第六章 獣使い 其の四
村を出るときの婆様の言葉を急に思い出した。『必ず導きはある。信じるときは大いなる方のことを思うがいい。そうすれば悪いものは入ってこない』
――そうだ。どうして忘れていたんだろう。
「いと高きところにまします大いなる方の御加護が、この身の上にありますように」
言って祝福の星印を描く。毎日朝晩繰り返している祈りを、心を込めて祈った。怖いという気持ちが消えたわけではない。助けてほしいと必死で願いながら、こんな困ったときだけ祈っている自分を神は許してくれるだろうかと思いながら。
目の前にまばゆい光がひろがり、心がふわりと暖かくなる。ああ、そうだ、この感覚だと思う。あの時もそうだった――。
しかも今日はそれだけではない。まるで竜に乗るときに、心許ない尻尾の上を歩いたにもかかわらず確かな地面を踏んだときのように、身体全体に何かの力がみなぎったような気がした。
発光する――。
同じだ。
『喜びの門』をくぐったとき、そして故郷の村で氷の柱と炎の壁に阻まれたとき。
自分がまるで何もかも、魔法の力さえも使えるような、あの万能感が――。
太陽を直接見たときよりもまぶしく明るいその光の中に、誰かの影がよぎったように見える。あれは、忌み人の老人――おそらくアルダムド師という人だろうか? それとも、門のところで笑って手招きした『いたるところにいる方』だろうか。
ゆっくりと目を開けた。まばゆい光はおさまり、今は春の日差しのような心地良い光があたりを満たしている。
振り向くと、樹の幹に突き立っていたヘビは、いや、ヘビのように見えていたものはぐにゃりと曲がった蔦であり、脇の草むらからうなり声を上げていたものは大きな野ねずみのような獣になって、こそこそと逃げ去っていった。
自分の見間違いだったのだろうか。それにしては……。
痛みを感じた肩と左手を見てみると、血が流れていた。やはり怪我をしている。野ねずみや蔦ではこれほどの怪我はしないはず。ということは、自分の見間違いなどではなく、本当にあれは魔物だったのだ。
しかし、それなら野ねずみや蔦に見えたのはどうしてだろう。
「大丈夫ですか!」
「怪我はないか!」
その時、急に現れたかのようにアンジェニカ師とケーファ師が森から走り出てきた。
「あっ……、ありがとうございます。ちょっと怪我しましたけど、動けないほどの怪我ではありません」
「見せなさい」
ふうむ、と眼鏡を上げて怪我をよく見たケーファ師は、
「よかった。ただの怪我だ。『魔傷』ではない」
と安堵したように息をついた。
「『魔傷』ではないんですか。さっき、僕には野ねずみや蔦が魔物のように見えていました。勘違いだったんでしょうか?」
「いいえ、勘違いではありませんよ。確かに、あなたの周りには魔物がいました。あなたの放った強い力によって私たちはあなたの場所と周りにいた魔物が『見えた』のです。まさか、自分で撃退できてしまうとは」
アンジェニカ師が周りを見回し、草むらの中や樹に刺さった蔦の枝を確認しながらつぶやいた。
「いえ、自分で撃退したわけじゃないんです。僕が祈ったとき、光の中に誰かの姿が見えました。まぶしかったし、一瞬だったからよく見えなかったんですけど、多分アルダムド師か、『いたるところにいる方』だったんじゃないかと」
「ああ、なるほど。確かに君ではまだ、魔物を撃退するほどの力を備えているようには思えん。だが、よくあの方々を呼ぶことに気がついた」
「いえ……呼んだというか、僕は大いなる方に祈ったのです。故郷を出るときに、婆様という魔法を使える人に教わったものですから」
「在野の魔女のような人ですか?」
アンジェニカ師がおっとりと問う。
「魔女という言い方は村ではしていませんでした。死者の声を聞いたり、薬を煎じてくれたり、そのぐらいの魔法でしたけど」
「そういう在野の魔法使いたちが、この国の隅々を護ってくれておる。感謝せねばならん」
そういう人々のことを『在野』と言うのか、カディオルから聞いた『在野』の魔法使いというのは案外身近にいたようだと初めて知った。
「ともかく、悪い傷ではないが、いや、悪くないというのは魔法の力がそれほど強くないということじゃ。魔物にやられた傷にはちがいないから、早く帰って手当をせねば」
「竜が来ていますよ。乗りましょう」
「三人乗れますか?」
「いや、わしは別の方法で帰ろう」
言ったと思うとケーファ師はいきなり、消えた。
「あれっ?」
驚くラジュエルにアンジェニカ師がくすりと笑って、森の外の方へ誘いながら答えてくれた。
「『いたるところにいる魔法』が、あの方ぐらいの大魔法使いになると使えるのです。私たちは竜で行きましょう」
先日と同じように竜で飛ぶと森と『学びの塔』はあっという間である。
アンジェニカ師の窓辺に着いて竜から降りるときは、二度目なのでかなり上手に降りられたと思う。はるか下の地面が見えてしまうとやっぱり一瞬ひるみはするが、先に降りて窓の中からこちらを見て微笑んでいるアンジェニカ師を見ながら、できるだけ下は見ないようにして前に進んだ。
ケーファ師はとっくに帰っていたようで、すでに薬学の師匠も呼んで薬を調合しているところだった。つんと薬草の香りが漂っている。
「結局、狼の毛は手に入らなかったのかね」
「あっ、そうでした」
薬学師に訊かれてはじめて思い出した。ジュートは、狼はどこにいるのだろう。それに気づくと、ちょっとがっかりした。
今まで、狼と離れても必ず向こうから自分を探してやってきてくれた。今回も、自分が森へ行きさえすれば狼の方からやってきてくれるものだと信じていたのだ。
もう狼は自分のことなど忘れてしまったのだろうか。絆を結んだと思っていたのは自分一人の思い込みだったのだろうか。
口に出すのはなんとなく悔しい気がして黙っていると、ケーファ師が厳しい声音で尋ねた。
「それにしても、ファードル師から言われていたのに、なぜ一人で森などに行ったのかね。『魔傷』があるから危険だと忠告しておいた筈だが」
「すみません」
「狼はダッジオ師のところにいたのではなかったのですか」
アンジェニカ師も問う。
「いえ……その……。狼が自分のいたいところにいると伺っていたので、心配はしていなかったんです。迎えに行けばすぐに会えるものだと思って。僕の力不足ですね」
「ダッジオが君に森へ行くように命じたわけではなかろうな?」
いつも優しいケーファ師が、詰問するような口調で尋ねた。穏やかな人だと思っていたが、厳しくなるとさすが大魔法使いと呼ばれるだけの人ではある。急になんだか圧倒されるような威圧感を感じる。
どうしたらいいのだろう。ある意味ではそれは事実である。しかし、警告を受けていたのに、危険のことなど考えず森へ一人で行ったのは自分が軽率だったからだ。その前にアンジェニカ師と森へ行ったときにはまったく問題なかったから、一人でも大丈夫だと思ってしまったのだ。
「命じられたわけではありません。僕は狼の居場所を訊いただけです」
ふうと困ったような顔でため息をついたケーファ師はアンジェニカ師と顔を見合わせた。
「ともかく手当てをしよう」
少し待って調合された薬を、さっき受けた傷に塗ってもらうと、すこししみたが塗ったところがふわっと温かくなり、しばらくすると痛みはだいぶ楽になった。
「すぐには治らんよ。明日も来なさい」
「これは『魔傷』じゃないとおっしゃいましたよね。魔物にやられたのが全部『魔傷』というわけじゃないんですか?」
「ああ、広い意味では、確かに魔物にやられたのは全部『魔傷』じゃ。わしの言った『魔傷』というのは、古い魔物にやられた傷のことを言っていたつもりじゃ。古い魔物の『魔傷』は目に見えないことが多い。そう言ったものの方が性質が悪いんじゃよ」
手当が終わると帰って休むように言われたが、塔の出口まで一緒に来たアンジェニカ師は、ラジュエルが戻ろうとする前に一度ちらりと見て、しずかな、しかし冷たい雪片のような声で言った。
「あなたに力が足りないのは皆わかっています。隠し立てをしなくてよいのですよ」
「隠し立て?」
なんのことだろうと考えているうちにアンジェニカ師はすうっと別の方向へ歩いて行ってしまった。やはりどこか精霊のような人だと思う。
それにしても隠し立てとは何のことだろう。獣使いをかばったとでも言いたいのだろうか。ほかに秘密にしていることは考えてみても思い当たらない。それに獣使いのことにしたって、かばうというほどのこともしていない。
休むようにと言われたときにはさほど疲れていると感じていなかったが、何もかも終わってみると確かに身体が重い。傷の手当てはしてもらったけれど、やはりまだ痛いといえば痛いので宿舎に戻ることにした。戻ってベッドに横になっていると、さほど経たないうちにすっかり眠ってしまったようである。
「ラジュエル……寝てるのか」
最初は大きな声で、そのあとは気遣うようなささやきになったカディオルの声で目が覚めた。
「あ、ああ。寝てたね」
「食事だぞ。大丈夫か。怪我したそうじゃないか」
「誰から訊いた?」
「ずいぶん噂になってるらしいぞ。スティーノがあちこちから聞いてきた」
ということは、おそらく同時にスティーノがあちこちに言いふらしているということだろう。別に内緒にするほどのことでもないが、あまりに広まるのも居心地が悪いなと苦笑しながら起きてきて、カディオルと食堂に行った。
食堂ではすでに食事を始めていた同僚の学生たちが、ラジュエルが入ってきたのを見て一斉に顔を向けたかと思うと、互いにひそひそと何事か話し合っている。あまりよくない噂かもしれない。
あとでカディオルに、どんな噂だか聞いてみようと思いながら食事を始めると間もなくスティーノが戸口に現れ、ラジュエルを見ると目をまん丸にした。
「大丈夫ですか? その……魔物にやられたって」
「大丈夫だよ。すぐ手当てしてもらったし。それにいわゆる『魔傷』じゃないんだって。古い魔物じゃないから」
「その……『魔傷』があって、ですね、君は……」
となりに座るカディオルには近づきながら、用心してラジュエルに近づかないようにしようとしているその姿勢を見て、ぴんときた。
「『魔傷』があると悪いものを呼び寄せるって話のこと?」
途端に食堂にいた学生たちの視線が集まる。
「あとで向こうで話そう」
カディオルが抑えた声で言い、うなずくとラジュエルも急いで食事をかきこんだ。




