第四章 喜びの門 其の二(イラストあり)
(イラストはiwajun様)
物盗りだろうか。しかし、そもそも盗られるようなものは持っていない。金銭を持ってこなくてよかったのは、こういうとき妙な心配をしなくていいことだ。
だが逆に、物盗りでなければ何ものだろう、なぜ自分と狼を狙うような視線で見つめているのか不安になる。訝って、宿の主人にこっそりと尋ねた。
「あの人が、僕と狼を見ているようなんですが、どうしてでしょう」
ああ、と宿の主人は目配せして、その男に聞こえないよう声を落として言った。
「君の連れている『力あるもの』を狙っているのかもしれん。他人の獣を奪おうとする輩もいるらしい。だいたい獣は自分で相棒を選ぶというから見知らぬ相手には屈服しないものだが、それでも奪おうとするなら相当力の強い魔法使いだろう。気をつけた方がいい」
「ありがとうございます。でも、僕は魔法使いじゃないから、気をつけると言ってもどうすれば……」
「わしには何もしてやれることはないが、もし君の獣が本当に強いものだったら、そう簡単には奪われないと思うがね」
またここでも結局は狼の力が頼りなのか、と思うと少しがっかりした。仕方ない、自分はただあの老人から託されただけで、本当は何の力もないのだから。だが、せっかく老人が自分を信頼して預けてくれた狼を、不本意な目には合わせたくない。
こうなったら一刻も早く『学びの塔』に着いて、少しでもあの老人の期待に応えられる力を手に入れたい。せめて老人が何のために自分に狼を託してくれて、これからどうするべきなのかを知ることができたなら――。
狼は宿のある村へ入る前に獲物を仕留め夕食をすませていた。このあとはラジュエルの足下にうずくまって眠るだけで心配はいらない。今夜の宿ではそのために小さいけれどラジュエル一人で泊まれる部屋を準備してくれていた。
夜になって冷えてきたせいか今日は、あの町で受けた胸の傷が痛むような気がする。しかし古傷のようにはっきりとした痛みではなく、じくじくとうずくような痺れるような静かな痛みで、じっとしていなければそれほど気になることもない。早く休んだ方がいいだろう。
その部屋へゆく階段を登るときのことである。行こう、と声をかけるラジュエルの耳に深く響く歌声が聞こえてきた。ボルードの調子っぱずれの歌とはちがい、不思議と心の琴線に触れる美しい歌声である。美しくもの悲しい調べで、それだけにその声には言い知れぬ不安をかきたてられた。
「ジュート」
狼は耳をぴんとそばだてて歌声の方へ顔を向けている。視線をたどると、あの男がいた。男はラジュエルが見たのに気づくと歌を止め、にやりと笑った。
「ジュートか」
声量のある深い声でからかうように言われて、急に恥ずかしくなった。
『その獣はおまえにとってはジュートではない』とあの老人に言われたことを思いだしたのだ。そのときには意味がわからなかったのだが、今こうして見知らぬ男に嗤われてみると、自分などがそんな呼び方をしてはいけないように感じてきた。
『名前はすなわち役割だ』とも老人は言った。もしかしたらジュートというのは、あの老人にとっては正しい呼び名だったかもしれないけれども、自分が呼んではいけない名前なのかもしれない。しかし、その理由をこの男に尋ねる気にはなれなかった。
「行こう」
もう一度言った。怪しい者かどうかは、おそらく狼が知っている。だが、狼は男を見つめたまま動かない。
男は薄い笑いを浮かべたまま二歩ほど近づき、その距離を保ったまま高い上背からラジュエルを見下ろした。醜い傷のある顔の、暗い薄銀色の瞳は隻眼であった。
視線を合わせ続けるのに耐えられずラジュエルは目をそらした。
「『学びの塔』に行こうとしているらしいな」
「そうだ」
ふん、と男は鼻で嗤った。
「そんなところにおまえの求めているものはない」
言われたが黙っていた。
どうもこの男には話をする気になれない。ボルードよりも魔法に詳しそうなことはなんとなくわかる。だが心のどこかで、この男は危険かもしれないと警告が発せられている。宿の亭主に忠告されたからかもしれない。男はまた一歩近づいたが、これ以上近づきたくなかったので一歩退いた。狼は留まったまま彼の顔をじっと見つめている。
「君は誰なんだ」
「名前か。俺は……という」
聞き取れなかった。それは初めて聞く発音だったからかもしれないし、男がわざとぼかして言ったのかもしれない。
名前は関係性だとあの老人が言っていた。今この男の名前を言われても自分が聞き取れないと言うことは、聞く必要がない、あるいは聞いてはいけないということではないだろうかと直感的に思った。
「おまえの名は」
「……だ」
わざと聞こえないようにこたえた。
男は驚いた顔をしたが、すぐにまた傲然と笑いを浮かべた。
「俺について来い。『学びの塔』よりも俺が与えるものの方が、おまえの求めるものに近いだろう」
不思議な感情が二つ、ラジュエルの心の中で戦いをはじめた。
この男の言うとおり、彼について行った方がいいという誘惑、その一方で彼について行ってはいけないと強い声が警告する。しかし警告に抗ってしまいたいほど、その誘いは魅力的に思えた。本当は『学びの塔』などに行くのではなく彼のような、おそらく本物の魔法使いについて学んでいくの方が道が早いのではないか、そんな風に思えてしまうのだ。
だが、奇妙なことに誘惑の力が強すぎるということが、かえって用心を呼び起こさせた。何よりも今、迷っているという事実が証拠のような気がする。
――大いなる方は、必ず導いてくださる。もし、本当にこれが正しい導きならば、大いなる方は答えてくださるはず。
祈ったとき、男の顔が歪んだように見えた。
「いや、僕は『学びの塔』に行くから」
ふん、と男は自信ありげな笑みを浮かべた。
「行ってみるといい。そしてそんなところには、もう白骨化した知識しかないことを自分の目で見てみるんだな」
マントを翻して夜の闇の中に去って行く男の後ろ姿を見ながら、今度は激しい後悔の念がおそってきた。
自分は間違ったことをしたのではないだろうか、本当は『学びの塔』などに行くのではなく彼について行った方がよかったのではないだろうか。
しかし、どうしても彼を呼び止める気にはなれなかった。
「行こう」
もう一度狼を呼んだ。だが狼は動かない。狼はラジュエル以上に彼に未練があるようにも見えた。
ふと、さっき宿の亭主が言った『獣は自分で相棒を選ぶ』という言葉を思い出す。もしかしたら狼は、自分ではなくあの男を選ぼうとしているのか、自分などでは役不足なのではないだろうかと、はじめて疑いの気持ちが頭をもたげてきた。
あの男はボルードのような偽物ではなく、本物の力のある魔法使いにちがいない。自分のような魔法のことも何も知らない、ただ狼を託されただけの人間よりも、この『力あるもの』にとって一緒にいるのにずっとふさわしいのではないだろうか。自分などが一緒にいて、かえって狼にとって迷惑なのではないだろうか。
試されるような気持ちに苛まれながら狼をじっと待った。
胸の傷がまたじわりと痛む。
もし狼が行きたいというのなら、自分には止めることはできないだろう。狼の方が自分よりずっと力が強いのだ。実際の力も、そして魔法の力も。
しかし狼は、しばらくすると何事もなかったようにラジュエルの元へ歩みよってきて、自分から階段を登りはじめた。
「ジュート」
狼は足を止めてふり返った。まるでラジュエルが来るのを待っているかのように。その名で呼んでも狼は気を悪くした感じはしない。本当はこんな呼び方をしてはいけないのかもしれないという不安は拭えないが、少なくとも今夜は狼は自分を選んでくれているのだ
翌朝宿を出るとき、男には会わなかった。亭主に聞いてみると夜のうちに代金を払い、いついなくなったのかわからないという。
「用心は怠らない方がいい。ああいう輩は一度目をつけるとしつこくつけ狙うこともあるからな」
「ありがとうございます」
礼は言ったが、用心と言われても何もできない自分が歯がゆかった。唯一の希望は狼が自分の方を選んでくれているということ、今までのようにきっと護ってくれるだろうと思われることだけだった。
「もう少し僕が自分でできることがあるといいんだけど」
歩きながら話しかけてみたが、狼はふり向きもしないでとなりを歩き続けている。
村を出て都へ向かう街道を歩くときも、ときおり通りかかる荷車や馬車の他は誰にも会わなかった。
あの男はあのまま去ってしまったのだろうか。なんだかあっけなさ過ぎるような気もした。寂しいのではない、と自分の気持ちを確認した。未練があるような気もする。かといって危険を恐れる気持ちは変わらないのだ。ただの物盗りや悪漢なら、二度と会いたくないにちがいないのに、あの男には妙に心が惹かれる。それはなぜなのか、それも『学びの塔』に行けばわかるのかもしれない。
夕暮れの春霞がばら色に牧草地を覆い、ゆるくたなびく。南方遠くに高い塔が見える。その西側の低い山頂にそびえているのが王城だろうか。ひときわ高いところから都全体を見下ろし、川沿いに広がる足下の平野を見はるかすように造られている。
近くの村に泊まり、『学びの塔』に行くのだと女将に話すと、矢継ぎ早にいろいろ尋ねられた。
どこから来たか、なぜ『学びの塔』に向かうつもりになったのか、親は何の仕事をしているのか、所持金は十分あるのか。
包み隠さず答えていいものか迷いながらも、とつとつと答えると、母と同じぐらいの年に見える女将は、
「ふうん」と腰に手を当ててラジュエルをじろじろ見つめた。
「羊飼いかい。羊飼いで『学びの塔』に行こうってのはなかなか見ないねえ。そうか、金がないんなら、ちょっと厨房を手伝っとくれよ。かわいい顔してるけど、いい人はいるのかい」
「いい人?」
「恋人だよ。奥さんでもいい」
「いえ、そんなのはいません」
なぜか恥ずかしいような気持ちになってうつむき加減に答えると、女将ははっはっと豪快に笑った。
「都には美人がたくさんいる。正直者ばっかりじゃない。せっかく稼いだ金をつぎ込んじまってひどい目に会う田舎者はいくらでもいるよ。気をつけるんだね」
「『学びの塔』でも?」
「『学びの塔』は別に閉鎖されてるわけじゃないさ。すぐとなりには都の賑わいがあって遊女も芸人も出入りする。地方から出てきて身を持ち崩す若い連中は少なくないよ。あんたみたいな田舎者はとくに気をつけないとね」
「『見えない敵』ですか」
町で『身を持ち崩した』叔父の話が思い出されて、そう言ってしまったが女将は興味がなさそうに他の客に呼ばれて行ってしまった。
言われたとおり厨房でパンの仕込みを手伝ったり、裏庭で薪割りをしたりしていると、ふと何か不穏な気分に襲われた。なんだろうと見回してみたが、あたりにおかしな様子はない。気のせいかと思ってまた作業に戻ると、また気配に気づくのだ。これは何かに似ていると思い出してみると、あの町で『見えない敵』がやってきたときのような、何者かに睨まれているような恐ろしさに近い。
狼は食事のために村から外に出してしまっていたので、相談する相手もいない。日は暮れかけているがまだ闇の中というほどではなく、こんな明るい時分にわけもなく恐れていると誰かに言っては、臆病者と思われてしまう。早く狼が戻ってくるといいと願った。
不穏な気配はだんだんと強くなり、やがてぼんやりと形が見えてきた。といっても、はっきりと目に見えたわけではなく、まるで幽霊のように、蜃気楼のように、その気配が人の形になってきたのである。




