NO.9 自分勝手な
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
イネスは深く呼吸を整えてから自室を出ると、ルシウスが待つ主寝室に向かった。
磨き抜かれた石床に、静かな足音だけが規則正しく響く。
やがて、重厚な寝所の扉の前にたどり着いた。
イネスは一度だけ目を伏せ、再び息を吸う。
そしてゆっくりと扉を開いた。
ルシウスは、部屋の奥、寝台の端に腰掛けていた。
燭台の火が壁に長く淡い影を揺らし、部屋の輪郭を曖昧に溶かしている。
外界の喧騒を切り離したこの広い寝所には、今、イネスとルシウスの二人しかいない。
豪奢な礼服はすでに脱ぎ捨てられ、纏っているのは薄い白の夜着だけだ。いつも完璧に整えられていた銀の髪が、今はわずかに額へ落ち、火影に揺れている。
その無防備な姿がかえって、彼という男の存在感を色濃く浮かび上がらせていた。
「来たか」
低く、深く響く声。
イネスは静かに一礼するが、ルシウスは黙ったまま彼女を視線で捉えて離さない。
絹の夜着は驚くほど軽く、ドレスを着ていた時よりもずっと、自分が「剥き出し」であるように感じられた。男性の前でこのような姿を晒したことなど、一度もない。
視線のやり場に困り、指先がわずかに夜着の裾を握りしめる。
「……何か」
沈黙に耐えかねて尋ねると、ルシウスの口元がわずかに緩む。
「いや」
短く答えてから、逃がす気のない、熱を帯びた眼差しをイネスの全身に滑らせた。
「昼間の君も完璧だったが、今の君も……なかなかいい」
あまりに無防備で、あまりに甘い。
この男は普段からこんな言葉を振りまいているのか。
イネスは自分の耳が少し熱くなるのを感じた。
「……そうですか」
ルシウスは面白そうに目を細めた。
自分に興味を示さなかった女が、ほんの少しだけ視線を泳がせる。その静かな動揺を、彼は逃さず愉しんでいるようだった。
「いつまでそこに立っている」
ルシウスが寝台の隣を掌で示す。
「こちらへ」
イネスは静かに歩み寄り、寝台の前で立ち止まる。
ただ隣に座るだけ。
それだけのことなのに、妙に意識してしまう。
その迷いを見透かしたように、ルシウスが手を差し伸べた。
イネスは少しだけ間を置いてから、その手を取る。
指先を包む手は、思っていたよりも優しかった。
ルシウスはイネスの手をゆっくり引き寄せる。
促されるまま、イネスは彼の隣に腰を下ろした。
柔らかな寝台が、思っていたより深く沈む。
その分だけ、ルシウスとの距離が近づいた。
「今日は、よくやっていた」
隣から降ってきた声に、イネスは微かに肩を震わせた。
「……ありがとうございます」
「誰の目にも、我々は完璧な夫婦に見えただろう。契約の影など、微塵も感じさせないほどにな」
イネスは、指先に残る指輪の感触を確かめるように拳を握った。
人前では完璧な夫婦として振る舞う――それが二人の交わした契約の一つだ。今日の祝宴はその最初の試練であり、見事にそれを果たした。
けれど、隣にいるこの男の振る舞いは、あまりに自然すぎた。
「殿下こそ、完璧でいらっしゃいました」
「私が?」
「はい。本当に……私を大切に思ってくださっているように見えました」
無意識に零れた言葉だった。
ルシウスは楽しそうに片眉を上げる。
「そう見えたか」
「ええ」
「まあ君のことを好ましく思っているのは間違いない」
さらりと言ってのける彼の横顔を、イネスはじっと見つめた。
本当にこの男は。
好きになるなと言うくせに、口説くようなセリフばかり出てくる。
「冗談がお上手ですね」
ルシウスは、喉の奥で低く笑った。
「褒め言葉として受け取っておこう」
そう言って、彼の指先がイネスの髪へ伸びる。
肩にかかった黒髪をそっと指で梳くと、閉ざされていた香油の香りが、ふわりと二人の間に立ち上がった。
「香りが変わったな。……花の香りか」
「侍女たちが、その……」
語尾がわずかに震える。
侍女たちが勝手にやったとはいえ、こうしてルシウスに気づかれると、まるで自分から何かを望んでいるようで、妙に気恥ずかしかった。
ルシウスの指先が髪から離れ、そのまま、イネスの顎を滑るように捉えた。
「こっちをむけ」
顎に添えられた手がゆっくりと持ち上がる。
至近距離で、深い紺碧の瞳が自分を射抜いている。
礼拝堂で見上げた時よりも、今、この夜の闇の中で見る瞳の方が、ずっと鋭く、目が逸らせない。
言葉が、途絶える。
次の瞬間、吐息が重なり、沈黙を破るように唇が触れた。
最初は、羽が触れるような静かな口づけだった。
触れては離れ、また触れる。礼拝堂のそれよりも密やかで、互いの温度を確かめるような丁寧なキス。
イネスは身を硬くして、肺の空気を吐き出すことさえ忘れていた。拒む理由はない。けれど、差し出された熱にどう応えればいいのか、その術を知らなかった。
そんなイネスの戸惑いさえも愉しむように、ルシウスの大きな掌がイネスの背へと回る。
逃がさぬよう、けれど壊さぬよう、確かな力で引き寄せられた。
二度目の口づけは、深く、濃密だった。
イネスの指先が、膝の上で所在なげに彷徨う。
口づけの合間に、酸素を求めて息を吸う。
ルシウスはそのたびに唇をわずかに緩める。
そして息を継がせるたびに、またいっそう深く重ねてくる。
強引ではないのに、確実に呼吸を奪われていくようだった。
知らぬ間に肩に力が入り、胸の奥が苦しい。
「……随分と、不慣れだな」
耳元で囁かれた低音に、イネスは微かに眉を寄せた。
「……当然です。初めてなのですから」
「そうだったな」
ルシウスは悪びれもせず、むしろ満足そうに目を細める。その平然とした態度が、初心な自分を突きつけられているようで、イネスの胸に小さな火を灯した。
「……ですが、問題ありません。続けてください」
「問題ない、か」
ルシウスがその言葉を繰り返す。
次の瞬間、視界が鮮やかに反転した。
柔らかな寝台に背中が沈み、ほどかれた黒髪が白いシーツの上に乱れて広がる。
見上げれば、覆いかぶさるようにしてルシウスがいた。銀の髪の輪郭が燭台の火に縁取られ、昼間よりもずっと鋭利で、圧倒的な気配がする。
「では、続けよう」
面白がるように彼は言った。
イネスは一瞬だけ喉を鳴らしたが、視線だけは逸らさない。
「……はい」
答えた刹那、三度目のキスが降ってくる。
今までのどれよりも深く、熱く、甘い。彼の指が黒髪の間をゆっくりと掻き分け、頭を固定するように、けれど愛しむように包み込む。
唇の熱、首筋に触れる指先、衣越しに伝わる体温。
今まで体験したことのない状況に、必死に慣れようとする。
ルシウスの手が、髪から首筋、そして肩へと滑り落ちる。
夜着の薄い絹越しであっても、その指先がどこを辿っているのか、灼けるようにはっきりと分かった。
ルシウスの指が、夜着の合わせ目に触れる。
薄い布地が微かな音を立ててずれ、その下の肌に彼の指が直接触れた。
「っ……」
声にならぬ吐息が漏れ、イネスの身体が強張った。
逃げもしない。拒みもしない。けれど、反射に近い反応を隠すことはできなかった。
ルシウスの手が、ぴたりと止まる。
重苦しい沈黙が、二人の間に落ちた。
イネスが恐る恐る目を開けると、すぐ上でルシウスが自分を見下ろしていた。
触れた肌の上に、行き場を失った熱だけが残る。
ルシウスの紺の瞳には、まだ色濃く情熱が揺らめいていた。続けることは容易い。だが、彼はその一線で、静かに踏みとどまった。
「……今日は、やめておこう」
低く、押し殺したような声。
その言葉にイネスは安堵ではなく、不意に突き放されたような悔しさを覚えた。
「……私は、問題ありません」
強がった声は、思った以上に硬く響く。
ルシウスはわずかに目を細め、見定めるように彼女を見下ろした。
「そんな顔をした女を抱くほど、私は飢えていない」
意地悪な言葉とともに、指先が肌から離れる。
「義務感だけでされても、つまらないからな」
核心を突かれ、イネスは唇を噛んだ。
この契約結婚を決めた時から、彼を受け入れる覚悟はあった。
あったつもりだった。
「……不慣れな、だけです」
負け惜しみのように零れた小声に、ルシウスの大きな掌が伸びた。
顎を掬い上げ、逸れかけた視線を強引に固定される。
「強がっているように見えるな」
図星だった。否定したいのに、言葉が喉に張り付いて出てこない。
ルシウスはその沈黙を答えとして受け取ったように、わずかに口元を緩めた。だが、それ以上彼女の心を暴くことはせず、静かに指を離した。
「今日はもう寝よう」
抗う隙を与えぬまま、彼ははだけたイネスの寝衣を淡々と整え、寝台の片側へ身を横たえた。燭台の火が落とされ部屋が暗闇に溶ける。
納得のいかないまま、イネスもまた、背を向けるようにして身体を横たえた。
広い寝台のはずなのに、彼の存在が先程までの熱を忘れさせてくれない。
静寂が二人を包み、聞こえるのは自分の高鳴る鼓動と、背後で繰り返される静かな呼吸の音だけ。
ふいに、布が擦れる音がした。
ルシウスが身を寄せた気配に、イネスの背中が反射的に強張る。
だが、彼の手が身体を求めることはなかった。
代わりに、耳の少し上、ほどけた髪越しに、羽が触れるような口づけが落ちた。
「おやすみ、イネス」
その優しさに、不服さと、それを上回る気恥ずかしさが混じり合い、イネスは返事を飲み込む。
再び訪れた沈黙。
肌に残る指先の熱と、暗闇に溶けた彼の低い声。
それらが複雑に絡み合い、イネスは逃げるように目を閉じた。




