第六章 獣使い 其の二
西に向いた窓からは王城とその背後の山、都の北から山に続く森が見渡せる。その窓の外に羽音を立てて浮遊しているのは竜だった。
「竜に乗るのははじめてですか」
「はい。こんなに近くで竜を見たのもはじめてです」
驚きながらも嬉しくて、思わず見とれる。
「あなたが先に乗った方がいいでしょう。私はここから支えますから」
「えっ? どうやって?」
答えるように竜は長い棘のある尻尾をこちらに向けてゆっくりと長い首をめぐらせ振り向いている。だがその背中は背の高さより遠い距離にあり、飛び移るには難しそうに見える。
「尻尾の上を歩くのです」
「無理ですよ!」
翼を広げているので竜の背中はあまり塔に近づけない。かろうじて長い尻尾だけが窓の方に伸ばされているが、いかにも細くその上を歩けるとはとても思えない。しかももし足を踏み外して落ちたら、骨を折るぐらいでは済まないだろう。
アンジェニカ師が支えると言っても手の届く距離ではない。
「私は信頼されていないようですね……」
「いえ、そういう意味では」
「では私が先に行きましょう。支えるというのは子供を抱くような意味ではないのです」
言ってアンジェニカ師は、まるでふわりと浮かび上がったように軽々と窓枠に立ち、そこからすっと片足を出して竜の尻尾の上を歩き始めた。
長いスカートの裾を微風にはためかせながら、アンジェニカ師は平地を歩くように易々と尾の上を歩いて行く。これも魔法なのか。
竜の背に着くと師は立ったままにっこり笑い、
「さあ。わかりましたでしょう」
と差しまねく。
仕方ないと覚悟を決めた。もし落ちたらそれまでのことだ。
窓枠に足をかけ彼女のやったように枠の上に立つ。伸びている竜の尾に一歩足をかけようとすると、どうしても遙か下の地面が見えて足がすくむ。
前を見ると相変わらずの笑みを浮かべたアンジェニカ師が見える。
思い切って一歩を踏み出した。
するとまるで平らなしっかりした地面を歩いているように、確かな一歩を竜の尾が支える。アンジェニカ師の魔法だろうか。
すぐにラジュエルも師のとなり、竜の背の後方に立つことができた。
「座りましょう。慣れればなかなか良い乗り物ですよ」
師が前に座ったのでその後ろ、なめらかな鱗に覆われる丸みのある竜の背におそるおそる座ってみた。つるつるしてつかまるところもないのが不安だが、馬の背より広く安定感がある。当然ながら鐙のようなものはないので、ただ座っているだけである。
下を見ると『学びの塔』とそれをぐるりと囲む壁、その向こうには王城の元に広がる都の町が見える。竜はゆうゆうと壁の上を飛び、城壁の外の町を離れ草原の上をゆく。
「落ちないのは魔法ですか?」
「そうですね。自分で浮遊するよりずっと簡単な魔法です。ただ、一人で乗るには魔道具を使いこなせるようになってからの方がいいでしょう」
魔道具というのが何なのかと尋ねようとしたとき、
「降りますよ。姿勢を正して」
と言われ、はっとして前方を見た。
さっき乗ったばかりなのに、もう西の森は目の前だ。
竜の翼の切る風は地上近くになって急に勢いを増した。晩春の野原の香りが煽られて、むせかえるように広がる。
足を前に出しやや後ろに傾いた姿勢で竜は大きな翼を畳んで森の手前の草原に降り立った。
魔法使いはこんなに早く移動ができるものなのか。前に羊飼いの親子に会いに行ったときの様子から考えると、歩けばたっぷり半日はかかるだろう。
先に竜の背から滑り降りたアンジェニカ師は先だって森に入っている。地上ならば足の速さでは負けないと思い、ラジュエルも急いで後を追った。
森の中は不思議な香りで満たされていた。故郷の森とは似ているようでちがう。ここの方が気候が暖かいからだろうか。
アンジェニカ師の足下にはいくつかの薬草が育っていた。こんなに狭い範囲にいろいろな種類の薬草が植わっているところを見ると、栽培しているのかもしれない。ミントやカモミール、タラゴンなどはラジュエルも知っていた。
アンジェニカ師はいくつかの薬草を摘み、それから手袋をしてジギタリスやベラドンナなどの毒の草も摘んでいる。
「毒の草も集めるんですか?」
「ええ。毒にしかならない草もありますが、この植物は毒としても薬としても使えるのです。使い方の問題ですね。魔法も同じですよ」
「手伝いましょうか」
「ありがとう。では知っている草を少し摘んでください。それから、あなたの心に従う草を」
「心に従う?」
「自分の身体の声を聞いてごらんなさい。悪いところがあるはずです。それを自覚してから、よく見てみるのです。匂いを嗅ぐのもいいでしょう。あなたの身体が必要とする薬草は身体がおのずから知っています」
それは、ただ言われたとおりのことをするより難しいように思えた。薬草の知識などほとんどない。戸惑っているとアンジェニカ師が、居眠りを見つけたときと同じ笑顔でくすりと笑った。
「少し眠ってもいいかもしれませんね。眠いとき、人は自分の体の欲求に素直になるものです」
やはり居眠りはばれていたようでちょっと恥ずかしくなったが、怒ってはいないようなので、言われたとおりその場に座って少し目を閉じてみた。
深い森の香りがする。湿り気のある大樹の香り、ふっくらとした落ち葉に覆われた大地の香り、芽生える新芽と花の香り……。その中で身体が大地と調和し世界と調和していく。ちょうど羊飼いの親子と過ごしたあの晩のように。
穏やかな波が広がるようにゆったりと身体がくつろいでいく中で、ずきんと胸の傷が痛み、思わず胸元を押さえた。はっとして薄目を開けると、緑と茶色の森の中に何かがきらりと光るように見えた。その方向に手を伸ばす。手が草露に濡れ掴んだ草からふわっと芳香が漂う。いい香りだった。このままずっと嗅いでいたいような。
「これですか」
掴んだままアンジェニカ師を探すと、師は少し離れたところからにっこりと笑った。
「答えはあなたにしかわかりません。明らかに間違っているときには教えられますが、正しいかどうかは自分にしかわからないのです。それを摘んで帰りましょう。煎じてみます」
名前を知らない草だった。『雲間の光草』というとアンジェニカ師が帰りの竜の背で教えてくれた。
竜に乗り込むときは野原だったのでさほど怖くなかったが、降りるのはまたアンジェニカ師の窓辺だったので、同じように尾の上を歩くのがひやひやした。
「ここには竜の着地する場所はないんですか?」
「そうですね。そういう造りになっていません。それに竜に乗るのは高位の魔法使いだけですから。こういった生き物はあまり人々の前に降り立たない方がいいのです」
次にアンジェニカ師はラジュエルを薬学の師匠の元へ連れて行き、集めた薬草とラジュエルの選んだ草の処方を頼んだ。
「『雲間の光草』を選んだとはね。君は竜の戦いを見たことがあるのか」
高齢の、ファードル師と同じぐらいかと思われる薬学の師匠は鼻眼鏡の向こうからラジュエルを上目遣いに見つめた。
「わかりません。でも僕が故郷で見たあの天変地異は、まるで竜の戦いのように見えました」
「『雲間の光』という言葉には二つの意味がある。一つは自然の日の光が雲の切れ目から差し込むこと。天の御使いの降臨とも言われる自然現象だね。もう一つは、魔法使いや古い生き物たちが天空で戦いを繰り広げる際に発せられる強い光のことだ。いずれにしても普通の日常ではない」
「この子は自分の『魔傷』のためにこの薬草を選んだのですよ」
「そうか。それでこの処方かい。了解だ。一日待ってくれ。ああ、待て。君の狼の毛も少しほしいな。手に入れられるか」
「狼の?」
「そうだ。魔物から君を護ってくれているからね。きっと強力なまじないになるだろう」
狼はまだ獣使いのところから帰ってきていない。しかし獣舎にもいないのだから、おそらく都の外に出ているのだろう。町中で一匹でうろうろしていたらさすがにここでも怖れられるにちがいない。
「ダッジオ師に訊いてきます」
獣舎にダッジオはいなかったが、探し回るとまた広場で学生たちを脅かしてからかっていた。ただ、みんなの嫌がる獣舎掃除は今ではラジュエルが一人でやっているので、獣学を学べとかヒグマの相手をしろとか、酔っ払いが絡んでいるように突っかかっているだけだ。
「師匠。狼を探しに行きたいんですけど」
広場にいた学生たちはラジュエルがダッジオを師匠と呼んだのを見て、一様にぎょっとした顔をした。ダッジオの方は嬉しそうに見える。
「寂しくなったか。どこにいると思う?」
問われてもそんなことはわからない。考えろと言われてもヒントもないのでわからない。ダッジオはちょっと悲しそうにため息をついた。
「そんなんだからジュートというのはまだ早いと言ったんだ」
「はい。それはわかります。でもじゃあ、なんて呼んだらいいんでしょう」
「まあデュカスってとこか。導きという意味だ。おまえよりまだあいつの方が先輩だ」
「デュカス……」
いい響きに思えた。それだけではない。その名前を口にしたとたん、狼の温かさや匂い、毛皮の感触までが脳裏に浮かんできた。狼は今、どこにいるんだろう。
「……森だ」
「見えたか」
獣使いがにやりと笑う。
「森の……薬草のあるところ……じゃなくて……滝があります。小さな。周りに白い花が咲いています。誰かいる。女の人?」
「水の精だろうよ。そこは西の森だな。狼の近くに寄って怖がらない奇特な女はそうそういるとは思えん」
「僕は今、狼が見えているんでしょうか?」
「ああ」
力強い目でうなずかれて嬉しくなった。これは魔法の力にちがいない。自分にも魔法と呼ばれる力が今少しだけ使えたのだ。
「迎えに行ってきます!」
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