第四章 喜びの門 其の七
あのときのように男の気配があるかと注意を払ってみたが、気配はしない。狼も何も感じていないように夜気の匂いを嗅いでいる。
かならず導きはある、大いなる方のことを思えば悪いものは入って来れないと婆様は教えてくれた。
ずっとその言葉も忘れていた。
――僕はただ大いなる方に祈り、導きがあるのを信じればいいんだ。そもそも導きがあったからこそ、ここまで来たんだ。
夜風が静かに吹く草原に立ったまま黙って祈りを捧げた。祈りに呼応して大地が、空が、そして周りの世界そのものが、自分と調和してくるのが身体に直接感じられるような気がする。
祈り終わったあと、『荒野』を怖れる気持ちは消え、心の隅々まで晴れ渡ったようにすがすがしい気分になった。
――そうだ、この感覚だ。
この感覚が、都では無かったのだ。朝と晩の鐘が鳴る頃、故郷ではいつもこういう気持ちになることができていた。それが都には無かった。まるで雑音が邪魔をするように、澄んだ心のうちの音楽が聞こえてこなかったのだ。
「あ」
思わず声をあげてしまい、誰かに聞かれたかどうか慌てて見回したが、辺りには眠る羊と狼しかいなくて安心した。
突然、なにもかも合点がいった。求めていたのは、これだったのだ、という確信のようなものが唐突に、天から降ってきたようにひらめいた。
「『喜びの門』の喜びって、こういうことなんだよね」
夢中になって狼に話しかけると、その通りだというように力強く視線を返してくれた。
カディオルに教えてやらなくては。しかし、なんといって説明したらいいのだろう。うまく言葉にできない。これは知識ではなくて感覚なのだ。
カディオルに、羊と一緒に外で眠るといいと言ってもおそらくは理解してもらえないだろう。それに、羊飼いの自分がここで感じたのと同じことを、今まで外で寝たことがないカディオルが感じるかどうかもわからない。
戻ってみると、子供の方はたき火の横で毛布にくるまりぐっすり眠っていた。
子羊は無事に生まれ、父親は母羊に授乳させるのを手伝っていた。
「こういう日は、狼に狙われやすいんだ。君が来てくれて助かったよ」
「ええ。見回ってきましたけど、危ない影はなさそうでしたよ。今夜は僕が番をします。少し休んでください」
「すまんな。少し眠ったら交代しよう」
それから、夜の端が薄く明るんでくるまで、歩いたり座って星を眺めたりしながら、ゆっくりと大地のささやきに耳をかたむけた。
だんだんと、自分の中に本来持っていた力がよみがえってくる感じがする。村を出てからずっと、無力だと感じていた。この有能感は、得意なこと、羊の世話をしている間だけのものだろうか?
「魔法が……」
錯覚だろうか。いつかカディオルと話したとき、魔法を使えるのが当たり前だったらと憧れた。不思議と、今の何でもできるような万能感に、魔法が使えたらという望みが重なって、まるで自分がすでに強大な力を持つ魔法使いになったように感じてしまったのだ。答えるかのように、狼がちらりと見上げた。
「僕はこれから、どこへ行くんだろう……」
妙な質問をしてしまった。『学びの塔』に行くのだ。まだこれが本当の答えかどうかわからないけれど、大丈夫だという確信に似た気持ちが胸の中にある。
また、あの男の『そんなところにおまえの求めているものはない』という言葉が浮かび、その考えを振り払った。どうして、くり返しくり返し、あの男が記憶に登ってくるのだろう。それはあの男の『魔法』のせいなのか、それとも自分が本当は邪悪な『荒野』に心惹かれるような悪い存在なのか?
「邪心は捨てなければいけない」
『学びの塔』の門の言葉を、もう一度口にした。
きっと、あの言葉は、悪いものに誘惑されて悪い魔法使いの仲間にならないように、という意味なのだ。
朝が来るのをこんなに待ちかねた日はなかったかもしれない。
「また会おうね。また狼連れてきてね」
無邪気に微笑む子供に手を振って、頑張れよと別れを告げ、急ぎ足で宿へと帰った。
帰る途中にまた『学びの塔』の前を通った。あの老人がいないかと、ちらりとふり返るが、今回はいない。
黙ってゆき過ぎようとしたとき、きゅうにふわりと身体が軽くなったように感じた。まるで足下に翼が生えたような。同時に目の前にまぶしいほどの光がひろがり、思わず目を閉じた。
そして、はっと気づいた。これは導きなのだと。
はたして、門は大きく開いていた。
「やったな、ぼうず。入るといい」
門番が嬉しそうな顔で声をかける。
「入ります。でも、あとで来ます」
「あとか」困ったような顔で門番は続けた。「あとになってまたおまえが入れるという保証はないんだぞ」
言われて迷った。今を逃したらもう入れないかもしれない。約束の一月の最後の日は今日である。ここで入れなかったら諦めて村へ帰らないといけないのだ。せっかく皆が送り出してくれたのに。老人にも、町の神官にも期待されてきたのに。
「僕には約束があります。同室の人と、お互いに教え合うんだと。約束は裏切れない」
振り切るようにラジュエルは、門を後にした。
もしかしたら、間違ってるかも、この機会を逃したら入れないかもと、正直、迷いは捨てきれない。でも一生懸命字を教えようとしてくれるカディオルを見捨てるようことはできないと思った。ここで裏切ったら、自分はずっと後悔する。
「聞いてくれカディオル!」
「話したいことがある!」
息せき切って叫んだのはほとんど同時だった。
「あ、ああ、君からでいいよ」
「いや、おまえの言いたいことはなんだ」
「門が開いたんだよ!」
驚いたようにカディオルは口をぽかんと開けて、自分も言った。
「私もだ」
「本当に?」なんという偶然だろう。「それで君は入らなかったのか」
「入りたかったさ。しかしおまえと約束したじゃないか。お互いわかったことを教えあおうと。信義にもとることはできない。だから戻ってきた」
ようやく落ちついて、お互いに昨日の出来事を話しあった。羊と一緒に夜を過ごして大地の歌を聴き、まるで自分が魔法を使えるような、すべてのことがうまくいくような錯覚を覚えたことはまったく個人的な感覚である。うまく伝えられるかどうかわからなかったが、言葉を尽くして一生懸命話した。
ふうん、とカディオル言った。
「出来事はちがうが、その感覚はわかる。私も同じように感じたんだ」
カディオルの方もいつもとちがう経験をしたそうである。
その日、都に野生のイノシシが乱入した。なぜそうなったのかわからないが、門番の奮闘も空しくイノシシは都に入りこみ走り回って人々を混乱に陥れたという。
騒ぎを収めるために魔法使いを探しにやろうとしたが、あいにく獣使いが手が空かないという。話を聞いたカディオルは得意の弓矢で見事にイノシシを仕留めたそうだ。
「へえ、すごいな」
「狩猟は貴族のたしなみだからな」さりげなさを装っていたが得意げな様子がありありと見て取れる。「いや、大事なのはそこじゃない。イノシシを仕留めたとき、その身体から光が広がったように見えた。そして声が響いたような気がしたんだ。力は己の中にある、と。どうしてそう思ったのかわからない。だが、おまえと同じように、すでに自分が魔法を使える身になったような、なんともいえない幸福感が広がったんだ。わかるか」
「うん。きっと、それが『喜びの門』っていうことじゃないかと思うんだ。だから実際に門が開いた」
「しかし、私たちは一度門が開いたとき通らなかった。もう一度同じように開くかどうかわからないと門番は言っていたが……」
たしかにわからない。だが不思議と安心感があった。
「でも、僕らは開き方がわかったんだよ。つまり、大事なのは心を大いなる方に対する信頼と喜びでいっぱいにすることなんじゃないかと思う。きっと僕らは、資格を手に入れたんだ。門に入れるか入れないかが偶然だとしたら、あまりに不安定じゃないか。『学びの塔』に入って魔法を学べるにふさわしいかどうか試されてたんじゃないかな」
驚いたようにカディオルはつくづくとラジュエルの方を見た。
「どこで聞いたんだ」
「いや、僕が勝手に考えただけだけど……。でも、偶然にしてはできすぎてると思わないか? 一ヶ月滞在したけど羊飼いに会ったのは今日がはじめてだったし、イノシシが乱入したのだって滅多にあることとは思えない。偶然か運命だったのかはあとになってみないとわからないって、あの忌み人の老人が言ってたけど、なんとなく運命のようなものを感じるんだよ」
そうか、と言ってカディオルは部屋の中をすこし歩き回った。
「言われてみればおまえの言うとおりのように思えてくる。どのみち、私たちは一度開いた門に背を向けた。もう一度開くかどうかは行ってみなければわからない」
「行こうよ!」
「ああ」
そのときオウムがけたたましく、
「食事! 食事!」
とさわぎ始めた。




