NO.8 この後がある
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
式のあと、二人は一度控えの間へ戻された。
イネスはヴェールを外され、乱れかけた髪とドレスの裾を整えられる。
礼拝堂での誓いの後には、大勢の貴族たちが待つ披露宴へと移る。
イネスはふと、自分の左手を見た。
薬指に、指輪がある。
喜びというよりは、もう外せない印のように見えた。
支度が整うと、ルシウスとともに披露宴会場に向かった。
入場の扉の前に立つと、礼拝堂の静けさとは違う、人の笑い声、甘い酒の匂い。祝宴の浮かれた音楽が聞こえてくる。
ルシウスがちらりとイネスを見る。
「疲れていないか」
「問題ありません」
「それはよかった」
小さく笑うと、ルシウスは前を向き直った。
扉が開かれると、広間中の視線が一斉に二人へ注がれた。
高い天井から吊るされた燭台の光。磨かれた銀器。色鮮やかな花々。杯を手に談笑していた貴族たちが、まるで合図を受けたようにこちらを向く。
一拍遅れて、ざわめきが広がった。
そしてすぐに、祝福の拍手が巻き起こる。
純白の礼服を纏った第一皇子。
その隣に立つ、同じく白のドレスを纏った新しい妻。
二人は、どう見ても完璧だった。
美しく、気品があり、王家の婚礼にふさわしい姿をしていた。
契約で結ばれたとは誰も思わない、見惚れるほど美しい新郎新婦。
「おめでとうございます、殿下」
「奥様も、どうか末永く」
「まあ……なんてお美しい」
祝福の声が、拍手の中から次々に重なっていく。
ルシウスは自然に歩を進めた。
イネスはその腕に自分の腕を絡め静かについて行く。
広間の奥、上座には皇帝が座していた。
ルシウスがまっすぐにそちらに向かい、一礼する。
イネスもそれに合わせ、深く膝を折った。
皇帝は椅子に腰掛けたまま、二人を見ていた。
顔色は決して良いとは言えない。だが、こちらを見下ろす目だけはまだ鋭い。
「よい式だった」
低く、短い声だった。
「ありがたきお言葉にございます」
ルシウスが淀みなく答える。
その視線が、イネスへ向く。
「ベルフォールの娘」
「はい」
「今日からは第一皇子妃だ。ルシウスを支え励め」
父親としての温かさよりも、王としての確認に近い言葉だった。
イネスはもう一度、深く頭を下げる。
「誠心誠意、務めてまいります」
皇帝はわずかに目を細めた。
最後にルシウスを見て、短く告げる。
「よい妃を迎えたな」
「ありがとうございます、父上」
ルシウスは微笑んだ。
その笑みがどこまで本心なのか、イネスには分からない。
皇帝への挨拶を終えると、あとは流れるように進んでいった。
王族の親族。王家に仕える貴族。格式ある家の夫人たち。
ルシウスはその一人一人に、イネスを紹介していく。
「妻のイネスです」
その言葉を聞くたび、周囲の目が少しだけ柔らかくなる。
イネスも、そのたびに膝を折る。
「イネス・アルヴェインにございます。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
アルヴェイン。
自分の口でその名を名乗るたび、少しずつ現実味が増していく。
返ってくる言葉はどれも華やかで、祝福に満ちていた。
だが、そこに驚きや好奇心が混じっていることくらい、イネスにも分かる。
探る視線さえ、祝宴の光の中では美しい飾りのように見えた。
ルシウスは終始、完璧な夫だった。
それを見ている令嬢たちの視線には、羨望が混じっている。
やがて、ベルフォール家の者たちの姿も見えた。
ギスランはどこか緊張した顔をしていたが、その奥に満足の色があることは隠しきれていない。王家の祝宴に招かれ、第一皇子妃となった娘の父として立つ。彼にとって、それは大きすぎるほどの栄誉なのだろう。
ルシウスが、イネスを伴って足を止める。
「ベルフォール伯」
名を呼ばれ、ギスランはすぐに深く頭を下げた。
「殿下。このたびは、身に余るお話を賜り……」
「今日からは義父上と呼ぶべきかな」
ルシウスが穏やかに言うと、ギスランが一瞬だけ言葉に詰まった。
「いえ、そのような……恐れ多いことでございます」
「では、いずれ慣れてもらうことにしよう」
柔らかな笑みだった。
冗談のようにも聞こえるのに、どこか気さくで場を和ませるような言い方。
イネスは隣でそれを見ていた。
この人は、こういうことまで自然にできるのね。
本当に愛する人の父と挨拶を交わすような、そんな態度。
「イネスをよろしくお願いいたします」
ギスランが改めて頭を下げる。
「もちろん。大切にする」
ルシウスは迷わずそう答えた。
ギスランは嬉しそうに頷いている。
その隣で、リオネルがこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼はぱっと顔を明るくする。
「姉上」
「とても綺麗です」
小さく控えめで、まっすぐな言葉。
祝宴の華やかな賛辞より、その一言のほうが胸に届いた気がした。
イネスはほんの少しだけ、表情をやわらげる。
「ありがとう、リオネル」
リオネルは嬉しそうに笑った。
ギスランが軽く咳払いをしたので、彼は慌てて姿勢を正す。
それを見て、イネスは少しだけ目元を和らげた。
ルシウスは何も言わなかった。
ただ、そんなイネスの横顔を見ていた。
***
やがて、人の輪がゆるむ。
ルシウスはその隙を逃さず、そっとイネスの手を取った。
「そろそろ失礼しよう」
「……もう、ですか?」
思わずそう返すと、ルシウスは周囲には聞こえないほどの声で笑った。
「私たちには、この後があるからな」
耳元に落とされた声に、イネスは一瞬だけ返事を忘れた。
そうだった。
婚姻を申し込まれた夜、ルシウスに言われた言葉を思い出す。
イネスは何も返せず、ほんのわずかに視線を伏せた。
その反応を見て、ルシウスの口元がわずかに緩む。
けれど彼は、それ以上何も言わなかった。
すぐに周囲へ向け、穏やかに微笑む。
「皆、今日はありがとう。名残惜しいが、妻も疲れてしまう。私たちはこのあたりで失礼する」
丁寧で、自然な言い方。
けれど、祝宴に集まった者たちはその先を自然に察したらしい。
あちこちで、微笑ましげなざわめきが起きる。
「おめでとうございます、殿下」
「奥様も、どうぞごゆっくり」
「末永くお幸せに」
祝福の声が、先ほどより少しやわらかい熱を帯びる。
イネスはその意味を理解して、また少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
それでも表情は崩さず、静かに一礼する。
「皆様、本日はありがとうございました」
拍手と祝福の声に見送られながら、二人は宴会場を後にした。
扉が閉まると、今まで鳴り響いていた音楽や、人々のざわめきが遠ざかり、回廊に静けさが戻る。
式も、祝宴も、無事に終わった。
けれど、花嫁の夜はまだ終わらない。
――私たちには、この後があるからな。
先ほど耳元に落とされたルシウスの低い声が、まだ熱を帯びて残っていた。
その言葉が何を指しているのか、分からないほど幼くはない。
隣を歩くルシウスは、いつも通り落ち着いている。
この先に待つことも、彼にとっては特別なことではないのだろう。
慣れている。
そう思うと、自分だけが妙に意識しているようで、少しだけ面白くなかった。
控えの間の前で、ルシウスが足を止める。
「では、後ほど」
短く、淡々とした声。
けれどその響きは、先ほどの囁きよりもはっきりと、この先に待つ時間を示していた。
「……はい」
答える声が、いつもよりわずかに硬くなる。
ルシウスはそれ以上何も言わず、従者を連れて別の部屋へ向かっていった。
その背中を見送ってから、イネスもまた、侍女たちの待つ部屋へと足を踏み入れた。
***
「奥様、本日はお疲れさまでございました」
扉が閉まると同時に、侍女たちが静かに動き始めた。
イネスを飾っていた花嫁の装いが、ひとつずつ外されていく。
耳元の真珠。
鎖骨を飾る首飾り。
そして、重みのあるティアラ。
固く結い上げられていた黒髪がほどかれ、うなじから肩へとこぼれ落ちる。
頭は軽くなったはずなのに、胸の奥に残ったルシウスの声は、少しも薄れてくれない。
何重にも重なったドレスの背に手がかけられ、締め付けられていたコルセットが解かれる。
肺に深く空気が入り、ようやくひと息つけた。
「お湯の用意が整っております」
案内された浴室には、花の香りが満ちていた。
肌を包む熱い湯。
やわらかな布。
聞こえるのは、自分の静かな呼吸と、侍女たちが香油を扱うかすかな音だけだった。
「今夜は、特別な夜でございますから」
侍女の何気ない言葉に、イネスは鏡の中の自分を見る。
彼女たちにとって今日は、婚姻した夫婦が初めて迎える夜なのだ。
喜ばしいに決まっている。
怖いわけではない。
ただ、ここまで丁寧に準備されると、少々気恥ずかしい。
湯あみを終えると、肌には薄く香油が馴染まされていた。
甘さを抑えた、凛とした花の香り。
強すぎないのに、一度気づけば忘れられない。
差し出された夜着は、昼間のドレスとは比べものにならないほど軽く、無防備だった。
柔らかな白。
指先に吸いつくような薄い絹。
袖を通した瞬間、肌の上を滑る感触がやけにはっきり分かった。
「……とても、お美しゅうございます」
侍女たちは満足げに微笑み、襟元を整え、流れる黒髪のひと房を胸元へ落とした。
その手つきは丁寧で、イネスを大切に送り出そうとしているのが伝わってくる。
「それでは……どうぞ、良き夜を」
深く一礼し、侍女たちが退室していく。
カチリ、と扉が閉まる音がした。
その瞬間、部屋に静けさが戻る。
イネスは鏡の前に立ち、そこに映る自分を見つめた。
ほどかれた黒髪と、薄い夜着の下に淡く透ける肌の輪郭。
そして、左手の薬指に残る指輪だけ。
「……ここまで、来たのね」
髪から漂う香油の香りを感じながら、イネスはもう一度だけ深く呼吸を整えた。




