第五章 学びの塔 其の三
奪われる――。
悪い予感がなかったわけではない。隻眼の男に出会ったときも、狼が自分から去ってあの男のもとに行きたいのではないかと不安になった。狼は自分よりずっと力がある。その力とはおそらく魔法の力なのだろう。あの狼がいれば、ラジュエルより力の強い魔法使いたちは何か大きな力を手に入れることができるのではないか。
憂鬱な気持ちでカディオルと、さらに『学びの塔』の周りをあちこちうろついていると、
「カディオル様ではありませんか!」
と明るい声がした。
「スティーノ! こんなところで会うとは思わなかった」
声も明るいが見た目もぱっと華やかな青年がにこやかに近づいてくる。ラジュエルたちと揃いの生成りの服を着ているところを見ると、学生なのだろう。
「いつからいるんだ。もういくつか魔法学は学んだのか?」
「ええ。言葉学、音学、植物学については学びましたが、もう十分です。こんなところは」
「こんなところ?」
スティーノと呼ばれた青年は顔をしかめながら、
「すぐにおわかりになります。長居する所じゃありませんね」
と言いながら『学びの塔』に向かって一緒に歩き出した。
「嫌なことでもあったのか」
「あの獣使いが最悪です」
言ってから、しまったというように慌てて口をつぐんであたりを見回したが、誰かに聞かれたりはしなかったようだ。
「ああ、確かに悪そうな奴だったな。やっぱりみんなにあんな態度なのか」
「暴言は吐く、気に入らないと獣をけしかける、決まりは守らない。どうしてあんな奴が師匠として『学びの塔』にいることを許されてるのか理解に苦しみます。しかもこっちは学ぶ気はないと言ってるのに勝手に仕事を押しつけてくるし」
言っている間に塔に着いた。塔の中はどうなっているのだろうか。
「勝手に入っていいのか?」
「聞かれませんでしたか? 一日一度は塔の中で誰かに会うんですよ。自分の選んだ師匠のこともあるし、勝手に選ばれることもある。カディオル様はいつここにいらしたのですか?」
「今朝だ」
「道理で今までお会いできなかったわけですね」
ふり向いてカディオルは、ようやくラジュエルに彼を紹介した。
「ダリエル子爵のご令息だ。スティーノ、彼はラジュエル。ビルディラ州から来たそうだ」
「お初にお目にかかります。あなたも貴族のご令息なんですか?」
にこやかに握手の手を差しだしたスティーノの手を握り返すか迷った。
「いえ、僕は羊飼いです」
「羊飼い」一瞬浮かんだ蔑みの表情をスティーノはすぐ巧みに隠したが、同時に手も引っ込めた。「なぜ羊飼いが魔法学を?」
「話すと長いんですが……」
「おう、新入りさん。こっちだ。まず手を浄めなさい」
最初に話しかけてきた赤ら顔の男が、塔の入口に立って水差しを持ち、手招いている。
スティーノがまず手を出し、水差しの水で手を浄めた。続いてカディオルとラジュエルも同様にする。水は花のようないい香りがした。
塔の中は天窓のある天井までずっと空洞になっている。それぞれの階の周囲にぐるりと廊下はあるが、どこにも階段はなく、上の階にどうやって行くのかと思っていると、巨大なシャボン玉のようなものが上からゆっくりと降りてきた。
「こうやって入るんです。最初はちょっと怖いですけど、大丈夫、すぐ慣れますよ」
スティーノはそのひとつを捕まえて、カーテンを開けるように膜の中に入った。するとシャボン玉はスティーノを中に乗せたまま、ふわふわと今度は上昇を始めた。
驚いて登っていくスティーノをぽかんと見ていると、目の前にまた巨大なシャボン玉がやってきている。ちらとカディオルを見ると、
「おまえが先に行っていいぞ」
と言われたので、スティーノのやったとおりにカーテンを開けるように両手をシャボン玉の膜に差し入れてみた。抵抗はほとんどなく、すぐに中に入れたのだが、足下もこんなに柔らかいのではすぐに落ちてしまうのではないかと不安になった。
シャボン玉は丸くて柔らかく、浮かぶにつれて形も揺れるのだが、足下の感触は意外としっかりしている。少し柔らかめの地面を踏んでいる感じだ。目の前の膜が虹色に光をうつし、透明な膜を通してスティーノが上の階の廊下に降り立ち、ドアの一つに入っていくのが見える。ラジュエルを乗せたままふわりと浮かび上がったシャボン玉も、ゆっくりと上昇していく。下を見ればカディオルがおっかなびっくり別のシャボン玉に入ったのが見えた。他にも幾人か知らない人がそれぞれのシャボン玉に乗って昇降している。
自分もスティーノと同じ所に行くのだと思っていたら、それより上の階の廊下まで登ったところでシャボン玉は止まった。スティーノがやったようにまた膜を開けて外に出た。廊下には手すりがついているが、ドアの前だけは手すりがなく、シャボン玉から降り立てるようになっている。
下を見るとカディオルが、ちょうどラジュエルの方へ向かって登ってくるところだった。到着してもカディオルが降りるのを戸惑っているので、ラジュエルが手を貸して手伝った。
「……よくこんなものに軽々と乗れるものだな」
「スティーノのやってる通りにやっただけだよ」
「足下が透けて見えるのが嫌じゃないか」
「そう? 面白かったけどな」
話していると、目の前のドアから、
「お入り」
と老いた声がかかった。
「失礼します」
カディオルが軽くノックをしてドアを開ける。
中には白く長い髭を垂らした老人が、こちらを向いて座っていた。真っ白な眉も長く垂れ下がっているが、その下の青い目の輝きは強い力を全く失っていない。カディオルが拝礼するのを慌ててまねた。
「ようこそ、諸君。『喜びの門』を無事通ってきたということは、諸君は正しい力に導かれてここへやってきたものと信じる。わしは『学びの塔』の施設長、ファードルだ」
「ベルモーチェ公爵家の嫡男、カディオル・トレノです」
「ラジュエルといいます。ビルディラ州の村から来ました」
ファードルは軽くうなずくと厳かな声で話し出した。
「まずもっとも大切なことを教える。魔法には善いものと悪いものがある。喜びの門があるのはそのためだ。ここでは善い力に属する魔法のみを扱う。悪い力が入りこんでいることがわかれば、ただちに都を出てもらう。明らかに悪意があることがわかった場合には厳罰が下される場合もある。最悪の罰は極刑だ。知らないうちに悪い力が入りこんでしまうこともある。とくに初心者はよく心しておくように。怪しいと思うことがあれば、塔の中にいる導師に遠慮なく相談しなさい。早い段階であれば打つ手はたくさんある」
「はい」
カディオルが答えるのを横目で見て同じようにまねをする。その態度は礼にかなっているらしく、ファードルは機嫌良さそうに話を続けた。
「魔法についてはじめて聞く諸君は、魔法というのは特別な何かだと考えていることだと思う。それは正しくもあり間違いでもある。実際のところ、魔法と呼ばれる力は実に多くの人々の中に秘められている。だが、ほとんどは一生その力に気づかない。魔法学はその秘められた力を体系化し、利用できるようにするものだ。
諸君がここにいるということは、すでに邪心を捨て喜びとはなにかということを会得しているからだと信ずる。魔法は強く大きな力であり、使い方を過てば大きな災いともなり得るものだ。それだけに力を手にする前に学ばなければならないことが数多くある。ここまでは理解できたかね?」
「はい、ファードル師」
よろしい、とファードルは少し笑みをたたえた。
「諸君の学ばなければならないのは善き魔法、都を護り国を護り、人々を邪悪な力から護る魔法だ。善き魔法は数少ないが邪悪な力は多くある。善き魔法だけを学びなさい。日に一度はわしか、『学びの塔』にいる上位の師に報告をするように。他にも門の中には師が数多いる。どの師を選んでもよいし、何の学問を選んでもよい。道はおのずから開かれよう。それぞれの定めによって」
「定め……」
むしろ自分に言い聞かせるようにつぶやいたラジュエルの言葉に、師はぴくりと耳をそばだてた。その青い目を鋭く向けて師はゆっくりと口を開いた。
「すでにそなたの道はある方向へ向かっているようだ。よく見定めなさい。一歩踏み間違えれば悪の道にもつながりかねない。だが、幸いなことにそなたの心根は悪ではない。大いなる方のお導きに従い、ここの師に従い、正しい道を選びなさい。迷うならいつでもここへ来るがいい。そなたの声を、わしが聞こう」
「ありがとうございます」
はじめにカディオルがしたように、ラジュエルは頭を垂れて拝礼した。
ファードルは満足したように片手に持った杖をすこし掲げた。
「行きなさい。祈りを常に忘れないように。導きのままに正しい師を選び、向学心を持って学びなさい」
拝礼して下がると、また廊下の外にはシャボン玉が二つ並んでいたので、まずラジュエルから、ついでカディオルもそれに乗ってふわりふわりと降りてきた。
下にはスティーノが待っていて、食事に行きましょうと二人を伴った。
「ファードル師はいかがでした」
「ああ、さすが大魔法使いともなると威厳があるものだな。だが、総長はマルリオスではないのか」
「マルリオス師は王室づき魔法使いですからね。たまにはこちらにも顔を出しますが、ここの実質の長官はファードル師ですよ。面白いものを見られるかもしれません」
言ってスティーノは空を指さした。先ほどラジュエルたちがいたらしい部屋の窓の外に翼の生えた生き物が飛び回っている。大きな鳥かと思ったがよく見ると翼はとがっているし首と尾が異常に長い。
「あれは何?」
「竜ですよ」
その竜は窓のすぐ外でゆっくりと羽ばたきながら静止している。窓から何かが出てきた。「あっ、ファードル師?」
「落ちたらどうするんだ」
ファードル師は窓から直接、竜の背に乗り込むと、馬でも乗りこなすようにそのまま竜に乗って都の外、西の山の方へと飛び去っていった。
「……すごいな」
「僕もここへ来てはじめて魔法使いが竜に乗るのを見ました。大魔法使いにならないと乗れないらしいですけどね。導師のすべてが乗れるわけじゃないそうですよ」
自分のことのように誇らしげにスティーノが説明する。
そのあとは食堂での食事になった。
魔法をつかっていろいろ出てくるのかと思っていたが、宿の食事と同じように自分で大皿から取って食べる決まりだそうだ。見たこともない料理がいろいろある。
「これは何? 食べても大丈夫?」




