第四章 喜びの門 其の一
第4章 喜びの門
打ち身の傷が癒え、近所を歩き回れるほどの体力がついた頃には、日差しの明るい季節になってきていた。石で舗装された町の地面の雪は昼になると溶けかかっている。ぬかるみは汚く道を汚すが、道ばたの草木には新芽がたおやかに芽吹きはじめている。
ときどきボルードが訪ねてきた声が聞こえたが、何度も戸口で追い返されているうちに来なくなった。
「もう彼に会う必要はないだろう」
というのが神官の意見だった。
狼をずっと町においていては食べ物に困るということで、ラジュエルが動けない間、町から外に出すことにしていた。狼を連れて行く役目を誰が引き受けるのかで悶着があったが、結局神官自身が連れて行ったそうだ。
もう狼と別れて30日ほど経つ。いったいどこでどうしているだろう、自分のこと、これまでのことを忘れて野性に返ったりはしていないだろうかと、つい心配になる。
旅立ちます、と告げたとき、神官は驚かなかった。
「これからどうするんだね」
「西に向かえと言われて村を出ました。前に通った村の神官に、おまえも『谷間の風のはじまるところ』に行こうとしているのかと言われました。それは何のことだか訊こうとしたんですが、怒られました。どうしてだったのか、よくわかりません」
なるほど、と神官は薄い笑いを浮かべた。
「本当はほしいのに、それが手に入らないと信じているとき、人はしばしば不機嫌になる。彼のことは知っているわけではないが、そういう可能性もあると思うね。ただ、忠告はまちがいではない。[
『谷間の風のはじまるところ』に行く前に、まず魔法のことや己のことをもっとよく知っていた方がいいとは私も思う。都の大神殿に行くといい。そこの魔法部でなにか学べるかもしれない」
旅の用意といってもとくに大仰なことはない。破れたマントや服は世話係の少女が繕ってくれていた。旅の食料として葡萄酒、堅パンやチーズ、クルミとブナの実などを豊富に準備してくれた神官は、
「君に金を与えるのは私の仕事ではない。だが飢えや寒さで死なないようにしてあげるのは神に仕えるものの勤めだ」
と言って手紙をしたためてくれた。
「都に行くまでにいくつかまだ村を通る。この宿屋に寄りなさい。巡礼者がよく使う宿だ。悪いようにはしないと聞いている」
「すみません、僕は字が読めないので、名前を教えてください」
ああ、そうかとこたえた神官の目に蔑みの色はなかったことは、ラジュエルをほっとさせた。
神官はいくつかの宿の名をあげ、ラジュエルは復唱してそれを覚えた。
「ただ、どこの宿屋も厩のように狼を泊めてくれる場所はない。ほかの客と一緒だったらやはり人々は狼を怖がるだろう。場合によってはきちんとした寝床で泊まれないこともあるかもしれない」
「それは覚悟しています。今までもそうでした」
最後にラジュエルは町に住んでいた叔父のことも尋ねてみたが、神官は名前すら聞いたことがないと言った。
「この町にもいくつも教区があるからね。残念ながら田舎から出てきて街で身を持ち崩す人々は少なからずいる、ご冥福を祈ろう」
「父の言った『見えない敵』というのは、あのときの魔物のことなんでしょうか」
「見えない敵のことを、心の問題のように言う人もいるが、魔法使いたちの言う『見えない敵』とはまた別のものだ。土地に縛られているものもいるし、土地とは関係のないものもいる。ただ古い存在というだけで、今の時代には合わなくなっている力あるものもいる。そういうことも『学びの塔』に行くと詳しくわかるだろう」
「もう一つお尋ねしたかったことがあります。神官様の顔につけている丸いガラスは何ですか?」
「ああ、これか」神官はちょっと笑ってその二つの丸いガラスを持ち上げた。「眼鏡は初めて見るのか。これがあると物がよく見えるんだよ」
「魔法の道具ですか?」
「いや、魔法ではない。ただの道具だよ。目に合ったものを選べば誰にでも使える。魔法使いは特別な道具を使うことはあるが、これは魔法の力はいらない」
聞いて、婆様のことを思い出した。年取ってめっきりものが見にくそうにしていることがある。
「お金があれば買えるものですか」
「そうだよ。誰かに買ってあげたいのかい」
「ええ……」
高いのだろうか、自分に買えるものなのだろうかと心配になりながら尋ねたが、
「ただ、眼鏡は誰にでも同じものが合うとは限らない。使いたい本人が選ばないとね」
言われて、そうですか、と残念に思った。婆様の足ではこの町まで来るのは困難だろう。
「魔法で目を見えるようにすることはできるんですか?」
「さあ。それは知らないが、病を治す魔法はある。『学びの塔』で尋ねてみなさい。いろいろ学ぶことはあるだろう」
狼と別れて一月近く経つので、どこかへ行ってしまっていないか心配したが、町を南の門から出ると間もなく遠方に黒い影が見えた。
「ジュート!」
嬉しくて思わず走り出した。向こうから狼も駆けよってくる。
犬のように飛びついたり顔を舐めたりはしないが、狼も喜んでいるのがわかる。そもそもこの身体の大きさでは、本気で飛びつかれては立っていられないかもしれない。
「ずいぶん待たせてごめん。よく待っててくれたね」
狼はただ金色の目を輝かせてぱたりと尻尾を振る。
一月ほどもただ食べさせてもらってたいして身体も動かさなかったので、ラジュエルの方はすっかり元気になったが、狼はどうしているだろうと心配していた。だがその必要はなかったようだ。毛皮の色艶もよく身体も相変わらずがっしりしている。忌み人の老人と暮らしてはいたが、やはりこの獣は野性に返ったとしても十分な強さを備えているのだろう。
また狼との旅が始まる。
「まだお礼を言ってなかった。あのときは助けてくれてありがとう。おまえはわかるのかい? あれは魔物だったんだろう?」
答えが返ってこないのはわかっているが、狼に話しかけるのは半ば癖のようになってしまっている。このごろでは狼は言葉がわからないとはとても思えないのだ。今も、まるで何か話しかけたいように、ちらちらとこちらを見ながら歩いている。言葉が通じないのがもどかしいぐらいだ。
食べ物もある。泊まる宿も教えられている。
それからの旅はぐっと楽になった。
ときどき野宿もしたが、神官がもたせてくれた旅の糧食もあったし、気候は春が近く日々暖かくなっている。魔物の影のようなものには、あの町を出て以来出会っていない。
ノコイディ村の神官に言われたように、プトロ・アリ(白大山)を西に見ながら南へ向かっている。教えてもらった都の場所は、ずっとそれに沿って下ってきた河の沿岸沿いにあるという。『学びの塔』に寄ったとしても目ざす方向からそれほど遠くにはずれるわけではなさそうだ。
行く先々の村の宿で、亭主は神官の手紙を見て歓迎してくれた。だが、あらかじめ言われたように狼を連れているということで小屋のようなところにしか泊めてもらえないこともあった。だが、今まで泊まった小屋に比べれば清潔で、温かい毛布も準備してくれたし食事も十分に与えられた。
金銭を持っていないので、ときどき今までのように、掃除や修理やちょっとした手伝いを頼まれることもあったが、領主様の町の神官様の紹介なら、と人々は親切にしてくれた。よほど彼は人望が厚いのだろう。
狼はどこに行っても恐れられはしたが、都に近づくにつれ、それが『力あるもの』だとわかる人が多くなったのは驚いたことだった。
「魔法使いかね」
と問われて、ちがいます、と正直に答えると、
「じゃあ、『学びの塔』に向かうところなんだね」
と言われる。そんなに『学びの塔』とは有名なところで、魔法使いになりたいものは誰でも向かうところなのかと、その言葉でわかる。
「頑張れよ」
「いい魔法使いになってくれよ」
などと好意的な声をかけてくれる人もいたし、逆に悪いものにでも出会ってしまったように顔をしかめる人もいた。
あと数日で都、という村の宿で夕食を取っているとき、ふとラジュエルは食堂の隅の暗い陰から、誰かに見つめられているのに気がついた。
背の高い男である。フードを深く被って顔を隠しているが、その奥から鋭い眼光が狼を捕らえるように見つめている。ラジュエルより先に狼は気づいていた様子で、警戒した面持ちでそちらを向いている。
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隻眼 片目のこと




