第三章 見えない敵 其の六
すさまじい風がラジュエルに向かって吹きつけ、風にあおられて男がよろめく。
「家に戻ってください! 外は危険だ!」
暗い中、驚いたような顔でラジュエルに向かって軽くうなずくと、男は棒をそのままにして慌てて家に走りこんだ。
ほっとする間もなく何か大きなものが後ろからラジュエルを襲った。人の手のようでもなく棒など硬いものでもない、あえて言うなら大きな羽であればこのような感触だろうかというようなはじめての衝撃である。しかし羽というにはあまりに力が強い。
倒れはしなかったが、バランスを崩して二、三歩よろめいた。おそるおそるふり返ってみたが、やはり何も見えない。ただ、すさまじい気配だけがする。まるでそこに大きな目があって睨まれているような、今にも巨大な手がつかみかかってくるような恐ろしさが、すぐ後ろに迫っているのを感じる。
グルル、と狼が牙をむいて、今にも飛びかかろうとするように身を低くした。
また、バサリと見えない何ものかに、今度は横面をはられた。つづいて二度、三度と叩かれ、よけようとしても何をどこからよければいいのかわからない。トネリコの杖を目の高さにかかげてなんとか防御しようとしたが、次の攻撃がどの方向から来るのかまったくわからないので、あまり役には立たなかった。強大な力が横からずどんと叩きつけ、ラジュエルはついに冷たい地面に押し倒された。
倒れた身体にも敵は容赦はしない。立ち上がる隙すらあたえず、第二、第三の衝撃がずしんずしんと打ちかかってくる。空気がどんどん重くなり、闇そのものが形を為すように何ものかの気配になってきた。重いものがのしかかってくる。息が苦しい。押しつぶされるかと思っていると、急に何か鋭いもので引き裂かれるような痛みを、胸に感じた。
まさにそのとき、狼が動いた。
ウオン、と低く吠えた狼はラジュエルの上を飛び越えた。いや、おそらくラジュエルには見えない何ものかに飛びかかったのだ。
ぐわあ、というような叫び声があがった。同時に身体を押さえつけていた空気が軽くなる。重苦しい闇も、どこか薄くなった気がする。しかし、今度は別の方向からまた何かがずしんと身体を打った。
すばやく向きを変えた狼が、今度は身を起こしたラジュエルの後ろに向かって飛びかかる。何も見えないのだが、狼が戦っている方からばさりばさりと巨大な羽音が聞こえた。狼は着地するとひらりと向きを変え、再び闇へ飛びかかる。
また、ばさりと音がする。
起き上がれないままのラジュエルにもひどく重い翼が当たるような感触がある。狼は幾度も幾度も、見えない何かに飛びかかり、ついに、ぎゃああという咆吼がひびいた。声はいつまでもつづき、次第に空の彼方へと小さく消えていった。
しんとまた夜の町はしずまりかえった。ぼったりと赤かった月が、清浄な白さを取り戻し、大空には星々がひそやかに姿を現しはじめている。
「大丈夫かね」
走り出てラジュエルを抱き起こしてくれたのは神官である。身体のあちこちが、ひどく痛む。とくに胸の傷がずきずきする。
「ええ……。狼が戦ってくれて……」
「町は護られた」
神官はまずラジュエルの額に、続いて自分の額に祝福の星印を素早く描いた。
神官に支えられるようにして家に戻るとボルードはまだ眠っていた。神官がラジュエルをベッドに横たえると、狼はパタリと尻尾を振り、またラジュエルのベッド下にうずくまる。
胸の傷はまだ痛むが、怪我はしていないようだった。血も出ていないし、その部分を押さえて痛いということもない。切り裂かれたように感じていたのは気のせいで、きっと打ち身だけだったのだろう。
神官は消えかけていた部屋の暖炉に薪をくべて
火を燃え立たせ、すこし待っていなさいと言って温めた葡萄酒を取ってきた。
「君は本当に魔法使いではないようだね」
「はい」
「しかし、その勇気はたいしたものだ」
「知らなかっただけですよ」
「知っていたら怯えて逃げ隠れていたかね」
葡萄酒をゆっくり口に含みながら一度考えて、いいえ、と答えた。主にやったのはボルードだったとはいえ、自分も手伝って棒を立てかけた。それで町の人々に被害が出てしまったのなら、やはり責任を取らなくてはと思ったにちがいない。
「神官様はさっき、ボルードのしたことは遊びのようなものとおっしゃいました。それはどういうことですか。町の人たちはお金をくれました。僕は、あれが本物の魔法だからだと思ったんです」
神官は一度口を引き結び考えるように、そうだな、と言った。
「君は旅人だからわからないだろうが、町の人々はボルードがどんな人間だか知っている。ああいうまじないのようなことをすると安心する人もいるのだ。そして困っている人間には施しをするのが信心深い者の務めだと、裕福な人々は考えている。私の言うことがわかるかね」
「なんとなく」
つまり、ボルードは本物の魔法使いではなかったのだ。お金をもらったことを、ボルードは自分の魔法に払ってもらったのだと考えているが、本当は裕福な人々の同情心から恵まれたものだったのか。町というところには、まだまだわからない習慣がたくさんある。
「今夜はもう休みなさい。明日、怪我の具合をみよう。医師を呼びにやるよう家の者に言っておく」
神官は暖炉にもう一度薪をくべ、部屋を出て行った。
窓の外にもう不穏な気配はない。狼も安らかにうずくまっている。
とても疲れて身体のあちこちが痛かったが、もう大丈夫だ、そして自分は何事かをやり終えたのだという安心感に満たされて目を閉じると、もうあとは記憶がなくなった。
翌朝、身体が痛くて動けないラジュエルからわけを聞くとボルードは怒りだした。
「なんで起こしてくれなかったんだ。手柄を独り占めしやがって」
声を聞きつけたのか、ちょうど神官が入ってくるところだった。
「『見えない敵』がやってきたとき、ラジュエルは目覚めたが君は目覚めなかった。『目覚めなかった人』については経典で聞き知っているだろう」
言われてボルードはばつが悪そうに口をつぐんだ。
『目覚めなかった人』については、故郷にいたとき神殿の説教で聞いたことがある。神がみすぼらしい姿をして通り過ぎるときに、注意深い人々は起きてもてなしたが、気づかずに眠っていた人々は、神の恩寵を受けられず惨めなままに捨て置かれたという。神はいつどんな姿でやってくるかわからない。綺麗な姿の神だけを期待して、そのときだけ敬虔なふりをしてもだめだと教わった。
「でも、敵がやってくるから町に泊まったほうがいいって言ったのは俺だったんだぞ。パンだってエールだって俺がやった金で買ったんじゃないか」
小さい声でなおもボルードはぶつぶつ言った。そう言われると申し訳ないような気がするとラジュエルが答えると、また神官が言った。
「狼が一緒にいたことで君はいつもよりたくさん金をもらったんじゃないかね。報いはもう受けている。行きなさい」
「行きなさいって……どこへ」
「君の家だよ。『見えない敵』は去った。君の仕事はもう終わりだろう」
ボルードは怒ったような驚いたような顔で口をあんぐり開けていたが、ちぇっと舌打ちして立ち上がり、
「行くぜ」
とラジュエルに向かって言った。
「ラジュエルは怪我をしている。もう少しここにいた方がいい」
「じゃあ、俺が世話をしてやる」
「世話をする人間は別にいる」
すげなく言われてようやくボルードは重い腰を上げた。
自分から要求して朝食だけはもらい、ボルードは町を出て行った。
「なんだか彼に悪いような気もするんです。僕を助けてくれた人だったし」
「彼は自分の行いにふさわしい報いをもう受けたのだ。君の心配することではない。朝食はここに運ばせよう。昼には医師も呼んである。ゆっくり休みなさい」
医師には、怪我は打ち身だけでたいしたことはないと言われた。
「ただ、相手は魔物だ。今は現れていなくても、魔術による痛手が隠れているかもしれん。それは魔法使いでないとわからないが、領主様の魔術師は来てはくれないだろう。しばらくここで様子を見るといい。だんだんと治っていくのでなければまたわしを呼びなさい」
神官は家の仕事をする少女を一人世話係にして、食事や怪我の面倒をみてくれた。そのおかげもあって怪我は順調に治ってきていた。
驚いたことに『町を護った』ラジュエルに、町の人がいろいろと差し入れをしてくれた。神官の配慮で彼らに直接会いはしなかったものの、戸口に近い部屋だったこともあり、声は聞こえてくる。
「すごい魔法使いが泊まってるんだって? ぜひずっとここにいてもらってくれよ」
「たいした活躍だったそうじゃないか。これ、少ないけど滋養つけてもらって」
葡萄酒やチーズ、燻製肉や干しぶどうなど、世話係の少女が届けてくれるたびに、町の人たちに直接お礼を言えないのがもどかしかったが、会わない方がいいだろう神官は言う。
「わかっていると思うが、君は本当の魔法使いじゃない。下手に期待されるとかえって間違った道に進んでしまうことがある」
「そうですね」
自分が本当の魔法使いでないことは残念に思えた。実際には戦ったのは狼で、自分はただやられていただけだったと思い返してみるが、人々に褒めそやされるとたしかに自分が立派だったような気がしてしまう。それがよくないのだ、と自分に言い聞かせながら、寝たり起きたりして毎日を過ごした。




