NO.7 平気なふりをした夜
※この作品はNO.1の裏話として書いています。
婚礼から、一週間が過ぎていた。
その間、イネスは第一皇子妃としての振る舞いを、ひとつずつ身につけていった。
朝の挨拶。
王宮内での立ち位置。
高位貴族への応対。
そして、夫婦として人前に立つ時の距離。
どれもベルフォール家で学んできた作法と大きく違うわけではない。
けれど、第一皇子妃という肩書きが加わるだけで、求められる重さはまるで違う。
それでもイネスは、少しずつ慣れていった。
慣れるしかなかった、と言うべきかもしれない。
そして今夜は、婚姻後、初めて第一皇子妃として出席する夜会だった。
***
王宮の大広間は、今宵いっそう華やいでいた。
幾重にも吊るされたシャンデリアが金の光を降らせ、磨き抜かれた大理石の床に、踊る人々の影をやわらかく映し出している。
楽団が奏でる優雅な旋律に合わせ、色とりどりの衣装がゆるやかに揺れる。
香水と花の匂いが溶け合い、杯の触れ合う音や、抑えた笑い声が広間のあちこちに散っていた。
その華やぎの中へ、ふいに新たなざわめきが広がる。
「第一皇子殿下だわ」
「妃殿下もご一緒ね」
声を潜めた囁きが、扇の陰でいくつも重なった。
ルシウス・アルヴェインが広間へ姿を現しただけで、空気は目に見えて変わった。
燭火を受けて淡く光る銀髪。
夜をそのまま閉じ込めたように深い紺の瞳。
礼装越しにも分かる、無駄のないしなやかな体躯。
もともと人目を引く男ではあった。
けれど婚姻後初めての夜会とあって、その存在感はいっそう際立って見える。
その隣を歩くイネスもまた、視線を集めずにはいられなかった。
つややかな黒髪は、夜の水面のように滑らかに肩へ流れている。
翡翠の瞳は、広間の灯りを映しているのに静かだった。
濃紺のドレスは華美すぎず、けれど質の良さは一目で分かる。
白い肌との対比が、彼女の端正な顔立ちをいっそう際立たせていた。
目を逸らしがたい静かな気品。
王宮の夜会に集う貴婦人や令嬢たちの中に立っても、イネスは少しも見劣りしなかった。
「……本当に、ベルフォール伯爵家のご令嬢なのね」
「ええ。でも、あの家、近ごろかなり苦しいのでしょう?」
「それなのに、第一皇子妃だなんて」
「殿下が一目惚れなさったのだとか」
「まあ。でもあの方、ずいぶん女性関係が華やかな方ではなくて?」
祝福の笑みの裏に、好奇心と値踏みが透けている。
イネスには、それが聞こえていたが、何ひとつ反応を見せなかった。
落ち目の伯爵家の娘が、なぜ第一皇子の隣に立つのか。
その疑問を含んだ視線には、もう何度も晒されている。
イネスはひときわ背筋を伸ばし、ルシウスの隣を歩いた。
その姿勢は美しく、陰で囁く者たちの言葉のほうが、かえって品を失って見えるほどだった。
ルシウスは周囲のざわめきすら楽しむように、口元をわずかに緩める。
そして当然のように、イネスへ手を差し出した。
白い手袋に包まれた長い指先。
イネスは一瞬のためらいもなく、その手に自分の手を重ねた。
その仕草だけで、広間の空気がまた少し揺れる。
二人が並ぶと、不思議なほど絵になった。
銀と黒。
夜の色を宿した男と、深い森の静けさを抱いた女。
あまりに整いすぎたその光景に、嫉妬すらしばし言葉を失う。
「注目の的だな」
ダンスの輪へ向かう途中、ルシウスが低く囁いた。
その声音は、周囲の耳には届かない。
イネスは前を向いたまま、静かに答える。
「私たちが結婚してから、初めての夜会ですから」
浮つきも熱もない返答だった。
それでもルシウスは気を悪くした様子もなく、むしろ面白がるように目を細める。
「ずいぶん落ち着いている」
「落ち着いて見えるのであれば、何よりです」
ルシウスが小さく笑った。
「君は、本当に可愛げのない返しをする」
「恐れ入ります」
「褒めていない」
涼しい顔で返すイネスに、ルシウスは短く息を漏らした。
そのやり取りさえ、外から見れば睦まじい囁き合いに見えるのだろう。
近くにいた貴婦人たちが、扇の陰で目を細めているのが分かった。
広間の中央で、音楽がひときわ優雅に流れ出す。
ルシウスがイネスの腰へ手を添え、彼女をダンスへと誘った。
指先ひとつ。
視線の運び方ひとつ。
すべてが洗練されていて、嫌でも周囲の目を奪う。
イネスもまた、彼の導きに一歩も遅れず応じた。
スカートの裾がふわりと広がり、黒髪が灯りを受けてやわらかく揺れる。
人前で夫婦として踊る。
それは今夜の役目の一つだった。
ルシウスはその役目を完璧にこなしている。
腰に添えられた手の力加減も、距離も、すべてが自然だった。
きっと、誰が見ても思うだろう。
第一皇子は、この妃を大切にしているのだと。
実際、周囲の囁きは少しずつ色を変えていく。
「まあ……」
「本当にお似合いだこと」
「殿下、あんな目をなさるのね」
感嘆と羨望。
それに、少しの悔しさ。
イネスはそれらを聞き流しながら、ルシウスの動きに合わせて足を運ぶ。
腰に添えられた手の温度も、耳元へ落ちる声も、あの夜と少し似ていた。
イネスは一瞬だけ、あの夜の寝室を思い出す。
薄い寝衣。
燭台の揺れる影。
肌に触れた指先。
けれど、すぐにその記憶を胸の奥へ沈めた。
ルシウスの指先がわずかに力を込め、次の回転へ彼女を導く。
イネスは何事もなかったように、その動きへ応じた。
曲が終わると、広間のあちこちから控えめな拍手が起こった。
ルシウスはイネスの手を取ったまま、優雅に一礼する。
横顔は涼やかで、息ひとつ乱れていない。
イネスもまた、ドレスの裾をわずかに摘み、完璧な角度で膝を折った。
二人が踊りを終えただけで、また新たなざわめきが生まれる。
「なんて美しいの」
「殿下、本当にあの方に夢中なのではなくて?」
「ベルフォール嬢……いえ、妃殿下、思っていたよりずっと堂々としていらっしゃるわ」
その言葉の中に混じる羨望も、疑念も、イネスにはもう聞き慣れた雑音のようなものだった。
ルシウスは差し出されたグラスを受け取り、自然な手つきでイネスにも一杯を手渡した。
「……さすが、お上手ですね」
翡翠の瞳を伏せ、イネスが小さく言う。
ルシウスはグラスを傾ける手を止めず、口元だけで笑った。
「何のことだ」
「皆さま、すっかり信じております。殿下が私を深く愛していらっしゃると」
その声に棘はない。
ただ事実を述べるだけの、乾いた声音だった。
ルシウスは一瞬だけイネスを見る。
翡翠の瞳は驚くほど静かで、そこには照れも気後れも浮かんでいない。
美しい女は数多く見てきた。
けれど、これほど己に夢を見ない女は、やはり珍しかった。
「そう見せるのが、今夜の役目だろう」
「ええ。滞りなく果たせたようで何よりです」
つまらないほど真面目な返答に、ルシウスはわずかに眉を上げた。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
そのまま二人はしばらく、夜会の輪の中で完璧な夫婦として振る舞った。
声を掛けられれば並んで応じ、祝辞を受ければ睦まじく微笑み、求められればまた一曲踊る。
最初に「落ち目の伯爵家の娘」と軽んじていた者ほど、次第に口をつぐんでいく。
ベルフォール伯爵家は、確かに苦しい。
けれど、その娘は少しも惨めではない。
そう思わせるだけの強さが、イネスにはあった。
挨拶と舞踏をひと通り終えた頃だった。
ルシウスは、口をつけただけのグラスを近くの侍従へと預け、喧騒の渦から逃れるように回廊へと足を向けた。その後ろを、イネスが静かな衣擦れをさせて追う。
大理石の柱が並ぶ回廊は、大広間の熱気が嘘のように冷ややかだった。
遠くから届く音楽は、まるで水底から響くように輪郭がぼやけている。
窓の外、月明かりに照らされた庭園では、夜の闇に濡れた木々が妖しくその枝を伸ばしていた。
ルシウスは足を止めず、前を見据えたまま低い声で告げた。
「私はもう少し、夜を楽しんでいく。君は好きにしろ」
イネスはその言葉の裏にある「夜」の気配を、当然のように受け止めた。
「承知いたしました」
淀みのない返事。
どこへ行くのか、誰と会うのか。そんな無粋な問いは、彼女の翡翠の瞳のどこにも浮かんでいない。
愛を求めず、束縛もせず、互いの私的な領分には爪先ひとつ踏み込まない。
それこそが彼が望んだ「契約」であり、都合のいい女であるはずだった。
それなのに。
一点の曇りもなく自分を解放するその無関心さが、ルシウスの胸の奥を、ざらりと逆撫でする。
夜会の灯火を吸い込んだ彼女の瞳は、どこまでも静かだった。
あの夜、シーツの上で指先を震わせ、吐息を漏らしながら、惑うように揺れていた瞳とは――あまりに、違う。
「……本当に、君は淡々としているな」
こらえきれず漏れた言葉に、イネスは足を止め、優雅に小首を傾げた。
「そうでしょうか。殿下がお望みになった『完璧な妃』を演じているつもりですが」
さらりと返され、ルシウスは自嘲気味に口角を上げた。
「……そうだったな」
「今夜もいい夢を。イネス」
ルシウスは彼女の耳元に顔を寄せ、密やかに囁いた。
けれどイネスは、至近距離から放たれる彼の体温に眉ひとつ動かさず、静かに頭を下げた。
「殿下も」
その一言を残し、彼女は背を向けた。
去りゆく黒髪から、あの夜に嗅いだ花の香りが微かに漂い、ルシウスの鼻腔を掠めて消えた。
***
王宮の奥にある小広間は、濃密な沈黙に支配されていた。
壁際の燭台が落とす淡い火影は、厚い絨毯に吸い込まれ、妖しげな空気が漂っている。
「……ご結婚されたばかりなのに、よろしいのですか?」
ソファに腰掛けたクラリス夫人が、湿った瞳でルシウスを見上げた。
若く美しい未亡人は、夜会のドレスから覗く白い肩を心細げに震わせ、彼を誘っている。
自分がまだ、彼の特別な「夜」を彩る存在であるのかを確かめるように。
ルシウスは彼女の隣に深く腰を下ろし、肘掛けにもたれたまま、喉の奥で低く笑った。
「そういう窮屈な鎖は、私には似合わない。……彼女も、そのあたりは心得ている」
クラリスの頬に、安堵の熱がさっと広がった。
彼女が自分に何を期待しているのか、ルシウスは手に取るように分かる。
憧れ、熱情、そして自分だけが選ばれたという甘美な錯覚。
女たちが自分の前で、理性という衣を一枚ずつ脱ぎ捨てていく様は、いつだって愉快だ。
強引に奪う必要はない。指先ひとつ、言葉ひとつで、彼女たちは自分から熱の海へと沈んでいく。
「そんな顔をするな」
囁きながら、ルシウスはクラリスの頬に指を滑らせた。
吸いつくような肌の感触。彼女は小さく喘ぎ、潤んだ瞳を閉じて、運命を委ねるように顎を上げた。
ルシウスは身を屈め、彼女の薄い唇を食むように口づけた。
吐息が混じり合い、彼女の指先がルシウスの腕に縋り付いてくる。
溶けるような、甘い悦び。
だが、その熱の真っ只中で、なぜか別の光景が脳裏に浮かんだ。
白い肌。ほどかれた黒髪。
寝衣の隙間に触れた指先に、反射的にびくりと強張った、あの初々しい反応。
「……不慣れなだけです」と、悔しさに唇を震わせて見上げた、あの翡翠の瞳。
面倒だな……
目の前の女に没頭できない自分を、ルシウスは心の中で嘲笑った。
クラリスの頬に触れていた指先を肩へ、そして胸元へと滑らせる。
彼女はその刺激に耐えかねたように、甘い声を漏らした。
扱いやすく、満たしやすい。これこそが、ルシウスが好んできた「何も残らない」夜のはずだった。
しかし今夜は、別の女の残像がしつこく纏わりついて離れない。
髪越しに落とした、あの無意味な口づけ。
『おやすみ、イネス』
自分の声までもが、呪文のように脳内で繰り返される。
クラリスは彼の沈黙を、情欲の溜め込みだと勘違いしたらしい。
頬を紅潮させ、ルシウスの胸元にそっと手を差し入れてきた。
ルシウスはその手を取り、指の一本一本に、慈しむような深い口づけを落とす。
「殿下……」
クラリスの瞳が完全に蕩ける。
それを見守りながら、ルシウスは完璧な微笑を浮かべた。
望むだけの夢を見せ、最高の夜を与えてやる。
いつも通り、何事もなかったかのように。
けれど、胸の奥に沈んだわずかな違和感――あの翡翠の瞳の揺らめきは、最後まで消えることはなかった。
***
邸宅へ戻った頃には、夜の帳は重く、深く降りていた。
王宮から下賜されたこの邸宅は、完璧な夫婦の器として用意されたものだ。広大な玄関ホールも、どこまでも続く廊下も、深夜になれば人の気配を絶ち、冷ややかな静寂だけを湛えている。
ルシウスは、夜の残り香を纏った外套を侍従に預け、ふと視線を上げた。
闇に沈んだ邸内で、一箇所だけ淡い灯火が漏れている部屋がある。
イネスが帳簿や書簡を整理する際に使う、小さな書斎だった。
待っている、と呼ぶにはあまりに静か。
ルシウスは無意識に足音を殺し、その扉を軽く叩いた。
「どうぞ」
迷いのない、凛とした声。
室内には、机上の燭台が頼りなげな光を落としていた。
その下で、イネスは何枚かの書類を前に、静かに背を伸ばしている。夜会の凛とした美しさは、ほどかれた黒髪とともに柔らかく解け、今は簡素な室内着が彼女の線の細さを際立たせていた。
翡翠の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「お帰りなさいませ、殿下」
その声には、喜びも、安堵も、そして深夜の帰宅を咎めるような湿り気も、一切含まれていなかった。ただの事実として、彼の帰還を認めただけの声。
ルシウスは扉の傍らに佇んだまま、その平坦な顔を凝視した。
「起きていたのか」
「ベルフォール家から届いた書類を。少し、片付けておきたかったので」
机上には、整然と並べられた手紙と帳簿。
夜更けまで数字や実務に埋没しているところが、いかにも彼女らしい。
イネスは書類から手を離し、すっと立ち上がった。
それから事務的な口調のまま、静かに尋ねる。
「本日は……どちらでお休みになりますか?」
この邸宅には、夫婦としての体面を整えるための主寝室がひとつある。
だが、それとは別に、それぞれの寝室も用意されていた。
どちらを使うかは、ほとんどルシウスが決めている。
だから、イネスがそれを尋ねること自体はおかしくない。
おかしくないはずだった。
けれど、あまりに淡々とした問い方に、ルシウスは少しだけ妙な気分になった。
帰宅の遅さも、外套に染み付いた密事の残り香も。
この女には、何ひとつ意味を持たないらしい。
「……君は、何も気にならないのか」
気づけば、渇いた声が漏れていた。
イネスは首を傾げることすらしなかった。ただまっすぐにルシウスを見つめ、静かに答える。
「殿下の私生活には、踏み込まない。それが私たちの契約でしたので」
その声は穏やかだった。
冷たいわけではない。ただ、彼女は誠実に「約束」を守っているだけなのだ。
最初に線を引いたのは、自分の方だった。人前では完璧に、私生活では他人のように。
「そうだな。……その通りだ」
ルシウスは短く返す。
期待通りの答え。それ以外を返す女ではないと知っていたはずなのに、その静けさが気に障る。
「……今日は自室に戻る」
ルシウスは息を吐き、短く告げると、イネスは「承知しました」とだけ言って、視線を書類へと戻した。
ルシウスはその美しい横顔を一瞬だけ、見つめる。
誰もが羨む妃。人前では隙なく寄り添い、求められるままに微笑む女。
なのに、自分が夜を誰と過ごそうと、彼女の鼓動ひとつ速まることはない。
理想的で、都合のいい妻。
そう思う。思うのに――あの夜、寝台の上でわずかに瞳を潤ませ、強張った指先で自分を拒もうとしなかった、あの「女」としての彼女が、どうしようもなく脳裏を侵食していた。
ルシウスは何も言わず、部屋を去った。
扉が閉まる。廊下の静寂は、先ほどよりも一層ひどく、冷たく感じられた。
***
ルシウスの足音が遠ざかり、部屋には再び静寂が戻った。
イネスはしばらくの間、閉じられた扉をじっと見つめていた。
それから、深い溜息とともに背もたれに肩を預ける。
婚姻から一週間。
あの夜、彼が「やめておこう」と告げて以来、二人は形ばかりの夜を共に過ごしてきた。
同じ寝台に横たわり、指先ひとつ触れず、朝になれば完璧な仮面を被って社交の場へ向かう。
ルシウスが誰と夜を過ごそうと、そこに思うことはなかった。
最初から聞いていたことだ。
そういう男だと知ったうえで、この婚姻を受け入れた。
別に、自分から何かを望んでいるわけではない。
けれど。
先に「夜を共にするのは当然だ」と、逃げ場を塞ぐような言葉を投げたのはルシウスだった。
覚悟を決めさせたのも、初夜の熱の中で自分を置き去りにしたのも、彼だ。
問う理由はない。
咎める理由もない。
だが、胸の奥に沈んだこの釈然としない熱は何なのか。
一緒にいたかったわけではない。何かを期待したわけでもない。
イネスは机上の書類に手を伸ばしたが、文字が上滑りして頭に入ってこなかった。
燭台の火が、ふいになびく。
イネスは開きかけていた書簡を、音も立てずに閉じる。
もう、何かを続ける気にはなれなかった。
ただ、夜着の襟元に残る冷たい空気が、やけに肌寒く感じられた。




