第四章 喜びの門 其の八
ラジュエルのお腹がぐうと鳴るとカディオルのお腹も鳴り、思わず顔を見合わせて笑う。
「食事らしいが……早く行かないとまた門が開かないんじゃないだろうか」
「食事はしよう。もし門が僕らに開かれる運命にあるものなら、腹ぺこじゃなきゃ開かないってことはないと思うよ」
カディオルはまだすこし不安そうだったが、結局は階下へ向かった。
普段通りの朝食風景である。女将はビールの入った水差しとジョッキを並べ、亭主は大皿に盛った食べ物を配って歩く。
この一月で、宿の面々もずいぶん入れ替わった。パン屋の言っていたとおり、一月すると客のほとんどは『学びの塔』に入れず都を去って行く。喜び勇んで荷物を持って『学びの塔』に入っていったのはたった一人だった。
新規の客と見える一人が、女将の使う魔法に目を丸くしている。
突如ラジュエルは、今まで感じられなかったことが感じられるようになっているのに気がついた。
魔法は女将が手を振ることで発生しているのではなく、手を振ったあと空気の中に変化が起きて、まるで世界がそこだけ揺らめいて動くように何かの力が働いて、そのあとこぼれたビールが消えていくのだ。
「対話してるんだな」
独り言だったが、狼がウオンと軽く吠えて答えた。
「何? 対話?」
「いや、対話っていうのかどうかわからないけど……。女将さんがさ、手を振るだろ? そのあと、世界がそれに答えて力が動くんだよ。つまり、魔法というのは女将さんの力じゃなくて、それをきっかけに何かの力が動いてると思うんだ」
カディオルがぽかんと口を開けて驚いたように見つめた。
「そうだ、その通りだ。どこでそれを知ったんだ? 私もそこを読んだ。魔法というのは、もともと世界に満ちている力の均衡を別の方向へ動かすことだと。だから大きな変化を起こすと世界が歪む。思っても見なかったところに影響が及んでしまうこともある。だから大きな魔法は危険を伴うんだってな。ただ『対話』という言葉じゃなくて『呼応』と書いてあったが」
「へえ、そんなこと書いてあるのか。書物ってすごいんだねえ」
「やっとわかったか。だから字が読めるようになった方がいいと言っているんだ」
「……わかったよ」
確かにカディオルの言うとおりだとは思う。これから『学びの塔』に入れたとしたら、カディオルとはもうあまり会わなくなるのだろうか。それともまた度々会うことになるのだろうか。
食事が終わると連れだって『喜びの門』に向かった。
門はいつも通り閉じており、それを見るとまた不安がわき起こってきたが、カディオルの前で口に出すのは悔しい。ちらりと見るとカディオルも緊張した面持ちをしている。
門番が、残念だったなとでもいうような顔でちらと二人を見る。
だめなのだろうか。やはりあのとき入ればよかったのだろうか。千載一遇のチャンスを逃してしまったのだろうか。
「やっぱり食事の前に来なければいけなかったんだろうか。私たちがぐずぐずしていたのがいけなかったのか? こんな所まで来て一月を私たちはただ無駄にしたんだろうか」
カディオルが眉根を寄せてじっと門を見ている。
新しい来訪者が門番に『喜びの門』の文字を見ろと言われている。
一月前にはじめてここに来たことを思い出す。あの頃は読めなかったその文言を、今はなんとか読めるようになった。カディオルは厳しくてうっとうしいと思うこともあったが、少なくとも字を勉強しようと思えるようになったのは彼のおかげだ。
もし『学びの塔』に入れなかったら、この先の人生で自分は文字を覚えようと思うのだろうか。
「少なくとも、僕はここへやってきて君と会って、字を覚えるといいということを学んだよ。何もしなかったよりずっといい」
言うとカディオルは少しほほえんだ。
「では少なくとも私は、一人の文盲の羊飼いに学びたいという心を植え付けるのに成功したというわけだな」
誰かの視線を感じたような気がしてラジュエルは振りかえった。
あの老人がにっこり笑って見ている。そして光――。
「あっ」
ふわりと足下が軽くなる。朝、ここで門が開いたときと同じように。
老人の周りがまばゆい光に包まれて、ほほえんだまま老人は光にまぎれて見えなくなってしまった。
「待ってください、あの……」
「おい、門が開いたぞ! ぼうずたち、早く入れ!」
「あの方が、『いたるところにいる方』が」
「大丈夫だ。必要ならまた会える。早く!」
「なんだって? いたる……?」
「説明はあとでするよ!」
門番が手招きする。カディオルを急かせてラジュエルは門に駆けこんだ。ぱあっと光が周りを包み、えも言われぬ幸福感が身体を突きぬける。一瞬、まぶしくて何も見えなくなったが足下にはしっかりと地面がある。
「カディオル、通り抜けたか?」
「ああ、おまえはどこにいるんだ?」
「いるよ。多分すぐ近くに」
気がついてみると二人は、部屋の窓から毎日見ていた門の内側にいた。




