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谷間の風のはじまるところ  作者: 猫洞 文月
イラスト大全集
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第三章 見えない敵 其の五

 黄昏の光が城壁の西に落ちてゆく中、親に手を引かれた子供が狼を見て何か騒いでいる。親の方は狼に近づこうとする子供をせき立てるように道を急ぐ。広場の中央にある噴水の彫刻がしぼんでゆく夕日に長い影を落とす。

「英雄になるって」

「きれいな女たちは全部俺のものだ。財産も俺のものだけど、使うことは許してやるさ。道具も何もなきゃみんな生きていけないからな。俺のために働くやつらには俺の物を使うことを許してやる。俺が歩くときは町に花を撒(ま)いてみんなが歓迎するのさ。取れた肉の一番うまいところは俺のもので、収穫した中で一番いい小麦で焼いた柔らかい白いパンを食べるんだ」

「王様みたいな暮らしをするってことかい」

「王様……そう、王様になってやるんだ」

「でも王様は王様の息子に生まれないとなれないんじゃないかな」

「魔法があればみんな屈服するさ。英雄が王様になるのは、あってもおかしくない話だぜ」

――屈服か。

 少しずつパンをちぎって口に運びながらラジュエルはまたあの老人のことを思い出していた。彼が生きていたなら、こういう人物に魔法を託そうとするだろうか。王様になろうとか英雄になろうとか、そんなことは考えたことがない。自分は本当にそんなとてつもない力がほしくてこの狼と旅をしているのだろうか。


 日が暮れるにつれて風が出てきて、ボルードの立てかけた棒の一本がガラガラと音を立てて倒れた。

「あれ、危なくないのかなあ」

 ラジュエルが立って棒を元通りに直しに行くのをボルードはベンチに尊大によりかかって眺めていた。

「『見えない敵』と戦うには武器が必要なんだ」

 そのとき、家に向かうと見える中年の女が通りがかって声をかけてきた。

「ボルード、ずいぶんと念入りだねえ。いつもはこんなに大げさにやってないじゃないか」

「ああ。『力あるもの』がいるからな。もうすぐ『見えない敵』がやってくる」

「まさかとは思うけど、そいつがいるから変なものを呼び寄せてるってことはないのかい」 

 女は目に怯えた色を見せ、ラジュエルの足下にうずくまる狼をちらりと見た。

「来るぞ、もうすぐ来る。俺が近くにいた方がいい」

「ほんとに大丈夫なのかい」

「今夜は俺がいてやってもいいぜ。泊まるところさえあればなあ」

 女は少し嫌な顔をした。

「門番にでも訊いてみるんだね」

 そうか、門番かとつぶやくとボルードは城門近くの門番小屋へ向かった。

「なあ、『見えない敵』が来るといけないから、俺を町に泊めておくってのはどうだい」

「ふん、うまいこと言って町でこそ泥でもするつもりじゃないだろうな」

「なんだと? 俺がそんな悪党に見えるか。待ってろ、いつか英雄になったときにはおまえなんか首にしてやる」

 日が暮れると門が閉まるというのはこの数日見ていてわかってきた。門の中にとどまれるのは許可を受けた人間か町に住んでいる裕福な人々だけなのだ。

「そっちのぼうずはもっとましな面に見えるけどな。しかし狼を町の中に夜泊めておくわけにもいかない。俺が領主様に罰を受けてしまう」

 いいよ、帰ろうとラジュエルが言いかけたときである。白い服を着て目の前に何か丸いガラスのようなものをつけた初老の男が歩いてきた。門番が慌てて直立の姿勢を取ったところを見ると身分の高い人物なのかもしれない。

「ボルード、君は本当に、今夜『見えない敵』が来ると言うんだね」

 その人物は穏やかな深い声で話しかけた。

「え、いや、今夜じゃないかもしれませんが、きっといつか……」

「その意見には私も反対ではない。私の家でよければ泊めてあげよう。そちらの少年も」

「ありがとうございます。でも狼が……」

「その獣は『力あるもの』だろう。だったら危険なものではないことは知っている」

 神官様だ、とボルードがとなりからささやいた。

 言われてみれば神に仕えるものにふさわしい威厳がある。狼を『力あるもの』と見抜いたところといい、あの村のぎょろ目の神官とはちがって信頼できそうな人物だ。その晩はありがたくボルードと一緒に泊めてもらうことにした。


 巨大な神殿のとなりにある、石造りで窓にガラスがはまった家は大きく温かく、食事は食べたことがないほどおいしかった。葡萄酒は舌あたりがなめらかですっきりと喉をすぎていき、肉と野菜が入ったスープはいい匂いがして深い旨みがあった。パンは白くて柔らかくその後に出てきた焼き菓子はラジュエルが食べたことがない極上の甘さだった。あんまりガツガツ食べてしまって神官の奥方の笑いを誘ったことに気がついて、ちょっと恥ずかしくなった。 

 ボルードは一生懸命話をしたがったが、神官はむしろラジュエルに興味があるようだった。問われるままに今まで数多(あまた)の人に語ってきたこと、忌み人との出会いから村を出て経験したことまですべて話をした。

 ふうん、と神官はうなずき、しばらく考えていた。

「その人物の名前を聞かなかったのは本当に残念なことだ。たぶん私は会ったことがないが、名前がわかれば手がかりももっとあったのだろうが」

「すみません。忌み人だいうことばかりが気になって、そんなに偉い魔法使いだなんて思わなくて」

「偉い魔法使いかどうかは私にもわからないよ。もう少し情報があればね。今夜はもう休むといい。戸口の近くの部屋がいいだろう」

 ちぇっとボルードが小さく舌打ちしたのが聞こえた。あとで聞くと、戸口近くの部屋は身分の低いもののための部屋だからということだったが、それでも今まで屋根も壁すらもない野宿を経験してきたラジュエルにとっては破格の待遇だった。

 硬い地面でも臭い藁(わら)の中でもなく、きちんとしたベッドで眠るのは何日ぶりだろう。その晩は身体を拭く湯も使わせてもらえて、ひさしぶりにさっぱりと心地良く清潔になって、ふんわりした毛布にくるまれて眠りについた。

 狼はベッドの足下に、まるでここがもともとの居場所であるとでもいうようにうずくまって目を閉じている。

 ボルードは最初、狼にびくびくしているようだったが、狼とラジュエルが穏やかにくつろいでいるのを見て自分も布団に入った。

 

 突然の大きな揺れに飛び起きたのは深夜のことである。ガラスの窓から月明かりがほんのり入って部屋の中は明るい。身を起こして慌てて靴を履くと狼が身体を起こしてらんらんと光る目で窓の外を睨みすえている。

「なんなんだ」

 となりのボルードを見るといびきをかいて眠っていた。起こすべきか迷ったが、今何が起きているかわからない。ともかく狼と一緒に戸口から外に出て様子を見てみることにした。

 夜の町に人気(ひとけ)はない。不気味にも見える赤く丸い月が中天にかかっている夜空から、ドオオンというような轟音(ごうおん)が響いてくる。

 いったいどこから、と見上げて探しても、曇った空には月のほか何も見えない。どんよりとかかる雲に隠れて星々も姿を消しているようだ。

 ドオオンという音は、くり返しくり返し空のあちこちから聞こえてくる。魔物かと目を凝らしてみても何も見えない。東の空から聞こえてくると思えば今度は北、次には南から、真上からと方向もばらばらである。

 それは何か非常に重いものが落ちてくるような音にも、見たことのない巨大な獣の吠え声のようにも聞こえる。音のする度に地震のように揺れる。先ほどラジュエルを起こしたのはこの地響きだったのだ。

 これが『見えない敵』なのか、ボルードを起こさなくてはと考えて、神官の家に戻ろうとすると誰かが戸口からまろび出てきた。

「神官様」

「君か」神官はラジュエルのとなりに立つと空を見上げながら、「君はあれを感じたのか。何か見えるか?」

 と訊いた。

「いいえ」

「やはり『見えない敵』は魔法使いにも見えないのだな」

「僕は魔法使いじゃありませんから」 

 慌てて弁明して、ボルードなら、と言おうとしたが、肝心のボルードは何をしているのだろうと考えて口をつぐんだ。

「しかし君は確かに『見えない敵』を感じたからこうして起きてきたんだろう。あれがやってくるという点ではボルードの予測は当たっていたわけだ。彼は何をしているんだ」

 神官と一緒に部屋に戻るとボルードはまだ高いびきをかいて眠っていた。

「何なんですか、あの音と揺れは。『見えない敵』がやってきているのですか。危険なんですか?」

 神官は窓から暗い空を眺め、そうだ、とうなずいた。

「しかし近づいてこないのはどうしたわけだろう。君の持つ『力あるもの』を恐れているのかもしれん」

 窓際に神官と並んで立つと、昼間ボルードがあちこちに立てかけた棒が、ガラガラと音を立てて倒れているのが見えた。

「棒があるとかえって危ないということはありませんか? 僕、今からどかしてきましょうか」

「今外に出るのは危険だ。あれが去るまで待った方がいい」

 しかしちょうどそのとき、ガラガラと棒が倒れる音とともに、どこかから悲鳴が聞こえた。

「やっぱり心配です」

「君は大丈夫なのかね。『見えない敵』と戦う力はあるのか」

「いえ……そういうわけじゃないんですけど、でも……」ちらりと狼を見ると出て行くつもりのようで、すでに戸口に向かっていた。それを見てためらいかけていたラジュエルも勇気を出すことにした。「狼は行くつもりのようですから、僕も行かないと」

 マントを肩にかけ出て行こうとしたが、戸口のところでふと疑問がわいた。

「ボルードはあれは魔除けだと言っていましたが、どけてしまって大丈夫なんでしょうか」

 神官は苦笑いを浮かべて首をふった。

「あれか。あんなものは遊びのようなものだ。やりたいというからやらしてやっているだけのことで、本物の魔物には効きはしない。効いているならあんな風にはならないよ」

 本物の魔物――。

 それでは『見えない敵』とは本物の魔物なのか。もし魔物が近づいてきたら……。さすがに怖くなって狼の方を見ると、毅然と外を見つめている。これは戦う姿勢にほかならない。ぎゅっとトネリコの杖を握りしめて、ラジュエルも狼に続いて夜の町へと踏み出した。

 さっきまではどんよりと空気も重かったが、一歩出たとたんに嵐のような強風がラジュエルのマントをはためかせる。ボルードが何日かかけて立てた棒は町のあちらこちらに不規則にあって、そのいくつかは倒れている。すぐ近くの家で男がぶつぶつ言いながら家の窓を割ったその棒をどけようとしていた。

「危ない!」

 なぜ自分がそうするのかわからないうちにラジュエルはその家に向かって走り出していた。


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