NO.7 誓いの言葉
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
結婚式の朝、イネスはまだ薄暗い静けさの中で目を覚ました。
目を開けた瞬間、今日が何の日か理解する。
ついにこの日が来た。
王都へ呼ばれ、結婚を告げられ、気づけば三日。
あまりにも早くて、まだ実感は薄い。
寝台の上で身を起こしたところへ、控えめなノックが響く。
「奥様、よろしいでしょうか」
「ええ」
返事をすると、侍女たちが静かに入ってくる。
皆、嬉しそうで、少し浮ついた表情を隠しきれていない。
「おはようございます、奥様」
「本日はいよいよでございますね」
「おはよう、そうね」
イネスがそう返すと、すぐに支度が始まった。
寝間着の上から薄い衣を羽織らされ、湯気の立つ別室へ通される。磨かれた銀盆に用意された湯、白い布、ほのかな香りの香油。
結婚式当日とあって、どれも気合いが入っている。
……すごい。
思わず、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。
侍女たちの手によって髪が結い上げられ、化粧が施される。
イネスはされるがままに身を任せた。
やがて、白い箱が運び込まれた。
蓋が開いた瞬間、部屋の空気が変わる。
そこにあったのは、この日のために仕立てられた純白のドレス。
雪のように冴えた白。幾重にも重なる布地はやわらかな光を含み、胸元から裾へ落ちる線はひどく優雅だ。刺繍も真珠も控えめだが、目を見張る美しさがある。
侍女たちの手を借り、ドレスを身に纏う。
結い上げられた黒髪にヴェールが重ねられ、最後に耳元と首元へ控えめな真珠が添えられる。鏡の前へ立たされた瞬間、若い侍女が思わず声を漏らした。
「まあ……」
「本当に、お綺麗です」
「殿下もきっとお喜びになりますわ」
祝福の声が重なるほど、気恥ずかしくなる。
イネスは鏡の中の自分を見つめた。
そこにいるのは、見慣れた自分ではない。
本当に、結婚するのね。
喜びや不安がある訳では無い。
ただ、静かに現実が実感となって訪れてくるだけだった。
***
その頃、ルシウスもまた別室で支度をしていた。
真っ白な礼服は銀の髪によく馴染み、立っているだけで“第一皇子”という肩書きが様になる。
ジャケットを羽織ると、側近が一歩引いて全体を確かめる。
「よくお似合いです、殿下」
「これなら誰も疑いようがありません」
ルシウスは鏡越しに目を細めた。
「当たり前だ」
言い切ってから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……それで?」
「花嫁のほうは」
「滞りなく。奥様の支度も整いつつあると」
「そうか」
短く返したくせに、胸の奥は妙に落ち着かない。
あの女が、どんな姿で現れるのか。どんな顔で、礼拝堂へ歩いてくるのか。
側近が小さく笑う。
「……楽しみでいらっしゃいますか?」
「悪いか」
「いいえ。むしろ、よろしいかと」
一度だけ息を吐き、視線を鏡から外す。
「行くぞ」
ルシウスは、返事を待たず歩き出した。
***
「お時間でございます、奥様」
花嫁支度が終わると侍女に促され、イネスは部屋を出た。
礼拝堂へ続く回廊は静かだった。
磨かれた床に、ドレスの裾がかすかな音を立てる。
礼拝堂の扉の前には、父ギスランが待っていた。
正装に身を包んだ父は、いつもより厳めしく見える。
「お父様」
声をかけると、ギスランはゆっくりとこちらを向いた。
その目が、イネスの姿を捉える。
純白のドレスに見を包んだ娘の姿。
ギスランは一瞬だけ、言葉を失ったように見えた。
婚姻が決まってから、わずか三日。
その速さには、父でさえ驚いていたのだろう。
けれどこうして花嫁姿のイネスを前にして、ようやく実感が追いついたようだった。
「……本当に、結婚するのだな」
「はい」
イネスは静かに答えた。
ギスランはもう一度、イネスを見る。
父親が娘の花嫁姿に見入る、というには少し違う。けれど、いつものように仕事の出来を確かめる目とも、どこか違うような気がした。
「お前が第一皇子妃になるとは」
感慨のようでいて、まだ半分は信じられないような声だった。
「私にも、まだ少し実感がありません」
そう返すと、ギスランはわずかに目を伏せた。
そして、すぐにいつもの顔へ戻る。
「……ベルフォールの名を、傷つけるな」
相変わらず感情の乗らない言葉だった。
けれど、いつもよりほんの少しだけ。声が柔らかいような気がした。
「心得ております」
イネスは静かに答えた。
ギスランが腕を差し出す。
「参ろう」
「はい」
イネスは、その腕にそっと手を添えた。
一度だけ息を吸い、ヴェール越しの視界をまっすぐ前へ向ける。
扉が開いた。
礼拝堂の空気が、ふっと変わる。
それまで遠くに聞こえていた音楽が、急にはっきり耳に届いた。大勢の人が息を潜めている気配も分かる。
まっすぐに伸びる通路の先、祭壇の前にはルシウスが立っていた。
ヴェール越しでも、その姿だけははっきりと見える。
純白の礼服に、淡く光る銀の髪。
深い紺の瞳。
イネスは、父の腕に手を添えたまま一歩を踏み出す。
ドレスの裾が床を擦り、小さな音を立てる。
左右から視線が集まるのが分かった。
だがイネスはそちらに視線を向けることはない。
ただ、祭壇の前にいるルシウスだけを見つめ、背筋を伸ばし歩いた。
***
扉が開いた瞬間、ルシウスの心がほんの僅かに揺れた。
契約のための結婚だ。互いの利害が一致しただけの、形式だけの婚姻。
そのはずなのに。
純白のドレスに、艶やかな黒髪。
ドレスの隙間からのぞく白い肌も、ヴェールの下で控えめに伏せられた睫毛も、妙に目を引く。
やがて、イネスが顔を上げた。
ヴェールの向こうに隠れた翡翠の瞳が、まっすぐにルシウスを見る。
その視線が交わった瞬間、ルシウスは息をするのを忘れた。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほど短い間。
二人は祭壇の前までくると、足を止めた。
イネスが父の腕に添えていた手をほどき、差し出されたギスランの手のひらに重ねる。
ギスランはその手を、ゆっくりとルシウスの前へ導く。
白い手袋に包まれたイネスの手が、父から花婿へと渡される。
ベルフォール家から、アルヴェイン王家へ。
細い指先が、ルシウスの手に触れる。
ルシウスはイネスの手を取ったまま、祭壇へ向き直った。
ギスランが席へ戻っていく。
神官が静かに頷き、式が進み始める。
礼拝堂に、古くから伝わる婚礼の言葉が響いた。
その言葉は、白い石の壁にやわらかく反響し、二人の上へ静かに降りてくる。
イネスはそれを聞きながら、奇妙なほど冷静だった。
まるで、本当に愛し合う二人のための儀式みたいだ。
ここには契約の香りなど、少しもない。
ただただ、不思議だった。
やがて神官は、ルシウスへ向き直る。
「ルシウス・アルヴェイン」
名を呼ばれ、ルシウスが静かに顔を上げた。
「汝はここに立つイネス・ベルフォールを妻とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、生涯その手を取り続けることを誓いますか」
礼拝堂が、しんと静まり返る。
ルシウスははっきりと、低く、よく通る声で答える。
「誓います」
たった一言だけなのに、その声は礼拝堂の奥まで静かに届いた。
次に、神官の視線がイネスへ向けられる。
「イネス・ベルフォール」
自分の名が、礼拝堂に響く。
「汝はここに立つルシウス・アルヴェインを夫とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、生涯その隣に立ち続けることを誓いますか」
愛し、敬い。
その言葉だけが引っかかる。
神の前で口にするには、あまりにまっすぐすぎる言葉。
それでもイネスははっきりと答えた。
「誓います」
神官が頷き、祭壇の脇に控えていた少年が、銀の小箱を捧げ持って進み出る。
箱の中には、二つの指輪が並んでいた。
細やかな細工の施された指輪は、光を受けて静かに輝いている。
ルシウスがイネスの手を取る。
その指先は驚くほど優しかった。
丁寧に、左手の薬指へ指輪を通していく。
ほんの短い所作なのに、妙に長く感じた。
次は、イネスの番だった。
ルシウスの手を取り、白い礼服の袖口から覗く指へ、同じように指輪をはめる。
神官が最後の祝福の言葉を告げる。
その直後、礼拝堂が静まり返った。
誓いの口づけ。
ルシウスが一歩近づき、彼の指先が、ヴェールの縁に触れた。
ふわりと薄い膜が持ち上がる。
遮られていた視界がひらけた瞬間、紺の瞳がまっすぐにこちらを見た。
新婦を愛しそうに見つめる目。
そう見えるだけなのか。
どこまでが本当なのか。
やっぱり、分からない。
ルシウスの手が、そっとイネスの肩に添えられた。
その瞬間、イネスの身体がほんの少しだけ強張る。
誰にも気づかれない程度の、小さな反応だった。
けれど、ルシウスは見逃さない。
紺の瞳が、わずかに細められる。
ただその強張りを受け止めるように。
そして、彼は静かに顔を寄せた。
唇が触れる。
驚くほど優しい口づけだった。
イネスは一瞬だけ呼吸を忘れる。
やがて唇が離れると、礼拝堂に小さなざわめきが広がった。
抑えきれなかった祝福の吐息のような音だった。
イネスはその音の中で、静かに思う。
これで、本当に終わった。
いや、始まったのだ。
神官の声が、二人を正式な夫婦として認める。
礼拝堂の空気が、ゆっくりとほどけていった。
張りつめていたものが緩み、あちこちから小さな祝福の声が重なる。
ルシウスは一歩引くと、イネスへ腕を差し出した。
イネスは迷わず、その腕に手をかける。
二人はゆっくりと出口にむかって足を進めた。
ヴェールの端が、歩みに合わせてかすかに揺れる。
その背中に、祝福の拍手が降り注いだ。
拍手の音に混じって、祝福の声が聞こえた。
誰もが笑っていた。
誰もが二人を祝福しているように見えた。
今この瞬間、イネスとルシウスは、誰の目にも美しい新郎新婦として映っているはずだった。
礼拝堂の重い扉が音を立てて閉じた瞬間、拍手と祝福の声が一段遠のく。
ルシウスが小さく息を吐いた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……なかなかよかったな」
契約のための儀礼を終えた感想にしては、少し楽しそうだった。
「それは、なによりです」
イネスも同じ温度で返したつもりだった。
けれど、思ったより少しだけ柔らかな声音だった。
礼拝堂の儀式は無事に終わった。
これで、イネスは正式に第一皇子の妻となった。
だが、花嫁として迎える夜は、まだ始まったばかりだった。




