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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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9/11

NO.8 月下香

 翌朝、イネスはいつもより静かな部屋で目を覚ました。

 重い緞帳の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。


 何も変わらない朝のはずだった。

 一週間前までは当たり前だった、ひとりで迎える朝。


 ただ、そう思うには部屋が少しだけ広く感じられた。

 イネスはしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと身を起こす。

 すぐに控えめなノックが響いた。


「奥様、失礼いたします」


「ええ」


 返事をすると、侍女たちが静かに入ってくる。

 朝の支度は、もう決まった流れになりつつあった。

 湯を含ませた布。軽い香油。日中用のドレス。髪を結うための櫛。


 婚礼から一週間。

 王宮での暮らしに慣れたとは言えない。けれど、何をされるのか分からず戸惑うことは少なくなっていた。


「殿下は、早朝より執務に入られております」


 侍女が髪を整えながら、そう告げる。


「そう」


 イネスは短く答えた。

 夫婦だからといって、毎朝顔を合わせなければならないわけではない。

 なにも不自然なことはなかった。


 侍女の手が、黒髪をゆるやかにまとめていく。

 鏡の中のイネスは、いつも通りだった。

 少なくとも、そう見えた。


***


 朝食を終えてしばらくすると、マルグリット夫人が訪れた。

 イネスの教育係として初めて会った時と同じように、背筋の伸びた女性だった。落ち着いた色のドレスに身を包み、派手な飾りはない。けれど、その場に立つだけで部屋の空気が少し引き締まる。


「妃殿下」


 マルグリット夫人は丁寧に一礼する。


「本日は、第二皇子殿下より婚礼祝いが届いております」


 第二皇子。

 イネスはその名に、ほんの少しだけ意識を向けた。

 ルシウスの弟。


 まだ直接会ったことはない。

 婚礼の日にも姿は見ていない。

 けれど王宮にいる以上、その名を知らないままではいられなかった。


「第二皇子殿下から」


「はい」


 マルグリット夫人は、女官から受け取った細長い箱を、イネスの前へ差し出した。

 白い絹布に包まれた箱だった。大きくはない。けれど、銀の留め具には繊細な細工が施され、蓋には白い花の意匠が刻まれている。


 イネスはそれを両手で受け取った。

 指先に、箱の冷たい硬さが伝わる。


「開けても?」


「もちろんでございます」


 イネスは静かに留め具を外し、蓋を開けた。

 中に納められていたのは、ガラスの装飾が施された小瓶だった。


 丸みを帯びた形に、銀細工の蓋。光を受けると、透明な装飾がかすかにきらめく。

 蓋を開ける前から、ほのかに甘い香りが漂っていた。


「香油ですか」


「はい」


 イネスは小瓶を取り上げ、蓋を緩める。

 その瞬間、香りがふわりと立ち上がった。


 甘い。

 花の香りでありながら、濃密で妖艶な夜の香り。


「月下香でございます」


 マルグリット夫人が告げる。


「別名、チュベローズとも呼ばれる花です。夜になるほど香りを強め、肌に吸い付くように長く残る。古くより、情欲を煽る花として、あるいは秘密の恋文に添えられる香りとして重宝されてきました」


「……月下香」


 イネスは小さく繰り返した。

 マルグリット夫人は表情をほとんど変えない。


「新婚の第一皇子妃へ贈るには、受け取り方によっては挑発的にも映ります」


 その言葉で、イネスはようやくこの贈り物の輪郭を理解した。


 美しく、魅惑的な、挑発。

 第二皇子が第一皇子妃へ贈るには、少しだけ踏み込んだ物。


 イネスは小瓶の蓋を閉めた。

 甘い香りは完全には消えず、部屋の中へ溶けていく。


「お返しは、慎重にお選びくださいませ」


 マグリット夫人の声は、静かな警告の色を帯びる。


「香りに香りを返せば、親しみに親しみで応じたように見えます。装身具を返せば、身につけるものを贈り合ったことになります」


 イネスは月下香の小瓶を見つめた。

 ルシウス以外の男性から受け取った香りの意味。


「では、使うものではなく、食品の様なものがいいでしょうか」


 マルグリット夫人の目元が、わずかに和らいだ。


「ええ。紅茶などがよろしいかと。香り繋がりではありますが、客人に出すにも、自分で嗜むにも最適ですし、私的な親しみにはなりにくいので」


 同じ香りでも、意味合いをずらす。

 返礼を決めるにも、品物に込められた意味まで考えなくてはならない。

 王宮のやり取りは、地方の社交よりずっと繊細で、少し煩わしい。

 けれど、第一皇子妃として避けては通れないのである。


「では、東方産の紅茶を」


「ご用意いたします」


 マルグリット夫人は静かに頷いた。


「礼状には、親しげな言葉を避け、公の場で改めてご挨拶する旨を添えましょう」


「分かりました」


 イネスはもう一度、小瓶へ視線を落とした。

 第二皇子。

 まだ会ったことのない相手だ。声も、顔も、表情も知らない。


 先に届いた贈り物は、甘い花の香りと、わずかな含みをまとっていた。


***


 その日の執務を終え、イネスは自室へ戻った。

 部屋には侍女もおらず、イネスひとり。

 机の上には、持ち帰った月下香の小瓶がある。


 夕暮れの光の中で、ガラスの装飾が淡くきらめいていた。銀細工の蓋も、箱の内側に刻まれた白い花の意匠も美しい。


 香りそのものは好きだった。

 甘く、深く、簡単には忘れられない。

 それに、第二皇子からの正式な婚礼祝いでもある。

 どれほど含みがあろうと、雑に扱うわけにはいかなかった。


 イネスが小瓶をそっと指先で回していると、扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、ルシウスだった。

 イネスは少しだけ意外に思う。


 彼がこの部屋を訪ねてくること自体は珍しくない。

 けれど昨日の夜から今朝にかけて、二人はほとんど言葉を交わしていなかった。

 だからだろうか。

 扉の前に立つ彼の姿が、ほんの少しだけ不意に見えた。


「殿下」


「邪魔をしたか」


「いいえ。執務は終えております」


 イネスが立ち上がろうとすると、ルシウスは軽く手で制した。


「そのままでいい」


 そう言って部屋へ入ってくる。

 彼も日中の執務を終えた後らしい、落ち着いた装いだった。

 銀の髪も、紺の瞳も、薄暮の光の中でかえって目を引く。

 ルシウスの視線が、イネスから机の上へ移った。

 そして、小瓶の上で止まる。


「これは」


「第二皇子殿下からの婚礼祝いです」


 答えた瞬間、ルシウスの目がわずかに細められた。


「月下香か」


「ご存じなのですね」


「知らない男のほうが少ない」


 低く返され、イネスは小瓶へ視線を落とした。

 マルグリット夫人の言葉を思い出す。

 ルシウスも、それを知っているということだろうか。


「使うのか?」


 問いは短かった。

 イネスは一度、小瓶を見下ろす。


「香りは美しくてすきですが、外で使う予定はありません」


「外では、か」


 ルシウスの声が、ほんの少し低くなる。


「眠る前に部屋で香らせる程度なら、悪くないかと」


 そう答えると、ルシウスは黙った。

 怒っているわけではない。

 けれど、機嫌がよいわけでもなさそうだった。

 しばらくして、彼は静かに言った。


「使うなら、私と二人の時にしろ」


 予想していなかった言葉に、イネスは一瞬だけ言葉を失う。


 公の場で身につけるのは、たしかに避けたほうがいい。

 第二皇子から贈られた香りをまとって人前に出れば、余計な意味を持たせてしまう。


 けれど、私的な部屋で、ひとり香らせる程度なら問題はないはずだった。

 それなのに、なぜそこまで気にするのだろう。


「……わかりました」


 疑問は残ったまま、イネスは静かに答えた。


 ルシウスはそれ以上、香油については何も言わなかった。

 ただ、机の上の小瓶を見ている。


 その視線は、月下香そのものではなく、その向こうにいる誰かへ向けられているように見えた。

 イネスは少し迷ってから、口を開く。


「第二皇子殿下は、どのような方なのですか」


 ルシウスはすぐには答えなかった。

 短い沈黙が落ちる。

 やがて、彼は低く言った。


「人のものが好きな男だ」


 その言葉の意味を、イネスはすぐには測れなかった。


「どういうことでしょう」


「気をつけろという意味だ」


 答えはそれだけだった。

 それ以上、ルシウスは説明しない。


 イネスはもう一度、小瓶を見た。


 美しく、甘く、挑発的な贈り物。

 第二皇子は、何を思ってこれを選んだのだろう。


 純粋な祝意。

 親しみの表明。

 あるいは、ルシウスへの当てつけ。


 そのどれにも見える。

 けれど、最も自然なのは最後だった。


 第一皇子の妻へ、夜の香りを贈る。

 その意味を、第二皇子が知らないはずがない。


 ならばこれは、イネスへ向けられた好意というより、ルシウスに向けられた一手なのだろう。


 そう考えると、なおさら扱いを誤るわけにはいかなかった。


 会話が途切れると、部屋には夕刻の静けさが戻った。

 イネスは月下香の小瓶を手に取る。

 ガラスの装飾が、指先の中でかすかに光った。


 そして小瓶を柔らかな布に包み、元の箱へ戻した。

 銀の留め具を静かに閉じる。

 それから机の引き出しを開け、箱をそっとしまった。

 ルシウスはその動きを黙って見つめていた。

 引き出しを閉めたところで、不意に声が落ちる。


「今日は一緒に寝よう」


 イネスの手が、ほんの少しだけ止まる。

 本当に、気まぐれな人だ。

 そう思ったが、口には出さない。


「……かしこまりました」


 イネスがそう答えると、彼は踵を返し部屋を出た。

 扉が閉まる。

 イネスは少しの間、その扉を見ていた。


 それから、閉じた引き出しへ一度だけ視線を落とす。

 月下香の香りは、もうほとんどしない。

 けれど部屋のどこかに、まだ甘さの名残が薄く漂っているような気がした。


***


 夕食と夜の身支度を整え、寝室へ向かう頃には、邸宅は深い静寂に包まれていた。


 燭台の火だけが回廊を淡く照らしている。

 昼間の王宮とは違い、夜の屋敷は音が少ない。衣擦れや小さな足音までもが、妙にはっきりと耳に届く。


 夫婦の寝室の前で、イネスは一度だけ呼吸を整えた。

 昨夜別々に寝たのも、今日この寝室に呼んだのも全て気まぐれだ。特に理由なんてない。


 扉を開けると、すでにルシウスが待っていた。

 夜着に着替え、銀の髪をわずかに乱した彼は、窓際で外の闇を眺めている。イネスの入室に気づくと、彼は音もなく視線を向けた。


「お待たせいたしました」


「ああ」


 短い返事。だが、その声はいつもより低く感じた。


 イネスが寝台へ歩みを寄めようとした瞬間、彼の腕が伸び、彼女の黒髪を一房すくい上げた。

 突然のことに、イネスは足を止める。


 ルシウスは、その髪に触れるか触れないかの距離まで顔を寄せ、彼女の身に纏う香りを吸い込んだ。


「いつもどおりか」


「……他のものは、使っていませんので」


「そうか」


 短いやり取り。けれどルシウスの声は低く思いままだった。

 イネスは、ほんの少しだけ眉を寄せる。


 一体この男は何に苛立っているのか。

 昨夜、別の女と過ごし、別の寝室で夜を明かした。

 そのくせ今日は、イネスをこの寝室に呼びつけて第二皇子からの贈り物を気にしている。


 自分に執着するなと言うくせに、彼の行動は全く意味が分からなかった。

 本当に、勝手な人だ。

 そう思う。


 思うのに。触れられた髪のあたりから、意識がじわりと熱を持つ。

 それが少し癪だった。


 ルシウスが誰と過ごそうと別に構わない。

 ただ、一週間前にあれだけけしかけておいて。

 今まで何もしてこなかったくせに。


 こうしてまた彼の気まぐれで距離を詰められる。

 そのたびに、何も感じないふりをしている自分のほうが乱されていく。

 それが、どうにも面白くなかった。


「……どうかされましたか」


 そう尋ねた声は、自分で思ったよりも静かだった。

 ルシウスは答えない。

 代わりに、彼の指先がイネスの頬へ触れた。

 顎へ滑り、ほんの少し上を向かされる。

 紺の瞳が、すぐ近くにあった。


「……殿下?」


 問いかけた瞬間、唇が重なる。

 触れるだけの淡いキスではない。最初から、拒絶を許さないほどの深さと熱を持ったキス。


「っ……」


 イネスの細い指先が、彼の胸元を頼りなげに掴む。そのわずかな隙を突いて、ルシウスの舌先がさらに深く、彼女の中に侵略する。

 強引ではない。けれど、今夜の彼は遠慮をするつもりがないようだった。


 呼吸を繋ぐためのわずかな合間に、イネスは酸素を求めて喉を鳴らす。ルシウスはそのたびに唇をわずかに緩め、彼女が喘ぐ隙を与えてから、より深く、逃げ場を塞ぐように重ねてきた。


 湯上がりの香油の匂い。

 ルシウスの肌から漂う、男らしい体温。

 月下香の香りなどどこにもないはずなのに、この口づけのきっかけが、あの香りにあったことをイネスは直感していた。


 ルシウスの唇が一度離れる。

 その隙にイネスは乱れた息を整えようとした。

 けれど、彼は待ってくれない。


 頬、首筋、鎖骨。

 短い口づけが、熱を残しながら落ちていく。


「……嫌なら、そう言え」


 掠れた低い声。

 嫌ではない。けれど、あまりに自分勝手で、好き放題な彼を素直に受け入れるのはほんの少しだけ癪だった。


「……別に。嫌ではありません」


 強がった声は、溜息に混じって震える。

 ルシウスの動きが止まる。彼は一瞬だけ、鋭く熱をはらんだ目で彼女を見下ろした。


「そうか」


 腰に回された腕に力が入り、イネスの身体は隙間なく彼に密着させられた。そのままゆっくりと、柔らかな寝台へといざなわれる。

 背中に布の感触が広がると同時に、彼の手が夜着の裾へと伸びた。


 視線、呼吸、触れる指先。

 すべてが肌を焦がすほどに近く、イネスは意識が遠のくような感覚に陥る。


 けれど、彼はそこでまた、意地悪なほど急に動きを止めた。

 紺碧の瞳が、熱に浮かされるイネスの姿を愉しげに観察している。


「……今日は、ここまでにしておく」


「……っ、私は、いつでも大丈夫だと……」


 反射的に口走った言葉は、自ら夜を誘うような響きを帯びていた。

 ルシウスは喉の奥で、艶やかに笑った。


「知っているよ。だが、急いで終わらせるのは惜しい」


 彼は、赤く染まったイネスの頬を指先で愛撫し、囁く。


「君は、焦らしたほうがいい声で鳴きそうだ」


「……悪趣味、です」


 悔しさと、それ以上の気恥ずかしさが混ざり合い、イネスは視線を逸らした。

 ルシウスは満足そうに彼女を解放し、乱れた髪を慈しむように整える。その手つきは驚くほど優しく、先ほどまでの荒々しいキスとの落差に、イネスの心臓はさらに大きく跳ねた。


「灯りを落とすぞ」


「……はい」


 燭台の火が消え、視界が闇に閉ざされる。

 隣にいるルシウスの気配は、昨夜感じなかったぶん、より一層強く感じられた。


 閉じた引き出しの中に封じられた月下香。

 その香りはもう届かない。けれど、ルシウスの唇が残した熱と、彼の言葉が、月下香よりも深く、イネスの心を掻き乱した。

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