第一節 外様家臣、漆崎燈真
玄冥裡辺攻め――玄冥六年十月から玄冥九年十二月末日まで続いた、澄鉄国総勢四万八千の軍勢が裡辺国へ攻め入った大戦である。
戦となったのは最初の数ヶ月。以降、裡辺国は敗走に次ぐ敗走。絶望的な遅滞戦術で民の逃げ道を確保するような、どうしようもない負け軍であった。
大筒の轟音が耳朶を震わす。腹の底を、はらわたを引っ掻き回すようにして、ぐわんぐわんと揺れている。
水はけが良く外圧に強い野面積みの石垣が砲弾の直撃を受けて、鈍く揺るぐ。幸い、砲弾の一発で石垣がガラガラ崩れることはない。そういう、外からの衝撃に強い積み方をされているのだ。あえて隙間を作ることで、衝撃を分散するのである。巧みな職人技が、ここにこもる大勢を救っていた。
しかし幼い自分は、その音に怯えていた。
砲弾が狙ったのは、足軽や侍ではない。意図的に石垣を狙ったのだ。そして、その向こうにいる人々の心を打撃した。
砲弾が持つのは、なにも、甲冑を叩き割るような殺傷力だけではない。石垣を砕く威力はたしかにないが、その向こう側にいる人と妖の脆弱な心を押しつぶし、狂わせる、そういう魔性がある。
城内では混乱がぶちまけられ、悲鳴と、怒号が飛び交っていた。
狂乱、あるいは恐慌。そういうものであろう。真っ当な判断力はすでにない。飢えと恐怖が、ほんらい賢いはずの民を、おかしくしていた。
それをなだめすかすことができるものなど、いない。
人も妖も、死の恐怖には敵わぬ。農民も職人も、侍とて。平等に、死の恐怖は押し寄せる。
隠し砦に籠城し、一年。
運び入れた兵糧は、度重なる攻撃で燃えた。
ゆうべ井戸から汲み上げた水を飲んだ者は、悶えて苦しみ、血を吐いて死んだ。敵の金堀が水路への通り路を作り、毒を流したのだろう。
非道極まる行い。しかし、これが戦である。正々堂々、武士道――そのようなものはまやかしだ。
実情は調略策、内応裏切り、搦め手、なんでもありだ。
勝てれば良し。忠義よりも実力。アホでトロい忠義者は利用され、計算高い梟雄奸雄が成り上がっていく。
澄鉄国にしてみれば、人外外道の妖と手を取り合う国など、人の天下に必要なし――害獣を駆除するのに毒を流すのは、当然至極。それくらいにしか思っていまい。
害獣駆除に手心はいらぬ。人の天下を人の手に――そういう大義名分であると聞き及んでいる。
裡辺国の人口比率は、七割が妖怪だ。この恐るべき波に、皆、死にものぐるいであったが、数も武装もまるで違っていた。
澄鉄国には鉄砲が山のようにあり、妖術を封じるための毒まで撒かれた。そうなると裡辺国には、よくて仕掛け弓くらいしかない。
端から勝負にすらならなかったのである。
食い物もなく、水の手も切られ、雨水と雪解けで凌ぐ日々。
侍たちすら、食うにあぐねていた。牛馬を殺し、骨にまでしゃぶりつき、土壁をほじくる。植えてある松の木の皮を剥いで、雑草一本すら、親兄弟が争って奪うように食っている。
とうとう人死が出れば、その骸に、虎狼のごとくむらがる。母に子が、子には親が喰らいつく。
――冥府魔道。
そうとしか言えぬ、この世の終わりの光景である。
幼い己でもわかる。もうおしまいだ。誰も助からない。
父……国守の漆崎燈路は隠し砦に籠城して一年、もう限界を感じていたのか、己にある使命をもたらした。
断ろうとしたが――できぬことである。父の下知は、すなわち、天の鶴声である。逆らうことは許されない。
それに、自分はそれを――ありがたく、おもった。
生き延びられると、あさましく、そう思った。武家にあるまじき下賤の考えであった。
普通に考えれば、己の生き死になどどうでも良いことであった。まともに動ける兵などいない。燈路すら、やせ衰えている。漆崎家の血を残すにはこれ以外に方法はないのだ。
十二やそこらの餓鬼に過ぎぬ己の意見が、はたして、爪の先ほどでも差し込める余地があっただろうか?
矢文でのやり取りの末、燈路と一族の自刃と引き換えに、民の命は助けられることが約束された。
最後の酒宴を経て、燈路は足首を縛って裾が乱れぬようにした己の妻の首を撥ね、娘の首を撥ね、一族郎党、皆自刃して果てた。
敵は嘘をつかず、民を救った。
――命だけは、救った。その後の悲惨な扱いについては、言うに及ばず。他国に売られるなり、何者かの奴婢(奴隷)になるなり、惨憺たるものであった。
今でも夢に見る。
焼け落ちる隠し砦の最後を。
裡辺国の国守の嫡子で、唯一の漆崎家の生き残りである燈真は、落城の二ヶ月前に脱出した己の宿命を呪っていた。
多くの家臣と兵を見殺しにした己に、民をも満足に救えぬ己に、とても一国を背負う資格などないと。
――嶺慈。東雲嶺慈。
あの男が裏切らねば、こうはならなかった。
それが、弱い己を守るための言い訳であることに、とっくに気づいている。
――俺に、皆を守る力があれば。
――迫る毒牙を、尽く叩き砕く力があれば。
✿
玄靂四年――裡辺攻めから十三年。
寝間着の襦袢が汗で濡れて、べったりと肌に吸い付いている。気持ちが悪い。ねっとりとした脂混じりの寝汗の感触が、悪夢を助長したのだろうか。
二十五にもなった男が、いつまでも女々しいと、己の頬を強く打った。
剛鬼子漆崎鬼左衛門燈真。かつて裡辺国の若君であった男。
いまでは隣国、火湖国の外様の侍である。俸禄四百貫、石高にすれば八百石ほど。足軽大将である。
「餓鬼か俺は……いつまでも囚われている」
吐き捨てて、立ち上がった。忌々しい。記憶や過去。己をいつまでも縛り付ける鎖。
物音に気づいた家来、鴉天狗の松尾兄弟がふすまをすっと開いて、平伏する。
「お早う御座います、殿。湯殿を支度いたし――」
「よい。冷たい井戸水を浴びたい。それより正八、湯を淹れてくれるか。水を浴びたら熱い湯を飲みたい」
「すぐに用意いたします」
「喜平、飯を適当に繕ってくれ。女子衆に着替えを持って参るよう伝えろ」
「はっ、すぐに」
燈真はいうが早いか、ろくに供もつけずに屋敷の井戸に向かった。
火湖国のとある城、その武家屋敷のあつまる曲輪に築かれているのが燈真の屋敷である。足軽ではなく、足軽大将であるから、長屋住まいはできない。望む望まぬにかかわらず、土地と屋敷は持たねばならぬのだ。
襦袢を剥ぐようにして脱いだ。褌一丁である、季節は六月の蒸し暑いさなかであった。空気もいささかぬるりとしている。汗が盛り上がった筋肉を滑り落ちた。背中にも、胸にも、腹にも、――首筋、顔にも大小の傷がある。
ことさらみぞおちの鉄砲傷と、脇腹にある、さも狼にでも噛まれたような刀傷は、すさまじい向かい傷であり、武士の勲章であった。
釣瓶からしゃっきりと冷えた水を汲み、頭から被る。右のこめかみから生えている黒い角が涼気にさらされて、身が引き締まるような、雷が走るような感覚がした。
慌てて着替えを持ってきた女子衆が手ぬぐいで燈真を拭う。
「すまん」
声をかけると、女子衆の一人、黒髪の猫又がいう。名を万里恵という。
「悪い夢ですか」
「そのようなものだ」
「椿姫様には?」
「言わんでいい。それより、漆峯山の探りはどうだ」
「それについていくつか報告すべきことが。この場では言えませぬ」
猫又は燈真の耳元でささやき、燈真も何気なく返す。
「真か。他には誰に喋った」
「我が主、椿姫様にのみ。きつく口封じされておりますゆえ、ここではお話できませぬ」
「よろしい」
忠義者である。万里恵は燈真の家来という名目だが、その主は、椿姫という女妖狐であった。
主君に尽くす彼女を責めるのはお門違いである。
肩衣に着替えた燈真は、居間に向かった。
い草の落ち着いた匂いがする。上座に座る彼の前に、正八がくつくつと煮えるほどに熱そうな湯をおいた。湯呑に触れると、燈真の分厚い皮をした手指がじんとするほどであった。
それを掴むやいなや、燈真はぐいっと呷った。熱せられた鉛のようなそれがすっと胃に落ちる。気合を入れるために冷水を浴びる男が、かたや腹を冷やすのは嫌がる。
腹が温まると、血が巡り、いくらか落ち着きと明晰な思考が帰ってきた。
腹の冷えは万病の元だ。朝から考え事の多い立場になってしまった彼には、湯という眠気覚ましは効果的である。
それから喜平が膳を持ち、燈真の前にそっと置くと、彼自身は脇に下がった。
燈真は赤米の山盛りの飯を、蓼の葉と塩でもみ込んだ塩っ辛い茄子の香の物(現代で言う漬物)で掻き込み、打豆とネギの味噌汁をぐいと飲む。
気難しい顔で飯を食べている燈真だが、別に、不機嫌な訳では無い。そういう顔なのだ。生まれつきのことである。
鬼にはこういう「渋柿をかじったような顔」の者が多い。ようするに、いかついのだ。
そして家来の者たちはそれを知っているから、別に、機嫌を取ろうとはしない。「殿様はご苦労が絶えぬお立場なのだ」とは思っているだろう。しかしそもそも機嫌が悪くない相手の機嫌取りなどできようがないので、黙って下知を待つだけである。
「椿姫はどこだ?」
食べ終えた燈真が箸を置くと、喜平がそれを下げさせるよう、女子衆に指示して問いに答えた。
「研いでいただいている御佩刀を受け取られております」
「そうか。じゃあ、じきに来るだろうな」
「ひとっとび、呼んでまいりましょうか」
「頼む」
喜平が礼をし、立ち上がるといささか素早く、足音も建てずに縁側へ向かう。そして一本歯の下駄を履くと、背中の翼を広げて飛び立つ。
まさに一足飛び、一度の跳躍で一丈と八尺(五・四メートル)飛び上がり、一度の羽ばたきで倍を飛ぶ。
「相変わらず凄いな」
燈真の何気ないつぶやきに、正八が答えた。
「喜平は身軽ですからな。それがしは飛ぶより走るほうが得意です」
「天狗とはいえ皆が皆飛ぶのが得意というわけではないのだな」
「皆違うのです。鬼もそうなのですかな?」
正八は暇に任せてそのような問いをした。
「俺の知る鬼はあまり多くはないが、そうだな、力自慢や走り自慢、目の良いやつや、鼻の効くやつなどいる」
「興味深いですな。殿、しかし……椿姫様は不思議ですな? それがしは妖狐が大太刀を使うのが不思議で仕方ないですぞ」
「それは俺もだ。とはいえ、稲尾家は代々うちに仕えている。ひょっとしたら、椿姫の前の世代にはとんでもない大物を振り回しているやつもいたかもしれん」
などと話していると、上空からばさりと羽ばたきが一度、二度。庭に喜平が着地して、すばやく下駄を脱いで上がってくると、あぐらをかいて平伏。「椿姫様、まもなく参られます」
「うん。ご苦労。少し話すことがある、喜平、正八を残してほかは下がれ。それから誰ぞ万里恵を呼ぶように」
燈真が指図を飛ばすと、女子衆――みな猫又である――がテキパキ動く。
(一国の主となるはずが、今やその隣国の外様家臣だ)
動かせる配下は、せいぜい、二十二人の家来と百三十からの足軽隊のみ。総勢百五十ほどだ。されど、これもいずれ生国を取り戻すまでの辛抱である。
ふすまが開く。
一人の袴姿の女妖狐が礼し、それからやや大きな足取りで踏み出してくる。
女にしては――しかも、この時代の――背が高い。身丈はゆうに五尺八寸(百七十四センチ)はあろう。下手したら、五尺九寸(百七十七センチ)はあるかもしれない。
この時代の和人は、人間ならば大人の男でも平均して五尺二寸から四寸(一五六センチ〜一六二センチ)ほど。なるほど椿姫は巨人といっていいだろう。
「殿、お呼びか」
椿姫は玲瓏で鋭い声音で言った。女武将にふさわしい声音だ。とはいえ、今となっては外様家臣の家臣である。陪臣というやつだ。漆崎燈真の筆頭寄騎に過ぎぬ身分である。
「万里恵から聞いているか。漆峯山のことだ」
「先んじて。万里恵には固く口止めをいたした。たぶん、そのせいで殿にもお話してないものかと。責は私が」
「よい。万里恵、仔細話してくれ」
燈真が上座より命じると、呼びつけられていた下座の万里恵が口を開く。
「踏鉄国より山賊が煽られておりまする。おそらく、踏鉄の手先、戦の先鋒――その代理でしょう。間違いなく喧嘩を売られておりまする」
「国境の山でそれか。まったく、砦の連中も堕落したと見える。なぜ止めぬ。よもやわざとではあるまいな」
燈真が愚痴ると、椿姫が咳払いし、
「だからといって無断で大喧嘩もできますまい。仮にも我らは外様ですぞ」
「稲葉様に言上するしかない。火湖の国守ともなれば、国境のいざこざに無関心とは行くまいよ」
燈真はそのように口にし、正八と喜平の二人を見た。
「屋敷は我らが」
「頼む。留守居は任せる。俺は椿姫を連れて稲葉様に言上罷り通るべく参上致す」
流れは決まった。
決して無礼な真似ではない。国の危機を察した外様家臣が、主君にそれを伝えに行くだけである。
となれば丸腰というのもおかしな話だ。現代日本の感覚で言うと、目上の人に会いに行くのに拳銃を持ち出す、というありえぬ感覚にも思えるが、往時は別だ。脇差くらいは差していくのが普通であったし、また刀は武器以外にも己の経済力と人脈を示す重要な装飾品でもあった。
そういうわけで燈真はしっかりと刀を差さねばと思い、一息に立ち上がった。
この男もやはり「巨人」である。身丈は六尺八寸(二百四センチ)。鬼は皆大柄だが、燈真はその中でも大きい方である。
これから向かう場所は正式な場であるから、素襖という少々格式張った着物を纏った。
大小の刀もしかと己自身の佩刀である。
椿姫も礼を尽くす場であるから素襖に大太刀を背負い、小太刀を腰に佩く。
屋敷から出立する二人を見送る鴉天狗の松尾兄弟は、「向かい合うとおっかねえ殿様たちだよな」「けど後ろから見る姿は頼もしいぜ」と言い合っていた。
実際、あの二人を敵に回して向き合ったら、漏らすのは小さい方だけではあるまい。
二人の「巨人」は、大殿様がいる居館に向かうのだった。




