第四章 喜びの門 其の三
――精が出るな。
からかうように言われたような気がした。あの男の声だったが、耳に聞こえるというよりは、自分で考えた言葉のように響いた。狼の言葉やあの老人の『導き』という概念を知らなかったら、自分の妄想だと思ったことだろう。だが、それはやはりあの男の声だという気がした。
胸の傷がまたじくじくする。痛いというほどではないが、身体の奥の方に嫌な汗がにじむ。
再び後悔の念が襲ってきた。どうしてあのとき彼について行かなかったのだろう。あの男にもう一度会いたい。もし出会うことができたなら、今度こそ彼について行って、おそらくラジュエルが本当に学びたい魔法について教わるのだ。
だが、そう思うと、逆にあの男に出会ったときの嫌な感じを思い出した。
「僕は『学びの塔』に行く」
あたりには誰もいなかったが、はっきりと声に出してそう言った。むしろ誰もいない方がよかったかもしれない。その幻影が見えているのは自分だけだったとしたら、虚空に向かってしゃべっているのでは頭がおかしいと思われるだろう。
見えないながら、男の嘲笑う声が聞こえたように思った。
――よろしい。だが『荒野』はいつも歓迎しているぞ。
言うと気配は、すうっと薄くなり、だんだんと温かい空気が戻ってきた。見回してもやはり誰もいない。宿の入り口に新しい客が馬に乗って到着したが、あの男ではなさそうだ。
幻覚だったのだろうか。それにしてはあまりにはっきりしている。「荒野」とは何のことだろうか。いくら幻覚でも自分の知らないことを聞くわけがない。
早く『学びの塔』に行きたい。狼は話は聞いてくれるが答えはくれず、町の神官と別れてからは魔法の話をできる人もいない。
寝る前に宿を出ると、門灯を見失わない距離まで離れて、そっと口笛を吹いた。
風がそよぎ草むらに葉がざわめく音がする。ひたひたと忍び寄ってくる夜の気配に、慎重に気持ちを集中しながら待っていると、暗闇に二つ光るものが近づいてきて、すぐに慣れ親しんだ狼の息づかいが聞こえた。
「ジュート」
狼との再会が、今まで以上に嬉しい。無事でいてくれてよかった。
「ジュート、大丈夫だった? 僕はあの男に会った気がするんだ。いや、会ったというよりただの気配だったんだけど。でも声が聞こえた。僕の頭の中にだけね」
ちら、と狼は、宿に向かってともに歩きながらラジュエルに目を向けた。まるで何か答えを言いたがっているように。また声が聞こえないかとしばらく待ってみたが、狼の声は響いてこない。
狼は何か伝えたがっている、と思う。なぜ聞こえないのだろう。初めて会った日、忌み人のところに戻るなと確かに聞いたと思った。あれはただの勘違いだったのだろうか。それとも、まだ老人の力の影響が残っていたために、言葉が伝わってきたんだろうか。
都へはその翌日、まだ日の高いうちに着いた。
丘陵の畑や牧草地の合間に家々があった。だんだんと家は増えていき、その間を抜けて進むと、水をたたえた深く幅広い堀があり、堀を越える橋の前にアーチを描く高い門がある。門の扉は開いているが、その向こうには馬車が二台すれ違えるほどの幅の橋がかけられていた。橋の向こう側にまた門があり、堀に沿ってぐるりと城壁が築かれている。城壁の上にはぎざぎざした低い塀があり、故郷んにおとずれた吟遊詩人の歌っていた『胸壁』というものだと思われた。あそこから兵士は敵に矢を浴びせるのだ。
橋の手前の門番に神官の手紙を見せ、『学びの塔』に行きたいと告げると、意外とあっさり通してくれた。橋を渡り向こう側の城門の中に入るとすぐにまた高い塀があり、看板に何か文字が書いてある。字が読めないのです、と橋を渡ったところの門番に尋ねると、左の道を行けと言われた。
城門からつながる塀と内側の高い塀に挟まれた細い通路は、ゆっくりと湾曲し、やがて内側の塀が途絶えて小さい広場に出た。
ボルードと出会った領主の町のように、石造りの建物がたくさんある。『学びの塔』とおぼしきものは建物の群れの奥にそびえて見える。人々の服装は様々で、町に住んでいると思われる人よりも、旅人のように見える人の方が多かった。
どこに行けばいいのかわからなかったので、まず塔に向かって進んでみた。
近づくにつれ塔はいよいよその偉観を見せる。白い石で造られた塔は山上に建つ王城に負けないほどの高さにそびえ立ち、色ガラス張りの窓が点々と空に向かって連なっている。塔の周りもまた石造りの壁が囲み、その入り口とみられる一角には何人かが行列になって順番を待っていた。
『学びの塔』に行くにはここに並ぶのだろうと思って、狼とともに順番を待った。並ぶ人々のほとんどは入り口で何か話をするとまた戻ってきて、中に入れた人はいないように見える。この人々は、中に入るのではなく『学びの塔』の門番と話をするために来ているのだろうか。
ようやくラジュエルの番が回ってきて、神官からもらった手紙を門番に見せた。門番は手紙を読もうともせず、黙って門のところに書いてある文字を指さした。
「すみません、僕は字が読めないんです」
「字も読めないのに『学びの塔』に来たのか」馬鹿にするというより、半ばあきれたように門番は言い、「『邪な心を捨て、喜びの門より入れ』と書いてある」と読んでくれた。
「それはどういう意味ですか」
「みんなその意味がわからないから中に入れないんだよ。わかったらまた来な。手紙があればその辺の宿に泊めてもらえるだろう。ああ、斡旋所はそこだよ」
門番はすぐ近くの店のようなところを示した。そこには今、追い返された人々が列をなしている。
こういうものかとあきらめてその列に並んでいると、誰かに後ろから声をかけられた。見るとさっきの門番が、白い髭の賢そうな老人とともに立っている。
「ああ、君、すこし話がある。こちらに来なさい」
老人に呼ばれて、先ほどの『学びの塔』の門のところに連れられると、門番小屋と見える小屋の中に招き入れられた。
椅子に座るよう命じられ、狼を従えてそこに座ると、老人は立ったまま、ふうん、と顎髭をしごきながらラジュエルをしげしげと見つめた。
「どこかで魔物と戦ったかね。魔傷がある」
「戦いました。いえ、僕じゃなく、この狼が、ですけど」
驚いてラジュエルは答え、ちらと狼を見た。狼はこんなことは何でもないといった様子でうずくまっている。
「かなり年古りた『力あるもの』だな」
「おわかりになるんですか? 僕はある老人からこの狼を託されて、ええと、いろんな人に勧められてここに来たんです。お尋ねしたいことがたくさんあります」
「話は長そうだな。しかし、まずその魔傷を治さねばならん。話をするのは君が『学びの塔』に入れるようになってからだが、魔傷だけは放っておくわけにはいかん。悪いものを呼び寄せてしまうことがあるからな」
「魔傷って何ですか?」
老人は腰をかがめ、ラジュエルの身体の前に手をかざし、しばらく考えていた。
「このあたりか」
すると近くにいた門番が、腕を伸ばしてラジュエルの服の胸元を引っ張ったので、傷を見せろということだなと察して、服のボタンをはずした。
あのとき引き裂かれたように感じた傷は、見たところなんともない。薄い傷跡さえ見えなかったので、たいした傷ではないだろうと思っていた。寒い夜や疲れたときに、じくりと痛むような気もしたが、それほど辛いわけでもなかったので、今ではほとんど忘れていた。
「ふむ、それほど深くはない」
老人は今度は狼の方を見た。狼も顔を上げて老人にじっと視線を注ぎ、その様子はまるで声に出さずに会話を交わしているように見えた。
「なるほど」
ラジュエルには理解できない会話から答えを得たかのように老人はつぶやくと、持ってきた小壺の蓋を取って中身の液体を布に浸すと、ラジュエルの傷に塗りつけた。
薬は一瞬ひりりとしみたが、すぐにその部分が温かくなって楽になった。
「治ったんですか?」
「まあ、完全ではないが、とりあえずここにいる間は大丈夫だろう」
「ありがとうございます」
「では行きなさい。また『学びの塔』の中でゆっくり話を聞けるのを楽しみにしている」
老人が出て行くと門番は、また門から出るようにと告げた。このまま中に入れてもらえるわけではないとわかって、少しがっかりしたが、他の人々も追い返されていたので、きっと入れてもらうのは相当難しいことなのだろうと思い、またあの斡旋所に並ぶことにした。
入り口を通り過ぎるとき、白馬に乗り豪華な服を身にまとった若い男が、ずっと待っていた様子で、馬上から門番に高圧的に声をかけるのが見えた。周りには馬に乗った騎士が二人と徒歩の者たちが十数人、きちんとした面持ちで彼を取り囲んでいる。
「ずいぶん待たせたな。ベルモーチェ公爵家の嫡男、カディオル・トレノが到着したと祭司長殿に伝えてくれ」
居丈高な態度にも門番は怒りもせず、他の者たちにしたのと同様、黙って門に書いてある言葉を指し示した。
「邪心か。邪心はない。早く通せ」
「だめだな。おまえさんは喜びの門の意味を理解していない」
「何?」
「理解したらまた来い」
「どうすればよいのだ」
「わからん奴だな。理解とは自分の頭で考えて答えを出すということだ。ああ、それから『学びの塔』に入れるのは、学ぶ本人だけだ。余計な奴らは入れないから、ここから帰らせるんだな」
男は顔をしかめた。だが、門番が簡単に言うことを聞く相手ではないと見たのか、その場は黙って引き下がった。周りの男たちに彼が何か言うと、徒歩の者たちは辺りに散って町人たちに話を聞き始めた。やがて一人がラジュエルの幾人かあとに、斡旋所の列に並んだ。馬上の青年はその間、手持ち無沙汰に騎士たちと話をしたり、もう一度『学びの塔』を見上げたり、要するに、自分では何もしていない。
ラジュエルの順番が来て、斡旋所の主人に手紙を見せた。
「ああ、推薦組なんだね。じゃあここ。『白ビールの宿』に行きなさい」
「いつまでここに泊めてもらえるんですか」
「それは宿の親父が教えてくれるだろう。俺は紹介するのが仕事さ」
斡旋所の主人が教えてくれた宿はすぐ近くにあった。名前の通り、白い泡立つビールの絵が描かれた看板を、店の入り口に下げてある。
宿の主人に手紙を見せると、いろいろと質問をされた。生まれた所、ここまで来た経緯、どうして神官から紹介状をもらうことになったのか、所持金、年齢、魔法経験など。
「魔法経験って……」
「今まで何を学んできたか、実践としてどんなことをやってきたかだよ。こんな『力あるもの』を連れて、まさか、なんにもないってことはないだろう?」
「ああ、でもほとんどないんです。そもそも、僕は魔法使いになりたいのかどうかもよくわからないんです。ここに来たらいろいろ教えてもらえるかと思って」
少しは関係があるかと思い、町で魔物らしきものに襲われたこと、そのときの傷が「魔傷」と言われたことも話した。
とたんに主人は顔をしかめ、自分の額に祝福の星印を描いた。
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魔傷は、ここでの造語です。魔物による、あるいは魔法による傷、という意味で使っています。




