第六章 獣使い 其の三
「待て。今日は止めておけ。この時刻から森へ行くと夜になる。明日の朝出発する方がいい。そしてトネリコの杖を忘れず持って行け。夜になれば魔物だけじゃなく普通の獣たちも活動し始める。夕食の時間におまえ自身が森の獣の夕食になったんじゃ洒落にならんぞ。わっはっは」
豪快に笑うと獣使いはイノシシとヒグマを引き連れて去って行った。
翌朝、食事を早めにとって、早速トネリコの杖を持って森へ出かけた。竜に乗ればあっという間だったが歩いて往復しようと思うと、行き帰りだけで半日かかる。のんびりしていると夜になってしまう。
よく晴れて気持ちのいい日だった。
気候はかなり暖かくなって、野原には花が咲いているし畑では農夫たちが仕事に精を出している。牧草地で草を食む牛が、ときおり顔を上げてラジュエルを見る。バイソンに懐かれるようになった今は、牧畜の牛までも自分を慕ってくれる獣のように感じる。
手前の野原が、昨日アンジェニカ師と降り立ったところのようだ。森に入るとすぐ薬草の栽培地がある。そこまで来たところで、はたと足を止めた。
昨日見た狼のいる水辺はどこにあるのだろう。森の入り口はブナなどの広葉樹が多く道は明るいが、川も水も見当たらない。もっと森の奥深くにあるのだろうか。
せめて誰かに森の様子をもっと詳しく訊いておけばよかったと考えながらともかく森の奥へ進んだ。道を失わないようにときどき振りかえってどんな植物があるのか確かめながら。
さすがに魔法使いたちが薬草の栽培をするだけあって、心地良い森である。森と言っても怖ろしい森や人を寄せつけない鬱蒼とした森があるが、ここは思わず散歩したくなるような美しい森だ。きっと王様が狩りをするために森番などを置いて定期的に手入れしているのだろう。
都を遠くから眺めたとき、西の山脈から川が流れ出ていたから、この森にもどこかに川があるはずである。必ず……。
ところが川はなかなか見つからなかった。きっともっと南だろうと見当をつけ、南と思われる方角へ足を向けたが道はどんどん草深くなり、本当にこっちでよいのか不安になってきた。
木々の間にぽっかりと開いた広場に出たので、一度座って持ってきたパンとエールで昼食にした。手がかりはまだ見つからない。草地の上には木々の広がりが途切れて、よく晴れた青空に昼間の太陽が見える。
今は明るくて暖かい森だけれども、暗くなってしまえば危険もあることはよくわかっている。これまでは狼が一緒だったから森の獣も盗賊も怖くなかった。けれども、このまま狼が見つからなくて日が暮れれば、『力あるもの』ではない本物の危険な獣や悪人が現れないとも限らない。
もうそろそろなんとかして狼のいたと思われた場所を見つけなければ。あるいは、今まで狼と別れても向こうから探して待っていてくれたように、狼の方から来てくれるのを待つべきなのだろうか。
しばらく待ってみても狼の気配はない。ウサギやリスや、小鳥たちのような小さな生き物はかさりと音を立てて動いていくのが見えるが、大型動物がいる気配はない。というよりも、小動物が安心して動いていられるということは、近くに狼はいないということだろう。
そういえば、森でわざわざ狼を探すなどということは、したことがなかった。狼は危険なもの、羊の敵。あの狼に出会う前は大型動物は危険な敵でしかなかった。
待っていてもどうにもならなそうなので、トネリコの杖を持ってまた歩く。太陽の位置からして南はこちらだろう、という方へ歩く。しかし、あまり深入りしない方がいいかもしれない。もし、今日中に狼を見つけられなければ諦めて、夜になる前に一度森の外へ出た方がいいだろう。
「ジュート……じゃなかった、ええと、デュカス」
与えられた名前を呼んでみたところで、はたと気づいた。新しいデュカスという呼び名を狼にはまだ教えていない。今までずっとジュートと呼んでいたのだから、狼はその名で呼ばれるものだと思っているだろう。
「ジュート」
呼びながら森の中を探す。あと少しだけ探して、だめだったら今日はもう帰ろうと思いながら。
かさりと草むらで音がした。
「ジュート?」
胸を弾ませて草むらを覗いてみたが、いたのは走り去っていく野ねずみだった。やはり今日は無理なのか。心残りだが、夜の森の危険さは十分わかっている。
帰ろうと反対側を向き、今来た道を戻る。目印になる木は順番に覚えている。ひときわ背の高い大樫、幹に鳥の形の斑点のあるトネリコ、枝を広げたブナの木、それから……。
いくらか歩いてみて急に、なんだかおかしいことに気がついた。
この樹はさっきも見た。同じ所を幾度も巡っているようだ。
故郷の村で森には慣れていると思っていた。こんなことははじめてだ。それとも、ここは魔法使いたちの使う魔法の森で、何か魔法がかかっているのだろうか?
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
獣使いと一緒に狼のことを考えたとき、自分は本当は見えないはずの遠い景色を見ることができた。魔法の力はすべての人が本来持っていると魔法基礎学でも言っていた。自分にだって魔法の力が少しはあるはずだ。落ちついていればきっと方法はある。
もう目印を目当てに歩くのは止めて、まっすぐに東の方へ進むことにした。樹木の苔は幹の北側に生える。それを目印に、できるだけ回り道せずに東へ歩く。森は山を西にして王城の北部に広がっている。平地の部分は東にそれほど広がってはいなかったから、曲がらずに歩き続ければ森の外へ出られるだろう。
最初にアンジェニカ師と訪れた森は明るく美しかったが、だんだんと木々は深く鬱蒼としてきた。枝から蔓植物が下がって行く手を塞ぎもする。父にもらった短いナイフを持ってきてよかった。まるで通行をわざと邪魔しているような蔦類を切り開きながら前に進んだ。
薄暗くなって霧が出てきているのはよくない兆候だ。見えにくくなる前に森から出たいと思って進むのだがなかなか前に進めない。それどころか、どんどん悪い方へ導かれているような気がする。
突然、ギャアギャアと聞き慣れない鳴き声がして、バサバサと近くの草むらから何かが飛び立つ。
嫌な感じだ。昨日の『白い火柱の儀式』を行ったとき、悲鳴が聞こえたのはこちらの方、森の上ではなかったか。あのとき、おそらく都の近くの魔物を退治していたのだ。魔物が完全に死んでいればいいが、手負いの獣がかえって危険になるように、中途半端に傷つけられた魔物が人間に恨みを抱いて復讐の機会を狙っていたとしたら……。
ひゅっ! と何かが飛来してきてすぐ横の樹の幹に刺さった。
振り向いてみると鋭くとがったまっすぐな木の枝が、幹に突き立った状態で揺れている。弓矢だろうかと、咄嗟に身を伏せた。誰かがこの森で狩りをしているのか。自分は獲物と間違えられて矢を射かけられたのではないかと考えたのだ。
「おうい! 怪しいものではありません。『学びの塔』の学生です。森で道に迷いました」
相手が狩人なら、その声で間違いであることがわかってもらえるだろう。
ところが、矢はひゅんひゅんと次から次へとこちら目がけて飛来する。一度はすんでのところで腕に刺さるところだった。
自分が狙われていると考えざるを得ない。だとすれば一体なぜだろう。王家の森番なら、間違えて迷い込んだ学生をそれほど攻撃するものだろうか。
もう一度振り向いて、どんな矢か確認する。
ところが、それはよく見る羽根のついた矢ではなかった。
材質は木ではなさそうだ。長い鳥の羽の軸のような……。
そこまで考えて、急にぞっとする予感に思い当たった。
故郷の村で初めて空の戦いを見たとき、槍のようなものが降ってきた。あれは本物の槍ではなかった。ましてや雹や雨粒でもない。空から降って地面に突き立った槍に囲まれたと思ったら、次の瞬間には氷の柱に変化していたのだった。そして氷の柱と見えたものはすぐに炎の壁へと姿を変えた。
はたして樹木にぴんと突き立った矢のようなものはすぐにぐにゃりと折れ曲がり、腕より太いヘビの形になると鎌首をもたげて襲いかかってきた。
これは明らかに森番など人間の仕業ではない。
――逃げなければ。
しかし、どの方向へ逃げればいいのだろう。矢は前から飛んできたし、後ろには大蛇がいる。横に逃げたとしてもヘビの速さに勝てるとは思えない。
ぐるると横の藪からうなり声もする。
「ジュート? じゃないか……」
期待を込めて言ってはみたが、薄々ジュートではないことには気づいていた。確かにこれはジュートの声ではない。
藪から現れたのは、狼に似てちがう獣だった。真っ黒いぼさぼさの毛皮、鋭く光る狂気を帯びたような目。イノシシのようにも見えるが、赤い口にはびっしりと鋭い牙がのぞき、だらりと垂らした舌の脇からはよだれが垂れている。こんな獣は見たことがない。
羊飼いをしていた頃、狼は怖ろしい獣だった。しかしこれは狼の恐ろしさと貪欲さだけを抜き出して、ジュートの持つ毅然とした誇り高さを少しも持っていない、不気味で野蛮な獣だった。
獣は、うまそうな獲物を見つけたとでもいった様子でじわりじわりとラジュエルに近づく。後ろのヘビはシャーッと威嚇音を出して首をゆらゆらさせている。ちらりと見るといつのまにかヘビの首は七本に分かれ、それぞれの開いた口から炎のような舌がちろちろと出入りするのが目に入る。
これは魔の獣だ。普通の獣じゃない。
森がこんなに危険な場所だとはアンジェニカ師もダッジオ師も言っていなかった。いったいなぜこんなところに迷い込んでしまったのだろう。
武器と言えばダッジオに持って行くように言われたトネリコの杖しかない。こんなものでどうやって自分より大きな獣やすばしこいヘビなどと戦えるというのだろう。
グワッ! と獣が吠え、飛びかかってきた。咄嗟にトネリコの杖を前に掲げて渾身の力で防いだが、獣の鋭い爪にやられた。獣の方はそれほど素早くない。ラジュエルに飛びかかって行きすぎた勢いでそのまま後ろの森に一度走り込む。
すぐ後ろにヘビのシュウシュウ言う威嚇音がする。ヘビは尻尾がまだ樹の幹に突き立ったままでそこから半身をこちらに伸ばしているが、どんどんとその身体は伸びてきていて、今は腹の一部を地面につけて鎌首をもたげて大口を開けて牙を光らせる。
シャッとヘビの頭の一つがラジュエルの腕に噛みつこうとした。これもトネリコの杖でなんとか防ぐ。が、次の瞬間には別のヘビの頭が反対側から襲いかかり肩に鋭い痛みを感じた。
森へ駆けこんだ獣が向きを変え、再びこちらに向かってくる。助走をつけて飛びかかる。こちらの頼みはトネリコの杖だけだ。
もう一度獣の勢いを杖で防ぎはしたものの、獣の身体の重さを受け止めきれずその場で尻餅をついた。獣はもう一度森へ走り込んだが、その隙にヘビがまたシャアシャアと襲いかかってくる。
もうだめだと思った。だが諦めようとは思えなかった。ジュートに助けられたときはこのまま喰われてもいいと思ったが、こんな獣に襲われて命を落とすのはどうしても嫌だと思う。
あの時はどうやって助かったんだろうか。偶然か? いや……。




