは止めて故郷に帰ろうかと思い始めていた。
ある夕方、宿舎に帰ってみると、隣のカディオルの部屋からスティーノのやや甲高い声が聞こえてくる。
「やっとあの獣使いがいなくなって本当によかったですねえ。師匠の位を剥奪って話もあるらしいですよ。それでいいんです。ほんとに、なんであんな奴がそもそも師匠になってたのか、そっちの方が不思議なぐらいです」
「そうか……。そうすると獣学は今後どうなるんだろう」
「獣使い専用の養成所でも作ればいいんですよ。どうせ奴らなんて厩番みたいなものでしょ? ラジュエルとかはそういうの好きみたいだし、勉強は嫌いみたいだから、そっちの道に進めばいいんですよ。しょせんもとは羊飼いだから、頭のできが僕たちとはちがうんでしょう」
立ち聞きをするつもりはなかったが、自分の話をされるのは面白くない。といって話に割り込むのも非礼な気がして、音を立てずそうっと自分の部屋へ戻った。部屋の壁を通しても話し声は聞こえてくる。
「ラジュエルは……確かに勉強は嫌いだが、あの勇気や度胸には感心する。それにあいつは見た目より賢い。でなければ『喜びの門』に入る道を自分で見つけられるわけがない。その老師があいつに『力あるもの』を託したのも、何か彼に特別な資質をみつけたからだろう。確かに我々が見たことのない類いの人間だが、それだけに我々にはないような力を持っているのかもしれない」
「あ……、ええ、ええ、そうですね。さすがカディオル様。人を見かけだけで判断せず、美点をちゃんと見極める目を持っていらっしゃる」
スティーノの追従には鼻白んだが、カディオルが自分をこんなに評価してくれているとは思わなかった。ありがたいのと同時に、あらためて高潔な人物だと思う。
しかし、自分のことよりダッジオの方が気になる。いなくなったとはどういうことだろう。獣舎に行くのは禁じられているし、ここに来て知り合った学生も誰も獣学を取っていないので、彼のことは最後に会って以来耳にしていない。
そのうちスティーノに訊いてみようと思いながら静かに眠ることにした。
新月の日にまた『白い火柱の儀式』が行われたが、ラジュエルだけは見学を許されなくて部屋に籠もっていた。
部屋の窓からは『学びの塔』の方は見えないが、外のざわめきは聞こえる。暗くなった夜空にうっすらと霧のような明るさが広がっているのは、『学びの塔』に光の柱が立ち、それに呼応して王城を含む都全体が光に包まれているからだろう。
見学できて羨ましいなと思いながらぼうっとベッドに座って外を見ていると、急になぜだか窓に近づきたくなった。
寂しいような、胸を締め付けるような不思議な感情に導かれて窓のそばに立つと、歌声が聞こえるような気がした。美しい歌声である。ずっとそれに耳を傾けていたいような、けれど聴いてはいけないような……。
そのときふと気づいた。
あの男の声だ。
どこか近くにいるのだろうかと考え、部屋の外まで出てみてみたが誰もいない。窓から首を出して下の方も見てみたが、裏庭の植え込みが薄暗い中にぼんやり見えるだけで誰もいない。
いったいどこから……。
見えない中に目を凝らして外をうかがう。
次の瞬間、ギャアアと響き渡る悲鳴にはっとして身を引いた。




