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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.6 花嫁の夜

 ――私たちには、この後があるからな。


 披露宴会場の華やかなざわめきの中、耳元に落とされたルシウスの低い声が、まだ熱を帯びて残っていた。

 その言葉が何を指しているのか、分からないほど幼くはない。

 祝宴の熱が遠ざかるにつれて、イネスは静かに、けれど確かな重みをもって「今夜」を実感し始めていた。


 隣を歩くルシウスは、いつも通り落ち着いている。

 この先に待つことも、彼にとっては特別なことではないのだろう。


 慣れている。

 そう思うと、自分だけが妙に意識しているようで、少しだけ面白くなかった。


 控えの間の前で、彼が足を止める。


「では、後ほど」


 短く、淡々とした声。

 けれどその響きは、先ほどの囁きよりもはっきりと、この先に待つ時間を示していた。


「……はい」


 答える声が、いつもよりわずかに硬くなる。

 ルシウスはそれ以上何も言わず、従者を連れて別の部屋へ向かっていった。その背中を見送ってから、イネスもまた、侍女たちの待つ部屋へと足を踏み入れた。


***


「奥様、本日はお疲れさまでございました」


 扉が閉まると同時に、侍女たちが静かに動き始めた。


 イネスを飾っていた花嫁の装いが、ひとつずつ外されていく。

 耳元の真珠。

 鎖骨を飾る首飾り。

 そして、重みのあるティアラ。


 固く結い上げられていた黒髪がほどかれ、うなじから肩へとこぼれ落ちる。

 頭は軽くなったはずなのに、胸の奥に残ったルシウスの声は、少しも薄れてくれない。


 何重にも重なったドレスの背に手がかけられ、締め付けられていたコルセットが解かれる。

 肺に深く空気が入り、ようやくひと息つけた。


「お湯の用意が整っております」


 案内された浴室には、花の香りが満ちていた。

 肌を包む熱い湯。

 やわらかな布。


 聞こえるのは、自分の静かな呼吸と、侍女たちが香油を扱うかすかな音だけだった。


「今夜は、特別な夜でございますから」


 侍女の何気ない言葉に、イネスは鏡の中の自分を見る。

 彼女たちにとって今日は、婚姻した夫婦が初めて迎える夜なのだ。喜ばしいに決まっている。


 怖いわけではない。

 ただ、ここまで丁寧に準備されると少々気恥ずかしい。


 湯あみを終えると、肌には薄く香油が馴染まされていた。

 甘さを抑えた、凛とした花の香り。

 強すぎないのに、一度気づけば忘れられない。


 差し出された夜着は、昼間のドレスとは比べものにならないほど軽く、無防備だった。

 柔らかな白。

 指先に吸いつくような薄い絹。

 袖を通した瞬間、肌の上を滑る感触がやけにはっきり分かった。


「……とても、お美しゅうございます」


 侍女たちは満足げに微笑み、襟元を整え、流れる黒髪のひと房を胸元へ落とした。

 その手つきは丁寧で、イネスを大切に送り出そうとしているのが伝わってくる。


「それでは……どうぞ、良き夜を」


 深く一礼し、侍女たちが退室していく。

 カチリ、と扉が閉まる音がした。


 その瞬間、部屋に静けさが戻る。

 イネスは鏡の前に立ち、そこに映る自分を見つめた。

 ほどかれた黒髪と、薄い夜着の下に淡く透ける肌の輪郭。

 そして、左手の薬指に残る指輪だけ。


「……ここまで、来たのね」


 髪から漂う香油の香りを感じながら、イネスはもう一度だけ深く呼吸を整えた。


***


 磨き抜かれた石床に、静かな足音だけが規則正しく響く。

 やがて、重厚な寝所の扉の前にたどり着いた。


 イネスは一度だけ目を伏せ、息を吸う。

 そしてゆっくりと扉を開いた。


 ルシウスは、部屋の奥、寝台の端に腰掛けていた。

 燭台の火が壁に長く淡い影を揺らし、部屋の輪郭を曖昧に溶かしている。

 外界の喧騒を切り離したこの広い寝所には、今、イネスとルシウスの二人しかいない。


 豪奢な礼服はすでに脱ぎ捨てられ、纏っているのは薄い白の夜着だけだ。いつも完璧に整えられていた銀の髪が、今はわずかに額へ落ち、火影に揺れている。

 その無防備な姿がかえって、彼という男の存在感を色濃く浮かび上がらせていた。


「来たか」


 低く、深く響く声。

 イネスは静かに一礼するが、ルシウスは黙ったまま彼女を視線で捉えて離さない。


 絹の夜着は驚くほど軽く、ドレスを着ていた時よりもずっと、自分が「剥き出し」であるように感じられた。男性の前でこのような姿を晒したことなど、一度もない。

 視線のやり場に困り、指先がわずかに夜着の裾を握りしめる。


「……何か」


 沈黙に耐えかねて尋ねると、ルシウスの口元がわずかに緩む。


「いや」


 短く答えてから、彼は獲物を見るような、けれど熱を帯びた眼差しをイネスの全身に滑らせる。


「昼間の君も完璧だったが、今の君も……なかなかいい」


 あまりに無防備で、あまりに甘い。

 この男は普段からこんな言葉を振りまいているのか。

 イネスは自分の耳が少し熱くなるのを感じた。


「……そうですか」


 ルシウスは面白そうに目を細めた。

 自分に興味を示さなかった女が、ほんの少しだけ視線を泳がせる。その静かな動揺を、彼は逃さず愉しんでいるようだった。


「いつまでそこに立っている」


 ルシウスが寝台の隣を掌で示す。


「こちらへ」


 イネスは静かに歩み寄り、寝台の前で立ち止まる。

 ただ隣に座るだけ。

 それだけのことなのに、妙に意識してしまう。


 その迷いを見透かしたように、ルシウスが手を差し伸べた。

 イネスは少しだけ間を置いてから、その手を取る。

 指先を包む手は、思っていたよりも優しかった。


 ルシウスはイネスの手をゆっくり引き寄せる。

 促されるまま、イネスは彼の隣に腰を下ろした。


 柔らかな寝台が、思っていたより深く沈む。

 その分だけ、ルシウスとの距離が近づいた。


「今日は、よくやっていた」


 隣から降ってきた声に、イネスは微かに肩を震わせた。


「……ありがとうございます」


「誰の目にも、我々は完璧な夫婦に見えただろう。契約の影など、微塵も感じさせないほどにな」


 イネスは、指先に残る指輪の感触を確かめるように拳を握った。

 人前では完璧な夫婦として振る舞う――それが二人の交わした契約の一つだ。今日の祝宴はその最初の試練であり、見事にそれを果たした。

 けれど、隣にいるこの男の振る舞いは、あまりに自然すぎた。


「殿下こそ、完璧でいらっしゃいました」


「私が?」


「はい。本当に……私を大切に思ってくださっているように見えました」


 無意識に零れた言葉だった。

 ルシウスは楽しそうに片眉を上げる。


「そう見えたか」


「ええ」


「まあ君のことを好ましく思っているのは間違いない」


 さらりと言ってのける彼の横顔を、イネスはじっと見つめた。

 本当にこの男は。

 好きになるなと言うくせに、口説くようなセリフばかり出てくる。


「冗談がお上手ですね」


 ルシウスは、喉の奥で低く笑った。


「褒め言葉として受け取っておこう」


 そう言って、彼の指先がイネスの髪へ伸びる。

 肩にかかった黒髪をそっと指で梳くと、閉ざされていた香油の香りが、ふわりと二人の間に立ち上がった。


「香りが変わったな。……花の香りか」


「侍女たちが、その……」


 語尾がわずかに震える。

 侍女たちが勝手にやったとはいえ、こうしてルシウスに気づかれると、まるで自分から何かを望んでいるようで、妙に気恥ずかしかった。

 ルシウスの指先が髪から離れ、そのまま、イネスの顎を滑るように捉えた。


「こっちをむけ」


 顎に添えられた手がゆっくりと持ち上がる。

 至近距離で、深い紺碧の瞳が自分を射抜いている。

 礼拝堂で見上げた時よりも、今、この夜の闇の中で見る瞳の方が、ずっと鋭く、雄弁だった。


 言葉が、途絶える。

 次の瞬間、吐息が重なり、重厚な沈黙を破るように唇が触れた。


 最初は、羽が触れるような静かな口づけだった。

 触れては離れ、また触れる。礼拝堂のそれよりも密やかで、互いの温度を確かめるような慎重なキス。


 イネスは身を硬くして、肺の空気を吐き出すことさえ忘れていた。拒む理由はない。れど、差し出された熱にどう応えればいいのか、その術を知らなかった。


 そんなイネスの戸惑いさえも愉しむように、ルシウスの大きな掌がイネスの背へと回る。

 逃がさぬよう、けれど壊さぬよう、確かな力で引き寄せられた。


 二度目の口づけは、深く、濃密だった。

 イネスの指先が、膝の上で所在なげに彷徨う。


 口づけの合間に、酸素を求めて息を吸う。

 ルシウスはそのたびに唇をわずかに緩める。

 そして息を継がせるたびに、またいっそう深く重ねてくる。


 強引ではないのに、確実に呼吸を奪われていくようだった。

 知らぬ間に肩に力が入り、胸の奥が苦しい。


「……随分と、不慣れだな」


 耳元で囁かれた低音に、イネスは微かに眉を寄せた。


「……当然です。初めてなのですから」


「そうだったな」


 ルシウスは悪びれもせず、むしろ満足そうに目を細める。その平然とした態度が、初心な自分を突きつけられているようで、イネスの胸に小さな火を灯した。


「……ですが、問題ありません。続けてください」


「問題ない、か」


 ルシウスがその言葉を繰り返す。

 次の瞬間、視界が鮮やかに反転した。


 柔らかな寝台に背中が沈み、ほどかれた黒髪が白いシーツの上に乱れて広がる。

 見上げれば、覆いかぶさるようにしてルシウスがいた。銀の髪の輪郭が燭台の火に縁取られ、昼間よりもずっと鋭利で、圧倒的な男の気配を放っている。


「では、続けよう」


 抗いようのない宣告。イネスは一瞬だけ喉を鳴らしたが、視線だけは逸らさなかった。


「……はい」


 答えた刹那、三度目のキスが降ってくる。

 今までのどれよりも深く、熱く、甘い。彼の指が黒髪の間をゆっくりと掻き分け、頭を固定するように、けれど愛しむように包み込む。


 唇の熱、首筋に触れる指先、衣越しに伝わる硬い体温。

 押し寄せる情報量に眩暈を覚えながら、イネスは必死にこの「未知」に耐えようとした。


 ルシウスの手が、髪から首筋、そして肩へと滑り落ちる。

 夜着の薄い絹越しであっても、その指先がどこを辿っているのか、灼けるようにはっきりと分かった。


 ルシウスの指が、夜着の合わせ目に触れる。

 薄い布地が微かな音を立ててずれ、その下の柔らかな肌に、彼の指が直接触れた。


「っ……」


 声にならぬ吐息が漏れ、イネスの身体が強張った。

 逃げもしない。拒みもしない。けれど、反射に近い反応を隠すことはできなかった。


 ルシウスの手が、ぴたりと止まる。

 重苦しい沈黙が、二人の間に落ちた。

 イネスが恐る恐る目を開けると、すぐ上でルシウスが自分を見下ろしていた。


 触れた肌の上に、行き場を失った熱だけが残る。

 ルシウスの紺の瞳には、まだ色濃く情熱が揺らめいていた。続けることは容易い。だが、彼はその一線で、静かに踏みとどまった。


「……今日は、やめておこう」


 低く、押し殺したような声。

 その言葉にイネスは安堵ではなく、不意に突き放されたような悔しさを覚えた。


「……私は、問題ありません」


 強がった声は、思った以上に硬く響く。

 ルシウスはわずかに目を細め、獲物を見定めるように彼女を見下ろした。


「そんな顔をした女を抱くほど、私は飢えていない」


 意地悪な言葉とともに、指先が肌から離れる。


「義務感だけでされても、つまらないからな」


 核心を突かれ、イネスは唇を噛んだ。

 この契約結婚を決めた時から、彼を受け入れる覚悟はあった。

 あったつもりだった。


「……不慣れな、だけです」


 負け惜しみのように零れた小声に、ルシウスの大きな掌が伸びた。

 顎を掬い上げ、逸れかけた視線を強引に固定される。


「強がっているように見えるな」


 図星だった。否定したいのに、言葉が喉に張り付いて出てこない。

 ルシウスはその沈黙を答えとして受け取ったように、わずかに口元を緩めた。だが、それ以上彼女の心を暴くことはせず、静かに指を離した。


「今日はもう寝よう」


 抗う隙を与えぬまま、彼ははだけたイネスの寝衣を淡々と整え、寝台の片側へ身を横たえた。燭台の火が落とされ、部屋は親密で重い闇に沈む。


 納得のいかないまま、イネスもまた、背を向けるようにして身体を横たえた。

 広い寝台のはずなのに、背後にいる男の圧倒的な存在感が、肌を刺すように近い。


 外の音は途絶え、聞こえるのは自分の高鳴る鼓動と、背後で繰り返される静かな呼吸の音だけ。

 ふいに、背後で布が擦れる音がした。


 身を寄せた気配に、イネスの背中が反射的に強張る。

 だが、彼の手が身体を求めることはなかった。

 代わりに、耳の少し上、ほどけた髪越しに、羽が触れるような口づけが落ちた。


「おやすみ、イネス」


 その優しさに、不服さと、それを上回る気恥ずかしさが混じり合い、イネスは返事を飲み込む。


 再び訪れた沈黙。

 肌に残る指先の熱と、暗闇に溶けた彼の低い声。

 それらが複雑に絡み合い、イネスは逃げるように目を閉じた。

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