第四章 喜びの門 其の六
しばらく同じような日が続いた。カディオルは主に部屋に籠もって書物を読みあさり、ラジュエルは毎日宿の手伝いで忙しい。だが、夕方の鐘が鳴って仕事が終わると、食事をのぞく消灯までの短い時間が勉強時間になった。
カディオルは厳しい教師だった。
「そう、ここは『魔法使い』だ。さっきの『魔法学』と語尾が違うだろう。書いてみるといい、その方が覚えが早い」
「もう今日はいいや。疲れたよ」
「時間は限られてるんだぞ。どうしてもっと学びたいと思わないんだ」
疲れ切ってベッドに身を投げ出すラジュエルを、カディオルのいらだった声が叱咤した。「どうせ一ヶ月じゃたいして覚えられないさ。君だけ『学びの塔』に入るといいよ。そしてできたら、なぜあの老人が僕に『力あるもの』を託したのか、この狼をこれからどうしたらいいのか訊いてきてくれるといいんだけど」
「怠けるな!」
一喝されて驚いた。
「身分が低いのも金がないのもおまえのせいじゃないから仕方ない。でもその甘えた心根とか人任せの態度は自分でなんとかできることだろう。せっかくここまで来て、何もできないですごすご帰るのか。おまえを信じて狼を託してくれたその魔法使いや、町の神官の期待を裏切るつもりなのか!」
はっとしてラジュエルはベッドから身を起こした。
カディオルの言うとおりだと思った。こんな自分であっても、忌み人の老人や神官は信じてここまで導いてくれたのだ。
「わかった。ペンを貸してくれる?」
「ようやくやる気になったか」
カディオルは嬉しそうに自分の羽ペンを持たせ、ラジュエルが見よう見まねで書いてみるのをいちいち口出ししながら指導した。
「でも、一ヶ月経って入れなかったら、ここで覚えたことも無駄になるんだろうなあ」
「簡単にあきらめるのも悪い癖だな。どうしても『学びの塔』に行くんだと、おまえが強く望まなければ決して叶うことはないぞ」
カディオルは今まで会ったことのない種類の人間だった。こんなに強く何かを強いられたことはなかったかもしれない。どうしてこの人は、ただ同室になっただけの自分にこんなに一生懸命読み書きを覚えさせようとするんだろう、それで何の得があるんだろう、と考えたが、とかく疲れて眠くなりがちだった。ぼんやりとしているうちに考える間もなく無理矢理勉強させられた。
二人の努力も空しく日々だけがすぎていく。ついに期限の一月まで、あと2日という日になったが、まだ何の手がかりもない。
カディオルは焦って、朝は早起きし夜はなかなか眠らずに頑張っていたが、ラジュエルはもうあきらめそうになっていた。
「村へ帰ることになったら、狼はどうなるのかなあ。狼だけでも『学びの塔』に引き取ってもらえるんだろうか」
などと話しかけると、
「簡単にあきらめるな。まだ終わったわけじゃない」
「無駄口たたいてる暇があったら勉強しろ」
などと怒られるので、自然と口をきかなくなっていた。
その日も朝から狼を食事のために都の外の森へ放しに行く途中、『学びの塔』の前を通った。宿では狼に骨付きの肉を与えてもいいと言われていたが、狼は新鮮な獲物を自分で獲りたい様子だったので、ほぼ毎日朝になると外に出していたのだった。
いつもは門番と訪問者の姿しか見ないが、その日はみすぼらしい格好の老人が門の前を掃除していた。なにげなくゆき過ぎようとすると、
「おや、懐かしいな」
と老人がつぶやいたように思えた。
こんなところで知り合いに会うはずもないと驚いてふり返ると、老人は照れたような笑いを浮かべてまた掃除に戻った。
「あの……」言いかけてはっと気づいた。「あなたはあのとき、僕にこの狼を託してくださった方ではありませんか?」
言ってから自分でも変なことを言ったと思った。この老人が、あの忌み人と同じ考えを持っていなければ自分頭がおかしいと思われるだろう。忌み人の老人はおそらくあのあと雪の中で命を落としたのだろうし、この老人はあのときの忌み人とは似ていない。それでも、ふと同じ人物ではないだろうかという気がしてしまったのだ。
「そうさな、そう、とも言えるし、そうでない、とも言える」
老人は不思議な答え方をした。
「教えてください。僕はこの狼をここへ連れてきて正しかったんでしょうか。これから狼をどうしたらいいんでしょうか」
老人は、やや白濁した目でぼんやりとラジュエルを見ただけで何も言わなかった。だが、そのとき頭の中に、あの老人の声が響いてきた。
――導きを求めるなら、心のうちに沈黙を保ち、耳を澄ませなければならない。
「耳を……」
思わずつぶやくと、老人の目がきらっと光ったような気がした。
「あの」
話しかけたときである。
老人の姿が忽然とかき消えた。あとかたもなく。
走り去ったような急激な動きもない。あたりに姿を隠す構造物もない。何もないところでいきなり、まるで、もとからいなかったように消えたのだ。
「すみません、今、ここにご老人がおられましたよね?」
自分の錯覚かと思い、門番にそう尋ねた。
「ああ、見えたのか」
門番はおかしそうに笑みを浮かべた。
「あの人は本当にここにいて、消えたんですか? それとも僕にそう見えただけで、本当はいなかったんでしょうか」
ううん、と門番は考え込むようにうなった。
「どっちも本当と言えるかね。あの方は『いたるところにいる方』だから」
「『いたるところにいる』?」
「いつでも、どこでも存在することができる、ってのかな。俺もうまく説明できないんだが、なんちゅうのかな、今ここにいても、同時に全然別の遠いところにいることができたり、会いたいと思っても見つからない代わりに、向こうが会いたければいつでも現れられるっちゅうか……難しいな」
「魔法ですか」
「そりゃそうだ」
あまりに馬鹿馬鹿しい質問をしてしまったと恥ずかしくなって、ラジュエルは早々に門の前を去った。
都を出る橋を渡る途中も、あの老人のことが忘れられなかった。同時に頭の中に響いた不思議な声のことも。心のうちの沈黙、耳を澄ます……。
ふとラジュエルは、すれちがう羊の群れと羊たちを連れている親子が、自分をじっと見ているのに気がついた。男の子は弟のバルトよりすこし年下だろうか。きらきら光る空色の瞳で狼を興味深げに見つめている。バルトのことを懐かしく思い出す。狼を見たがっていた。もう狼に会えなくなるなら、あのとき見せてやればよかったかもしれない。
「ねえ、獣使いなの?」
唐突に少年が尋ねた。
「いや、ちがうよ。僕は預かっているだけだ」
「どうしてその狼は羊を食べないのに、森の狼は羊を襲うんだろう?」
「……そりゃ狼は羊を襲うよ。この狼だけが特別なんだと思うよ」
「森の狼にも、羊を襲わないようにさせられないのかな?」
素朴な疑問に思わず笑みを浮かべた。羊が狼に襲われるのは、いつだって羊飼いにとっては切実な問題なのだ。
「森の狼に言うことを聞かせることは、僕にはできないと思う。夜になったらたき火を大きく炊いて、交代で見張りをするぐらいしか。あとは風の匂いに気をつけることだね」
「羊飼いかね」
父親の方が尋ねた。
「そうです」
その父親に尋ねられるままに、今までいろんな人々に語ってきた話をした。『学びの塔』に入れそうにないので、もうあと3日でここを去らなければならないこと、これから狼の食事のために森へ放しに行くこと。
「もしできれば、手を貸してもらえないだろうか。羊たちの出産が立て込んでてね」
「いいですよ、そういうのは得意ですから。今夜、都の外に泊まるよう、宿の人に話してきます」
狼と森の近くで別れたあと、戻って宿の亭主に今夜は羊飼いと一緒に野で眠ることを告げると、亭主は、ほう、と呆れたような声をあげた。
「おまえは、『学びの塔』に来る奴の中ではめずらしい人間だと思っていたが、あと3日しかないのに羊たちと過ごすとは、また変わってる」
「ひつじ! ひつじ! 星空の下!」
オウムがけたたましく騒いで飛び回っている。
「こいつも賛成みたいだし、気分転換になるかもな。それに、これで都も見納めかもしれんから、いい思い出になるだろう」
言って亭主は哀れむように嗤った。たしかに自分では、結局門には入れず都を去ることになるだろうと薄々考えてはいたが、人から言われるのは面白くなかった。
その日の手伝いをいくつか終え、夕暮れの鐘が鳴る頃に、あの羊飼いの親子と待ち合わせをしている城門の入り口に行く。
途中、『学びの塔』の前を通るとき、ちらりと門をふり返ってみた。あの老人にもう一度会えないかと思ったのだ。
期待したとおりの姿で、老人はいた。
にっこりと微笑んだように見えて、ラジュエルも微笑みかえそうと思ったら、次の瞬間その姿はどこにもなかった。
幻を見たのか、それとも消えてしまったのか。今ここに現れたのは偶然だったのか何かを伝えようとしているのか。忌み人の老人は『偶然か運命だったのかは時間がたってみなければわからない』と言っていた。現れたり消えたりする不思議な『いたるところにいる方』が出てくるのは意味があることなんだろうか。それともただ僕をからかっているだけなんだろうか。
考えているうちに城門に着いた。
羊飼いの息子がぴょんぴょん跳ねて手を振っているのが見える。村を出てから自分より幼い子供と話すのは初めてかもしれない。ほどなく羊の群れと親子に合流し、村を抜けて野原の方へ向かう。
「僕のいた土地では、春になると山へも放牧に出ていましたよ」
「ああ、出産がもう少し落ちついてからかな。まだ10頭ぐらい妊娠してるからね。雄と若い羊だけ山の方へ行ってもいいが、人手が足りない」
話しながら森の近くへ向かい、狼を呼ぶ口笛を吹く。
待っていたように狼が森から走り出してきて、羊飼いの親子は一瞬、ぎょっとしたように足を止めた。だが狼がラジュエルにいかにも懐いているように走り回っているのを見て安心したようだ。
親子と一緒にラジュエルも羊たちの様子を一頭一頭観察し、今夜出産になりそうな雌の羊を近くに連れてきた。
「本当に羊飼いなんだな。『学びの塔』に来る羊飼いなんざ、初めて聞いたが」
「僕も来るつもりは最初は全然なかったんですが」
息子の方はラジュエルに言われたとおり、集めた薪をじゃんじゃんくべて盛大なたき火を燃やしている。
予想通り羊の出産が始まりかけている。親子が出産を手伝っている間ラジュエルは狼と、辺りに危険がないか見回りに出かけた。
清浄な満月が山の向こうから登りはじめ、夜空にたなびく雲を白い光に染めている。都には塔をはじめ家々にほんのりと灯りがともり、月光を受けて都全体が夜の中の島のように浮かび上がっている。大空には満天の星がひろがり、草原からは大地の歌が聞こえるようだった。
故郷にいた頃はあたりまえだったこういう自然の風景が、なぜだか急に懐かしいもののように思えてきた。それは不思議な感覚だった。懐かしいと感じるということは、今ではもうそれはあたりまえではなくなっているということなのだ。
一瞬、心の中がざわついた。
『荒野』はいつも歓迎している、というあの男の声を思い出しのだ。




